第24話  将軍足利義昭の蜂起

遠江には武田が進行し、信長の弟分の徳川が苦戦していた。

近江北表には依然浅井と朝倉が威勢を張っており、これに秀吉と丹羽が、虎後前山城に城を築き大軍で包囲し対峙している。


さらに伊勢の一揆、河内・摂津の本願寺・三好勢、大和の松永と信長に対峙する状況を八方ふさがりと見て取った義昭は、ここが転機とばかりに信長への反心に出た。


二月十日、を支配する村井を人質に取り、山本対馬守秀勝、磯貝久次、渡辺宮内少輔に命じて堅田城へ、園城寺の山岡景友に命じて石山城に兵を入れさせた。


さらに、三好、甲賀・伊賀の奉公衆たちに御内書を発し同心することを約束させた。


「信長、予は将軍であるぞ、守護でもなく、奉公・供奉衆でもない者は、幕府と禁裏に対する朝敵ではないか。なんの権威をもって好き勝手に行動しておるのか。目にものをみせてやる」


十一日、吉田兼見に申し付け、明智のもとに行き幕府に戻るようにと伝えさせた。

さらに十三日、本意をもって信長と敵対する意志を固めたことを朝倉義景と浅井長政に文を送り伝える。


十五日、信玄が徳川方の野田城を攻めて落城させ三河での徳川軍が総崩れになったことを聞き、義昭はますます意気に感じ、信長への敵意はますます増していった。

義昭は信長を追放することを本気で考えていた。


これを知った信長も、「ついに来たか。かつては、予の事を父と子とまで申した者が、親に歯向かうとは、崖の下に付き落としてやるは。幕府を亡きものにする。足利も落ちたものよ」と、蘭丸に命じて、これに対応するように兵を出すように伝えさせた。


十八日、幕府内では、今後の対信長戦略について議論がされていた。細川藤孝は信長に反抗することを忌避していた。


義昭の御前で側近の上野秀政と口論となるが、義昭は藤孝の諫言を聞き入れることはなかった。そして藤孝はそのまま鹿ケ谷に身を隠してしまった。


義昭はさすがにこのとに驚いて、藤孝をなだめに入るが義昭の意志が変わったという事ではなかった。そのことを知った藤孝は、義昭に対してあらためて忠告をした。


二月二十日、それに即応して柴田、明智、丹羽、蜂屋は、まず勢多城を攻めそこから石山城へ向かった。


二十二日、京で人質に取られている村井を救い出すため、信長は義昭に対して、人質の交換を要求。飲むのであれば、義昭に対する態度を治めることを伝えるが義昭はこれを無視した。


二十三日、義昭はさらに、浅井、朝倉、武田、本願寺に対して正式に織田信長討伐の檄を発した。


義昭が檄を飛ばし密約を交わしたことを、義昭の側近である細川藤孝が信長に伝えてきた。細川は時勢を見て、義昭を裏切り信長に寝返った。


信長は、藤孝に宛てて文を送った。

義昭の逆心について知らしてきたこと執着である。以下の七か条の事を通達するのでよくよく考えるようにと伝えた。


一、塙直政を京へ上らせ、此度のことわりを申しあげさせたが、義昭から条々知らさ

  れた。その一つずつ受け承わり、あらためて塙を差し上らせたが、目を患った 

  ため、松井有閑と島田秀満を上京させ「質物」を進上し、京で噂されている不

  仲説を静めれば義昭の心も隔たることはないかと思うがどうか。

一、摂州あたりの事、荒木は信長に対し無二の忠節をもって励むと知らせてきた。

一、和田惟長は、先日、信長のもとへ造反することを通達してきた。藤孝は惟長のよ

  うな若者に意見することが肝要である。

一、伊丹親興が敵に加担している。調略により織田方に帰属させること。

一、岩成友通は表裏無き人物であると聞いているが、いまどのような状況にあるか確

  認して相談すべきこと

一、信長と義昭との間が破綻すれば、味方に付きそうな者に領地を宛がうとして、こ

  ちら側に引き込むこと

一、遠江、三河の件で、信玄は去る十七日に野田を攻めた。また近江志賀あたりで

  一揆が蜂起している。蜂屋、柴田、丹羽らに申し付け出陣させた。鎮圧までには

  そう時間はかからないであろう。情報を入手し命令するために、近日中に佐和

  山迄まずは出向くつもりである。時を置かずして上洛し、畿内を平定する戦略は 

  すでにできている。


二十四日、通達のとおり、柴田、明智、丹羽、蜂屋は、石山城攻撃を開始した。

二十六日中には、信長方の兄山岡隆景の説得を受け景友は降参し石山城は落城した。友景はそのまま信長に召し抱えられた。城はすぐに破却された。


また、京と義昭の様子を藤孝は、信長が二十三日に提示した七か条は全て飲むことが伝えられた。


義昭からの和平の条件に付いては承知した。しかし幕府奉公衆のうちで、人質を要求するものがある。藤孝の名もあるではないか。信長に義昭から暇が与えられたら、上洛し思い通りに処置する。藤孝は無二の覚悟と見受ける。信長も信じておる。荒木、池田らを味方に引き込み差配せよ。朱印が必要なら申せ。なによりも、将軍が考えを改めてれば、天下はせいひつとなるであろうと。


二十九日、石山城を落とした織田軍は、堅田を攻めた。明智は囲舟で海手を東から西に向かって攻めた。丹羽、蜂屋は辰巳の方角から戌亥の方角へと攻めた。午後、明智の兵が上陸し攻め込んだ。これによって志賀郡の大半がおさまった。明智は坂本に引き、柴田、蜂屋、丹羽も兵を引き戦いは終了した。


義昭方の敗北で、洛中には、将軍をあざ笑う落書が建てられた。

「かぞいろとやしなひ立て甲斐もなくいたくも花を雨のうさをと」


信長が父となって養ってきた甲斐もなく、子の義昭は云うことを聞かない。その様子は激しく花をうつ雨の音のごとくであると、花に花の御所をかけて歌われた。


信長は、藤孝に宛てて再び文を出した。

藤孝に伝えた十二か条の条件がすべて受け入れられことは執着である。しかし、二十九日になっても義昭から直々に信長に講和の話が無い。信長が上洛してしまえばすべてが終わる。藤孝からもっと注進すべではないか。


義昭を救おうと信長方に付いて画策する藤孝の動きとは裏腹に、信長をさらに追い込むために三月六日、兄義輝を殺した敵三好義継、さらに信長方に一度は降りた松永久秀を許し、かれらを引き込もうと画策した。


七日、ここに藤孝が駆けずり回り画策してきた講和策を無視し、義昭は信長との交渉を決裂させることにした。これは信長に対する宣戦布告の何物でもなかった。


その報を藤孝から聞いた信長は、藤孝に対して長い手紙を書いた。その手紙は三十四か条にも上るものであった。


義昭の行動は言語道断である。これまで君臣の関係があるので、ここまで憂慮して思い直して付き合ってきた。しかし、義昭は朝倉義景や浅井長政と通じ、また、武田信玄にも指示、近江では六角、一向一揆勢、甲賀衆や伊賀衆にも内緒を発し煽っている。

さらに摂津、河内の衆、岩成、事欠いて義輝様の御敵三好や松永まで引き入れてこの信長には向かおうとすることはどのような了見か。そのようなことでこの信長が困るとでも思っているのか。此度堅田の一件は鎮圧した。今日の人々などは、みな将軍の姿を見て笑っておる。必ずこの信長が上洛した折には、信長の意のままにする。何事も起こらぬようになることが最も喜ばしいことであるから、すべてを治めるように。


三月二十五日、信長は上洛の準備に入った。二十九日、逢坂山迄、信長に同心した細川が荒木を付けて迎えに来た。信長は、両人の顔を見てすこぶる上機嫌であった。


そのまま知恩院に入り、そこを陣所とした。本隊はそのまま、将軍の守備という口実で義昭のいる二条第を取り囲んだ。


家臣どもには、白川、粟田口、祇園、清水、六波羅、鳥羽、竹田の京への諸口に分散して陣取るように伝えた。丹羽、蜂屋は聖護院に、福家知は加茂社に布陣した。


この度、信長に降りてきた藤孝には、脇指を荒木村重には、郷義弘の刀を与えた。


「藤孝。こたびの儀。執着であった。よき判断である。明智と同じように奉公衆から足を洗い世の家臣となれ。ゆくゆくはどこか良い領地を与えよう。それまでよとともに励め。また荒木もよく来てくれた。かねがね、村重の名は聞いて負った。力を貸してもらえるとはこの信長とても感謝しておる。末代までも予に仕えてほしい。荒木の所領はいずれ取り戻そうぞ」と信長は声をかけた。両名は恐縮して頭を垂れ、各々刀を拝領した。


三十日、義昭は小さな抵抗を見せ三好らに人質としてしている村井貞勝の屋敷を包囲させた。明智が上洛したという方を聞き、吉田兼見はさっそく日坂に加茂社を訪問して光秀に対面し、織田方の様子を聞いた。


どこかに義昭のための足掛かりをと思っていた兼見は、四月一日、知恩院の本陣に奇妙丸を訪ねることにした。信長はそれを蘭丸から聞いた。


「来たか。ネズミを予の前に呼び寄せよ。話がある」として、予てから注意を払っていた吉田兼見を呼びつけた。


「兼見殿、いかなる御用向きか」

「義昭様も信長様のことも。憂慮しておりますれば」


「かつて、兼右が、東大寺盧舎那仏を焼き払った北嶺は滅亡王城に災いがあると問うたことがあると聞く。それは真なるか」と信長は兼見に問いただした。


「兼右の言葉には典拠がござりませぬ」と兼見。

「その言葉が本当であるかどうか、この信長が京の町を焼き払って確かめてみよう。そう信長が云っておったと、かえって義昭に伝えるがよい」


信長の考えていることに兼見は身震いして、平伏したまま尻込みしてその場を離れた。

(なんとも恐ろしいことである)と、はじめて信長に恐れを抱いた兼見は、一層仕事に励もうと決意を新たにした。


四月二日、その言葉通りに、信長は義昭を焼き殺さんとばかりに、洛中に火をつけて回り、九十餘の町を焼き払った。洛中での火は応仁の乱以来の出来事であった。


さらに三日、洛外の寺、堂宇、庵以外の民家に火を懸け、この上でも信長に義昭は逆らい、京を火の海にするのかと触れて回った。


翌四日、義昭にこれ以上のことにならぬように和議するよう温情を問いかけた信長であったが、義昭はこれに応ぜなかった。信長は二城第を残し上京のすべてを焼き討ちした。日はすぐ近くの禁裏迄及ぼうとしていた。


見るに見かねた吉田兼見が再び信長を訪れ、禁裏に火が及ばぬようにと願いに行った。

信長は村井に禁裏警固を命じた。兼見には、禁裏に参内して信長自らが、禁裏の警護に当たっていると伝えさせた。

五日、正親町天皇はこの状況を見かねて、二条晴良、惨状実枝、庭田重保を勅使として、義昭のもとへ派遣して、知恩院に出向き信長に詫びを入れて和議を結ぶようにと叡慮を伝えた。


信長は、朝廷に対し、「義昭の京における挙兵は、天帝に対する謀反であり、信長には美濃覚えのない言いがかりをつけて父子、君臣の間をなきものとして、天下を乱す狂乱である。いずれにも義昭の理は無い。幾たびも、さとし、拳を治めるように信長から頼み入るとも聞き入れられず、仕方なしに屋敷を囲み、圧力をかけたものであり、決して命までを奪おうとは考えた所業ではない。この後は天子の意に従う」と釈明した。


信長の言葉を聞いた正親町天皇は即座に意を表し、勅命として、「将軍義昭は信長と和議を結ぶべし。和議無き場合は、将軍職を解く」と、された。


(信長が悪人になってはならぬ。信長に義昭を殺させてはならぬ。信長がしねことはならぬ。朕は信長を臣下として信じてみたい)と帝はそう思っていた。


帝の命を受けた義昭は、挙げた手を降ろさざるを得なかった。即座に信長と和議を結ぶことを伝えた。


四月七日、それを受けて信長は陣を解き、京より兵を引いた。義昭の完敗であった。

その日中に信長は近江守山まで帰った。

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