第23話
西暦2020年9月3日木曜日。
「智恵ちゃん,そろそろ起きなさーい! 学校に遅れるわよ」
「うーん」
長尾智恵は母親・長尾深恵の起こす声でやっと目が覚めた。
普段なら目覚まし時計の音でスッキリと覚醒するのだが,昨夜の夢見の悪さから寝起きも悪かった。
母親が部屋まで来ると面倒になると思い,目を擦りもぞもぞと体を起こして立ち上がりベッドから離れる。
時間も余りないので急いで身支度を済ませ,軽く朝食を食べて学校に向かう。
「少しゆっくりし過ぎたかな?」
「気を付けて行くのよ!」
「はーい! 行ってきまーす!」
母親の心配を余所に長尾智恵は家から飛び出して駆け出す。
(まったく‥‥‥もう‥‥‥)
彼女の背中を長尾深恵は玄関先で見送った。
スマートフォンで時刻を確認するとギリギリだった。
肩で息をしながら駆け足で停留所に着くといつもの乗車するバスには何とか間に合い,いつもの座席も何とか確保できた。
胸には首から掛かるペンダントが揺れて朝日を浴び光る。
ペンダントの先には半円のコインがあり,これは昨日の放課後に馬場佐波から預かった不思議のメダイの破片だ。
何故,こんなことになっているかというとそれは昨夜見た夢が原因でもある。
長尾智恵は昨夜不思議な夢を見た。
実際には夢の中で気を取り戻すと暗闇の中でスポットライトが当たるある部屋の扉の前に居たところからだったが。
その扉をコンコンと叩く。
『入り給え』
部屋の中から音声でなく頭の中にテレパシーで入室を促される。
扉を開けるとそこは聖ウェヌス女学院高等部の学長室だった。
部屋の奥にある机のところに座っていたのは馬場佐波ではなく,見覚えのない初老で恰幅の良い男性だった。
男性は椅子から立ち上がりソファの方へと移動しながら長尾智恵にソファに掛けるようにと呼び込む。
長尾智恵は躊躇してしまい,その場で逡巡しているとソファに座った男性が長尾智恵に向かって手招きをする。
そうすると見えない力引き寄せられるようにして長尾智恵の足が動きソファに腰を下ろした。
長尾智恵は何が起きたのか理解できず戸惑ったが,そんなことには目も繰れず,その男性は話を始めた。
『よく来てくれたのぅ,お嬢さん。儂はヤハウェという。よろしくな。ここに来てもらったのは言うまでもなく,君が預かったほれ,不思議のメダイとパンドーラーの甕のことじゃよ‥‥‥』
「不思議のメダイとパンドーラーの甕‥‥‥」
『そうじゃ。お嬢さんのことじゃ,何方もどういうものか理解できてるじゃろ』
「その前にお聞きしたいのですが,これは私の夢の中でしょうか?」
失礼かと思いながらもヤハウェと名乗る男性の話を遮り,長尾智恵は素直に素朴な疑問をぶつけた。
『そうじゃの。そこから話をしないといけないな。すまんかった。そう,これはお嬢さんの夢の中じゃ。俗に言う明晰夢というやつじゃな。儂はこのような形でしか自分を顕現できないのでな,申し訳ない』
長尾智恵はまだ疑心暗鬼の状態だった。
明晰夢と云われる状況に今まで遭遇したことはないし,起きている時のような五感をはっきりと認識している感覚があるので「お嬢さんの夢の中」という言葉に違和感を持っていた。
「はぁ‥‥‥取り敢えず,理解しました。それにしても不思議のメダイとパンドーラーの甕ということは‥‥‥」
『では話を戻すが,最初にも言ったように先ず不思議のメダイじゃ。儂は君が預かった不思議のメダイの半身でヤハウェじゃ。そしてもう1つの半身はヤルダバオトという。君たち普通の人間は気づいていなかったが,先日聖ウェヌス女学院のウェヌス・ウェルティコルディア礼拝堂に何かしらの外的要因で霊的な衝撃を受けてメダイが割れてしまったのじゃ。そしてヤハウェである儂とヤルダバオトが生まれてしまったのじゃ』
ヤハウェはいつの間にかテーブルに置かれていた湯呑を手に取り,お茶を一口飲むと長尾智恵の顔を見て話しを続けた。
『不思議のメダイが割れる前のメダイにはとある神格があった。その神格はアイオーンと呼ばれる存在でこの世界の創造主でもある。アイオーンに意識がある間は儂とヤルダバオトは深昏睡と云われる植物状態と同じで意識や感覚を持ち合わせていない状態なのじゃ。儂やヤルダバオトは本来はメダイの中でしか存在できないのだが,普段はアイオーンがその力によって礼拝堂に結界を張り,ある者を封印していたのじゃ。しかし,今回何かしらの外的要因でメダイが割れ,封印も解かれて何故かヤルダバオトはメダイから解放されたのじゃ』
ヤハウェはまた湯呑を口に運び一口飲むと長尾智恵の顔を見てさらに話しを続ける。
『儂の意識が覚醒した時にはヤルダバオトの存在は礼拝堂の中から居なくなっており,儂はこの通りメダイの中で動けぬ状態のためにどうにも出来なかったのじゃ。漸く今日礼拝堂に来た者に拾われて‥‥‥今ここにいるという訳なのじゃよ』
ヤハウェは湯呑の中を見てお茶が残っていないのを確認すると何処からともなく急須を取り出して,お茶を淹れた。
長尾智恵がその光景に目を奪われている間に彼女の前にも湯呑が置かれていた。
長尾智恵も気持ちを落ち着けるために目の前の湯呑を手に取った。
『飲むとよい』
ヤハウェを見ると手で促してきたので,長尾智恵は躊躇しながらもゆっくりと御茶を喉へと通した。
「あっ,美味しいです‥‥‥」
ほぅと溜息が出る。
『それはよかった。これは自慢の茶葉なのでな』
『ところで,アイオーンとおっしゃいましたか,その神格の方は今どちらにおられるのですか? その方ならメダイが割れた原因もご存じなのでは?』
長尾智恵は湯呑を手のひらに持ったまま,ふと思い浮かんだ疑問を訊いてみた。
『アイオーンは儂とヤルダバオトの意識が覚醒した時点で入れ替わり,現在は深昏睡の状態になっておる。存在を感じるのは可能だが,如何せん深昏睡に陥っている上に儂に力が足りず直接話は出来ぬのじゃ』
「そうなのですか‥‥‥それではヤルダバオトの存在も感じないのですか」
『そうじゃの,意識を拡張して張り巡らせてはおるのじゃが引っ掛からぬ。その気を消しておるか,もしくは別の生命体に宿ったか,変化しているのかもしれぬ』
「要は何もわからないということですね?」
『まっ‥‥‥そういうことじゃの‥‥‥』
長尾智恵の的確なツッコミに思わずヤハウェは一瞬言葉を詰まらせてしまった。
2人は湯呑に残っているお茶を飲み干した。
『いやはや,本当に申し訳ない。それにしてもお嬢さんは理解力が高いのじゃな。まあ,それを買ってお嬢さんが指名されたのだろうがな。ところで暫くはお嬢さんの眷属として行動を共にしたいと思うのじゃがいいかな?』
「私は別に構いませんけど‥‥‥お嬢さんではなく,私には長尾智恵という名前がありますので」
『そうか。では智恵と呼ばせてもらおう。あと,これは智恵の夢の中での出来事になる訳じゃが,意識を覚醒した後は智恵が信用した内容しか記憶に残らぬので注意してほしい。要はここでの話が仮に嘘であったとしても「嘘である」と信じれば記憶には留められないのじゃ』
「なるほど分かりました。それでパンドーラーの甕ですが‥‥‥」
『ああ,智恵の想像している通りじゃよ』
「では,蓋を開けてしまったことで‥‥‥」
『ヤルダバオトとその眷属である悪魔が解き放たれておる』
「それでは‥‥‥」
蓋を開けたのは馬場佐波だが,彼女も責任の一端を感じていた。
『蓋を開けたのを悔いているようだが気にする必要はないぞ。既に甕の中の災厄は遥か昔に飛び出しておる。それにヤルダバオトと悪魔と言ったが,あ奴らは智恵が考えておる悪魔とは違う。強いて言えば,人間の心身に巣食う毒心や悪意を喰らう者たちだからな』
「毒心や悪意を喰らう?」
『そのままの意味じゃ。災厄としてパンドーラーの甕から飛び出したのが毒心で他者に害を与える。毒心に満ち溢れた環境で鬱積したのが悪意じゃ。あ奴らはそれらを栄養としておる。毒心や悪意を喰らう際に人間に憑りつくが,その時に人間の精神に影響を来たすのじゃよ』
「では悪魔は毒心や悪意をばら撒いているのではなく取り戻していると仰るのですか? だとしたら,悪魔祓いは憑りついた人間の毒心や悪意を取り戻すのを邪魔しているだけ? 毒心や悪意を回収し切れていないうちに?」
『そうだな。殆どの場合は全部を取り戻す前じゃろうな。憑りつきの直後と取り戻しの終わり間際が一番影響が目に見えるからな』
「だからこの世界から毒心や悪意が無くならず,一向に戦争やテロのようなものが減らないどころか増えている原因ですか?」
『ああ,そういうことじゃな。ヤルダバオトたちの本来の目的はパンドーラーの甕から世界中に飛び散った毒心を取り戻すことじゃからな。悪意は毒心の濃い環境で生まれるが毒心そのものではない。だが悪魔たちは区別がつかぬ。人間が増えれば悪意が増えすぎて毒心も込みで取り戻しても処理しきれなくなる』
ヤハウェの言葉に呆然とするしかなかった。
人類は本来の悪魔の存在意義を忘れてしまった所為で世界の破滅に向かって歩み続けているのではないかと長尾智恵は恐れた。
『まあ,戦争など大量に戦死者が出るようならそれで悪意そのものは減るがな』
「仰りたいことは分かりますが‥‥‥」
長尾智恵は近代史に於いて戦争による憎悪などは生き残った者たちにより強く遺ると思っている。
ただ,大規模破壊兵器や大量殺傷武器が発展し過ぎたことで世界大戦は起き難い状況となったが,抑圧されていた感情が爆発した。
民族間や宗教間,宗教などの派閥間の闘争は陰湿で凄惨を極め,その最たるモノは自爆テロとなった。
被害者側には闘争に直接関係のない人間の死傷者を出すだけでなく,加害者側にはテロ実行者や命令者を英雄視や神格化する者が現れてきた。
必ずしもそれが悪だとは言えない。
自分が善であれば,対立する者は悪とされる。
表があれば裏があり,光があれば陰があるのと同じだ。
「それで私に何かさせたいのでしょうか?」
『本当に君は頭がいいのう。これなら智恵が問題の解決をしてくれると儂も思えるのじゃ。取り敢えず儂を持ち歩きやすいように首から掛けられるペンダントにしておこうかの。それなら儂がここで話した内容も信用できるじゃろ』
長尾智恵はこの先の展開が読めていた。
ヤハウェは彼女に問題の解決を請うているのだと‥‥‥それも任意ではなく強制だ。
「私にはそんな力は有りませんよ」
『まあ,そう言うな。出来ることを遣ってくれればよい』
「出来ることと仰いますが,最終的にどんな結果を望まれているのですか?」
『それは儂にも分からぬ。現世がどのような結果を求めているのかは知らぬからな』
「現世の結果‥‥‥とはどういう意味ですか?」
『そのままの意味じゃ。それではの‥‥‥儂の力もここまでのようじゃ』
ヤハウェは静かに長尾智恵の前から消える。
長尾智恵はその場にバタリと倒れ込むと深い眠りへと誘われていた。
窓に映る自身の顔を眺め,首元に輝くペンダントの鎖で反射する光を見て,ペンダントを胸元から取り出して手に載せ昨晩のヤハウェとの会話を思い返していた。
(確かに不思議のメダイの破片が今朝起きたら机の上でペンダントになっていた)
これは夢の中でヤハウェが言った通りだし,「やはり事実だったんだ」と理解したから話の内容もしっかりと憶えている。
(でも総てを私に丸投げされただけよね,これって。ともかく早く馬場学長に報告しないといけないわね)
『お呼びでしょうか,マイロード』
『ああ,お主にはヤハウェの処に行って貰う』
『ヤハウェ様の処にですか? それはまたどういうことでしょう?』
『現世ではあ奴はどうも儂に協力をしてくれるようだ』
『まさか,そんな‥‥‥罠ではないのですか?』
『いや,あ奴も何か違和感を覚えているようだ。話を聴いてきてくれ』
『そういうことでしたら‥‥‥マイロード』
配下はヤハウェの空間に向かった。
(確かに儂も前世とは違うのかもしれぬな‥‥‥)
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