14.Symbiont.

 「そこの貴女、ちょっと来なさい」

その慈母は、決して優しい雰囲気ではなかった。

むしろ逆だ。粗を見つけては難癖付けそうな厳しい顔を見て、幼い少女は身を強張らせて従った。女は他の研究員同様、指示を出し、データを取ってからは黙々と検証した。その間、座らされた少女は、女が差し出したお茶らしきものを勧められるまま飲み、顔をしかめた。

異様にまずい。

苦いような、甘いような……渋いような?

女が平気そうに飲んでいるため、少女は舌がピリつくまずい何かをだましだまし含んだ。――なんだろう、これは……薬品だろうか?

「あの……ローデンバック博士……これ、何ですか?」

「普通のハーブティーだけど?」

「え……そ、そうですか……??」

難解な味わいのするごく普通の茶(?)に辟易しながら、少女は振り向かずにパソコン画面を眺めるレベッカ・ローデンバック博士を盗み見た。

まだ二、三十代の筈の博士は若々しいが、深い知性を匂わす容貌に年若い娘の印象は皆無だった。皺の多さや年齢で先生や教授などと呼ばれる人間とはまるで違う。此処に来て間もないが、その来訪以前から研究所は沸き、研究員らは落ち着かなかった。彼女が頭脳明晰であるのと同時に、特別な人間だった為だ。


誰かが、「ついにグレイト・スミスの娘が」と、興奮気味に口にしていた。


「ねえ、貴女……此処での暮らしはどう?」

突然、聞かれたことのない問いに少女は肩を震わせ、表情を強張らせた。

「どう、と、仰られましても……」

つらい? 良い気分はする筈がないと思うけれど」

答え難いことをずばずばと聞く女に、少女は頼りなく首を振った。

「わ、わかりません……外で、生活したことが有りませんから……」

戸惑う様子を、女の目がじっと見た。色は冷たく冴えたブルーだが、澄み切った湖水のようで、嫌な印象ではなかった。

「此処から、出たい?」

「えっ……」

「率直に言ってくれて構わないわ。咎めるつもりはないから」

「そ、それは……」

「もし、あなた達が出たくないと言うのなら、少し考え直そうと思っているの」

「あなた達……?」

「Aクラスの被験者と、Cクラスの子供たちよ。なるべく、一人一人の意見を聞いてから決めるつもり」

女が何を言っているのか、測りかねた少女が黙っていると、レベッカは言った。

「反対意見が出ないなら、此処を吹き飛ばすのも手だと思うの」

「えっ……!?」

「ああ、ごめんなさいね。これはジョーク。私は、どこぞのスパイやキザ男とは違うから、安心して頂戴」

――なんて分かりづらい顔でジョークを言うのか。

しかも、ジョークの流れ弾に当たった連中は、どこの誰だ?

変なものを飲んだ顔で――実際飲まされたが――少女は改めて博士を見つめた。知性に溢れているのはわかるが、化粧っ気のないさらりとした顔つきは、何を考えているのか検討もつかない。

「あ、あの……博士……私は、確かに此処の生活に厳しさは感じていますが、かといって、行くところなんて……私たちには、公的な身分がありませんもの……出国はおろか、住む場所や、生計を立てることも……」

「そうね。貴女が言う通り」

再び、画面に向いた女は、何やら手早くキーボードを操作しながら言った。

「ルールを敷くのが好きな人間が、運用も上手いとは限らないものね。大概、下手くそなのも困ったこと……私も来て早々、五人も減らすことになるとは思わなかったのよ。だからといって、無駄な人間を置いておく意味はないし、不愉快だし……」

淡々と愚痴をこぼした女に、察しの良い少女は瞠目した。

思い出されたのは、ちょうど五人……急に姿を見なくなった人間だ。研究員が三人、雑務をしていた一人、用務をしていた一人。皆、被験者らには嫌われていた。研究員らはこちらを実験動物だと思っていたし、雑務の奴は気に入らないことがあると被験者に当たり散らし、用務の奴は隙を見ては手を出す。

無論、こいつらは実に忌々しいほど上手くやった。下手に被験者が妊娠なぞしようものなら”研究”に支障が出る為、非常に狡猾に、非常に素早く欲望を処理してきた。

少女も被害者の一人だが、それを訴える先は無かった。ただ、大人しく従い、耐えるしかない……小さな身の内に押し付けられる激しい苦痛と、寄る辺ない怒りと殺意を煮え滾らせながら。

「五人減らしてみてわかったのよね、此処は不必要だって」

「不必要……」

「そうよ。此処はナチの強制収容所と変わりない無駄な施設。今すぐ廃棄してもいいわね。ただ、貴女が言う様に、被験者の身の振り方を決めずにやるのは良くない。全員が一般社会で暮らせるコンディションでは無いから」

ふう、と溜息を吐く博士を見つめ、少女は夢物語でも聞いている心地になり、同時にひどく不安になった。

そんなことをして……この博士は大丈夫なのだろうか?

傍目には、只の若い女だ。格別、非力には見えないが、せいぜい子供ひとり持ち上げるのがやっとだろうし、今は彼女を持ち上げている研究員らも、自分たちに危機が迫れば反旗を翻すに決まっている。実際、連中は此処の被験者――力に優れたものや、反抗しそうなものを度々、施設内に張り巡らせた電気ショックのシステムや、スタンガンなどで痛めつけている。

話の具合からして、この博士が被験者の味方であるのは間違いなさそうだが、もし、誰か……この会話を聞いていたら……

「心配要らないわ。もうとっくに差し替えてしまったから」

少女が辺りを見渡した理由を知っているかのように、博士は言った。

「さ、差し替え?」

「壊すなんて、言葉は簡単でも大事おおごとでしょう。機械の類に誠意も義理も無いんだから、システムさえ変えれば、簡単に持ち主を裏切る。結局、瓦礫の撤去をするぐらいなら、このセンスの悪い壁を塗り直すか貼り直す方がエコロジーよ。そう思わない?」

急なリフォームの相談に、少女は示された壁を見て、殆ど押されるように頷いた。

「人間も同じだわ」

「……え?」

「殺して刷新するのは、旧時代のやり方。非効率で頭の悪い方法。せっかく始めてくれたバカな計画の一端を使う方が良いわね……こいつら皆、おつむはそこそこなんだし。腐った研究なんか辞めさせて、よく働く医師になる方が祖国の為になる。人間は、クズや悪とも共生するしかないのだから」

「あ、あの……ローデンバック博士……私、そのお話を聞いていては……」

「あら、手伝ってほしかったのだけど、駄目かしら?」

「わ、私が……貴女を、ですか?」

「そうよ」

何でもなさそうに言うと、女は初めて、綺麗なブルーの眼差しを笑ませた。

「Aクラスで最も優秀だもの。良ければ手伝って、ラファエラ。男がやることはもう沢山。私はベルリンに、女の支配地を展開するの」

平然と言い始めた女を、少女はしげしげと見た。

研究所の人員は九割が男だ。これを、いや、もっと大勢を、女が支配する……?

そんなまさか。

でも。


この人は、


この人なら。


あの日、彼女が言ったことは正しかった。

ヒルデガルトを中心にベルリンは生まれ変わった。

この均衡は崩れない。

レベッカが、居る限り。

いや……レベッカが、此処に縛られる限り。


ラファエラは仮眠していた椅子の上で目を開いた。

室内は温かかったが、寝起きの寒気に身震いし、ブランケットを掻きよせて立ち上がった。外は明るくなっていたが、室内は薄暗く、静かだ。隣近所の物音や車の走行音が曖昧に聴こえてくる以外は何も無く、ベッドルームは虫一匹立ち入らぬ様子で、キッチンのシンクやバスルームもからりとしていた。

どうやら、この部屋を貸した相手は昨夜から戻らなかったようだ。

部下に命じて高みの見物をするタイプかと思っていたが、存外、自ら出歩くのが好きらしい。

念のため、端末を確認して何の連絡もないことに、女は無意識に眉を寄せた。

……別に不満や不安があるわけでは無い。

あの男がどんな夜遊びをしようと構わないが……自由にしていいと思われるのは癪に障る。こちらの許可なくして、この町を闊歩できないことを、もっと仔細に言い含めるべきだったろうか。

「……これだから男は嫌なのよ」

ひとつ図に乗ると、二つも三つも許されたと思い込む。

ラファエラは溜息混じりに、少しほつれたひし形のボブを直し、化粧や身支度を整えて部屋を出た。

昨夜、あの男は同じ扉から楽しそうに出て行った。何をしに行ったか、想定以上のことは知らない。興味も無い。だが、他者を傷つける行動に結び付くのは間違いない。

――グレイト・スミスの血筋に愛は無いから。

だが、それは周囲の……彼を研究した人間たちの評価でもある。

グレイト・スミス自身が自分は愛を持たないと宣言したわけではなく、彼は自身の妻や子供らに暴力を振るったり、暴言を吐いたことは一度もないと聞く。

ただ、盲言は呆れるほど述べ、結果的にこれまでの妻子は全て捨てて姿を消した。

その理由を、愛が無いからと評価するのは早計かもしれないが、家族を置いて立ち去り、以降に何のアプローチもしなかった事実が有るのも然り。

連絡を取ろうとすれば取れただろう時勢に、家族を捨て、国を捨て、それらを顧みず、何かの為に世界を滞らせようと画策している男……それはもはや何者なのだろう?


――愛が無いというのは半分正解で、半分間違いなんだよ。

――僕も唯一と思う人には近付いた。この気持ちが愛ではないと言い切ることはできない。


その血を引く男はそう言った。

……バカバカしい。

人殺しをして尚そんなことを言ってのける精神状態こそ、愛が無いと言われる男の孫として相応しいではないか。

愛が無い血筋。

愛が無い血筋を受け継いだ子。

でも、レベッカは、きっと……――


車に乗り込みながらの思案の最中に、電話が鳴った。

開いたメッセージの〈親愛なるラファエラへ〉から始まる下りに、女は露骨にうんざり顔をし、〈いいからさっさと話を進めて〉と返してアクセルを踏んだ。




 女からのメッセージを読んだ青年は苦笑し、端末をポケットに滑らせて顔を上げた。

「失礼、マダム。お待たせしました」

声を掛けられた女は、程々の空間を開けて向かい合う大きな椅子に座っていた。クッションの利いた椅子のラインは優美であり、磨き上げられた床には上等な毛織のカーペットが敷かれている。窓はジャガード織の薄紫のカーテンが凛と囲い、調度品の多くが一流品と思しき室内は、ホテルのスイートの様な装いである一方、どこか生活感が無い。その只中で、五十は越えているだろう妙齢の女は、何かのスポーツ選手と言われても頷ける体格を白のパンツスーツに包み、きついパーマが掛かった黒髪を束ねていた。

「……待っちゃいないさ。女の目の前で、別の女に連絡を取るのは感心しないがね」

どこか陰のあるやや掠れた声は、節くれだった指に挟む三本目の煙草の所為かもしれない。喋っているのは英語だったが、独特の訛りがある。それもその筈、女のお国の公用語はポルトガル語、しかも彼女はポルトガル人ではなかった。今でこそ、ビジネス風に身なりを整えているものの、その肌や髪、しっかりした手足には、かつて南米の大規模農園に従事していた名残りが小麦色に焼き付いている。

「すみません」

素直に詫びた青年だが、室内は二人きりではない。女の左右には厳つい男が二人控え、閉ざされたドアの前にはこれまた彫像のように屈強な男が立っている。言うまでもなく、逢瀬に訪れたわけではない青年を、女は怠そうに見た。

「……全く……ツイてないね、あたしは」

唐突な言葉に、相手は小首を傾げた。

「何が、ついていないんですか?」

この状況でも可笑しそうに聞き返した青年は、女とは対照的な、すっきりと線の細い美貌の持主だ。とろけるような蜂蜜色の髪、白人系ならではの色白の肌、完璧に整えられた宝飾品のような青い瞳。美術館に飾られていそうな顔を、女はゆらめく紫煙の向こうから恨めしそうに見た。

「……わからないのかい、坊や? あたしはあんたが昨夜、此処に来た時からそう思ってる。凡人ではない上に、ツキもあるらしいあんたに、わからない筈がないだろうに」

青年は肩をすくめて苦笑した。

「僕は”知っているだけ”ですよ」

それは何故か、否定的な――自嘲にも似た発言に聞こえた。

「知ることは、時に残酷なものなんです。知らない方が幸せなことは、有りますよね?」

「……わからなくもないが、生まれてこの方、凡人でツいてないあたしには羨ましいことさ」

気怠そうに答えると、女は煙を吐き出して首を振った。

「昨夜も言ったが……あんたがどうにかしろったってムダだよ。どうせ、魔女が来ちまったら此処は出るしかない。まったく、世の中ってのはシケてる……苦労した連中にも、そこそこの安寧をくれたっていいだろうに、またやり直しとはね」

「あなた方は、それなりに良い目を見たと思いますよ、マダム」

反論にしては、和やかに青年は言った。

「レベッカが、アマデウスやスターゲイジーを寄せ付けないのをいいことに、充分稼いだでしょう?」

「ふん、カミサマ並に無慈悲な事を言ってくれるじゃないか」

ぶるると身を震わせると、女はサイドテーブルに置かれた大きなクリスタルガラスの灰皿へこぼれた灰を払い、周囲に落ち着かぬ視線を彷徨わせた。

「悪いけど、坊や……こっちは慈善事業家じゃあないんだ。あたしらはね、搾取する側に回ると決めた時から、まっとうな勘定はやめたのさ。他の奴らはどうだか知らないけど、あたしは魔女とやり合うなんざ、ごめんだね……とっとと逃げさせてもらう」

「そう安易に逃げられると思います? ”此処”が何処なのかは貴女ご自身がよくご存じでしょうし、ヒルデガルトが難攻不落なのは外向きだけではありません。僕だって、貴女の目の前に居るんですよ」

「そんなこと、あたしにだってわかるさ。だからこっちは静かにやってきた……あんたみたいなのに関わらない様に、それはもう静かにね。血の気の多いチェリーや、ボスに首ったけのマスカット、単純なオレンジ辺りには、到底ムリな取引を細々とやりながら、コツコツと、大人しく。最初の土が肝心だって教えたのにさ、あいつらは節操無しで困ったもんだよ。出自にごまかしが利かないのと一緒だ」

出自、という言葉に、青年の目に妙な陰りが揺れたが、女は気付かぬ様子で紫煙を燻らせ、煙草を揉み消してから四本目に火をつけた。

「あたしには、坊やの勘定は見当も付かない。あたしとこいつら全員に銃を向けられても、坊やは逃げ果せるか、返り討ちにできるってのかい?」

「フフ……できると言ったら、やめておきますか?」

「そうさね……無駄玉撃たされるのは癪だが、そんな気味の悪い現実には出会いたくない」

灰を落とし、煙を含んだ女に、青年は首を傾げた。

「ねえ、マダム・ブルーベリー……あなた方は武力も資金も潤沢な麻薬シンジケートなのに、一人の魔女に怯えるのは何故ですか?」

「あんた、何でも知ってるんだろ?」

世界的犯罪組織の重役である女の呆れ声に、青年は柔和に微笑んだ。

「知っているのと、理解できるのかは別の話なんですよ、マダム。例えば、僕は人間が愛し合い、家庭を持つという生態も原理も知っていますが、理解はできません。人類はとうに繁殖や種の存続の概念から外れていますからね。有りのまま、自由にさせておいた結果、ある場所では無作為に産んでは死に至らしめ、ある場所では産むのはおろか、パートナーさえ持たない者が増加し続けています。あなた方の『果樹園フルーツ・パーク』が生まれた国もそうでしたね」

穏やかな調子での講釈を、女は椅子にもたれて煙草を吹かしながら、仕方なさそうな顔で聞いた。退屈な顔を眺めて尚、青年は続ける。

「人間というしゅを繋いでいくプロセスに子供は欠かせません。その為に愛が必要なのは否定しませんが、愛し合ったが故に生まれた筈の子供が痛い目を見、ツケを払わされると決まった次世代に据えられるのなら、愛とは一体何なのでしょう? 僕には一時の感情から成る、病的な衝動にしか思えません」

「……賢い坊やの理論は御立派だが、あたしの観点じゃ、コレと一緒さ」

女が面倒臭そうに己の煙草を掲げ、じりじりと灰に成り行くそれを示すと、青年は声を立てて笑った。

「興味深い意見だ。貴女はなかなか詩人ですね、マダム……燃えて灰になる……ああ、僕にも理解できます。確かに火傷をするほどに燃えますが、燻りながら毒を撒き、疎まれながらすぐに灰に変わる。何が美味いのやら、吸わずにおれない点を理解できない辺りも似ていますね。それが嫌いな人間は、憎らしい目で見るところも」

「そうかい。全てわかっちまった人間ほど、一服やりたい気持ちはわかりそうなものだけど……あたしはあたしでうんざりする世界を知ってるんでね、コレでどうにかやってる……坊やの言う、愛に溺れた奴らもそうじゃないか? 神が思召す愛を維持すんのは、只の人間にはラクじゃあない」

「フフ……苦労を経験した人間には、愛は潤いではなく、燻るものというわけですね。僕には好ましい意見です」

「鵜呑みにするのは構わないが、世間は違う意見が多数だろうよ」

「と、仰いますと?」

「きらきらしてる奴らも居るじゃないか」

「輝かしい愛なんて、一瞬ですよ。体裁を守るために装う人も居ますしね。僕の両親はそうでした」

にこやかに答えた青年を、女の目がちらりと見た。

「なるほどね……坊やが歪んじまったのはその所為だろう。やっぱり、土が肝心だ。最初を横着してしくじると、ろくな事にならない……」

ひときわ、大きく煙を吐き出し、女は煙草を揉み消した。次の一本を取り出す傍ら、不意に咳込んだ。胸を病んでいるような咳だったが、ごく普通に火を点けた。

「魔女の話だったね……あの女は、あたしらのしくじりから生まれたのさ。たった一人……あたしらにとって取るに足らない一人だが、こいつを壊したが為に魔女が生まれた。そう……ちょうど、坊やの話に合うよ。愛は人間を魔女にも悪魔にも変えちまう」

「よくわかります。僕もつい昨晩、一人を愛するが故に犠牲者を出しました」

平然と言う青年を、女はねめつけた。

「恐ろしいもんだ。その歪んだ価値観で、坊やはどうするんだい? あたしらを恐ろしい術か道具で操って、お宅の兵隊みたいに戦わせるかい?」

「いいえ、マダム。僕はあなた方とビジネスの話をしたいんです」

「一方的な要件はビジネスとは言わないんだがねぇ……」

溜息混じりに首を振り、女は垂れ流すように煙を吐いた。

「そんなら、あたしがビジネスにしてやろう。坊や、あんたの話を聞く代わりに、ひとつ教えな。Wolfヴォルフのガキ共にくっついてる男は誰だ?」

「ああ、彼は『七月生まれのジュライ』です」

にこやかに即答した青年に、女は怪訝な顔をした。 

「ジュライ?」

「ええ。元・米海軍所属の兵士です。僕は彼の教えを受けたことがありますが、銃器や戦術に関しては研究者と達人の顔を持つ、戦いのプロフェッショナルです」

「そうかい――よく知った猛獣に似てるんでね……ガキ共の取り立てに行ったウチの連中を、有無を言わさず一網打尽にしちまう辺りもそっくりだ。なんぞ関係があるのかと思ったけれど」

青年は舞台にでも贈るように軽く手を叩いた。

「素晴らしいですね、マダム。その推測は正しいと思いますよ。僕もこの件に関してはデータが消滅しているので百パーセントの保証はできませんが、九十ほどは確信が持てます」

女が眉をひそめるのを、どこか面白そうな青い目が見た。

「もし、ですよ……マダム。ヒルデガルトの研究に、クローン人間を作る実験があり、自由に増やせる段階まで達していたら?」

「……」

女は驚く様子は見せなかった。心当たりがあるのだろう、目の前に不気味なものがある顔付きで、それでいて気の無い素振りで煙草を吸った。

「さあね……事実なのかい?」

「ほぼ確定でしょう。レベッカ・ローデンバックが台頭する”前”のヒルデガルトで、人体実験が行われていたのは裏社会では周知の事実です。内容は表立って開示されていませんが、ヒルデガルトの身内に出生があやふやな双子が多すぎる点から、推測している者は数多い。双子たちは大抵、”優秀な何者か”から成るクローン人間です」

「前の研究者どもは……軍隊でも作る気だったのかね?」

「いいえ。クローンはあくまで正確なデータを取る為の検証材料マウスであり、人間としてきちんと成り立つかを確認する為のモデルに過ぎない。問題なのは、クローンを利用して何者を生み出そうとしていたか、です」

「ハン、神なんて言わないでおくれよ」

「フフ……彼らが作ろうとしていたのは、グレイト・スミス。僕の祖父です」

「ふうん……坊やのじいさんも、物知りだったのかい?」

「物知りといえば、そうかもしれません。彼は極めて精度の高い予知能力を持ち、高度な知性と運動能力の双方を有していました。会った事は有りませんが」

「知らない男の話をする顔じゃないね」

昨夜も同じような話をした青年は、何に対してか、ほくそ笑んだ。

「話を戻しましょう。研究者らはグレイト・スミスの遺伝子を所持し、それを被験者に組み込んだり、彼の精子で子を成すなどの実験を繰り返しました。同時に、優秀な人間も求めていました。受胎する女も必要ですし、遺伝子を受け継いだ女と子を成す男も必要でしたからね。その中に、ジュライも居た。――どうも研究者らの都合上、軍関係者や国家機関に関わる人間の方が検体を集めやすかった様です。国の上層部に居るからといって、優秀とは限らないと思うんですが、まあ、体は頑丈でしょうか」

皮肉に言葉を切り、青年はのんびりと椅子にもたれてから再び口を開いた。

「ジュライはその中でも魅力的な能力の持主だったのでしょう。彼自体、若い頃から人間を研究することに積極性が有りましたしね。此処からは僕の想像と推測ですが、ジュライは彼らの求めに応じ、若くして精子提供をし、グレイト・スミスの遺伝子を授かった優秀な女との間に子供を誕生させた。さて……遺伝は足し算とも掛け算ともならぬ神秘です。何もかも優性が引き継がれるとは限りません。多くは失敗したでしょうが、稀なる成功例が有るとすれば……ジュライの素質を持ち、相手の女性――きっと綺麗で聡明な女でしょう――その遺伝を完璧に受け継いだ子供が誕生していたら?……何処かの黒い猛獣の姿をしている可能性は高いですよね?」

「……ヒルデガルトは旧ソの名残がある施設だ。あの猛獣は北国の匂いがしたが……なるほどね――有り得ない話には聞こえない」

「ええ。猛獣が何故、北国の民間軍事会社に居たのかは謎ですが、彼とルーツを同じくするだろう二人の人間にも、同様の傾向が見られます」

「二人?」

「一人は、あなた方が恐れる魔女です。もう一人は、歯牙にもかけないでしょうが、よくご存じの作家ですよ」

「ああ……あの、よく舌の回る坊やかい?」

何か可笑しいことでも思い出したか、ずっと怠そうだった女は初めて苦笑した。

「親しい連中だと思っていたが、ルーツが同じとは思わなかったね」

「僕も最近になって気付きました。さすが、スターゲイジーは情報を探るのも隠すのも上手い。あの二人は、別々の方法で研究所を出ています。信じ難いことですが……魔女は研究員の一人を幼子の段階で懐柔して脱出、作家の方は赤子の状態で別の研究員が衝動的に連れ出したことを聞きました。恐らく、黒い獣も作家と同様に研究員が勝手に連れ出したと思われます」

「そんな上手い話、あるもんか。急に子供が欲しくなる奴が三人も現れるわけがない」

並の病院ならともかく、子供をマウス並に考えていた施設では不自然極まりない。仮に魔女が予知能力を見せて自身の価値をアピールしたところで、普通は成功例か、良い検体の一人としてかえって閉じ込められる筈。残る二人に至っては、喋ることさえできない赤ん坊だ。如何に愛らしい容姿だったとしても、赤ん坊は赤ん坊……寝るかぐずるか、下手に扱えば死に兼ねない存在を、裏切りの逃亡者になってまで連れて行くだろうか。

青年は足を組みかえ、何かの有識者のような顔で興味深そうに頷いた。

「そう、とてつもなく違和感のある”幸運な”出来事です。しかも、この三人がヒルデガルトを出たタイミングはバラバラです。レベッカが入る前に魔女は脱出し、残る二人はレベッカが実権を握った後、ある事件の折に脱出したと思われます」

「事件……?」

「ヒルデガルトで、強硬派のネオナチが暴れる事件が有ったんです。その際、ブレンド社――当時はまだ数えるほどの人間によるスパイ結社でしたが――介入して院内を騒がせた。本件はレベッカがスターゲイジーのドイツ入国を禁じた原因とされていますが、これはむしろ、彼らの口約束と申しましょうか……他の関係者へのポーズではないかと思います。ともかく、この騒動に紛れて消えた赤ん坊が残る二人。……尤も、レベッカもスターゲイジーも、この二人が消えることは予想外の出来事で、再会することもまた、予想外だったと思います。それだけ……特に作家の方が、特殊な能力を背負っているんです」

「あの坊やが……? 異様な目の良さなら――……」

「違います。あれは彼の能力の一端に過ぎない」

遮った青年の調子は物柔らかだったが、目は先ほどよりも真剣だった。

「彼は、Gravitationグラビテーションを持っているんです」

女はぽかんとした。

引力グラビテーション?……林檎が地に落ちるアレか……?」

「そうです。彼は無意識に様々なものを引き寄せる。祖父の予知能力に説明がつかないように、彼の能力も原理は不明ですが、多くは彼と繋がりの深いものや、求めるものを引き寄せている様です。例えば彼の生来の探求心が、見ようとする視力に強く影響しているように」

「まさか……まるで星じゃないか。あの好奇心に口が付いてるみたいな坊やは、真逆に思えるがね……そんな力が有るなんて、信じられない――」

「はははははははははは」

不意に、青年は抑揚のない声で笑った。さすがの女も身を強張らせ、硬直した。その指先に摘まんだ煙草から、はらりと灰が落ちる。

「……どうかしちまったのかい、坊や?」

咳込んでから訝しむ視線に、青年は心底可笑しそうに唇を歪めながら首を振った。

「いいえ、いいえ――貴女は聞き手として素晴らしい感性の方だと思っただけです。そう、スター……いえ、シュテルンですよ、マダム。実に言い得て妙なんです。グレイト・スミスを作るための計画はね、『星の計画シュテルン・プラーン』と命名されていたんですよ。何故、星だったのでしょうね?……本当に一人、星を作ってしまうなんて! その育ての親が、”星条旗”を睨む意図でスターゲイジーを名乗った男を引き寄せるなんて! そして今、貴女は彼を星と言った! 何てことだろう……僕さえ、彼の物語の一部にさせられた気がします。彼が作家として大成する為なのか、もっと大きなことを成し遂げるのかはわかりませんが、彼は間違いなく”幸運”を受け継いだ星なんです!」

興奮気味に語った青年を薄気味悪そうに仰ぎ、女はなるべくゆっくりと一服してから口を開いた。

「……拾ったのがスターゲイジーなら、引き寄せたのは奴の方じゃないのかい?」

「有り得ない話ではありません」

唐突に落ち着きを取り戻した青年は頷いた。

「スターゲイジー自身も強運な方ですから。しかし、その辺りの事情はわかりませんね……赤ん坊をブレンド社へと置いた研究員に聞くのが良いでしょうが、そもそもこの話が本当かどうかを確かめる術がない。僕はね、マダム……彼なら、コウノトリや妖精が運んできたと聞いても驚きません。それらしい可能性を上げるなら、先に施設を出ていた魔女を引いたと見るのが自然でしょうか。彼女がブレンド社を選んだのは予知能力によるものでしょうから、得体の知れない幸運よりも信憑性がありますね。最初の発見者が彼女だとしたら、尚、自然に聞こえます」

「自然だって? あたしには何もかも、連中が仕組んだ計画か、歌劇に見えるね……坊やも含めて」

独り言のように答えると、女は全ての賭け金を失った賭博師に等しい顔で青年を見た。そこそこの年月を過ごしてきた女からすれば小童同然の男は、一流のディーラーよりも不気味な笑みを湛えている。

「そろそろ言ってみな、坊や……あたしらを使って、本当は何をする気なのか」

「おや、ビジネスにお付き合い頂けるんですか?」

「野暮な坊やだねぇ……こっちもね、この仕事は長いんだ。何でもご存じの御方とは違うんでね」

青年を見据えたまま答えると、彼はいっそう微笑んだ。毒ほどに甘い笑みだ。穏やかなのに妙に不安を煽るそれは、絶景に魅せられて進んだ一歩先が断崖絶壁であるように、紙一重の危険を感じる。

――落ち着こう。

女はそう思って、煙草を一息吸った。

危険なぞ、こいつが接触してきた瞬間からわかっていたことだ。会話は常に録音し、可能な限りで映像も記録した。役に立つかはわからなくてもいい、記録はある程、後の財産になる。

……今、最初の”土”になる可能性を踏まえて。

「僕は、あなた達の姿勢には感心しているんですよ、マダム」

「ろくでもないお世辞はやめとくれ。あたしは前の仕事はともかく、この事業が腐ってんのはよく知ってる」

「ええ、僕も知っていますよ。マダムは苦労なさった人だ。誠実で献身的な労働者だった貴女が、腐った事業を選択せざるを得なかったことも。その心情からクズ――まあ、此処じゃあネオナチなんかの暴徒ですね――彼らにのみ、腐敗堕落を促す薬物提供していたのも、それ故にヒルデガルトに見逃されていたのも。まさに、毒を以て毒を制する、見事な寄生方法であり、本来……共生というものはこう有るべきなのでしょう」

薄気味悪い講釈だった。

共感する言葉を述べながら、まるで同調する気配が無い。それでいて、この青年の言葉は真摯にも聞こえたし、内容に誤りは無かった。

女はまた、一服した。そうしなくては、何か――耐え難いものが腹の底から湧き上がって来る気がした。自分の意志とは無関係の、何か……底意地の悪い、胸の奥が暗くなり、無性に叫び出したくなる、何か。

「共生かどうかは、知らないね……単に、同じ害虫を始末したかっただけさ。手っ取り早く駆除するなら、薬を撒くもんだろ? 同時に悪影響が出るのも、おんなじさ……レベッカは、それをよく理解していた」

「――でも、その均衡は崩れました。そもそも、口約束さえ無い暗黙のルールですが、レベッカは破った」

青年が宣言する澄んだ響きは、名演奏家が奏でるトーンに似ていた。静かでありながら、やたらに胸を打つメッセージは、身を任せれば快いが、逆らうと身の内がこそげる気がした。

「あなた方はそれで良いのでしょうか? これまで譲り合い、同じ平穏を享受してきた仲なのに、急に手のひら返されるなんて、不平等ではありませんか」

滝壺の豊かなブルーを閉じ込めたような青い目が、おっとり微笑む。女はその目をちらと見たが、すぐに逸らした。優しく見える眼差しであるのがむしろ、嫌な感じがした。慌てる素振りを見せぬよう煙草をふかす中、青年は変わらぬ様子で喋った。

「マダム・ブルーベリー、貴女は誇り高き『果樹園フルーツ・パーク』の祖だ。僕の祖父が偉大と呼ばれた様に、貴女もひとつの血を担った先駆者です。父とも云える人物を陰で支え、若木を育て、今日まで育ててきた母の一人だ。搾取されてきたあなた方が、搾取する側に牙を剥く――それは至極、普通のことです。自然なことであり、非難されることではない、人類史で繰り返されてきた革命です。本来、人間と人間は捕食関係ではありませんからね……手を携え、共に生きていくべき仲だ。ドイツ支部との協力関係は、塀を隔てて美しく機能していた良き隣人でした。約束を反故にしたのは、レベッカ・ローデンバックの方です」

女は押し黙って煙草を吸った。喋ると、呂律が回らない気がした。――……これが、コイツが持つ毒か。肺腑に籠もる煙さえ、別のものにすり替えるような声だ。

その煙はあまり良くないですね、こちらが良いですよ、と――詐欺師顔負けの優しい仕草で、もっと危険な毒物を差し出す声だ。

「……坊やの言いたいことはわかった」

一言低く告げると、不意に女は煙草の先端を自らの手に押し付けた。燻るほどの火傷を節くれた甲に一点作ると、驚いた部下らを制し、彼らの一人が慌てて水を取りに室内を走る中、きょとんとした青年に黒い目を見開いた。

「手伝ってやるから、その妙な術は勘弁しておくれ。あたしはね……坊やが言うほど出来ちゃあいない。力や金の言いなりになるのは御免なだけさ。この手でクソ地主を叩き殺した時から、やるときは自分でぶっ叩くと決めてる」

「フフ……良いですね、マダム。僕は貴女を”本当”に尊敬し始めて来ました。病床に置いておくには惜しい。我々は良いビジネス・パートナーとなるでしょう」

「あんたがレベッカより一枚上手なら依存はない。より良い日陰の為に、魔女より上なら尚良いが」

「さて……人工と天然とで優劣を決めるのは些か難しいですね。特に彼女は普通の時を過ごしていない特殊な人間ですから、ハンディが僕にあるのか、彼女にあるのかも定かではありません」

「ふん……そんなもの、魔女は魔女、悪魔は悪魔というだけだ。人間が右往左往するのを眺める連中さ」

青年は肩をすくめて微笑んだ。

「まずは、火傷を冷やした方がいいですよ。此処は治療に使うものなら、何でもあるでしょうから」

忠告は尤もだった。現に女の傍に居た男はずっと主人の腕を引いている。だが、女はそちらには目もくれず、空になっていた煙草の箱を握り潰して吐き捨てた。

「この程度、構うもんか。あたしはツいてないが……それを理由に、勝負を降りたことはない。さあ、坊や――いや、フレディ・ダンヒル。あんたの計画を言ってみな」

青年は、悪魔か見極めるにはあまりにも穏やかな笑みを浮かべ、指先で窓を示した。

「僕が、あの地下に行く手助けをしてほしい。あなた方が不可侵であった地下から、例のデータを拾って来ましょう。魔女と取引できるだけの情報を」

窓の外に広がる景色は、見る者が見れば何処に居るのか、一目瞭然――幾つかの大きな棟が、針葉樹を合間に据えながら立ち並ぶ、城の如き巨大施設。この部屋も、その一部だ。

そこから指し示すは、ひときわ立派な棟。

ヒルデガルト・クリニクム。




 GNNビルの一階では、バーの機能を備えたシックなカフェが物静かに営業していた。周囲は高級感のあるホテルやオフィスビルが取り囲み、路面の舗装も植え込みも、館内のカーテンやら観葉植物、椅子の角度まで、あらゆるものが整えられている。日中の冴えた光が射す店内は黒や金、良い色に仕上がったチーク材を基調とし、スタッフも客もインテリアの一部の様に符合する者しか居ない。

とはいえ、大抵の飲食店は一流ホテルほど、お高く留まらないのが常である。

少々――見方によってはなかなかの違和感を放つ男女のグループが入って来ても、誰も見咎めはしなかった。アジア――否、日系人の青年が二人と、白人系のスタイルの良い女、同じく白人系の愛らしい双子という五人組は、関係性が不明瞭且つ親しそうでもない辺りが妙だった。

それでも彼らは見るからに迷惑な客ではなかったし、日系人の片方はすこぶる美形だ。ハンサムなぞ見慣れている客やスタッフも、アッシュの髪にアンバーの瞳をした涼やかな姿に目を向け、少しばかりさざめいた。席を担当したウェイターに、どちらかといえば平凡な方の青年は、慣れた仕草でフィルターコーヒーを所望した。

「お前たちも何か頼むか?」

「ちょっと、そんなことしてる場合じゃ……」

スタイルの良い女が口を出すが、双子はメニューを覗き込んで答えた。

『カプチーノとアプリコットチーズケーキ』

ウキウキとした双子に続いて、美男も「ハルちゃんと同じの」と答えた。「しまった。俺が奢る流れか」などとブツブツ言いながら注文した男は、唖然としている女に振り返った。

「ロッテは? お前、大して食ってないんだろ。何か腹に入れといた方がいい」

「…………」

『ロッテ、食べた方がいいのです』

双子に後押しされて、女は文句を言う調子で呟いた。

「……カフェ・クレマ・ラテとサーモンのサンドイッチ」

注文を受けたウェイターが愛想よく下がっていくのを見送ると、女は不服そうに唇を尖らせた。

「正面から入るだけなんて、無策にも程がない?」

文句を露わに睨まれたハルトは、ストレートな非難に不遜とも取れる顔付きで肩をすくめ、小さく鼻を鳴らした。

「じゃあ、どうするんだよ。裏口からコソコソ入るのか? 警備を殴って黙らせても、こんなでかいビルじゃあセキュリティに引っ掛かるのがオチだぞ」

面倒臭そうな回答に、女はツンとそっぽを向いた。

残る三人はそっくりな動作で二人を交互に見やり、あからさまな溜息を吐いた青年の方に視線を落ち着かせた。

『ハル、どうするのです?』

双子の息ぴったりの問い掛けに、青年はだるそうに椅子にもたれて辺りを眺めた。

「さあな……さっきのウェイターは、ロッテと同じ顔の女も、図体のでかい男も見てないらしいからな。未春は何か聴こえたか?」

ぼやいた青年が美男と顔を見合わせると、こちらは朴訥な顔付きで首を振った。

「言葉はわからないけど、驚いた人は居なかったと思う。さっきの人も嘘をついた感じはしなかったし、上から変な音はしない」

ずば抜けた聴覚を持つ男にとって、この静かな店では心臓が跳ねる音さえ聞き逃さないらしい。ごく普通の鼓動は相当に意識しなければ聴こえないようだが、閉ざされた空間なら、動揺による音は聞き取り易いようだ。

「お前、ジュライが俺たちを此処に呼び出した目的は何だと思う?」

「わかんない」

即座に答えた顔を見、尋ねた側のハルトはうんざり顔をした。

「俺もそう思うが、ちょっとは考えろ」

未春は無表情に首を捻ると、周囲をゆっくり眺めてから答えた。

「俺たちをビルごと吹っ飛ばす、とか?」

動じる者は居なかったが、恐ろしい回答にハルトは渋面で二、三頷いた。

「奴は、俺たちを殺す気だと思うんだな?」

聞き返された方はぱちぱち瞬きした。辺りは至って静かだ。客やスタッフはグルでもなければ悪党にさえ見えず、くつろいだ様子で会話を楽しみ、各々のカップを傾けている。

「そう言われると、違う気がする」

「だろ。俺もそうだ。奴が俺たちを殺したいのなら、イルゼを攫って逃げるのは無意味で、此処に呼び付ける意味もない」

日本語のやり取りに、女と双子が怪訝な顔になる。ハルトが軽く説明し直すと、女が眉逆立てた。

「どう無意味なのよ? イルゼを人質に取ってるのは事実でしょ!」

「ロッテ、それはお前らに対しては有効だが、俺たちには無効なんだ。俺らはイルゼの救出に、命の危険は犯さない」

冷静な講釈に女の眉間の皺が濃くなったが、得心はいったらしい。言い返さなかった目を見つめ、ハルトは軽く片手を振った。

「……仮に、ジュライが俺たちを人徳者だと思っていた場合も、この作戦は上手くない。奴が俺らを殺す気なら、何の前フリもなく攻撃する方が成功率は高いんだ。建物ごと吹っ飛ばすなんて雑な方法は確実性が無いし、人質は必要ない。爆破するならヒルデガルト・クリニクムや関係先の建物を狙う方が良いし、イルゼが別の意味で必要だとしても、連れ歩くより、別の場所……現状なら、このビルに監禁する方が効率的だ。或いは、さっきのホテルで死んだ連中と鉢合わせるようにしてもいいし、此処の人間に刺客を置くのもシンプルな方法だ」

「悪党らしい意見だこと」

精一杯の皮肉を込めて呻いたロッテに、ハルトは気にした風も無く頷いた。

「そんなもんだろ。奴は戦闘術で教鞭を取る程のプロなんだ。『魔法の弾丸』フライクーゲルの模倣もできるとわかった今、十分に不意を突ける筈なのにそうしなかった。それなら奴の目的は別にある」

「ハルちゃんは、どう思うの?」

「奴が”今”、俺たちを殺す気が無いのは確かだ。問題なのは、”仕事”ってのが何なのかだが……」

――君たちが居た方が、仕事が早く済む――確かに、ジュライはそう言った。

”居た方が”に該当する場所は、今居るGNNビルと見ていいだろう。このビルが”クロ”なのは双子が調べた通りで、恐らくブレンド社のレディが狙う相手の本拠地も此処だ。ジュライがこのビルの悪党と懇意ならば、ビルごと破壊することは有り得ないし、それらしい悪党を殺す必要もない。だが、呼び付けておいて”挨拶”らしい挨拶は無く、罠も見当たらない。騒々しいクラブなどならともかく、こんな落ち着いた店では、客やスタッフに混じった仲間がこちらに一服盛ろうとしても、ほぼ確実に未春に気付かれる。名指しで未春の存在を指摘したジュライが、その異常聴覚や身体能力を知らぬ筈がない。

「……単に女が目的じゃないの?」

「犯人を見る目で俺を見ないでくれよ……ロッテもわかってるだろ? こんな無意味な連れ歩きは誘拐とは言えない」

「誘拐は誘拐よ。あんたたち男は女に節操無しなんだし」

「仮にそうなら、俺はもっと気楽な相手を選べと言ってやるね」

「つくづく失礼な居候ね……!」

二人のラリーに、残る三人はテニスの試合でも見るように行ったり来たりしていたが、しびれを切らした審判――ならぬ未春が、ハルトの肩を小突いて試合は中断した。

『ハル、誘拐じゃないのなら、イルゼを攫ったのは何の為なのです?』

いくらか穏便に問いかけたのは、声をぴたり揃えた双子だ。これには失礼な男も答えあぐねる様子で首を捻った。

「誘拐を、Wolfが命じた可能性は有る。奴らには有益な話だからな。その場合はジュライが従ってそうしたと言えるが、奴がイルゼを連れて行った真意は、取引材料でも何でもなく……保護じゃないかと俺は思う」

「何ですって?」

再び柳眉を逆立てる女に、ハルトは肩をすくめた。

「だから俺に怒るなよ。イルゼに関して未だに何の要求も無いのはおかしいんだ。 Wolfが主導権を持っているなら、真っ先にヒルデガルトに金か保全か……取引を申し込む。それならイルゼに喋らせるべき内容は『助けてくれ』一択だ。此処を取引現場にするなら、『金を用意してこい』とか、『レベッカを呼べ』ぐらいは言わせないと意味が無い」

――にも関わらず、イルゼは暗黙のSOSさえ出さず、GNNビルに来るよう指示したのみで、次に電話に出たのはWolfに雇われている筈のジュライ。こいつはこいつで、本来、人質に関して言うべきことは何も言っていない。これが本当に誘拐ならば、計画段階からやり直した方が良い。

「だからって『保護』は言い過ぎよ。何から保護する気なの?」

じろりと睨みながらのロッテの尤もな問いに、ハルトはちらりと目を合わせてから言った。

「……お前たちを狙う誰かから」

抽象的な表現に、女が呆れ顔で首を振り、答えた方は弁解とも否定とも見える仕草で片手を振った。

「自分でも妙な事を言ってると思う。だが、ジュライは変人だ……俺は、奴がマグノリア・ハウスの件で漏らした一言が気になってる」

ジュライはマグノリア・ハウスの件でミスを犯したと言い、取り返そうとしていたとも言った。

未春に何かを見出していた意図は謎だが、ヒルデガルトには、よく似たミスが存在する。

「ジュライも教官を務めたマグノリア・ハウスは、優秀な殺し屋を作ろうとして戦闘能力に優れたシリアル・キラーを量産して失敗した。ヒルデガルトはどうだ? 特異な人間の為に非人道研究を繰り返して閉鎖になったのはマグノリア・ハウスに似ている。掲げていた目的も殆ど同じだ」

その頃には、訝しそうに聞いていた一同も徐々に嫌な予感に顔をしかめた。

失敗した二つの施設。

ミスを取り戻せないかと考えていたらしい男。

そして、両施設の目的は。

「かつてのヒルデガルトは、グレイト・スミスを人為的に生む為の施設だったんだろ? 俺の想像だが、お前たちはグレイト・スミスに関わる、重要な何かを持ってるんじゃないか? イルゼじゃなくても、お前たちの誰かが居れば、当時の研究を再開できるとか……」

ロッテは押し黙ったが、双子は顔を見合わせてから頷いた。

「はい、持っています」

「私たち皆、同じ物を」

先に答えたエマに続き、隣のラナが流れるように言った。

「持っているのはグレイト・スミスの遺伝子です」

「正確には、遺伝子を持ち、人間を維持できた者」

「私たちを含め、成功例は5%未満程度しか居ません。成功は、人格維持と能力発現の両方を備えた者を指します」

「失敗例は、力は得ますが頭がおかしくなり、知能は衰えます。多くは狂暴化し、通常の会話さえ難しくなります」

「……また、どこかで聞いた話に似てるな」

嫌そうに吐き捨てると、ハルトは未春に向いた。

「こいつらが持ってるグレイト・スミスの遺伝子とやらは、どうも『スプリング』と同じような効果があるみたいだ」

「同じ?」

「この遺伝子を得た人間の殆どは、何らかの強い力と引き換えに、頭がイカレるそうだ」

「……」

未春が適合している身体機能向上薬『スプリング』は、投与された者に恐ろしい力を与える代わりに、ほぼ全員を思考無き化物に変え、理性を保った一握りにも奇妙な疾患を与える。未春は事故死した母体から早産として取り上げられた後、スプリングが持つ異常な回復力で命を拾うが、極端に感情が乏しく、心の面は現在でも成長段階だ。他の適合者も化け物じみた強さを誇る一方、それぞれ面倒な症状を抱えている。

「その遺伝子を得るってのは、具体的にどうするもんなんだ?」

「遺伝子の伝達方法は様々です。主に触媒、移植、赤子への投与などでした」

「極めて成功率が高かったのが、受精による普通の出産。私達はそれでした」

渋面で聞いたハルトから訳を聞いた未春がはっとした。

――では、彼女たちは、フレディやハルトと同様に……

言い出せずに押し黙った未春をよそに、ハルトは女たちを厳しい目で眺めた。

「ヒルデガルトに女を集めた理由は言うまでもないと思うが、お前ら皆が皆、同じ母親から生まれたわけじゃあないんだろ?」

双子は顔を見合わせた。無言で何かを言い交わし、投げ遣りな顔付きで頬杖ついていたロッテに振り返った。視線を受けた女は居心地悪そうにしつつも、優しい顔で首を振った。

「……いいわよ、私の了解を取らなくても。あなた達はレベッカに発言を許されてるんでしょ?」

「そうですけど、プライバシーは重要なのです」

「私たちの話をするとロッテたちの話も出ます」

「いいったら。この調子じゃ……黙ってたって、こいつらは気付くわよ。根掘り葉掘り聞かれたり、ジロジロ見られるぐらいなら、あなた達に話してもらう方がいいわ」

不満たらたらの了承を得た双子は、散々な言われようの男たちに向き直った。

「ハル、未春、私たちは先ほど言った通り、グレイト・スミスの精子によって妊娠した母から生まれました。ですが、私たちは最初の子のクローンで、事実上は実子ですが、人間的な関係性は希薄と捉えています」

「母体についての情報も開示されていません。私たち、ロッテとイルゼ、ラファエラは別々の母体と思われますが、いずれも何処の誰だったのかは不明です。レベッカは探してくれましたが、既に消息不明でした」

「……ひどい……」

訳されるや否や、未春が呟いた。恐らく、母体となった女は無事では居るまい。仮に生きていたとしても、彼女たちと会う可能性は極めて低い。

「母体が居なくても、成功例のお前たちが居れば良いと思ったってか」

忌々し気に言ったハルトを、未春が軽く小突いた。日本で言う所のデリカシーに欠ける一言を咎めたらしい。その険しい顔つきからの同情を見て取ったか、双子は少しだけ、にこりと唇を持ち上げた。

「未春が気にすることではないのです。だからレベッカは、私たちを子供ができない体にしました」

「頼んだのは私たちです。私たちは自分たちの家庭を持つより、レベッカの為に尽くしたいのです」

その上、彼女らは子供ができないばかりか、無理に事に及ぼうとした男が只では済まない機能を備えているという。出産は、女性にとって苦痛でもあろうが、男には理解し得ない喜びでもある筈だ。子を成すことで起きる危険を回避する為にそれを捨て、恩人に尽くそうと決めたのは、もっと若い頃に違いない。

気丈な言葉を聞いた未春は物憂げな顔をしていたが、戸惑いを露わにしつつも頷いた。これには愛情に疎いハルトも胸の悪い顔つきをし、悼むような間を置いてから訊ねた。

「お前たちの年齢が時系列からして妙なのは、クローンだからなのか?」

「それも有りますが、例の薬物の効果でもあります」

「私たちより、ハルや未春の方が詳しいと思います」

この指摘に、自身もおよそ一年ほどの成長をすっ飛ばした当事者が目を丸くした。

「二人も、『スプリング』を……?」

「はい。ロッテたちやラファエラ、これは他の被験者もそうです」

「不安定な薬なので、効果は様々です。見た目ではわかりません」

「なるほどな。正確には雛形だろうが……あの薬を成長剤として使ったのか」

双子はシンクロした動作で頷いた。

「グレイト・スミスの遺伝子配列を元に作られた薬物が『スプリング』の原型です。身体機能向上ではなく、成長促進剤に近いものでした」

「それでも成功率は10%以下。赤ん坊に使う方が低リスクというデータはありますが、犠牲者数からすれば否定的に成らざるを得ません」

「どうりで大量の実験台が必要だったわけだ……一体、当時の連中はそんなに研究を急いで、何に焦っていやがったんだ?」

ハルトの問い掛けに、先に意外な顔をしたのはロッテだ。

「……あなた達、アマデウスやスターゲイジーに近しいのに知らないの?」

「知らん。あのオッサンたちは肝心なことは後から喋る悪党だ」

「よく、そんな連中に従っていられるわね……」

ロッテの視線たるや、愚か者を超えて残念なものを見る目だ。全く同感だとハルトは呻いたが、続けてくれと双子に促した。

「研究が急ピッチで行われたのは、グレイト・スミスが近く、『災厄ディザスターが起きる』と予知していたからです」

「災厄が起きる日に向けて、準備を急いでいたのです。グレイト・スミス自身の指示ではないそうですが」

「災厄って……フレディが言っていた話?」

双子は無表情に首を振った。

「フレディ・ダンヒルがそれを知っていたか、知っていた場合にどう解釈していたかは不明なのです」

「研究員たちの解釈では、災厄は世界に損害をもたらす恐ろしい出来事。これも曖昧な逸話なのです」

「まるで、ノストラダムスの大予言だ。その災厄が来るのはいつなんだ?」

『二十七年前“から”です』

「What?」

これにはハルトも目を剥き、未春と顔を見合わせた。

「“から”ってどういう意味だ? 終わった可能性もあるのか?」

「わかりません。レベッカはそう思っていない様ですけれど」

「レベッカの感じからして、BGMもそう思っていないです」

「そりゃ……そうだよな。現にグレイト・スミスが世界で動き出してるんだし……BGMからすりゃ、グレイト・スミス本人が災厄の扱いだ」

未春がぼんやりと首を捻った。

「二十七年前じゃ、俺たちが生まれる少し前だね」

「ああ……」

だからフレディは、未春が災厄であるかのように語りかけたのか?

確かに、BGMの殺し屋として抜群のポテンシャルを誇る未春が、グレイト・スミスを殺す可能性は決して低くはないし、それを目的に教育を受けたハルトも同様である。自らを殺す相手を予知し、災厄と呼ぶのはありそうな話だが……それなら、先に反旗を翻し、殺そうと画策したアマデウスらは、気にする程の存在ではなかったのだろうか?

「いや……待て。フレディがこの件を知っているなら経緯が有る。奴の『全知』は予知能力とは違う。記録か、証言に基づく筈だ。若しくは――」

そこまで言い掛けて、ハルトは押し黙った。

フレディの『全知』は、彼自身の賢さと幸運に由来する為、神がかった力に見えるが、魔法ではない。並ではない記憶力や読解力、思考力などの正確性故に予測と直結することは有っても、予測は予知ではないし、都合の良いように未来を作り変えているわけでもない。『全知』の根源は実在する情報だ。そして、フレディが抜き出ているのは、一つの情報から千も万もの情報へと展開できる点だ。例えば、街中の建物や道路の名前や配置を全て把握するのは、いくらか住んだ者や運転を生業とする者なら得意ですらあろう。だが、フレディの場合、それには留まらない。目にし、意識さえすれば、建物の年数、建材、住人、植えられた植物、街路樹の本数――下手をするとエネルギー使用量、飲食店のメニュー、各店で流れている音楽、事件件数などにまで及ぶ。無論、これは地図一枚見てどうにかなるものではないが、地図一枚からさえ、膨大なデータを吸い上げるのが『全知』である。故にフレディはマグノリア・ハウスに居た頃、自ら歩き回り、体感し、情報を集めていた。

日本に現れたことを含め、その行動力は現在も変わるまい。

ジュライがフレディと繋がっていないのなら、イルゼを連れて行くのを良しとしたのは、奴から遠ざける為か……?

遺伝子こそ持ちながら、生殖機能は持たない女を連れ出す意味とは何だ。

それとも、ひとつの記録として? 収容所跡地や、戦争博物館のように、過去の過ちを振り返る為の……

ちょうど思案に入り込んだ男の前に、良い香りのコーヒーが運ばれ、各々の注文もテーブルに並んだ。仄かな湯気と香りを前に手を付けぬまま考え込む男をよそに、ロッテはカップを傾け、双子もケーキにフォークを入れた。

「ハル、何か思いついたのなら説明して下さい」

「黙っていないで得意の持論を披露して下さい」

「……お前らの持論は勝手で参るよ」

溜息を吐いた男は、厳めしい顔つきで眉間を押さえてから答えた。

「ヒルデガルトに、フレディが欲しがる何かが有るとは思っていた。わざわざ日本に来たのは、グレイト・スミスの居所を知る為だった辺り、今回もこの男にまつわる情報だと思っていたんだが……」

少し違うかもしれない、と、カップに満ちるコーヒーを、同じ色の目が睨む。

「ハルちゃん、美味しいよ」

余計なことを言う未春に、ハルトは何か言いたげな目を向けたものの、黙ってカップを手に取った。一口飲んで、美味いともまずいとも言わない男を眺めた未春がポツリと言った。

「先生も一緒なら良かった」

思わず出たらしい一言に、昨夜死にかけた緊張感は皆無だ。いっそ、日本に居た時よりも呑気な顔付きは、これまでの未春には無い一面に思える。

――未春の感情が、戻ってきている。

少し前に十条十じゅうじょうとおるはそう言って、甥の未春が人間らしい感性を取り戻すのを喜んでいた。

今回の件で、未春の感情はまた大きく振れている。

――これも、十は見越していたのだろうか? だとしたら、これはもはや予知に近い。いや、まさか……――

「ヒルデガルトは、本当に大丈夫なんでしょうね?」

腹ごなしを終えたからか、威勢が良くなったロッテを、ハルトは思案顔のまま頷いた。

「ああ……大丈夫だろ」

「その自信は何処から来るの?」

「レディが身内を残していったからだよ。ニム・ハーバーに戦闘能力が無いのは、お前たちも知ってるだろ?」

ムッとしながら頷く女に続いて何故か双子も大きく頷き、話の流れを察した未春までもが頷いた。しかし、これでは作家が役に立たないと言っただけである。

「”だから”、あっちは大丈夫だ。危険なら、専用の奴が行くから放っておけ」

そんな都合の良い奴は誰だと不満げにテーブルに頬杖付く女に、未春がぼそりと言った。

「Kein Problem.(心配いらないよ)」

どうやら未春も気付いているらしい。信頼の置き方は、かつて裾を摘まんで離さなかった心情が保証している。ロッテはやや虚を突かれて変な顔をした。そのぐらい、未春の顔付きは落ち着いていて、場違いな程度には長閑だった。

「あっちに行きたいなら行っても良いぞ」

気を遣ったつもりだったが、未春はロッテと同じように不機嫌そうに眉を寄せた。

「そういうとこだよ、ハルちゃん」

「は……? 何が?」

「後で先生にでも聞けば」

「??」

そっぽを向かれる相手が二人に増えて狼狽えた男を見て、双子がクスクス笑った時だった。

「――失礼」

不意に声を掛けてきた男に、ハルトは振り向いた。

立っていたのは、高価であろうスーツに身を包み、髪や薄い髭を整えた顔に社交的な表情を浮かべた見知らぬ男だ。その後ろには、テーブルを担当しているウェイターがすまなそうに従っている。

「ご歓談中、申し訳ない――ああ、彼を責めないで下さい。私が無理を言ってお声掛けしたので」

「構わないが、何か用か?」

ウェイターに軽く目配せして下がらせたハルトに、男は親しげに笑い掛けた。

「貴公は彼の有名なフライクーゲルとお見受けします。私の主人が、是非ともお会いしたいと」

「へえ。俺が誰だか知っていて呼び付ける変人は、どこのどちら様だ?」

殺し屋の横柄な態度に、男は微かに頬を強張らせたものの、なんとか声は平静を保った。

「当ビルのオーナーでございます」

「オーナー、ね」

呟く頃には、不遜な殺し屋は男に目も向けずにコーヒーカップを傾け、同席した男女も飲食の手を止めない。それはほんの一分程度のことだったが、声を掛けた方がじりじりしたのは間違いない。使いは、いつ来るかもわからない高層ビルのエレベーターを待つ顔になったところで、口を開いた。

「あの、フライクーゲル――」

「その呼び方はやめろ」

殺し屋はぞんざいに言い放つと、片手の指を床に向けた。

「そこで待て。連れの食事が済んだら行ってやる」

犬にでも命じるような調子に頬をひくつかせた男に構わず、ハルトは”から”のカップをゆっくり置いて、椅子にもたれてぼやいた。

「……何が『そういうとこ』か、さっぱりわからん」

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