11.Big fish.

 その足音は、一般人程に素っ気なかった。

だが、こちらを追う気配が微量に伝わる。本当に、ほんの少し。

未春みはるは、追跡者の視線を背に感じながら、静かに歩き続けた。

過去、顔を気に入られて付いてこられた時に似ているが、明快に異なるのは、向いている気配だ。

不審者だろうが、ストーカーだろうが、好意という感情はわかりやすい。正反対の敵意も同じ。今はどちらとも違う。ただ、追って来る。何も望まずに、影だけ踏ませてほしいとでも言う様に。

淡いオレンジや白の外灯、車の光が石畳を照らす。濃い影を踏みながら、店先のグリーンやイエローの外灯が身に揺らいだ。

気付くと、ヒルデガルト・クリニクムの前に居た。

外来はとっくに終わっている為だろう、巨大な病院は窓の光こそ整然と輝いていたが、表の門扉は閉ざされ、入口の灯りは薄暗い。冷気に静まり返る周囲に人の気配は無く、すぐ傍のシュプレー川に面した通りの外灯が素朴に光っているだけだ。

迷いながらも川の方へと歩を進める。川と言っても、街中を流れるシュプレー川は、日本のような河原や草地、土手のたぐいは殆ど無く、舗装された合間を縫う幅広の水路といった風だ。

ふわっと水の匂いを感じたとき、足音が尚も付いて来るのがわかった。

川に沿って、歩道は続いている為、行く先が同じ一般人という可能性はゼロではないが……さすがに家路につく人間としては奇妙なルートだ。靴音の感じや歩調、音から伝わる様々な情報が、相手を男だと言っていた。未春は知らなかったが、イルゼが行方不明になった角を曲がった時だった。

「Hey,」

思ったより高い音の英語で響いた声掛けに、未春は振り向いた。忽然と立っていた人影に、一瞬、思考が止まった。それがいけなかった。

そいつはドイツに来て以来、ついぞ拝まなかったタイプの服を着ていた。黒いダウンジャケットの下で、白いフリルをたっぷり束ねたみたいに揺れていたのは、如何にも女性らしいスカート。髪は淡い茶色のロングヘアだが、しかし――

思考が止まった直後、女ではないのが再確認できた。が、それよりも早く、相手は路面を蹴って接近していた。飛び込んでくる手――手袋を嵌めたそれには何も持っていない。身を引く間は無い――掴まれる前に払う――考えるよりも早い速度で相手の手を受け流そうとして、再び未春は驚いた。触れたそれは、人間の手ではなかった。感触はそこまで重くなかったが、金属的な硬さと冷たさが跳ね返り、こちらの手に軽い痺れを与える。

「……ッ」

痛みよりも驚きで出遅れた左手を掴まれ、嫌な予感が背筋をスッと撫でた。

みしりと音がした。まるで、鋼鉄の扉に挟まれたようだ。万力の如き力が人間の手首なぞ脆いというように握り締めるのを、未春はごく冷めた顔つきで見た。痛みはある。常人なら狂ったように腕をばたつかせて悲鳴を上げてもおかしくない中、未春はぼそりと言った。

「あんた、誰?」

英語で訊ねたが、殆ど同じ身長の相手は返事をしなかった。ウィッグらしき髪に隠れた表情は間近だが、夜闇と街灯の逆光で確とは見えない。代わりにもう片手が鋭く突き出されて来たのを、今度は反対に空いた右手でがっちり掴んでやる。

――人間なのか?

氷のような冷たさに疑問が浮かぶが、そんな筈はないと思い直す。こんな風に滑らかに動く機械なぞ、現代に有るわけがないし、呼吸や心音は微かに聴こえる……機械的な電子音やモーター音ではない。その間にも、みしみしと手首を圧迫するのを感じつつ、未春は相手をじっと見つめた。――多分、手だけが人ではない。

「人違いなら、今の内だよ」

忠告したつもりだったが、相手の力は緩まない。手首を潰すことこそが目的であると言わんばかりに籠められる力を前に、未春は軽く息を吐いた。冷気に白くなる隙もない刹那――相手の手からぱっと離した片手で、ナイフの光が閃いた。

関節部分を狙った一撃は短い抵抗ごと無理やりいだ。外れる要素のある部分だけに頑丈らしく、千切れたケーブルらしき線は数本居残り、手首を模していたものはぶらんと垂れ下がった。血では無い光がパチッと爆ぜるのを見るまでも無い――人体ではない腕。片手首が使えなくなって尚、相手はひるむ様子も無い。掴んだ手に力を籠め続ける為、未春はそのまま相手の腕をもう一方の手で掴み、自らの腕ごと投げ出すように真横に打倒うちたおした。横向きに街灯に照らされた顔の中、不気味な目玉がぎょろりとこちらを仰ぐ。白人系の男だ――知らない顔の中、その目は狂気に濁った異様な色をしていた。

「誰?」

もう一度訊ねたが、返事の代わりに返って来たのは獣じみた唸り声だった。

――どうするか。

遮二無二動こうとする男を手足で地べたに押さえつけ、未春は逡巡した。

誰何すいかに答えない辺り、殺してしまうと何者かわからなくなる。レディに連絡を取るのが良いだろうか。まずは、掴まれている手を外そう……ナイフで何処を裂くのが良いだろうか――……解剖学的な目線で見下ろしながら考えた時、背筋にぞっとする何かを感じた。

タンッという乾いた音を聴いたと思った時、反射的に動こうとした未春だが、突如、男が信じ難い怪力で起き上がり、がばりと抱き着いて来た。

何かが首にぷつりと刺さったと思ったが、瞬く間に睡魔に引きずり込まれた。




 ヒルデガルトの夜は静かだ。

仮にすぐ傍でパレードが行われていても、此処は法廷のような厳粛さを保つだろう。

ハルトは眠そうな顔で、パソコン画面を眺めていた。正面では、キーボードを叩く動作さえも瓜二つのエマとラナが、互いのパソコンでデータ検証を行っている。

ドイツ支部の内部事情に触れる作業は二人に任せ、ハルトが見ていたのはネオナチを名乗るグループ・「Wolfヴォルフ」の情報と、「七月生まれのジュライ」の情報を見ていた。レディこと、ペトラが送って来たWolfのデータは、思った以上に単純明快だった。彼女が言った通り、彼らは日本で言う所の半グレというやつで、直近では解散に追い込まれた東部鷲尾連合会に近い。……とはいえ、彼らがやっていた銃の密売ほど踏み込んだことはしておらず、人数も連中の半分以下……反社会的な喧嘩好きが集まった小さなグループに過ぎない様だ。

一方、彼らとジュライが遭遇した経緯は”偶然”に見えるだけに相当に怪しい。

クリスマス・マーケットで揉め事となり、あっという間にジュライに倒された連中が、彼を金で雇う……如何にもなシナリオだ。Wolfのリーダーであるテオの収入源は謎だが、構成員のデータからしてそれほど潤沢な資金が有るとは思えない。と、すると……ジュライは”はした金”で雇われようと、彼らのグループに入り込む意図がある。何のために、そんなことを? 第一……マグノリア・ハウスの件では、アマデウスに相当貰っているだろうに。口止め料も含めて、それこそ呑気に暮らせる程度には受け取った筈だ。何が楽しくて、こんな事をしている?

――いや、俺もか。

遊んで暮らせるレベルの貯蓄を持って尚、何してるんだか……

「……変人ばっかりだ……」

ぼやいた瞬間、揃いの四つの目玉がぱちぱちした。

「ハル、寝惚けてます?」

「それともボケてます?」

「寝惚けてもいねえしボケとらんわ、失敬な」

即座に飛んでくる双子の揶揄に、ハルトは気怠そうに片手を振った。

「俺の周りには変人がよく集まると思っただけだ」

「ハルは仕方ないです」

「類は友を呼ぶのです」

「そんな言葉どこで覚えたんだよ、チキショー。だったらお前らも変人だぞ」

「失礼はそっちなのです」

「どの口が言うのです?」

「ええい、やめやめ……切りが無えわ」

溜息混じりに言いながらも、語尾はあくびになった。潤む目でパソコン画面へと戻る男を、双子はじーっと見た。

『ねえ、ハル?』

「……なんだ?」

『どうして、未春と会わなかったの?』

「あ?」

チンピラめいた調子で聞き返した男に、双子は全く動じぬ無表情で応じた。

「カリーナに言ったことはウソなの?」

「それとも全部、ホントのことなの?」

「そんなこと聞いてどうすんだよ?」

舌打ちしそうな男に対し、先に双子が舌打ちして、真正面で左右対称に手を添えてヒソヒソと言い交わす。

「面倒臭い正論モンスターなのです」

「どうせ喋る癖にいちいちゴネます」

「……クソ、わかったよ……喋ればいいんだろ、喋れば!」

投げやりに言うと、データ検証は続けながらハルトは言った。

「カリーナに言った言葉は嘘じゃない。だが、俺はあいつに会わない方が良いとは思ってる。ドイツまで来ちまった辺り、尚更……」

『どうして?』

「――そもそも、俺と未春が会ったのは、未春の叔父の十条さんの意向なんだ。彼は未春の友人として、俺が相応しいと思ったから会わせたと言ってるが……その最たる目的は未春の精神的な成長であって、俺との関係が友人ではなくても良いと思ってる……意味分かるか?」

何となく、と頷いた双子に対し、ハルトは続けた。

「現に未春は、友人関係よりも踏み込んだ『家族』に着地している。俺は、友人も困るが、家族も大いに困るんだ……殺し屋なんだから、他者との関係性は無い方が良いに決まってる。人殺しなんか、そう遠くない内に殺されるか、憤死するんだからな。そこをわけのわからん理屈で押し切られて、一緒に長生きしてくれって話になってきてる……」

本当に悩ましいのか、わけがわからんのか、ハルトは机に俯き、片手で頭を抱えた。

「未春が俺に依存しつつ有る現状で、今回の話が舞い込んだんだ。距離を置けば冷静になるかと思ったが、逆効果だったらしい。下手に突っぱねてベソベソされたら俺が十条さんに何されるかわからねえし、かといってあっさり会うと未春を図に乗らせそうで……先延ばしにして解決するもんでもないだろうが、時間は稼いだ方が良いと思った……」

面倒臭そうにしながらも長い講釈に、双子は「なるほど」という顔で頷いた。

「ハルはやっぱり面倒臭いのです」

「な……なんだよ……」

「ハルが会いたいかを聞いたのに」

「だからー……俺は……」

「確かめるのが怖いだけなのです」

「はあ?」

「会って殴られちまえばいいです」

「……」

二の句は何も出ずに、しみじみと溜息だけが出た。

――俺……殴られるのか?

未春は、カリーナの伝言をどう受け止めたろう? 第一、あいつはどういう心境で此処に来たんだ? 会いたいってのは建前で……本当は何も言わずに出ていった事が頭に来ていて、ぶん殴る気だったらシャレにならない。いや、それは殴られる理由になるのか? 黙って出て行くのは……そんなに酷い事なのか? 別に関係ないだろうに……

悶々と画面を見つめていると、双子が淡々と言った。

「ハル、検証終了です。外部からアクセスした者はゼロなのです」

「内部からアクセスした部外者も居ません。オールグリーンです」

「……そうか。表からも裏からもネズミは入っていない様だな。最初から中に居るペットはどうだ?」

やや品性のない隠語に、双子は顔を見合わせた。タタタタと軽快にタイピングすると、互いの結果を検証して小首を傾げた。

「システムを監視するスタッフと、私たちならいつでも入れるけど」

「でも……全監視・担当スタッフのコードは使われていないのです」

「じゃ、答えは一つだ」

案の定、双子はムッとした。

『私たちじゃないです』

「わかってるよ。エマ、ラナ、お前たちはシロだ」

『どうして?』

「どうして……って、無実だって言ってんのにわざわざ理由を聞きたいのか?」

頷いた双子に、ハルトはうんざり顔をした。机に頬付いて溜息を吐く。

「俺は……わかってることを確認すんのは嫌なんだがなー……」

ぶつぶつ言いながらも、ハルトは頭を掻いてから答えた。

「まず、隠れて工作する理由が無い。お前たちはヒルデガルトの内部で、何をするにも堂々と動ける立場で、他の面子よりも圧倒的に目立つ。これは逆手にも取れるが、お前たちはできな――……いや、小細工をするタイプじゃない」

正確には”できない”が正しい。エマとラナがレベッカに最も近しいのも、この素直な性格が原因だ。現に、姑息な言い換えにも、双子は悦に入った様子で頷いた。

「問題は、ロッテ、イルゼ、ラファエラだな……」

「在り得ません。レベッカに反するなんて」

「レベッカの為なら死ぬこともできるのに」

「お前らの忠犬っぷりは気に入らないが、肝心なのはそこだ」

揃って眉を寄せる双子に、ハルトは軽く顎を撫でて言った。

「ヒルデガルトの女が全員、レベッカに忠誠を誓っているのはわかるが、その方向性は違うんじゃないか? レベッカを敵だと思って反するのではなく、彼女を守る――或いは助ける為に、反逆行為に及んでいるとしたら?」

双子は同じ方向に首を傾け、更に同じタイミングで反対側に傾けた。

「考えてみろ、お前らの中にレベッカを害する目的の奴が居るなら、毒殺か薬殺が最も効率が良い。レベッカが此処を一歩も出ない以上、その死亡理由は院内で起きる可能性が高いものが都合が良い。だが、それは起きていないし、起きる素振りも無い」

当然だと言わんばかりの目がきゅっと睨んでくるが、ハルトは動じることなく首を振った。

「同様に、お前たちはそこまでレベッカの身辺を厳重警戒していない。これは互いの信頼関係が物を言うと思うが、俺から見れば少々、不用心だ。レベッカは他のTOP13に比べて戦闘能力が極端に低いのに、常に護衛が付いているわけじゃない。最初はお前たちがそうなのかと思ったが、レベッカを残したままケバブを買いに行き、ドーナッツ屋にも行った。何故だろうな?」

双子は曰く有りげな顔付きで、雄弁な居候を見つめたが、ビスクドールのように何も言わずに清聴している。

「俺は、ヒルデガルトには招かれざる客は絶対に入れない防衛システムがあると踏んでる。それがネットワーク関連や電気系統で行う話なら、情報を含めて全面的にカバーしなけりゃ意味が無い。俺に外出を禁じるのも、その出入りが面倒だからだろ?」

双子はぱちぱちと瞬きし、軽く見交わした。

「俺が入れたのはレベッカに許されたからで、ドーナッツ屋のスタッフもお前らに許された――或いは一緒に居たから入れた。許可が下りない人間が此処に踏み入ると、何らかの損害を被る……違うか?」

『大体、正確です』

「大体かよ。……まあ、いいか……とにかく、この防衛システムがある以上、身内以外が此処にアクセスし、情報を盗むのはほぼ不可能だ。そして今、レベッカ自身には何も起きていない。――以上を踏まえて、イルゼが行方不明、ロッテはその失踪に焦ってる……と、いうことは?」

『ラファエラが……』

双子は言い淀み、少し俯いた。

「そうだ。一番怪しいのはラファエラだ。レベッカの部屋の盗聴器をロッテが知らなかったことからして、あれはラファエラが、主人の様子を探るんじゃあなく、見守る為に置いたのなら、違和感はない」

エマとラナは顔を見合わせ、一律にそっと首を振った。

「……ラファエラが内緒で何かしているのはわかっていたのです」

「レベッカも気付いていたと思います……聞かないと思いますが」

「同感だ。レベッカはイルゼの件をラファエラに話さなくていいとロッテに指示した。普通は共有すべき情報なのに」

ハルトは軽く溜息を吐くと、パソコンを閉じた。

「ラファエラは、レベッカの為になると信じた独断行動をしていると俺も思う。お前たちに心当たりは?」

『……有りません。でも、私たちがレベッカにしてあげたいことは同じです』

「……ヒルデガルトから外に出したい、だな?」

双子は難しい顔付きで頷いた。

「レベッカが外に出ないのは、多忙だからでも、出不精でもないのは俺にもわかるが、一番の理由は何なんだ?」

『レベッカが、グレイト・スミスの娘だから……』

ハルトの頬が微かにひくついた。

「例の伝説のスパイか」

グレイト・スミス。

BGMの基礎を造った人物だが、その弟子であるアマデウスやスターゲイジーら……実の娘であるレベッカも含めた造反によって後を追われ、行方不明となった男。

現状も所在はわからないが、BGMの「世界を滞りなく回す」の思想の真逆を行く「世界を滞らせる」を目的とし、行動し始めた足跡があるらしい。スターゲイジーから聞いた話では、天然資源の占有、半導体企業の掌握、不必要な人間を減らすのを目論み、走り続けて来た世界を一気にスローダウンさせる気だというが、その真意は謎だ。シリコンやゲルマニウムなどを独占し、半導体企業を押さえられれば、多くのデジタル製品が影響を受け、多くの工業製品が作れなくなる。それだけでも脅威だが、人間を減らすというのは極端な言い方をすれば大量虐殺だ。BGMが行っているそれと変わらない様にも見えるが、「不必要」の概念は、より強い危険を感じる。

「グレイト・スミスは、レベッカを狙っているのか……?」

双子は曖昧に首を捻り、どこか懐疑的な顔をした。

そうだろうと思ったハルトも深く追求しなかった。

レベッカが語った思い出――彼女の記憶が確かなら、グレイト・スミスは彼女に親らしい愛を向けていた。予知した未来で、娘が殺人鬼に襲われるのを防ぐ為、赤い靴を履かせるのを断固として拒み、自身が傍に居るビジョンを見られなかった故か、もっと恐ろしいものを見たのか、愛した娘の傍を自ら離れた。

『レベッカは、グレイト・スミスの娘だから外に出ないと言いました』

「外に出ると、何か有るのか……ラファエラがやろうとしてるのは、その檻を破る気か、原因を除く気か……それなら止めることは無いように思うが、組んでる相手が問題だな」

軽く腕組みして唸ると、ハルトは双子を見た。

「一応聞くが、ロッテとイルゼは最近、何か調べていたか?」

「調べていたと思います」

「何かは知らないけれど」

「調査中に情報共有しない点はブレンド社と同じか」

「ニムと未春の監視をしていたのは知っています」

「先日レベッカの部屋で話してるのを聞きました」

「お前ら、しょっちゅう立ち聞きしてんな……」

ツッコミをぼやいた居候に、双子は知らん顔でそっぽを向いた。

呆れ顔で彼女らを眺めつつ、ハルトは首を捻った。

――仮にイルゼがラファエラにとって不利益な情報を掴んでいても、常に一緒に行動するロッテが残っている以上、彼女だけ攫う意味は無い。ドイツ支部の結束力はBGM内でも抜き出ている――末端ならともかく、ヒルデガルトの”女”を売ることは有り得ない。Wolfのテオがジュライを使って攫った理由は、ネオナチ狩りの影響だろうが、彼らに対し、ラファエラがイルゼの「小鳥好き」の情報を売るのも考え難い。両者が協力関係に有るのなら、ジュライを使わずにラファエラが呼び出せば済む。

「まあ、いい。ネズミがラファエラだとすると、あいつが行動を起こす為に、スポンサーや協力者が必要だ。心当たりは――……無いんだろ?」

顔を見合わせた双子はムッとしてから、同時にパソコンに向き合い、手が四つ以上有りそうな勢いで叩き始めた。四つの青い目がスピーディーに画面を舐め、五分と経たずに顔を上げた。

「ドイツ支部の組織内・下部組織に不審な資金移動は無いです」

「ラファエラが関係する外部組織にも不審な動きは無いのです」

「そ、そうか……すげーな、お前らは……」

素直に舌を巻いた顔をしたハルトに、双子はフッと得意げな顔をした。だが、この双子ができるのは此処までらしい。データは調べられても、そこから何を汲んで良いのかがわからないのだ。「後はお前が考えろ」と促すような眼差しを受け、ハルトは頬杖ついて口を尖らせた。

「……目立った資金提供元が見当たらない辺り、ラファエラの本気が窺えるが……全く関与の無い所から支援を受けるのは簡単じゃない。ビッグネームを落としたか、取引をしたか、だと思うんだが」

『フレディ・ダンヒルですか?』

「――フレディは、どちらかというと資金提供を受ける側だ。俺が”釣り”に呼ばれたのは、ドイツ支部に提供者が居る可能性を踏まえての事なんだからな」

ただし、ラファエラがフレディと協力関係である可能性は大いにあり得る。

わからないのは、彼女が怪しい連中と会う――或いは連絡を取り合う方法だ。Nóttノートを取り仕切る姿は、清掃員クリーナーなどにも見られている筈。特に、レベッカが彼女の行動を睨んでいるのだから、フリーにはしておくまい。

影武者でも立てている?……いや、ドイツ支部には、アマデウスが抱える演技専門の清掃員「ブロードウェイ」のような別人になれるほどのスタッフは見当たらない。

「正直言うと、ラファエラは……フレディに傾倒――或いは利用されるほど、馬鹿にも迂闊にも見えないんだが。お前らもそう思うだろ?」

一も二も無く双子は頷いた。

「ラファエラは、私たちの中でも特に男を信用しません」

「男に何か頼るぐらいなら、自分で行動する筈なのです」

「だよな。……弱みを握られたとしても、此処にネズミが入っていない以上、お前らに相談する筈だ。それ以上のヤバい奴が関わっているのか……?」

『じゃ、BGMのビッグネーム?』

「……無いと思うぞ。お前らも知っての通り、BGMは一つの組織だが、命令系統や行動はバラバラだ。『世界を滞りなく回す』以外は自分らのテリトリーで好き勝手やるのが通例だし、TOP13同士ならともかく、いちスタッフと交渉するようなTOPはそう居ない」

自分の発言を噛むように顎に手をやり、ハルトは首を捻る。

「話が通しやすいのは、顔が知れていて、表に窓口を持つスターゲイジーやミスター・アマデウスだが……無いだろ。あの二人は興味や利益で動く部分も有るが、レベッカに関わる事には慎重だ。レベッカがBGM入りするのに反対してたって話も有るし、それが二人にとって有益とは……」

言い掛けてから首を捻り、ハルトはしばし自分の画面を操作すると、眉を寄せた。

「アマデウスがベルリンに来てるなら……”その可能性”はアリか……?」

独り言を呟く男に、双子が怪訝な顔をする。

『ハル、何のこと?』

「お前ら、若い頃のアマデウスがレベッカに求婚してた話は知ってるか?」

「知っています。レベッカは断ったけど何度も来たって」

「奴はしつこい男の代名詞になれるって言っていました」

「俺も全く同意するが……この話が現在進行形なら、アマデウスにはレベッカをヒルデガルトから出すメリットがある」

『ベルリンに、結婚を申し込みに来たの?』

だったら摘まみ出すという顔の二人に、ハルトは自身が睨まれたように首を振った。

「わからん。一理有るってだけで、俺にも理解不能だ。……ただ、ミスター・アマデウスが自分で行動する時の理由は大体決まってる」

言いながら、ハルトは指を立てた。

「主に、次の三つの何れかだ。一つ、自分が取引する必要がある場合。二つ、自分の目で見たいものがある場合。三つ、自分の手でぶっ潰したい何かがある場合」

久方ぶりのミスター・アマデウスのベルリン入りにはどの条件も当てはまる。

レベッカと結婚する為に取引をしたとか、この町で起きる顛末を自分の目で確認したいというのも有りそうだ。

『アマデウスが、ドイツ支部を潰す可能性は?』

「それは無い筈だ」

やや険しい顔付きだったが、それでもハルトはきっぱり否定した。

「あの人は自分本位の愉快犯だが、旧知のレベッカ相手にそうするほど腐っちゃいない。仮にレベッカやドイツ支部自体が、BGMや関係先に不利益をたくらむか、内部抗争が有るならまだしも……俺は此処に居る間、お前らのそういう行動や素振りは見ていない。レベッカなんて殆ど医者の仕事ばっかりしてたし、ラファエラがドイツ支部の総意をかたって行動したところで、お前たちがレベッカ第一主義なんだから崩せないだろ? いくらアマデウスがクソ野郎でも、直接確認を取るまで、安易な自己判断はしない」

――その為の、ジュライという可能性もあるが、それはまだわからない。

『じゃあ、潰すとしたら何を潰すの?』

「あの人が叩くのは麻薬組織か、ドラッグ製造拠点、それに関わる武装勢力とかだな。仲買い組織や流通先なんかは、他に頼むことが多いが……」

何よりもドラッグを毛嫌いするアマデウスは、自らの部下を薬物に近付けるのも嫌がり、他国から殺し屋を呼び寄せる事もある。過去、大麻の栽培地を焼き尽くし、素知らぬ顔で密売拠点を爆破させ、麻薬組織が仕切る裏カジノを千間優一せんまゆういちを始めとした惨殺が得意な殺し屋を使って撃滅したケースは記憶に新しい。

「……そういや、”レディ”も大のドラッグ嫌いだったな……」

イギリス支部にしてブレンド社のペトラ・ショーレは、ある麻薬組織と因縁が有ることを含め、アマデウスに匹敵するドラッグ嫌いだ。彼女も薬物そのものを敵視しているに等しく、関係した人間への当たりの強さは並ではない。

「レディが直前に来た時、レベッカと何を話したか知ってるか?」

顔も見合わせずに双子は首を振った。

「私たちは会食したという事実だけ聞きました」

「釣りに関する打ち合わせはした筈ですけれど」

「ヒルデガルトに入った魚……ネズミを釣る手筈を整えた、か……有りそうな話だが、俺が知るブレンド社はそれだけで帰るわけがない。それはレベッカも知っている筈だから――何か、取引レベルの情報交換が……」

呟きながら、ハルトは画面を睨んだ。

レディは、Wolfの連中は「薬か酒に病み窶れている」と言った。薬か、酒。

「エマ、ラナ……ドイツ国内――いや、ベルリン市内の薬物に関する流通データは有るか? ヒルデガルトに納品されている物から、違法薬物を含めて、全部だ」

『有ります』

「ネオナチと取引した連中が居ないか調べてくれ。無いと思うが、ヒルデガルトに納品された物に、怪しいものが無いかも。可能なら、アルコールも調べてほしい」

『わかりました』

高速タイピングの音が響き渡る中、ハルトは先ほどの端末を借りて電話をかけ始めた。

〈Hi.〉

すぐに出た相手の冷たい声音に臆しつつも言った。

「レディ――ハルトです。聞きたいことがあるんですが……」

〈悪いけれど、後にして〉

「お、何か釣れましたか?」

〈逆よ、フライクーゲル。釣られたわ〉

何が、と問い返す前に通話先で誰かが喚いた。

〈レディ! 喋ってる場合かい⁉ 車が行っちゃう! 早く行かないと――〉

それはぎゃんぎゃんと騒いだが、唐突に静かになった。さてはレディに一発見舞われたらしい。

〈――未春が攫われた〉

冷静な声が告げたとき、どんな顔をしただろう。

「……まさか」

冗談だろうという苦笑いが出たが、返って来たのは耳の奥を冷たい刃で突き刺すような声だった。

〈彼は強運ね。5%の確率だった大物が先に釣れた。彼一人で釣り上げるのは困難だろうから、サポートに入る。位置を確認後に連絡する〉

言うなり、電話はぷつりと切れた。

持ったままの端末を、ハルトはぼんやりと眺めた。

確率5%の大物。未春を捉えるだけの実力者。頭に過る人物など、何人も居ない。

持っていた端末が自分のものなら、壁に投げ付けていたかもしれない。無性に何かを蹴飛ばしたくなったが、わきまえた足は机の足をコツンと突いた。

氷が欲しいと思った喉が軽く鳴る。

――落ち着け。何を苛つく必要が有る? 落ち着け……”奴”の狙いは俺だ。

奴は、俺が来るのを期待している。乗るな。乗ってはいけない……

『ハル、どうかしましたか?』

双子の問い掛けに、短い迷いの後に言った。

「なんでもない」




 「ねえ」

イルゼはソファーに寝そべったままの男に声を掛けたが、バカでかい図体の壮年は振り返らず、返事も無かった。

「その本、そんなに面白い?」

「素晴しく面白く、美しい」

今度は間髪を入れずに返事が来たが、やはり見向きもしなかった。確かに、こちらに向いている絵本は、素朴なタッチと色鮮やかな絵柄が見える。

「私にも見せて」

試しに言ってみると、男は振り向かずに言った。

「駄目だ」

「どうして」

「今、私が見ているから」

ものすごく無駄な時間を過ごした気になったイルゼは視線でぐるりとアーチを描いてから、フンと鼻を鳴らした。

「ああ、そう……あのね、見ての通り、体が痛いの。起こして頂けると有り難いのだけど?」

「いいよ」

気の利かない男はあっさり答えると、絵本を置いて初めてこっちを見た。

改めて仰ぐと、全体に物凄くくたびれた印象の男だ。五十路かそこらだろうか……ぼさぼさの黒髪や無精髭、ぼんやりした目の所為で更に老けて見える。体格はそびえ立つ山のように立派なものだが、何となく猫背でジジ臭さが拭えない。一体いつ洗ったのか疑わしいよれよれの黒いコートは、やや男臭い気がした。

彼は急がぬ様子で近寄り、難なく椅子ごと女を持ち上げて元に戻した。窮屈さから少しばかり解放されたイルゼは溜息を吐くと、男がソファーにUターンする前に話し掛けた。

「これ、外すわけにいかない?」

椅子と我が身を繋ぐロープに顎をしゃくると、男はぴくりとも表情を動かさずに首を振った。

「外すと、君は無理に出ていこうとする」

そこまでボケてはいないようだ。男の知能を推し量るように眺め、イルゼはもう一言付け加えた。

「じゃあ、まともな食料か飲物を頂戴。もう、お腹と背中がくっつきそうなの」

「いいよ」

これまたあっさりと男は了承し、部屋の片隅――簡易的なバー・カウンターのようになっている辺りの冷蔵庫を開いてボトルを拝借し、テーブルに乗っていた袋と共に戻って来た。食事の為にロープを外すのを期待したわけではないが、こちらの殆ど真正面に椅子を持ってきて座る男に、イルゼは少々焦った。

「……た、食べさせるつもり?」

「外せないから、仕方がない」

アウトロー共のアジトにしては気の利いた、ごく普通の水のペットボトルを開くと、男は飲み口を差し伸べた。イルゼは嫌そうな顔をしたが、喉の渇きや空腹は嘘ではない。背に腹は代えられないとはいえ、屈辱を感じつつ飲ませてもらう。がさつそうな見た目の割に、男は慣れた様子で、袋からシュリッペという小ぶりの丸いパンに放射状の切れ込みが入ったそれを取り出すと、上手く千切って女の口に入れた。素朴なパンを黙々と咀嚼していると、男はぼそりと喋った。

「かつて、某国兵は捕虜となった際、敵国の待遇の良さに感動し、自国に返還されると聞いた時はがっかりしたらしい」

「……何の話?」

「捕虜の人権は守られるべきという話だ。多くの場合、守られていないが」

如何程も表情を変えることなく言う男に、女は不可解な目を向けた。――先程、強姦を止めたのも、やはり庇ったと言いたいのだろうか。

「貴方……どうして、私のことを知っているの?」

「君のことは知らない」

「は……? じゃあ何で、私の体のことを……」

「それは、ヒルデガルトの女のことを知っているだけだ」

機械と会話するようだ。正確に情報を打ち込まなければアクセスさえできない様に感じる。

「貴方は、レベッカが台頭する前のことを知っているということ?」

「ヒルデガルトが、現在のドイツ支部の姿になる前のことは知っている。レベッカ・ローデンバックは正しい判断をした。『星の計画シュテルン・プラーン』を潰さなければ、ホロコーストが繰り返される」

イルゼは息を呑んだ。ホロコーストは、ナチスが行ったユダヤ人に対する絶滅政策と大量虐殺を指す。元は集団殺戮などを意味する「ジェノサイド」が使われたが、ホロコーストはギリシア語の「全部」と「焼く」が合わさった言葉を語源とし、ユダヤ人が生きたまま火に投げ込まれて殺されているという証言や、ドラマに使われたタイトルが流行し、広く使われるようになった。

星の計画は、ユダヤ人を殲滅する計画ではない。故にホロコーストに直接的には結び付かないが、集団殺戮ジェノサイドには……――

シュリッペを胃に収めた女の目は、不気味なものを見るように男を見上げた。

「貴方、一体”誰”なの?」

「ユーリ」

「聞いたわよ、名前は……!どうして、星の計画を知っているの?」

男は何も気にしない風に立ち上がると、椅子を元に戻し、残った水を冷蔵庫に入れてから再びソファーへと戻った。

「貴方……当時の関係者なの? あれは計画名を含めて、外部には出ていないのに……!」

ソファーが男の体重に軋んだ。当然のように本を持ち上げ、先ほどのように開いてから言った。

「星の計画は、初めから無理な計画だった。グレイト・スミスを作るために、実験台のクローンを量産し、人工物アーティファクトを作り、結果は犠牲が出ただけ。解放したのがレベッカ・ローデンバックというのは、運命であり、宿命であり、世のことわりだ」

「グレイト・スミス……」

ドイツ支部ではみ名と言っても良い人物の敬称に、イルゼは唖然とした。それだけではない。この男、人工物のことも知っている……

こいつが「星の計画」の関係者なら、ヒルデガルトの女の秘密を知っていてもおかしくないが、それは有り得ない。あの時――障害成り得るレベルの人間は、研究員や武装班を含めて、レベッカが……

だとすれば……こいつはBGMの人間か?

「貴方、BGM関係者?」

男は本に集中し、答えなかった。言いたくないというよりは、言わなくても良いから黙っている……そんな空気を感じた。だが、こちらは黙しているわけにもいかない。どうにか此処を出るか、ヒルデガルトか――この際、警察でもいい……外部に連絡を取らねば。ネオナチの連中に話は通じない。こいつはこいつでわけがわからないが、女の言うことが気に入らないからと強姦に及ぼうとする連中より遥かにマシだ。

イルゼはじっと男を見つめ、質問を変えることにした。

「それ、貴方の本?」

「ああ。久しぶりに買った」

単調な返事が返ってきた。邪険にする様子はない。

「本は好き?」

「今は好きだ。思えば、つまらない作品ばかり見てきた。ところが最近、心が震える出来事に出会ってから、素晴らしい作品がわかるようになった。私をつまらない人間にした作品なんぞ、本でも文学でもなかった。素晴らしい作品に出会う限り、本は好きで有り続けるだろう」

「……私ちょうど一冊持っているんだけど、読んでみる?」

「ほう。どんな本だ?」

興味を引かれたようだ。言わずもがな、男はイルゼが持っていたテューテ――入口近くの棚に放り出されていたそれを取りに行った。

無造作に取り出すのを横目に、イルゼは言った。

「その本、貴方が持っている絵本を描いた人が勧めていたのよ」

「ニム・ハーバー……ああ、彼は面白い男だ」

「読んだ事があるの?」

「短編と児童文学、雑誌コラムを」

意外とマルチな作家であることを確認しつつ、イルゼは首を傾げた。短編やコラムはともかく、何故、大の男が子供向けを読むのだろう。子供の一人や二人居てもおかしくはない年齢の様だが、こんな連中と付き合っている男にまともな子供が居よう筈もない。

「まさかと思うけど、お子さんが居たりしないわよね?」

「居ない。子供を大勢、世話したことはある。大勢、殺したことも」

突然、恐ろしい一言が付け加えられ、身を強張らせた女の緊張に気付いているのかいないのか、男は本を手にソファーに戻った。

「世話した後に、色々と考える機会があった。子供とは何だったのか。本来はどうすべきだったのか。私は探った。親となった者は皆知っているかと思ったが、そうではなかった。答えを知っていたのは、そのような絵本を描いた者であり、ニムのような男であり、身寄りのない子供を育てた人々であり、君たちを救ったレベッカだ」

「……」

淡々とした饒舌は大部分が漠然としていたが、手にした本をゆったり捲る――どうやら、読めているらしい。英語は問題ないようだ。短い逡巡の後、イルゼは言った。

「ニム・ハーバーなら、ベルリンに来ているわよ。私も一度、会ったわ」

「羨ましい。私も彼とは時間が許すならば話したい。とても有意義な時間になると思う」

「……会わせましょうか。ウチの支部は、彼を捕捉している。でも、急がないと彼は帰国してしまうわ。予定では、明日よ」

ちらりと男が笑った。妙な笑みだった。面白くて笑ったようだが、声は立てず、無精髭に覆われている顔面に、笑った顔の仮面を付けたような感覚だ。

「君たちはcold fishかと思っていたが、なかなか面白い」

「コールドフィッシュ……?」

何が冷たい魚なのだろうと眉をひそめる女に、男は本を捲りながら言った。

「焦ることは無い。ニム・ハーバーは、一人では帰らない。君も焦ってはいけない。焦りは多くの場合、失態を招く。ガチョウ番の女らしく、静かに待つと良い」

「さっきも言ってたけど、何なの、それ……?」

「知らないのか。グリム童話の一編だ。侍女に脅迫された王女は嫁ぎ先で身分を奪われてガチョウ番として過ごすが、やがて真実が明らかになり、本来の立場に戻る」

「そうじゃなくて――何故、私をガチョウ番の女と呼ぶの? 鳥は好きだけど、ガチョウを見ていたことなんか無いわよ」

「ヒルデガルトの女はそれに等しい。私が言うガチョウは君が愛する鳥とは違う」

喋る毎にわけがわからなくなる男を前に、イルゼはもう二の句が出なかった。

既に男が、本に夢中になりつつ有るのがわかったからだ。自分とのお喋りよりも、活字のストーリーに引き込まれている顔を見て、何やら敗北感にも似た気持ちを感じつつ、女は小さく溜息を吐いた。

焦るなと言われても、早く此処を出なくては。

そうでなくては、次はこの偏屈な男に排泄を頼まねばならなくなる……




 気が付くと、知らない場所に居た。

ひと目で見渡せる程の小さな部屋を、未春は胡乱げに眺めた。窓はなく、天井はやや高く、剥き出しの梁の奥は暗くてよく見えない。それもその筈、明かりといえば、床にポータブル式の小さな電気式のランタンが置いてあるだけだ。のっぺりしたコンクリートの壁や床、正面には扉が一つ見えるが、座っている椅子――膝やすねが太い針金で括りつけられていた――以外は何も無い。日本なら数人向けのカラオケボックスのような室内を眺める脳裏は、何となくもやが霞んでいる。

壁に背を向けて座っていたが、片手は持ち上がっていた。何かが数本、右の手のひらを刺し貫いて、壁に突き刺さっていたからだ。

見上げたそれは、釘だろうか。こんなものが突き刺さっても目覚めなかったということは、麻酔でも使われたらしい。右手を引いてもびくともせず、折り砕かれずに済んだか治ったかの左手を持ち上げて抜こうとしたが、どれだけ壁に埋まっているのか――皮膚にも壁にもがっちりと食い込み、新たな血をだらだらと溢れさせるだけだった。壁を流れ伝っていた乾いた血の上を黒く見える血が流れるのを、ぼんやりしたアンバーが見つめた。

ポケットに、武器は残ったままだ。

いっそ、手のひらを横に裂く方が早いかと、おぞましい解決法を思案したとき、上部から声がした。

〈やあ、おはよう〉

響いてきたのは、滑らかな日本語だった。

「……?」

〈君も、短時間での大量出血は死に至るのかな〉

「誰?」

〈ああ、失礼。はじめまして、未春。僕はフレディ・ダンヒル〉

「フレディ……?」

――ハルちゃんの、ストーカー?

〈野暮ったいことしてごめんね。君とお話ししたくて、無理に呼んでしまったよ〉

瞬きしたアンバーが、壁にピン留めされた片手をちらと見た。

〈だって君、すごく素早いから。走りながら喋るなんて、せわしないだろう?〉

「……あんたは……『オムニス』?」

〈『全知オムニス』ね……そのあだ名、あんまり好きじゃないんだ。フレディでいいよ〉

その言葉は親しげな調子だったが、不思議なことに親しみは感じなかった。

変な男だ。見えないその顔は笑っている気がするのに、心は笑っていないのが何となくわかる。

「……日本語、上手いんだね」

右手を見ながらぼそりと言った未春に、相手はきょとんとするような間を置いた。

〈僕、上手いかい?〉

「うん。声だけ聞いたら日本人かと思う」

〈わあ、ありがとう。嬉しいな〉

贈り物でも貰ったような声のする方へ、未春は視線を戻した。すぐ傍に心音や息遣いは聴こえず、カメラの類やスピーカーは梁の上にでも隠れているのか、よくわからなかった。

「俺と何を話したいの?」

〈君はハルと親しくしてるから。彼は“僕ら”の誰にも心を開かなかったから、興味深いんだ〉

「……親しいかは……知らない。ハルちゃんはそういうの、嫌がるから」

〈ははははははは〉

いきなり、乾いた笑いがした。ひと昔前の機械が喋ったような、抑揚を欠いた声。不安定で気味が悪い声でひとしきり笑うと、フレディは言った。

〈ハルちゃん。ハルが。あのハルが! なんて可笑しい。ははは。ははは。ははは〉

「……俺、暇じゃないんだけど」

顔をしかめて未春は言った。凄まじい再生能力を有するが為に、既に刺さった箇所は塞がり始めているが、釘が抜けなければ埒が明かない。

〈ははは。僕だって暇じゃない。ん? 暇は暇かな? 日本では暇という言葉の概念はどれほどのことを指すのか、今一つ納得がいかないけれど――僕は今、他に気になることがあるんだよ〉

ちっとも愉快ではなさそうに聴こえるが、その顔はにやついている気がした。

〈ねえ、未春、ハルと君はどういう関係なんだい?〉

「なんであんたがそんなこと聞くの?」

〈もちろん、知りたいからさ〉

「……」

――ハルちゃんは、家族。

この気持ちは揺らがないが、何故かこの男には言いたくなかった。ニムにはあれほど素直に言えた一言を、言いたくない。

只の同僚。只の同居人。只の同じ穴の狢。色々思い浮かべてから、首を振った。

「……何でもないよ」

〈そうなの? 君は、何でもないって顔はしていないけれど〉

「あんたはどうなの」

〈ハルと僕は、運命共同体さ〉

「……?」

〈気にしないで。他の人にはわからないことだから。そう……君向けに言うのなら、ハルと僕は家族に等しい〉

心臓をつねられたような気がして、未春は眉を寄せた。

「家族……?」

しゃくに障ったかい?〉

今度は間違いなく嬉しそうに言うと、フレディは例の気味悪い単調さで笑った。

〈仕方ないことなんだよ。“僕ら”は“君ら”とは違うんだ〉

「“僕ら”って、マグノリア・ハウスの人間ってこと?」

〈違うね。“僕ら”は主に僕とハル。“僕ら”は偉大なる血の系譜に生まれ、偉才に恵まれた血筋同士。親子は無理があるけれど、兄弟にも等しき仲だ〉

未春は目を瞬いた。イカレた男のイカレた発言は、何だか胸を掻き毟る。

「ハルちゃんは……そう思っていないと思うけど」

ぼそりと口を突いた一言に、フレディは含み笑いを震わせた。

〈君はなんだか卑しいメスのような目をしてる……偉大な血を欲し、産めるが故に家族に成ろうとする女みたい〉

「……あんたが何を言ってるのかわからない」

とてつもなく下らないのはわかる。

自らも女から生まれただろうに、女を軽んじる言葉を吐く男に、未春は無性に苛々してきた。同じ殺し屋でも、叔父のとおるはもとより、他の関係者も女性を立てる分、こいつより遥かにマシな人間だと思った。

〈僕は、君のことも知っているよ、未春〉

「俺のこと……?」

〈そうとも。君はマクダフの方だったね。女の腹をいて生まれた〉

マクダフ……? 覚えのない言葉にいぶかしむ。「腹を裂いて生まれた」とは、帝王切開のことだろうか。

〈君のご両親のことも知ってる〉

「……会ったことあんの?」

〈まさか。記録を見ただけさ〉

「それ、知ってることになるの?」

朴訥な問い掛けにフレディはまた笑った。

〈ふふふ……君はなかなか面白い。『会っていない人間は知ったことにはならない』……確かにそれは正しい。しかし、故人の記録が正確であるならば知ることは可能だよ。むしろ記録無くしては、師や偉人の意志を継ぐことも、その技術や思想を知ることはできない。直接会ったからといって、理解に及ばぬことも多々あるだろうさ。無論、記録には虚偽や誇張、差し替えなんて恐ろしいことも起きるけれど〉

弁舌な男の講釈を、未春は黙って聞いた。

こいつは、本当は何を聞きたいのだろう。ハルトのことは……自分の方が知っていると言わんばかりの態度だ。単に、その事実をひけらかしたいだけか……?

「ハルちゃんが、あんたをけた理由が少しわかったよ」

それが逆鱗に触れるだろうと知りつつ、未春は言った。

「あんたは何だか、すごく気持ち悪い」

〈はははははははははは〉

また、フレディは淡白に笑った。気味の悪い機械的なそれは、脳を直接揺らすようだ。男は言った。

〈まるで、害獣に鼻をつままれた気分だ〉

温和な調子で出た言葉だったが、未春にはわかった。したたるような悪意だ。行き場もなくどろどろと溢れ出て、強い毒を与えていくような――現に、頭が少しぼうっとする。貧血なのか? 動かなければ、血はそれほど溢れないのだが……

〈自覚した方がいいよ、未春。君はただ、生かされているだけだって〉

「……どういうこと?」

〈君は君の叔父が化け物だから生きているに過ぎない。グレイト・スミスは、災厄ディザスターを恐れている。君はいつか、その意志にほうむられるだろう〉

「意味がわからない……」

気怠い声だったが、真正面から否定した未春に、含み笑いのような音がした。

「あんたは……俺を殺したいみたいだけど、今はしないの?」

〈好機かどうかを言えば、今は好機じゃあない。君を殺す為には僕が行く他ないだろうけれど、今は君に構うと、後ろから撃たれてしまう――〉

誰に?と未春は訊ねなかった。

そうする前に、マイク音が奇怪な音波にねじれ、ざざ、ざ、とノイズを騒ぎ立ててからぷつりと途切れた。続け様、入口の扉が蹴破られたかのように勢いよく開いた。

「未春!」

やや明るい廊下から、転げるように飛び込んできたのはニムだ。両手には不釣り合いな大きさのバールを握り締めている。その重みに引っ張られるように、よろめきながら彼は駆け寄ってきた。

「先生……! どうして――」

意外な人物の登場に驚いたが、その背後に立つ喪服の人物を認めて納得した。

彼女は刃物のような目でこちらを撫でたが、拳銃を手に廊下へと視線を戻した。その間にも、ニムは壁に縫い留められた未春の手を見上げるや否や、自らが怪我をしたように青ざめた。

「ああ……なんて酷い……! すぐに助け――」

「先に目標を探しなさい」

部屋に入って来た女の冷たい一言を受け、ニムは弾かれたように上を見た。目が慣れないのか、眉間に皺を寄せていたが、壁の上部を指差した。

「あった!」

彼女はニムが指す方へと目をすがめ、即座に拳銃を撃ち込んだ。何かが異音を立てて火花を吹く。どうやら、室内を見ていたカメラらしい。

〈ブ ブレンド社は――乱暴 だなあ、、……〉

微細なノイズ混じりの音声がした。どっちがだよ、とぶつくさ言ったのは渋面のニムだ。彼は未春の手を貫いている凶器に向かい合い、鑑定士のように眺め回す。

〈そ こに 居――は、イギ――ス支部 の『喪服の魔女』 か――いや、”人工の”魔女――〉

途切れ途切れのフレディの声掛けに、麗人は何も返事をしなかった。それどころか、目敏く見つけたスピーカーに向けて続けざまに弾丸をぶち込んで黙らせる。突然の爆音にニムと未春はそれぞれの驚きに身を縮めたが、麗人はそれに対してもノーリアクションだった。

「うぅ~……耳がキンキンする……ねえ、レディ、この釘――どうしよう? びくともしない」

バールを手に言うニムに対し、麗人は滑らかにマガジンを交換してから様子を見に来た。彼女は突き刺さった四本の釘と、壁から床まで長い線を描く血の跡を見つめ、時計を確認した。

「出血が多い。スプリング適合者の回復速度は常人の十倍を超えるけれど――無理に抜くと許容範囲を超えるかもしれない」

「ど、どういうこと? まさか、致死量に達するってこと……?」

嫌な事を言うニムに、麗人は愚か者を見るような冷たい眼差しを注いだ。

「あんたが、彼を背負っていくことになるって話よ」

ウッと文字通りの重い指名に呻く白アスパラガスに、未春は妙にぼんやりした瞳で言った。

「俺は……大丈夫です……」

「瘦せ我慢はやめなさい。いくらスプリング適合者でも、傷を修復したからといって血液がすぐに増えるわけではない。それに、オムニスの超音波の影響を受けた後では、フル稼働はできない筈」

「超音波……?」

「ま、任せてよ。未春を助ける為なら頑張るから」

薄い胸をどんと叩いたニムを一瞥し、麗人はおもむろに彼が巻いていたマフラーを奪った。きょとんとする彼にそれを押し付け、代わりにバールを掴んだ。

「ニム、私が抜いたら、そこにマフラーを力の限り押し付けなさい。30秒後に離し、同様に他も抜く。いいわね?」

「う、うん……わかった」

緊張気味のニムが気合を入れた時だ。

サッとペトラが入口を振り返り、バールを置いて拳銃をスッと構えた。その頃になって、ややにぶくなっている未春にも、その音は聴こえた。足音だ。

気怠そうに、しかし確実にこちらに向かっている。

両者の様子で気付いたらしいニムが振り返り、あっと声を上げた。

フレディかと思ったが、違った。

そいつは麗人が向けた銃口に両手を挙げ、面倒臭そうに言った。

「どーも……こんばんは、レディ。何か、手伝うこと有ります?」

ダウンを纏った、ばつの悪そうな日系人を見て、未春は呟いた。

本当は、もっと強い口調で言うつもりだった名を。

「ハルちゃん……」

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