入室と帰宅
三日目を迎えようやく連絡を入れることに成功したわけだけれども、顔を合わせるのはもう少し後のことだと心の準備はまだ整っておらず玄関扉の向こうに広がっていた光景に開け放った手を引くこともできず停止してしまった。ここ直近は東山さんを前にすると醜態を晒してばかりである。中学生のときは初めての彼女ということもあり格好つけていいところを見せようと躍起になっていたというのに。
「いきなり押しかけてしまってごめんね。今日って暇だったりするかな」
驚きのあまり呆気にとられどれほどの時間その場で立ち尽くしていたかは分からないが東山さんの透き通った声がかけられ我に返る。今日に限らずここ二日ずっと暇でし暇でしょうがなかったのだから誘いを断るはずもなく、食いかかるように暇人であることを告げた。彼氏となったはずの自分のことが忘れられていなかったと安心し上機嫌になりつつも玄関先で立ち話をするのは近隣住民の目が気になるのでまずは家の中へと入ってもらうことにして話はそれからだ。急な訪問ではあったが夏休みが始まっての二日間家に篭り携帯電話と睨めっこし現実逃避するように柄にもなく進んで部屋の掃除をしていたことが功を奏することになろうとは。異性をそれも恋人を自室に迎え入れるのだから少しは緊張感を持っても良いものなのかもしれないが、東山さんに関しては中学生の時にすでに自室へ招いているため初々しさなど皆無だった。
母がいなくともお茶ぐらいは自分で出せるので先に部屋に行っててと伝えてからキッチンへと立ち寄る。グラスを用意し冷たい麦茶を注ぎながら心の中では暗示をかけるように平常心でいこうと何度も唱えていた。今日が最初で最後の日になるであろうと腹を決めお盆片手に廊下へ出ると東山さんは玄関に立ったままで待っていた。以前付き合っていたときは一人で先に部屋に行って待っててもらうこともあったのだがどうしたのだろう。半年ほど経っているので躊躇いがあったのか理由は不明だが初手から配慮のなさを痛感する。
「久しぶりに来たんだから前みたいに気軽にとはいかないよね、ごめん」
自分の否を謝罪し一応家には誰もいないことを伝えてから先頭に立ち東山さんと一緒に自室まで向かった。靴も脱がず借りてきた猫のように玄関で待っていた東山さんだったが、家に誰もいないと知ると緊張の糸が緩んだのか力が抜けたような雰囲気が感じられた。何度か来てもらったことがあっても自分の部屋の扉が閉まると急に緊張感が増幅しぎこちない動作でお盆を勉強机の上に置くと好きなところに腰掛けてもらうように促す。
好きなところと言いはしたが選択肢はベットの上か床の上の二択しかなく後者を選択し床に体育座りで身を屈めた東山さんは物珍しそうに部屋中を見渡していた。久しぶりとはいっても入ってしまえば部屋の景色は中学の頃とそれほど変わっていないので初見のようにあちこち見られると恥ずかしい。代わり映えしない部屋であることに申し訳なさを覚えつつ様子を伺っていると、ちょうど部屋をぐるっと一周ほどした東山さんの視線と視線が交錯した。気恥ずかしさのせいにして咄嗟に目を逸らすことは憚られ向き合う選択をしたのだが視線は当然のこと口すら動かせず沈黙が畳六畳ほどの部屋を支配する。一度ぶつかり合った視線は縫い付けられたかのように互いに逸らせず、意味のわからない目を逸らせば負けという謎の強迫観念も相まって逃げ場が完全に失われていた。
気まづい沈黙を身に纏う均衡状態のなか先に動きを見せたのは東山さんであり照れ臭そうに微笑んだ。破壊力極まる笑みは魔法のように僕の表情筋に表現の自由をもたらした。僕は愛想笑いに近い乾いた笑みを浮かべるが直視したままでいることは数秒が限界で白旗を掲げ視線を天井へと逃がし頬をかいた。
「急に家に行くより先に連絡が普通だったよね。困るよね、なんでそんなこともわからなかったんだろう」
無言の重圧に押しつぶされそうだった雰囲気から解放され、東山さんは僕がつい数分前に送ったメッセージが表示されているであろう携帯画面を眺めながら突然の来訪を謝罪された。中学生のときから継続された付き合いであれば連絡も忘れるほど僕に会いたかったんだと惚気るように茶化せたかもしれないが、今はそんなことないと返すのが精一杯だ。確かに玄関扉の向こうに東山さんがいたことに驚きこそしたが遅かれ早かれ今日中に会うつもりであり、最終日を迎えたというのに最後までうじうじ悩んでしまう身からすれば今後あったであろう躊躇いなど全てすっ飛ばしてくれたのだから来てくれたことに感謝したいくらいである。欲を言うのであれば初日にとまでは望まないから昨日来てくれていればということくらいだが、そんなことを口にするくらいであれば母が作ってくれた晩ご飯にケチをつける方がマシだ。メッセージが送られていることからもお分かりの通り、用があったのは東山さんだけでなく自分も同じだったのだから結果は変わらないと謎のフォローを付け加えながら運んできたはいいもののずっとお盆に置きっぱなしになっていた麦茶を東山さんに手渡した。
「ありがとう滝野瀬くん。それでね誘ってくれたのはすごく嬉しいんだけど一つだけ聞いてもいいかな」
久しぶりに名前を呼ばれたことに言い表せない喜びを感じると共に、昔みたいに下の名前では呼んでもらえないことに少し哀愁を感じた。告白のときもそうだったが僕自身も昔のように東山葵のことを葵と呼ぶことはなく東山さんと呼ぶのだから気持ちは理解できるが自分勝手だとしても寂しい。名前のことは一旦置いておいてなんだろうと首を傾けると東山さんが手に持っていた携帯画面がこちらに見えるように向けられた。
「この文章なんだけど翻訳をお願いしてもいいかな」
翻訳して欲しいという言葉に拭い切れない違和感を覚え、日本語しか使っていないはずだと思いつつ画面を確認してみる。東山さんに送られていたメッセージは確かに日本語ではあったが誤字脱字がいたるところに相見えとてもじゃないが読めたものではなかった。一行目まではしっかりした文体を保っていたが、急な来客と板挟みになって走り書きした二行目からは酷い有様だ。
もし家で意味不明なメッセージを見られていたらきっと東山さんは僕の頭がおかしくなったと判断して恋人期間中一度も会うことなく、別れの挨拶を送っていたかもしれない。すぐそばにいて弁明する余地が与えられてよかったと安心しながらも、東山さんが突然家に来なければ落ち着いて文字を入力していただろうからそもそもこの暗号文は生まれなかったとも言える。運命とは実に面白く一つの行動がきっかけで大きく変化するものだと実感させられた。
お願いされたからには暗号を解読しなくてはいけないわけだけれどもメッセージの作成者は自分自信なので自作自演の名探偵を演じることになりつつ、恋人として遊びに行こうという誘いの旨を口頭で伝えた。もちろん誘うのに三日かかってしまったことや噂のことについては省かせてもらったし、どこに行きたいとかはなくまだ詳しい目的地が決まっていないことも伏せさせてもらう。
「実は私も同じこと考えてたんだ。だから家まで来ちゃった」
来ちゃったって、ノリが軽すぎやしませんかと思うが高校生の東山葵であれば納得もいく発言だ。高校生になった今、僕たちは携帯電話という文明の利器を手に入れたわけで家に直接訪れるなんて労力はもう必要ないものだと思っていた。それに中学校の頃は家に来るたびインターホンを押してから待つ時間は慣れないと東山さんはよく嘆いていたのだ。来客が東山さんであることよりも出迎えるのが僕の母であることの方が想定しやすく友達や恋人の母親であっても対面すると確かに緊張するのも理解できるし経験もしている。母が出迎えていれば彼女も僕のようにあたふたした姿を見せてくれただろうか。しかし今回の場合に関しては母が対応することで気まずさを感じずにいられないのは僕も同じであり不都合が転じて二人にとっては好都合だった。
母がいることを想定しなければいけない家ということは、いつかは母が帰ってくるということでありそのことをすっかり失念してしまっていてた。来客があったから当たり前のようにお茶を出してしまったが現状においては悪手でしかないとこのとき初めて気がついた。家の中で長話している場合ではなく東山さんがいることで今は自分の家こそが危険地帯とも言える。
近所の目を避けるために自室に上がり込んでもらったまでは良かったが、家族の目を避けることは出来ておらず慌てて家を出る準備に取り掛かる。東山さんと母は初対面でもないのだからと落ち着くことは不可能だった。春休み以降、一度も東山さんとの関係を母に言及されたことはなかったが半年ほどの空白期間があり復縁したはいいものの不吉な噂が付き纏うのも事実で僕たちの関係はまだ不安定で伝えづらい。今の関係性では東山さんとのことを打ち明け辛く現状では母に会って欲しくないというだけであり、紹介するならせめて噂の三日目を今日を乗り切ってからにしたいというのが本音だった。一日だけでいいからと願っても悪戯な運命というものは待ってくれないらしく、玄関の鍵が解錠され開け放たれる音が耳を駆け抜ける。願いの泡は一瞬にして綺麗に霧散してしまった。
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