第9話 闘志

 多幸感の中で目を覚ます。

 起きて一番最初に感じたのは、柔らかな温もりだった。昨晩のことが脳裏に蘇って、愛おしさを噛み締めながら、目を開いて————。

「…!?」

 ばっちり目を開けてこちらを見ているユリアと、至近距離で目が合った。

「…おはよう」

「お、はよ…いつから起きてた?」

「二十分前くらい」

 思っていたよりも前だった。これまでも何度か同じベッドで眠って朝を迎えたことがあるけれど、ユリアが先に起きた時はいつもさっさとベッドから出て行ってしまう。それなのに、今日は俺が起きるまで腕の中に収まっていてくれたのは、昨日のことがあったからだろうか。

 甘い記憶が蘇る。ユリアは終始可愛くて、本当にどうしてやろうかと何度も思った。あのユリアが言ったなんて信じられないような誘い文句もたくさん吐かれて、暴走しないよう自分を律するのに必死だった。

 薬で感覚を鈍らせているユリアを少しでも気持ち良くさせようと、とにかく丁寧に中を解した。恥ずかしいからか、気持ちいいからか分からないが、長い前戯にユリアは何度もぐずって、その度にキスをしたり、肌を重ねたり、頭を撫でたりと愛情をいっぱいに注いで。そうすると、ほっとしたように力が抜けて大人しくなるので、また前戯を再開して————というのを何度も繰り返した。

 どの瞬間も、夢みたいに幸せで。本当の出来事だったんだろうかと思いながら、そっとユリアに問いかける。

「身体、大丈夫?」

 無理をさせたつもりはないし、そもそもあれだけ鍛えているユリアがあの程度のことで翌日までダメージを引きずるとは思えないけれど、一応初めてのことだっただろうしと、尋ねたのだが。

「大丈夫だけど…」

「だけど?」

 ユリアはジト目で俺を見て。

「…手出すの、早くない?」

「えっ」

 思わぬ発言に固まってしまった。

 まぁ、確かに、思いを通わせて、そのままベッドに連れ込んだのは、何というか、性急だったかもしれないけれど。

「や、やだった…?」

 そうは見えなかったものの、もしかしたら不快だったのではと冷や汗が伝う。

 ユリアはじっと俺を見て、それからふいっと寝返りを打ってそっぽを向いた。

「…嫌なわけないだろ」

 小さく吐かれた言葉に、心臓がぎゅっと鷲掴みされるような衝撃を覚える。

 どうしよう。すごく、すごく可愛い。

「早いなと思っただけ。嫌だったら断ってるし、これからもそういう気の遣い方する必要は————っ!」

 後ろからユリアを抱き締める。うなじに顔を埋めて、唇を寄せた。

「ユリアからしたら早いのかもしれないけど、俺からするとそうでもないんだよね」

 小さく息を呑む音。

 抱きしめる腕に力を込める。あたたかな温もりが愛おしくて、たまらない。

 こんなに幸せでいいのか。そんな不安すら覚えるほどに、心が満たされていた。

「ずっと、ユリアのことが好きだったから」

 さらさらとした金色の髪を撫でながら思いを伝える。

「………うん」

 照れ隠しのような頷き。思わず笑みが漏れて、愛おしさのままその身体を撫で、キスを落とした。

 体勢を変えて、ユリアに覆い被さる。その顔には戸惑いが浮かんでいたけれど、見上げる瞳には期待が浮かんでいた。

 唇を寄せると、安心したように綻ぶ顔。その表情に、昨日のことが蘇る。

 最中に、気持ちいいかと尋ねたら、安心すると返された。何となく勘付いていたけれど、ユリアにとって、愛されることは安堵に繋がるのだろう。

 そしてそれは————もしかしたら、俺からの愛情に特別そういう力があるというわけではないのかもしれない。

 きっと、ユリアは愛に飢えている。そうなってしまったのは、元を辿ればユリアを花騎士に選んだ俺が原因だ。家族愛も、友愛も、当然恋愛も、騎士学校に通うユリアの側にはなかった。だから、愛されることに慣れていないし、人一倍それが魅力的に思えてしまうのかもしれない。

 たとえそうだとしても、ユリアを特別に愛する権利はもう俺のものだから、別にそれでもいいけれど————自分が特別だったわけではないのだろうとは、ぼんやり思った。

「…好きだよ」

 俺の言葉に、ユリアは幸せそうに笑う。この笑顔を向けてもらえる関係になれたことが、何よりも嬉しい。

 ユリアにしてしまったことが許される日は来ないし、俺が俺自身を許せる日もきっと来ないけれど、この持て余すほどの愛情でユリアの笑顔を守れるのなら、それは確かに俺にとっても幸せなことだった。


     * * *


 思いを通わせてからの日々は、あまりに満ち足りていた。

 二人で公務から帰って、それぞれの部屋で身を清め、夜は俺の部屋のベッドで眠る。当たり前のようにこちらの部屋に来た最初の夜は驚いたものだ。一体どういうつもりなのかとドキドキしながら隣に寝転んだら、ユリアはぴったりと身を寄せてきて————そのまま、一瞬で寝た。肩透かしを食らったような気分だったけれど、安心したような寝顔を見たら愛おしさで胸がいっぱいになって、そのままユリアを抱き締めて俺も眠りについた。

 朝は大抵ユリアの方が早い。最初の夜同様、先に起きても、俺が起きるまでベッドに居てくれるのだけれど、どうしても早く起きたい時は揺すり起こされる。前みたいに黙って出て行ってもいいのに、律儀におはようの挨拶をしてくれるユリアが可愛くて、俺は毎朝起きた瞬間から愛おしさを噛み締めていた。

 あんまり構いすぎると怒られるけれど、触れ合いに対しても、ユリアは思っていた以上に寛容だった。キスも、ハグも、基本的には全部何も言わずに受け止めてくれる。ユリアが俺に愛を囁いてくれることはないけれど、触れ合った時の表情で、嬉しいと思ってくれていることは明らかだった。

 兄上にも報告をした。さすがに初日に手を出したことは伏せたけれど、それ以外の、ユリアと話した内容や、恋心を受け入れてくれたことについては一通り打ち明けた。兄上も、一緒に聞いていたフレジアさんもとても喜んでくれたのが、俺も嬉しかった。二人に全部話したことをユリアに伝えたら呆れた顔をされたけれど、ユリアはユリアで報告に行っていたらしいことを後日知り、同じじゃないかと肩を組んだ。お前みたいにべらべら要らないことまで話してない、という棘のあるセリフとともに腕は振り払われたけれど、照れ隠しのその態度は俺にとっては可愛いものでしかなかった。

 俺の日々は、まさに薔薇色だった。ユリアを愛することが許された今、もう何も足りないものはないと、そんなことを思ってしまう。

 このままの毎日が、ずっと、ずっと続けばいい。

 いつか大好きな兄上が王になって、俺は兄上の王政を助ける力になって、側にはずっとユリアが居て————そんな未来が訪れることを、この時までは疑いもなく信じていた。


     * * *


「さて、行こうか」

 兄上の声掛けにそれぞれが頷きを返した。兄上と並んで歩き、その後ろからユリアとフレジアさんが並んでついてくる。

「二人で訪問なんて、随分と久しぶりですね」

「そうだね。ランゼルが学生の頃ぶりかな?」

 あの時は、兄上の公務に着いていくというだけで、俺は何の仕事もしていなかった。それが今は、こうして兄上と同じ立場で歩むことが出来ている————これは、俺にとってとても嬉しい変化だった。

「帰りは寄り道して帰ろうか」

「寄り道ですか?」

「こんなに遠くまで来たしね。もう少し行ったところに果樹園があるから、そこでお土産を買っていくのはどうかな」

 ユリアも喜ぶだろうし、という言葉に、自分でも分かるほど頬が綻んでしまう。

 兄上は目を細めて囁いた。

「よかったね、ランゼル」

 俺たちのことをずっと気に掛けて、見守ってくれていた兄上。感謝してもしきれない。

「…ありがとうございます。兄上たちにも、たくさん相談に乗っていただいて…俺もですが、ユリアもきっと————っ」

 突如、ぞわりと背筋が震えた。

 息を呑んでその方を向く。兄上も足を止めて同じ方を睨んでいた。

「兄上、これって…」

 悪魔の気配だった。邪悪で嫌な空気感に顔を顰めてしまう。

「…」

 しかし、すぐに動くと思った兄上は、その方をじっと見つめて微動だにしなかった。

「どうされましたか」

 フレジアさんの問い掛けに、ようやく口を開く。

「いや…」

 しかし言葉は続かず、なぜかそのまま考え込むように黙ってしまった。一体どうしたのだろう。

「悪魔がおそらくこの先に…兄上、行かないんですか」

 焦りに急かされて、思わず尋ねてしまった。

 ここは街だ。早く狩らなければ、人が襲われてしまうかもしれない。

「…そうだね。放っては、おけないね」

 行こうか、と言う兄上にはまだ迷いが見えて困惑する。

 気配の方へ走りながら考える。俺には分からないが、そんなに強い悪魔なのだろうか。四人では相手に出来ないほどならば、一度態勢を整えてからの方がいいのかもしれない。

 しかし、現れた悪魔は下級の大したことはない個体だった。

 俺とユリアは出る幕もなく、あっという間に兄上たちにより狩られてしまう。ともあれ、無事に済んで何よりだと、息を吐いた時だった。

「…っ!?」

 空気が、揺らぐ。

 地鳴りのような音が響いた。黒い紋様が、地面を這うように広がって————。

「なに、これ…」

 遠くの景色が、空が、歪んでいる。ドーム状の壁に囲われているのだと気付くのに、時間はかからなかった。

「結界…?」

 上位の悪魔のみが使用すると言われている魔術。脱出することはもちろん、外からの干渉も一切不可能。過去に街や村が悪魔によって壊滅させられた事例のほとんどが、結界が張られたことにより助けることが叶わなかったことが原因だった。

 黒い煙がたちのぼる。具現化しようとしているそれを見て、ユリアとフレジアさんが剣を抜き前に出た。

 まだ影でしかないが、あまりに大きい。間違いなく上級だ。

 こんなの、俺たちだけで倒せるのか————そんな不安を覚えた時だった。

「…ランゼル」

 小さく名前を呼ばれてはっと兄上の方を向く。

 兄上は鋭い眼差しを、真っ直ぐ俺に向けて。

「この結界から抜け出せる隙が生まれたら、ユリアを連れて逃げなさい」

「え…?」

 何を、言ってるんだ。

 ユリアと逃げる? 兄上たちを置いて?

 予想もしなかった言葉に放心する。兄上はそんな俺を待ってはくれない。

「本当は、フレジアも一緒にとお願いしたいところだけれど…何を言っても、あの子は私の側を離れないだろうから」

 そういう、ことじゃなくて。

 兄上は本気だ。でも、こんなこと了承出来ない。

 何とか逆らうための言葉を言わなければと必死に探して、でも何も見つからなくて。

「そんなこと、出来るわけ————」

「これは指示だ。必ず、守るように」

 ぴしゃりと反論を封じられて、終わった。

 無事に生きては帰れない戦いになるかもしれないということなのだろう。

 そうだとしても、受け入れたくはない。四人でも厳しい相手を、二人で倒せるわけはないのだから。

 でも、それが兄上の指示ならば、俺は従う以外になかった。

「…はい」

 その時が来てしまったら、言われた通りユリアと戦線を離脱する。そして増援を呼べば、きっと。でも、ここは王宮からはあまりに遠い。援軍の到着まで、兄上とフレジアさんだけで相手をするなんて、やっぱり現実的ではないのでは————。

「…っ」

 不穏な予想を振り払う。今は、そんなことを考える必要はない。そもそも俺たちがここから出られる瞬間が来るのかどうかすら分からないのだから。今やるべきことは、目の前のそれを倒すためにどうすればいいか考えることだ。

「では、戦おう。…頼りにしているよ、ランゼル」

 その微笑みに、泣きそうになった。

 兄上は、淡々と作戦を述べる。俺は、ユリアとフレジアさん、そして兄上を守るために魔法を使う。兄上は、相手の出方を見つつ、攻撃魔法の発動準備を行う。

「上級だから、おそらく見えるところには急所はない。ある程度弱らせて、どうにかその場所を炙り出す…これは、フレジアとユリアにかかっているかな」

 そして弱点が分かったら、そこに向けて魔法を放つ。それで倒せることを願うしかなかった。

 まだ少し猶予がありそうだからと、兄上はフレジアさんの方へ向かった。俺も、今の話をするためにユリアの方へ走る。

「ユリア!」

 振り返ったユリアの顔には、緊張が浮かんでいた。事態の深刻さは、当然分かっているのだろう。

 兄上の指示を伝える。ユリアはただ短く了承を口にした。

「だから、ユリアの剣で積極的にダメージを与えてほしいんだ。もちろん、攻撃には気を付けて」

「分かった」

 これで、戦略については話せたけれど————もう一つの指示は、どうしようか。

 逃げられる隙があったら二人で逃げる。そんなの、ユリアだって簡単に承知するわけはないし、これを兄上から言われていると聞いたらきっと不安にさせる。これからあの悪魔に直接立ち向かわなくてはいけないユリアに、これ以上の精神的負担は与えたくなかった。

 悩んで、大枠だけ伝えることにする。

「俺の指示に、従って欲しいんだ…何が、あっても」

 ユリアは、ぱちりと瞬きをして。

「断る」

「えっ」

 何の躊躇もなく返された返事に驚いて固まってしまう。

 ユリアは「当たり前だろ」と呆れたように言った。

「納得出来ないことには従わない。どうしても従わせたいなら————」

 そして、自分の右腕を指先で撫で、不敵に笑った。

「これ使って、無理やりやればいい」

 思わず絶句する。

 刻印をしているのだから、やろうと思えばどんな命令だってきかせられる。それは、事実だけれど。

「そんなこと…しないよ…」

「分かって言ってるに決まってるだろ」

 はぁ、と溜め息を吐かれてむっとしてしまう。

「何、冗談だったってこと?」

 分かりづらいわ、と思いながらユリアを睨むと、しらっと返された。

「そっちがらしくないこと言ってくるから。何があっても自分の指示に従えなんて、絶対普段言わないのに」

「うっ…それは、そうだけど…」

 返り討ちされて失速した俺を見て、ユリアはくすりと笑った。それから、俺をしっかりと見つめて口を開く。

「きっと、厳しい戦いになると思うけど————ちゃんと考えて、一緒に戦おう」

 一緒に、戦う。

 そうだ。今もこれからも、俺はユリアと共に戦うと決めたんだ。

「…そうだね。俺が、必ず守るから」

 ユリアは目を細めて、うん、と頷いた。

 そして、いよいよ姿を現そうとしているそれに向き直る。

「じゃあ、行ってくる」

 魔法を発動した。ユリアの足元に魔法陣が光る。

「必ず、倒そう」

 ユリアは最後に俺を見て強気に笑って、それから地面を蹴って走り出した。

 たなびく騎士服の裾。小さくなっていく背中を見送る。

 俺も、俺のやるべきことをしなければ。ユリアを守るためには、俺が倒れるわけにはいかない。

 思いつくだけの防御魔法を自分にかける。その後、ユリアにも同じものをかけた。

 兄上と合流する。一緒にいた方が防御を固めやすいだろうと、敵から出来る限り離れた場所に二人で立った。

 そして、ついにそれが具現化する。

「あれは…花…?」

 真っ赤な蕾をつけた花。サイズは異常だが、ただ佇んでいる様子はまるで本物の花のようだった。

「そのようだね…やはり植物型か」

 厄介だな、と呟く兄上。

 植物型に遭遇するのは初めてだった。あれは、人型や獣型と違って、どう攻撃してくるのかが実際に戦うまで分からないため、一番危険な悪魔とされていた。

「フレジア。不用意に近づかないで様子を見て」

 俺にも伝えるためだろう、兄上は声に出してフレジアさんへ指示を出す。普段ユリアと二人で悪魔狩りをしている時は使わないけれど、今日は連携が必須だろうから俺もユリアと声を繋げる。

「…ユリア、聞こえる?」

『聞こえる』

 すぐ側に居るような声に、不覚にも安心してしまった。

「気をつけて。何してくるか分かんないから」

 分かってる、と短い返事が返された。

 数十メートル先で戦うユリアを見守りながら、兄上とフレジアさんにも魔法をかけていく。側で立ち止まっている兄上はともかく、動き回るフレジアさんに魔法をかけるのは難しく、思ったように進まない。

 そうこうしているうちに、ついに敵の攻撃も始まった。魔術による攻撃が基本なのか、花本体は微動だにせず、二人に向かって魔術だけが放たれる。

 しばらくそれをただ躱していた二人だったが、上手に連携を取って隙を生み出し、本体に向かってユリアが剣を振り下ろした。

 何が起きたのか、この距離では分からなかったのだが。

『毒を使うみたい』

 すぐにユリアから報告が入る。

「どういう毒? 大丈夫?」

『麻痺毒かな。僕らは多分問題ない』

 良かった。ほっと息を吐いて、ユリアからの情報を兄上にも伝える。すでに魔法の構築を始めている兄上は、俺の報告にただ頷いた。

 それからは、しばらく膠着状態が続いた。

 フレジアさんとユリアの連携は見事で、危なげなく攻撃を掻い潜り、敵を斬りつけている。

 俺は作戦通りひたすらに防御に徹した。少しでも二人が安全に戦えるようにと、過剰なほどに魔法をかけていく。

 やがて、花びらがはらりと落ちた。

「!」

 ユリアの剣は確かにダメージを与えていたのだと喜んだのも束の間————その中から現れた毒々しい花に嫌な予感がした。

 茎も変貌し、黒々とした色に変わって行く。さらには、棘のようなものが現れて。

「————ッ!」

 勢いよく飛ばされた鋭い棘を、咄嗟に魔法で弾く。しかし全ては防ぎきれず、通過することを許してしまった。

 俺の後ろに居た兄上を振り返る。

「兄上!」

「っ…大丈夫。二人をサポートして」

 攻撃が当たってしまったようだったが、致命傷ではなさそうでひとまず安堵する

 二人を確認する。特に動きが鈍った様子はない。

『毒、麻痺だけじゃなかった』

「大丈夫?」

『攻撃が厄介、傷つけると変な煙吐き出す。ちょっと息苦しい』

 焦りを感じる、少し雑な情報共有。

 麻痺と、息苦しさ。どうにかそれらを緩和できないかと、魔法をかける。少し楽になった、とユリアから返されほっとしたものの、解毒をしているわけではないため、根本的には解決できていない。このまま毒を食らい続けたら、そのうち魔法では対処できなくなる————。

 ダメだ、焦るな。出来ることを、確実にやるしかないんだから。深呼吸をして心を沈める。冷静さを欠いたら、やれることもやれなくなってしまう。

 しかし、俺の魔法では激化した攻撃の全てを防ぐことは難しかった。自分含め、魔法が間に合わずに生傷が増えていく。

 じわじわと追い詰められて行っているような不安感。それでも、俺に出来るのは少しでも皆が無事に戦えるように魔法をかけ続けることだけ。

 もし、兄上と同じように大きな魔法が使えたら、と一瞬そんな思考が掠めたけれど、結局誰かは守りにつかなければならない。そして、魔法の使い手が二人しかいない今、俺に兄上と同じことが出来ても、やることは変わらないだろう。

 長期戦だろうが、魔力量を気にする必要は一切ない。この性質を、今こそ活かさなければ。もっと早く、確実に、皆を守るための魔法を発動して————。

「…は…っ…は…」

 身体は一切使っていないのに、息が切れていた。頭が熱を持っているのが分かる。

 それぞれの状況を把握して、瞬時に判断し、魔法を形にする————それだけでもかなりの精神力を持ってかれるのだが、それに加え、集中力を切らしたら終わりだという恐怖心と焦燥感が常に心を急き立てる。

 でも、直接戦っている二人の方がずっと恐ろしい思いをしているはずだ。これくらい、耐えなければ。

「ランゼル」

 不意に名前を呼ばれて振り返る。

「致命傷にならない攻撃からは守ってくれなくていい。だから、あの子たちを守ってやって」

 早口に告げられた言葉に、一瞬息が詰まったものの、了承して前を向いた。

 俺もそうだ。致命傷————上半身への攻撃だけ防いで、あとはユリアとフレジアさんのために魔法を使った方がいい。

 戦闘開始から、数十分経っている。いつもならそろそろ兄上の準備も整うはずだったが、おそらく敵の攻撃によりいつもより時間がかかっていた。いくら精神力があるとは言え、傷を負わされているのに集中を切らさずに居られるのはさすがとしか言いようがない。それに、急所となる場所もまだ分かっていないから、例え準備が整ってもまだ魔法を放てない状況だった。

 だんだんと、ユリアとフレジアさんの連携も乱れてきていた。広範囲の攻撃を避ける度に距離が大きく離れてしまうから、同じ隊形で戦うのが難しいのだろう。

 よく見ていると、動きも少し鈍くなっているような気がする。毒のこともあるが、二人の体力にもそのうち限界が来る。一刻も早くこの状況を打破しなければと、拳を握った時だった。

「!!」

 ユリアの剣が、花の根本を鋭く切り裂いた。

 甲高い悲鳴のような音が鳴って、禍々しい色の花びらが一枚散る。

 その隙間から、明らかに異質なコアらしきものが覗いていた。

 兄上の方を振り返る。静かに目を閉じていて、こちらを認識している様子はない。魔法は最終調整段階に入っているように見えた。この規模の魔法を組み上げたことはないから分からないけれど、もう少しで準備が整うはずだ。

「兄上の魔法、そろそろだと思う」

『っ、わかった』

 呼吸が乱れていることが分かる返事。

 ユリアも心配だが、フレジアさんの方も心配だ。位置を測るのに時間がかかってしまうため、フレジアさんはほとんど自力で身を守っている状態だった。

 ユリアにフレジアさんの状況を聞くか悩んだものの、兄上とフレジアさんの間ではきっとコミュニケーションが取られているはずだ。その身が危ういのなら、兄上から何かしらあるだろうと信じて、今はユリアの集中を切らさないためにも静観することに決める。

 ユリアの剣により、一枚ずつ花びらが剥がれていく。その度に憤怒するように激しい攻撃が繰り出され、その猛攻にまともに攻撃を防ぐことも出来なくなっていた。

 守りが追いつかない。優先順位を決めなければ。何も捨てないままでは、もう、居られない。

「った…」

 足に鋭い痛みが走る。スラックスに血が滲んでいくのを見ながら、歯を食いしばった。

 ここは遠いから、まだ飛んでくる攻撃も少ない。直接戦っているユリアとフレジアさんを守るのが最優先だ。二人のうちどちらかでも戦えなくなったら、もう俺たちに勝ち目はない。

 意識を集中させる。的確に、出来るだけ強力な魔法をかけなければ。

「…ランゼル」

 静かな声にはっとして振り返る。

 兄上と目が合って理解する。準備が整った。あとは、コアが剥き出しになれば————。

 ちょうど、最後の一枚が、ユリアによって切り落とされた。

 また攻撃が来るのではと警戒したものの、それは悲鳴を上げてただその場に項垂れた。

 二人が、距離を大きく取る。

 兄上の魔法陣が地面を埋め尽くして。

「…!」

 魔法が、花開く。

 こんな時なのに、息を呑むほどに美しかった。

 光が、雨のようにそれに降り注ぐ。兄上のここまで大きな魔法を見るのは初めてだった。それだけ、全ての力が注がれているということなのだろう。

 つまり、二度目はない。これであれが倒れなければ、もう————。

「……」

 光の雨が止む。

 コアは、まだ、僅かに残っていた。

 ドクンと心臓が嫌な音を立てる。冷や汗が背中を伝った。

 黒い煙が吐き出され、それの姿が見えなくなり————その霧が、晴れると。

「うそ、だろ……」

 膝から崩れ落ちそうになった。

 萼が変形し、コアを守るように巻き付いている。明らかに、まだそれは生きていた。

 倒せなかった。

 もう兄上は魔法を使えない。俺一人の魔法ではあれを倒すことは不可能。それは、つまり、もう、俺たちは————。

「…ランゼル。しっかりしなさい」

 目眩がする中、兄上の方を向く。

 魔力の使いすぎからか、兄上は青白い顔をしていた。しかし、その瞳にはいつもと変わらない光が灯っていて。

「私がもう一度魔法を打つ。それで再び急所が剥き出しになることに賭けよう。トドメをさすのは、ユリアに任せる」

 そんな、そんなこと、出来るのか。

 もう、皆限界だ。兄上だって、もう一度魔法を使ったらどうなるか分からない。

 何も答えられずにいると、兄上は憂いを浮かべた。

「…ごめんね。本当は、二人を逃してあげたかったけれど、あれを狩らない限りここからは出られないようだから」

 首を振る。

 元々、二人で逃げることなんて望んでない。

「兄上と一緒に戦えることを、俺は誇りに思います」

 言葉にして、その心を思い出す。

 そうだ。これは、俺にとって誇らしいことだ。

 兄上の力になりたいと、ずっと願ってきた。今まさに、それを叶える時だ。

 誰一人失わない為に、最善を尽くす。兄上とともに。

 前を向く。もはや花の形など跡形もない不気味な姿をしたそれを見据えた。


     * * *


 目の前が、文字通り真っ暗になった。

 倒せなかった。

 これからどうなる? これだけ全員が消耗しきった状態で、あと何が出来る?

 毒のせいで気道が狭められている上、長時間の激しい運動によりずっと息苦しい状態が続いている。筋肉疲労で身体も言うことを聞かなくなってきたし、頭も鉛のように重い。生傷や打ち身だらけで、動く度に全身に痛みが走る。

 もう、まともに戦えない。ずっとギリギリだった。一瞬でも気を抜いたら命を落とす戦いの中で、精神も擦り減っていた。

 それでも、この身体が動く限りは戦うしかない。そう自分に言い聞かせようとするけれど、あまりにも希望が見えなくて、剣を持つ手が震える。

「…ユリア」

 呆然としてしまって、フレジア先輩がそばまで来ていることに気付かなかった。はっとして振り返り、そして。

「っ…」

 その姿に、息を呑んだ。

 フレジア先輩の右腕はだらりと垂れ下がっていた。騎士服の袖は血で黒く染まっていて、剣は左手に持ち替えている。

「カゼル様が、もう一度魔法を打ってくださる。それでコアが露出したら、ユリアにトドメを刺してほしい」

 淡々と告げられた言葉。

 そんなことより、腕は大丈夫なのかと聞こうとして————けれど、ぐっとそれを飲み込んだ。

 ここは、戦場だ。やるべきことをやる以外にない。

「…分かりました」

 うん、とフレジア先輩は少しだけ頬を緩めた。

「見た目ほどひどくないから、大丈夫だよ」

 そんなわけない。剣を持てないほどなんだから。

 それでも、僕はその言葉に頷くことしか出来ない。

 フレジア先輩の指示は続いた。カゼル様の魔法が放たれるまでは、守りに徹する。攻撃を受けるのはフレジア先輩に任せ、僕は出来るだけ体力を温存する。

 こんな状態のフレジア先輩に攻撃を受けさせて大丈夫なのだろうか。心配が募るけれど、カゼル様とフレジア先輩がそう決めたのなら、僕は従うしかない。

「必ず、トドメを刺すんだよ。————たとえ、何があっても」

 不穏な念押しの言葉に、さらに胸が騒つく。不安を口にしたくなる気持ちを堪えて、頷きを返した。

 頑張ろうね、と言って去っていく背中。

 地面を蹴る。僕に出来ること、僕のやるべきこと————それだけを考えて、剣を振る。

 敵の攻撃は弱まるどころか、花の形をしていた時よりも強く、鋭くなっていた。ランゼルの魔法のおかげで剣で攻撃を受け止められる状態は続いているものの、直接魔術で向けられる攻撃や、攻撃による衝撃自体を殺すことは出来なくなっていた。

 ランゼルも無傷ではないだろうし、カゼル様の状態も分からない。位置を特定出来ないフレジア先輩に魔法を掛けるのはそれ自体が難しいことだろう。四人の状況を把握しながら全員に守りを授けるランゼルも、今はかなり追い詰められているに違いない。

 不安にさせないように、ランゼルの集中を切らさないように、僕はせめて、この守りの中で危なげなく戦わなければ————。

「っ!」

 蔓のような部位が、二本、長く伸びる。僕とフレジア先輩、それぞれに向かって鞭のように振るわれた。

 剣で受け止める。衝撃にビリビリと腕が痺れ、顔を顰めた時だった。

 フレジア先輩の動きが、一瞬遅れた。直前に剣を振って弾いたように見えたが————直後、崩れ落ちるようにその場に膝をついた。

「ッ!」

 駆け寄って、再びフレジア先輩に振り下ろされようとしていた蔓を剣で斬り飛ばす。

「っ、先輩!」

 敵を警戒しながら、助け起こそうとして。

「ご、めん、ユリア。ありがとう」

 その顔を見て、ヒュッと息が喉が詰まった。

 片目が、潰されている。

 流れ出る鮮血。血の気の引いた顔。荒い呼吸に混ざる、明らかに内臓が傷ついている異音。

「ッ…」

 バクバクと心臓が音を立てる。

 フレジア先輩は、苦しげに息を漏らしながら、鎮痛剤を取り出しそれを迷うことなく打ち込んだ。

 僕らが痛みを感じる時は、命の危険がある怪我をした時。その痛みを無視するということは、自分の命の状態を正確に測れなくするということ。だから、そうするしかない時以外は、鎮痛剤は使うなと言われていた。

「…ごめん、もう、大丈夫」

 死を、意識した瞬間だった。

 もう、命の危険を犯すしかない状態なのだと、理解して————恐怖した。

「やるべきことを、やるんだよ」

 フレジア先輩はそう言うと、ふらりと立ち上がり、敵の方へ飛び出した。

「っ…」

 待って。行かないで。

 このまま戦っていたら、フレジア先輩が死んでしまう。

 嫌だ。怖い。失いたくない。これ以上傷つくところを見たくない。

 でも、残酷な攻撃は止まらない。

 体力を温存しろと言われたけれど、役割を交代した方がいいんじゃないか。今の状態なら、僕の方がまだ安全に戦える。

 フレジア先輩に向かって攻撃が飛ぶ度に、恐怖に心臓が凍りついた。今は大丈夫だった。でも次の攻撃は? もう後はない。もし次攻撃が直撃したら、もう————。

「…あ」

 眼前に迫る鋭い鎌のような物。

 振り下ろされる。

 剣が、間に合わない。身体が、思うスピードで動かない————。

「ユリア!!」

 聞いたことのない、フレジア先輩の怒鳴り声。

 空気を切り裂く音。視界を遮る影。

「思考を止めるな!!」

 鋭い叱責に、濁っていた思考が一瞬にしてクリアになる。

 目の前には、剣を構えるフレジア先輩の背中。ずっと見てきた、美しく、凛々しい立ち姿だった。

 フレジア先輩は振り返らないまま、静かに言い放つ。

「感情を捨てなさい。そう、訓練してきたでしょう」

「…!」

 蘇る様々な苦痛の記憶。

「やるべきことを、やりなさい」

 フレジア先輩はそう言い残し、再び前線に駆け出した。

「…は……」

 一つ、吐息を吐く。

 感情を捨てる。何にも動揺せず、怯えず、ただ勝つために戦う。そのための訓練を、僕らはずっと積んできた。

 生き残るために。大切な人を、守るために。

「…」

 地面を強く踏み締める。一瞬、目を閉じる。

 何も感じるな。勝つことだけを考えろ。

 遠ざかって行くフレジア先輩の背中。それを見ても心は揺らがなかった。

 鎮痛剤を取り出し、それを足に打ち込んだ。もう、痛覚も要らない。

 剣を構える。フレジア先輩の動きを見て、飛び出した。

 言葉を交わすのにも体力を使う。アイコンタクトだけで連携を取って、繰り出される攻撃に対処する。

 フレジア先輩をすり抜けた攻撃だけ受け止める。必要以上に前に出ない。体力は温存する。カゼル様の魔法が発動するその時を待って、ひたすらに耐える。

 時間感覚がなくなる。全ての意識を、目の前の敵に注ぐ。鎮痛剤ではもう誤魔化せないのか、身体中が痛んだ。酸欠で頭がくらくらする。過呼吸にならないよう気を付けながら、意識して息を吸って————。

「っかは、…ッ!」

 喉に息が詰まって、一瞬目の前がブラックアウトした。

 ふらついて、どうにか倒れないよう足を踏ん張ったけれど。

「ッ…は、っひゅ……」

 ダメだ。もう、呼吸すらままならない。

 戦わなきゃいけないのに。倒れるわけにはいかないのに。

「…ランゼル」

 掠れた声で、その名前を、僕が戦う理由を、呼ぶ。

「名前、呼んで」

 その声が力になる。僕に愛を教えてくれた、その声が。

『ユリア』

 いつだって、僕の名前を呼ぶ声には愛が込められていた。

 それが、本当はずっとずっと嬉しくて、幸せだったんだ。

 この人を守りたい。そのためなら、僕は。

『ユリアなら出来るって、信じてるよ』

 魔法陣が光る。白い美しい花が地面に開く。

 息をするのが少しだけ楽になって、重い身体が少し軽くなって。

「…うん」

 深く息を吐く。

 まだやれる。倒れたりしない。

 どうして身体が動くのか、不思議だった。痛みはもはやなくて、感覚自体がなくなってしまったみたいに、そこには無が広がっていた。

 ここが、限界の先なのかもしれない。ランゼルが背中を押してくれたから辿り着いた場所。思考は冴え渡り、邪念の一つもないその世界は、全てがとても鮮明だった。

 地面に、光が広がる。

 カゼル様の魔法だ。

 美しい雨が、異形のそれを貫く。

 剥がれて行く歪な萼。深く腰を落として、その時を待つ。

 あと少しで、コアが露わになるというところで、雨は止んだ。

 鳴り響く不快な悲鳴。空気を切り裂く鋭い衝撃波を、フレジア先輩が受け止め、そして、そのままどさりと倒れた。

「————ッ」

 地面を、蹴る。

 倒れたフレジア先輩を通り越して走る。

 力の限り、高く跳んだ。

 ————『必ず、トドメを刺すんだよ。————たとえ、何があっても』

 必ず、トドメを刺す。何があっても。

 ————『ユリアなら出来るって、信じてるよ』

 僕なら、出来る。そう、信じてくれる人がいる。

 コアを守る萼を切りつけた。剥がれるまで、何度も。

「————ユリア!!」

 その声は僕にとって、ずっと光だった。

 現れた小さなコアに、剣を叩きつける。

 黒い塵が舞う。断末魔が響く。

 世界が明るくなる。結界が、空気に溶けていく。

 ああ、空だ。やっと、全て終わったんだ。

「……」

 振り返る。

 フレジア先輩が倒れていた。遠くのカゼル様も倒れていて、ランゼルが駆け寄っている。

 行かないと。僕も、フレジア先輩を、助けないと。

 そう、思うのに。足が、もう前に出ない。

「は……————」

 倒れたのだと理解した瞬間、ぷつんと意識が途切れた。

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