9.Whereabouts.

 「イルゼが、居なくなった?」

胡乱げに呟いたハルトに対し、女は唇を振るわせた。

「わ、私、もう一度見てくる……!」

長い金髪を揺らして身を翻そうとした女の手をハルトが間髪入れずに掴んだ。

「な……何? 気安く触らないで!」

害虫でも手に付いたような声を上げる女に、表情を変えずに低い声が答えた。

「落ち着け。普通の事態じゃないのは、お前が一番わかってるだろ?」

ぎくりと表情を強張らせる女に、先程の子供じみた応酬が嘘のように、ハルトは冷静に言った。

「まず、報告を入れて来い。エマ、ラナ、お客さんは返した方がいいぞ」

「居候が指図しないで……!」

いきり立つロッテだが、双子は驚いた様子のお客さん――カリーナの傍に行って、彼女の腕をぽんぽんと叩いた。

「ありがとう、カリーナ」

「行きましょ、カリーナ」

無表情だが可愛い声の双子に、女は曖昧に頷きつつも、ハルトを見た。

「でも、答えを聞いてないわ……」

『ハル、さっさと答えて』

「あんたもお前らも真面目だなあ……」

一人、状況のわからぬロッテがぽかんとする中、ハルトはうんざりと溜息を吐いて髪を乱暴に掻いて首を振った。

「今は会えない」

カリーナが息を呑んだが、すぐにハルトは片手で遮った。

「――だが、会いたくないわけじゃない」

それは何やら、苦し紛れの言い訳にも聞こえたが、カリーナの目を見て言った。

「いいか、兄弟は間違いだ。あいつと俺は、同じ穴のむじなという意味の家族だ」

家族というワードに、エマとラナが互いを見た。ハルトは気にした風も無く続けた。

「あんたは此処で見聞きしたことは話さない方がいい。あいつに喋るんなら、頼まれたことだけ、伝えてくれ。疑うようなら……『みりんの魔法は使っている』と言えば信じてもらえる筈だ」

「ミリンの魔法?」

「本当に相手が未春なら、みりんだけでも通じる。これでいいな? 行ってくれ」

不思議そうにしつつも、聞き分けの良いドーナッツ店スタッフは了承した。双子は彼女と廊下に出ながら言った。

「ロッテ、すぐに戻りますね」

「イルゼなら、大丈夫ですよ」

双子の言葉にロッテは気後れした顔で頷いた。折と見てか、ハルトが手を離すと、幾らか冷静になったらしい女は室内――小さなリビングを見渡した。

「此処でも何か有ったの……? さっきの人は誰?」

「申し訳ないが、俺にもわからん。ドーナッツ屋だとよ」

「ドーナッツ屋?」

テーブルの上に残された箱を見て、ロッテが呟く。室内に甘い香りを振りまく正体に気付いたものの、だから何だという顔をした。

「レベッカに言わなくちゃ……」

「俺も行く」

「何でよ?」

つっけんどんな問い掛けに、男は無実を訴えるように軽く両手を挙げた。

「呼ばれる気がするからだよ。レベッカが出ていけと言うなら出ていくさ」

「……好きにすれば」

気まずそうに廊下を歩きながら、ふと思いついた様にロッテは言った。

「……そうだ、貴方の本……イルゼが持ってるの」

「ニム・ハーバーの本か。有ったんだな」

「ええ……近隣の作家が、入荷する様に推薦したんですって」

「へえ、思ったより人気が有るんだな。楽しみだ」

「楽しみって……」

不謹慎に聞こえたが、イルゼがきちんと戻るのを確信しているようにも聞こえて、ロッテは口をつぐんだ。

「ロッテ、レベッカの部屋の盗聴器の話は聞いてるか」

「な、なんですって?」

唐突な質問に思わず立ち止まる女を、居候は振り返った。

「聞いてないんだな? じゃあ、レベッカの部屋では発言に気を付けろ。多分、相手の出方を見る為に置いたままの筈だ」

言うなり先に歩いていくのを、女は慌てて追い掛けた。

「な……なんで貴方がそんなこと知ってるのよ?」

「俺があの部屋を掃除して見つけたからだよ。レベッカも知ってる」

「待ってよ、信じられない……このフロアは一部の清掃員クリーナーと私達しか入らないのよ? 誰がそんなこと……」

青ざめる女を関心無さげな顔で眺め、居候は首を振った。

「俺は知らない。お前らの身内の問題だろ」

「……言う割に無責任ね。私が犯人だったらどうするのよ」

女の挑戦的な目に、居候はせせら笑った。

「だとしたら、さっきの驚き方は大した演技だ。アマデウスの演技集団ブロードウェイに推薦してやるよ」

すかさず返って来る軽口に女はムッとしたが、言い返す前に主人の部屋に着いてしまった。お先にどうぞと言う様に片手を伸べる男を睨んでからノックすると、すぐに応じる声がした。

「おつかれさま、ロッテ。あら……イルゼは一緒じゃないの?」

そっくりな二人組の一人を瞬時に見分ける上司に、女はばつの悪そうな顔で頷いた。いつも一緒である者の不在と、その片割れの表情を見て、すぐに上司は気付いたらしい。頭を巡らせ、後ろに控えていた青年を見ると、不安げな女の顔に頷いた。

「そんな顔をしないで、ロッテ。ハルも居るのは丁度いいわ。入りなさい」

二人が入ると、レベッカは双方を見て言った。

「”好きに話して大丈夫”よ。何が有ったの?」

きゅ、と表情を引き締めたロッテが、ちらと居候を気にしつつも口を開いた。

「……イルゼが行方不明になりました」

自らの落ち度を詫びるように女は頭を垂れた。

「場所は、ヒルデガルトの敷地の手前です。外門の辺りに差し掛かった時……小鳥の声がしたんです。イルゼは小鳥が好きですから……声のする方を気にして、見に行きました」

ロッテも後からついて行ったが、二人も大人が居ては軽快するだろうと距離を取った。ヒルデガルトの片側側面はシュプレー川に面しており、断崖絶壁ではないが、大人が三人並んでやっとの通路があるだけだ。ヒルデガルトの側は柵で、木々が林立している。反対には手すり。それを挟んだ眼下にはシュプレー川の隣を歩くような遊歩道があるが、ビル一階分程度はある為、飛び降りるには少々無茶だ。イルゼが、ヒルデガルトの柵を、角を曲がるように通路へ入るところは、ロッテも見たという。

「木々に隠れたイルゼが見えなくなったのは、ほんの二、三分ほどです。私が通路を覗いたときには、もう居ませんでした。小鳥は鳴いていましたが、イルゼが何か言う声や、他の怪しい音も聞いていません。呼び掛けて辺りを探しましたが……見当たらず……マンホールを持ち上げた様子も無いですし……」

「あそこは、緩くカーブするけれど、6メートルは見通せるわね。シュプレー側の柵は乗り越えられる高さだけれど、さすがにぶら下がっていれば見えるし、下に隠れられる場所は無い」

身を乗り出して覗いてみたのだろう、ロッテは神妙な顔で頷いた。レベッカは顎を撫で、黙していたハルトを見た。

「ハル、どう思う?」

「さあ、現場を見てみないと何とも」

「そう? 貴方は状況さえ把握できれば分析できる筈。ヒルデガルト側は乗り越えるには登らなくてはならない高さの柵。木々はどれも巨木。枝のみの木もあるけれど、あの角に並んでいるのは針葉樹で、葉が残っているわ」

ハルトは溜息ひとつこぼしたが、諦めた様子で答えた。

「ヒルデガルト側の柵の材質は?」

「鉄」

「その柵を必要最低限、通れる分だけ切っておいたと思います」

「は……?」

無茶なことを言い始めた男を批判的に見たのはロッテだ。ハルトは双肩を軽く上下させて答えた。

「そこに誘い出せるならの話だが。あらかじめ切っておいて、実行まではそれとわからない様に、すぐに切れるテープか何かで留めて立てかけておく。小鳥の鳴き声は録音か何か流してイルゼの注意を上に向け、直前に開けた柵からヒルデガルト内に引き込み、柵は同じように戻す――音らしい音を聴いていないなら、薬を使ったろうし、柵を戻す作業はロッテが移動してからやったか、そのままか、だろうな。後は停めておいた車に潜んで、折を見て連れ出す」

信じ難いものを見る目をしたロッテに対し、レベッカは内線を取って誰かに指示を出した。

「悪いけど、急いでAブロックの柵を見てくれる? 角を曲がった辺り。ええ、そう。どこかに切られた跡が無いか確認を。それと、木にスピーカーが有るか見て」

短く告げて切ると、ハルトに振り返った。

「他に案は有る?」

「目下のところは有りませんね。イルゼの身体能力を鑑みると、マンホールが開いていて落ちたとしても声は上げる筈ですし、いくら鳥に気を取られていても、そこまで迂闊とは思えない。滑車の原理を利用して木に引き上げる方法は、飛べない人間を隠すには最適ですが……これは嫌でも音がしますし、少しでもイルゼが暴れたら数分以内とはいかない。――ま、最も簡単な方法なら、もう一つか二つ有りますが、それは此処では可能性が低い」

「ゼロではないのなら、言ってみなさい」

「イルゼにとって親しい人間が、ただ連れて行っただけのパターンと、彼女が独断で姿を消したパターンです。これが適用される場合、柵にダミーとして細工が有るとも考えられますが」

これにはロッテが口をつぐみ、検証するようにレベッカも目を閉じた。

「……ハルは、その可能性は低いと見るのね?」

「ええ。いずれの場合でも、イルゼがロッテと行動を共有しないのはおかしい」

「……当然だわ」

負け惜しみの様にロッテが呟いた時、電話が鳴った。

静かに取ったレベッカが応じた上ですぐに切った。

「柵が外されていた。小型スピーカーは二つ発見。正確な方法はともかく、ハルの予想通りね」

「まさか……あんたがやったんじゃないでしょうね?」

用意した答えを言っただけではと勘繰るロッテに、ハルトは呆れ顔を返した。

「冗談だろ? 俺は此処にずっと”逗留”させられてるってのに」

「敷地内を走りに行ったりしたわ。内側からだって、その工作は可能よ。食材調達にかこつけて、道具も借りたんじゃないの? 共犯者が居るのかも――」

疑いに対し、居候は不遜な顔で鼻を鳴らした。

「疑うのは好きにしていいが、納得できる理由が無いまま噛み付くのはやめてくれ。お前の想像だと、そういう道具が手に入り易く、病院に出入りして怪しまれない人間は俺以外にも大勢居るぞ」

「何よ、部外者の癖に――!」

「やめなさい、二人とも」

一段と冷たい声にロッテが押し黙り、ハルトは面倒臭そうな顔で脇を向いた。

女主人は溜息を吐き、殊更に声を低くして言った。

「ロッテ、捜索は内密に行うわ。当面、この件で動かすのは貴女の手元のスタッフのみにしなさい。足りなければ私から回すから、他は動かさないで」

「……Alles klarアレスクラー(了解です)」

「それと、午前にあなた達に頼んでいた件の報告を」

ロッテがそっと耳打ちし、レベッカは頷いた。

「わかった、ありがとう。こちらの件は私が指示を出すわ」

「かしこまりました。仰せのままに……」

頭を垂れてから、女はふと思い出した様に顔を上げた。

「あの……エマとラナはこの件を知っているのですが……口止めした方が宜しいですか?」

「そう。エマとラナなら、協力を仰ぐのは構わないわ。まずは捜索に専念すること。基本の定時連絡を忘れずに、見つけたらまずは報告なさい。特に奪還に移る前には必ず一報を。私に報せるのが難しければ、エマかラナに」

「ラファエラ姉さまには……宜しいんですか?」

「彼女は他の件で忙しいわ。何かと任せてしまっているから、遠慮してあげて」

「はい――もう一つ、部外者の件ですが……」

「部外者?」

ドーナッツショップの店員が来ていた件を聞くと、レベッカはハルトを見て、軽く両手を上げた様子に頷いた。

「では、ハルは居残りね。少し話しましょう……ロッテは気を付けて行きなさい」

表情を引き締めた女が頷いて出ていくと、やれやれといった具合に溜息を吐いたハルトにレベッカは苦笑した。

「ドーナッツを頼んだら、ドーナッツ屋ごと届いたの?」

「エマとラナに聞いて下さいよ。俺もわけがわからんので」

それでも起きた事の説明を促され、嫌そうにハルトは報告した。話の途中から、レベッカは呆れ顔になり、ハルトが「未春と会いたいか」とドーナッツ屋に問い詰められた下りでは、苦笑混じりに軽く首を振った。

「黙っていて悪かったけれど、彼は来ているわ。例のニム・ハーバーと一緒に」

未春がイギリス支部を通してベルリンに来た件を聞くと、ハルトは二、三頷いて溜息を吐いた。

「はあ……そーですか……」

「それだけ?」

「他に何が言えます? 俺は今、貴女の指示系統に居て、この状況は日米英の代表も知っている」

「話の上ではね。あのバカ共は簡単に手のひらを返す事もある。今回の件――……エセ紳士は反対していたと聞いているわ」

「スターゲイジーが……まあ、”らしい”といえばらしいですけど」

――多分、未春がベルリン入りする様に仕向けたのは彼だ。

未春は自分の意志で行動したつもりだろうが、頼られると見込んでいたスターゲイジーの行動は『恩を売る』、『好印象を得る』などの最もわかりやすい下心に基づく。

十に至っては黙殺という形でそれに協力しているが、どちらも彼らなりのアマデウスへの”意趣返し”だ。一方のアマデウスは未春が付いて来ることを自然な流れ……且つ、ドイツ支部との取引材料にしたつもりだった様だが、ニム・ハーバーという不確定要素が付いてきた為、思惑を少し外れた状態だろう。

「ニム・ハーバーは、作家としてベルリンに?」

「よくわかるわね」

「先日の彼のエージェントとしての才如何では、そうかなと」

「ええ……彼のドイツ行きはスターゲイジーも、ペトラさえ予想し得なかった事態だった様ね。取材旅行という名目を上手く利用した辺り、彼らは実に抜け目ない」

全く以て同意する。ブレンド社は立ち回りの上手さでは一流企業だ。社の結束力の高さも由来するが、殆どのエージェントが臨機応変に動けるのも強い。

「ロバートらしいわ」

ぽつりと出た言葉にハルトが虚を突かれたような顔をする。気怠そうに白髪混じりのプラチナブロンドを撫でつける女を、いぶかしそうな視線が見た。

「何が、スターゲイジーらしいと?」

「貴方を此処に呼ぶ方法に、反対した件よ。私も言いそうなことだとは思っていた。手術が――或いは”狙い”が逸れた場合、エセ紳士がアマデウスに何て言うか、貴方も想像が付くんじゃない?」

「何か言うより早く、カボチャを割ると噂のパンチが飛ぶでしょうね」

そう言いながらハルトは無意識にか、肩を擦った。

「若い頃に度々争ったとは聞いていますが、レベッカの前でも殴り合いを?」

「したわよ。あれでアマデウスもタフだから、一方的にとは行かないけれど」

世界的悪党を只の悪ガキのように言い、レベッカは小さく笑ってからしなやかに腕を組んで椅子にもたれた。

「さて……参ったわね。どうやら私は、作家を甘く見ていた様だわ」

「イルゼの心配よりそっちの話ですか」

「彼女たちの事は信頼しているもの。何をするかわからない相手の方が気になる」

「ドーナッツ屋を派遣したのは、ニム・ハーバーの入れ知恵だと思うんですか?」

「それ以外ある? ミハルがこういう手段を取るタイプなら、考えを改めるけれど」

「無いですね。あいつは直球ストレートしか投げない」

ちっとも考えずに首を振り、ハルトは首を捻った。

「“こういう手段”は、確かにスターゲイジーの部下らしいですが……ペトラ辺りと連絡を取り合っているんじゃないですか?」

「それは有るでしょうね……でも、エマとラナがドーナッツを買いに行く理由は貴方で、ドーナッツ屋の言い分はペトラにしては少々ドラマチック。彼女が情報を引き出す場合、もっとスマートな方法を取るか、利益の高い交換条件を持ち掛ける。それに、“現状”ではペトラがそうする意味は無い」

「はあ……異論は有りませんが、ニム・ハーバーがペトラにとっての釣り餌なら、この行動は彼女の手のひらの上ってことになりますけど?」

「そうね……作家の件は泳がせる他ない。今のところは、エマとラナ、そして貴方がドーナッツをご馳走になっただけですもの。あからさまに利益を得ようと動くならくぎを刺せばいいわ」

確かに、“現状”のペトラとドイツ支部の関係を思えば、仮にドーナッツ屋が買収されていても尚、問われた内容があまりにも些末な情報だ。

要人同士ならともかく、たかが殺し屋同士の「会いたいかどうか」などという曖昧な感情を聞き取る為に、取引なぞしない。

――もしかすると、その裏……何か別の事を利益として見込んでいる可能性が高いが、それが提供する側にとって重大な情報とは限らない。ブレンド社の知識欲は、社員の異常癖並にどうでもいい事を調査していることもある。

「それで、ハル――イルゼの件、どう思う?」

「さっき言いましたが?」

「はぐらかしても駄目よ。犯人扱いされたくなければ、心当たりを吐きなさい」

先程とは打って変わった強い口調は、伊達に世界的殺し屋組織のTOP13の一人ではない。

「それはイルゼたちへの信頼で何とかならんので?」

「何とかならない場合の為に動くのが私なの」

否と許さぬ調子で微笑んだ女に、ハルトは憂鬱そうな溜息を吐いた。昔の――殺し屋として自立する前の話をするのが嫌なのだろう、特に失敗談や、未熟な頃の話は。

「……この手口、一度受けたことがあります」

ハルトの述懐はどことなく悔しそうだった。

「だが、それは”俺”が予想するからであって、他の誰にでも可能です。墓穴を掘る気はありませんが、ロッテが言う通り、俺にも不可能ではないし、それこそ未春はわけもない。常人には安易に持ち上がらないマンホールを音もなく開閉したり、木の上に女一人引っ張り上げるぐらいは難なくやれる……まあ、あいつがイルゼをさらう動機は思い付きませんが」

「そうね。彼が変装も無しにウチのスタッフをかどわかしたら、困るのはトオルやエセ紳士ね。ミハルがこちらを脅迫する気なら、ドーナッツ屋を派遣する意味は無い――今、わかる上で貴方が上げる犯人は?」

「マグノリア・ハウスの関係者」

予想していたのだろう、レベッカは驚かずに言った。

「オムニス――フレディ・ダンヒルも含まれる?」

「ゼロではありません。……ですが、俺はこの犯行に奴の気配は感じないし、メリットも無い。前々からドイツ支部を脅迫していたのならわかりますが、俺が一人で敷地内を走ってもノーリアクションなんですから、無いでしょう?」

「無いわね。アマデウスやイギリス支部は?」

「もちろん、彼らは女一人の誘拐なんか朝飯前ですが、そうする理由が無い。交渉をするにしても誘拐は上手い手とは言えないし、BGM同士の戦闘がNGなのは一応、この組織の数少ない決まりです。どうしても攫うなら、返り討ちに遭いかねないイルゼよりも、リスクが低い相手を選ぶ。どちらの支部にもITに強い人材が要るので、この病院のセキュリティーや、電気系統をしちに取る方が効果的だと思いますね。彼らは使えるだけの資産も手札も多い」

「貴方は”理由”に関して弁舌ね、ハル」

すいませんと頭を搔く男に、レベッカは片手を振った。

「いいわ。それで……多くを想定した上で、貴方が描く犯人像には、誰がヒットしたのかしら?」

ハルトは細く長い溜息をたなびかせてから言った。

「七月生まれのジュライ――マグノリア・ハウスで、銃の教官として招かれた元軍人です」




 双子と戻って来たカリーナは、どこか浮かぬ表情で言った。

「それほど、イカレてはいなかったと思うわ。元気そうだったし」

女の率直な感想に、二人の男は変なものを飲んだ顔をした。未春に至っては、ハルトがおつむが可哀相な男扱いされて、大袈裟な”ツッコミ”をしている様が想像できた。

――海外に居ると……オーマイガーとか言うのかな? と、未春が要らん想像に軽く吹きそうになる中、先に立ち直ったニムがコホンと咳払いした。

「それは――ウン、何よりだ。返事はどうだった?」

「えーと……」

何故か迷うような声に、嫌な予感がした未春とニムだが、彼女は首を捻りつつも答えた。

「結論から言うと、彼は『今は会えないけど、会いたくないわけじゃない』って」

おお、とニムが目を輝かせ、未春も少し表情を明るくした。それに対し、カリーナは申し訳なさそうに眉を寄せる。

「でも、何か立て込んでいそうだったのよね……」

女が黙っていた双子に目をやると、二人は心得たと言うように、スッと前に出た。

『ハルのセリフを再現します』

横に並んでぴたり声を合わせると、どうやらモノマネらしい――見事なシンクロ動作で二人とも眉間にぐっと皺を寄せ、うんざり顔で溜息を吐き、髪を乱暴に搔いて首を振った。

その仕草を見た未春が、「似てる……」と、呟く。

「今は会えない――だが、」

白い花の髪留めをしたエマが言う。無論、声は違うが、精一杯似せたつもりらしい、ぶっきらぼうな口調は似ていた。何かを片手で遮る動きをして、青い髪留めをしたラナが続けた。

「会いたくないわけじゃない」

言い辛いことを言わされた調子だったが、流れるようなセリフに、未春は双眸のアンバーを見開いた。

「いいか、兄弟は間違いだ、あいつと俺は、」

「同じ穴のむじなという意味の家族だ」

「あんたは此処で見聞きしたことは話さない方がいい」

「あいつに喋るんなら、頼まれたことだけ、伝えてくれ」

「疑うようなら……『みりんの魔法は使っている』と言えば信じてもらえる筈だ」

「本当に相手が未春なら、みりんだけでも通じる。これでいいな? 行ってくれ」

”みりん”という欧米人には謎のワードに、未春がどこか面映ゆそうな顔をし、きゅっと唇を引き締めてから不思議そうにしていたニムに頷いた。

「すごい……」と、今度はカリーナが呟く。

レコーダー再生のように交代しながらつらつら述べたセリフは、正確だったようだ。双子が初対面のような舞台俳優じみたお辞儀をしたので、ニムが愉快げに拍手を送り、未春とカリーナも呆けた顔で手を叩いた。

「以上が、ハルの返事ですので」

「役目は終えたので失礼します」

『それでは』と双子はさっさと背を向けたが、ふと、立ち止まってくるりと振り向いた。

「ドーナッツはアーモンドを選びました」

「貴方が選んだのを、食べていましたよ」

変な捨て台詞を残して立ち去るのを、三人は妖精でも見かけた様にぼんやり眺め、しばし後に夢から醒めたような顔で見交わした。

「さて、と……」

今度はニムがぼやき、とりあえずお礼をと財布を取り出すと、カリーナは慌てた様子で首を振った。

「いいわよ。よくわからないけど、結果的には残念みたいだし……」

「結果は君が気にすることじゃないさ。無理を頼んだんだ、受け取ってよ」

未春も頷くが、女はポニーテールが揺れるほど首を振った。

「いいってば。それよりさっきも言ったけど……彼女たち――というか、彼女たちの同僚かしら? 何か問題が起きてるみたいだったの。例の彼も関係ある様だったけど……」

根が親切な娘なのだろう、不安げに来た方を振り返る彼女に、ニムは未春と顔を見合わせ、それならと作家は妥協策を打ち出した。

「此処で何が有ったか、食事でもしながら詳しく聞かせてくれるかい? 報酬がまずいなら、君のお望みの店でご馳走するのでどうだろう?」

「それなら喜んで行くわ」

見知らぬ外国人二人を相手にフットワークの軽い女だ。気遣いの行き届いたニムが、恋人が居たら遠慮するかご一緒に、と言うと、彼女はにこりと笑った。

「募集しないわけじゃあないけれど、今はあんまり興味ないのよね。仕事も楽しいし、友達と大勢で遊ぶのも楽しいわ」

「へえ……ドイツ男性は奥手なのかい? ロンドンじゃあ、君はあちこちで声を掛けられるよ」

「あら、次の旅行はイギリスにしようかしら」

先程までの浮かぬ顔が嘘のように楽しそうになるカリーナを見て、未春はニムの上手うわてっぷりを実感した。どうもイギリス人男性は半分ぐらいが、とにかく気軽に話しかけるタイプらしい。何かと委縮しがちでシャイな日本人に比べると、とてつもなくフレンドリーで、一言目から友達みたいな具合というが、不思議と下心は感じないし、馴れ馴れしい感じもしない。

もう楽しそうに話す二人をよそに、未春は病院を振り返った。

異様な空気や音は感じない。明るい光の下、清潔で整然とした院内は多くの患者が出入りし、粛々と業務をこなすスタッフたちが居るが、怪しい人物は皆無だ。

この見えない何処かに、ハルトが居る。

双子のナース相手に、ドーナッツなんぞ所望して。

――あの野郎。アーモンドを選んだのかよ。

香ばしい香りが鼻に抜けた気がして、未春は小さく鼻を鳴らした。

「未春、行こうか」

袖を引いたニムに頷いて、未春は二人と病院を出た。

どこかの補修工事か、作業着のスタッフが数名、外柵の辺りで作業するのを尻目に、夕映えに染まり始めた町へと出た。




 エマとラナは未春らと別れた後、バックヤードに戻るなり、リスが移動するようなすばしっこい動きで、部下に指示を出していたロッテを捕まえた。

詳しい事情を聞くと、双子は同方向に首を捻った。

「あなた達、あの居候の意見……どう思う?」

『どういう意味です?』

「あいつは……本当に怪しくないの? もうバックヤードは平気な顔でうろついてるじゃない。内から外の連中を手引きできるわ」

双子は顔を見合わせ、ゆっくりと反対方向に首を捻った。

「ハルは怪しいですが、外部との連絡手段は持っていないのです」

「ハルはレベッカに許されて此処に居るリハビリ患者の一人です」

痛いところを突いてくる双子に、ロッテは困った様に眉をひそめ、肩をすくめた。

「あなた達がそう言うなら、いいけど……」

「ロッテ、元気を出して」

「イルゼは大丈夫ですよ」

先ほどと同じような事を言って励ます双子に頷き、ロッテは忙しそうに廊下を歩いて行った。その背を見送ると、双子はスタスタとレベッカの部屋に向かった。途中、キッチンに寄り、沸いていたポットのお湯でお茶を淹れ、ドーナッツの箱から一つ――ハルトも選んだアーモンドのそれを選んで盆に乗せて持って行った。

いつものように聞き耳を立てると、まだハルトと喋っている声が聴こえた。顔を見合わせてからノックをすると、開けたのはハルトだった。

彼はお茶とドーナッツを運んできたことにちょっと驚いたようだったが、ドアを背に避けてくれた。

「エマ、ラナ、ごくろうさま」

声を掛けたレベッカも、三時のおやつのセットに少し驚いた風だった。

「それが噂のドーナッツ?」

「はい、そうです」

「美味しいですよ」

王にでも献上する様に盆を置いて下がった双子に、女主人は礼を述べて微笑んだ。

「来てくれて良かったわ。二人に頼みがあるの」

『はい、レベッカ。何なりと』

「今日から通常業務を控え、あなた達二人でハルの監視をしなさい」

双子が意外そうに顔を上げ、レベッカの顔を見、気怠そうなハルトを振り返った。

『監視、ですか?』

「ええ。残念ながらヒルデガルトの内部で事件が起きた以上、部外者にはそれなりの処置をしなくてはね。基本は三人で行動し、ロッテが手伝いを頼んだ際は、一人はハルに付くように」

そう言いながら、レベッカは一枚の紙を二人に差し伸べた。双子は無言で受け取ると、ちらりと目を通してから、すぐにポケットにしまった。

「ハル、そういうわけだから大人しくするのよ。走るのも遠慮してね」

「前から大人しいと思いますがね……了解です」

小生意気に答えた男と共に双子も頷き、三人は主人の部屋を辞した。

特に何も言わずに廊下をトコトコ歩いてしばらく。ハルトは言った。

「悪いな二人とも。どうも”そういうこと”らしい」

双子は無言で頷いた。

レベッカのメモには、彼女の直筆で書かれていた。


〈一回目の釣りを始める〉


〈自身の安全を第一に、居候と作戦を決行せよ〉


〈ドイツ支部スタッフの協力は一切NGとし、諜報にブレンド社・レディとの連絡を許可する〉


〈ただし、BGM並びにブレンド社との表面協力は禁止、”旅行中”の作家と主夫ならば、必要に応じて活用を〉


忠告とは、真逆とも言える指示だった。

が、エマとラナはロッテのように不平を唱えることは無かった。

わかりきった顔つきで居候を振り返った。

『ハル、付いて来て下さい』

ちょいちょいと手招かれ、ハルトは双子に従った。ヒルデガルト・クリニクムのバックヤードは思った以上に深い。生活に使われる部分を通り過ぎ、誰ともすれ違わずに幾つかの区画を扉で抜け、一つの扉の前で二人は立ち止まった。

ナンバーロック式の扉の前で、二人は一本ずつ指を出して一人が打ち込むようにナンバーを入れ、最後に指紋認証をすると、開いたのは扉ではない――天井に備えられた開口部だった。自動で降りて来た梯子を小動物のようにするする上がる。真っ暗な天井部へハルトが上がり切ったところでスイッチ一つで入口は閉鎖され、次にスイッチを押したときには辺りが明るくなった。

「……映画みてえな事するなあ……」

呆れたようにハルトが見渡す周囲は、木製の棚が取り囲んでいる。そこに、壁掛け、或いは立てかけられているのは選り取り見取りの黒やシルバーに光る銃器だ。中には普通のロッカーらしき縦長のボックスも設置されているが、恐らく服ではなくガンロッカーだろう。メンテナンス用なのか、スタンドライトを備えたデスクも置いてある。

『造ったのは昔のヒトです』

「……昔の人?」

「セキュリティーだけ更新していますが、基本は昔のままです」

「前に話した通り、ヒルデガルトは非人道的研究の温床でした」

非人道的研究――その一端は、身体機能向上薬・スプリングの研究。

研究の為に、これだけの武器が必要だった――或いは、これだけの武器を備えなければ不安な相手に対抗していたのか。その跡地に立つ、異常なシンクロ率と意思疎通が可能な双子。

「お前らも……此処、出身なんだよな?」

「そうです。話せば長くなるのです」

「今は先に、作戦を実行しましょう」

業務に忠実な双子に、ハルトも思惑有り気に二人を見たが、頷いた。

エマが壁に掛けられていたヒルデガルトの見取り図を指差した。ヒルデガルトは大学などの様に、敷地面積の中に幾つかの建物が林立している。今居るのは、一番大きな棟の地下1階のバックヤードだ。

「此処は一部です。私達はグループ毎に別の棟で武器を管理しています」

「主に、ラファエラ、ロッテとイルゼ、お前たちってとこか」

ラナが頷いた。

「そうです。信頼関係上、別のグループの武器庫は拝借も視察もしない」

「不可侵てわけだな。レベッカだけは全部にアクセス可能だろ?」

「はい。レベッカが武器を使うことも、此処に来るのも稀ですが」

「私達も知らない方法で、在庫や使用に関する流動は見ています」

「オーケーだ。最初にレベッカが支部内に違和感を感じたのは武器の動きだったな。俺が知る限り、ドイツ支部は銃器は滅多に使わない」

『そうです』

双子は同時に頷くと、それぞれの片手を持ち上げた。

「許可が出たのでハルに貸し出します」

「お好きなものを持って行って下さい」

居候は腕組みして周囲を見渡した。

「じゃあ、一丁だけ借りる。他を使うかは今後の出方次第だな」

もう決めていたか、山ほど掛けられた中から一丁――45と迷う……などとブツブツ言ってから、日本での珍事件でお懐かしい、ベレッタ92を取って各所を確かめ始める。

「ま……今回は威力より精度が役立ちそうだ。お前たちは、持ってるのか?」

「許可が出れば所持しますが、余り使いません」

引き出しから弾丸を取り出しながらエマが言う。

「私達が戦う際に、主に使うのはコレですから」

ハルトに弾丸を手渡してラナが言うと、二人は同時にスクラブスーツの左右のポケットからグローブを取り出した。甲を分厚い素材が覆い、指先が出るタイプのそれは一見、格闘スポーツ競技用のMMAグローブに似ているが、ハルトはもろに嫌そうな顔をした。

「それ……なんか”入ってる”な?」

嫌そうにしたからか、双子はニヤっと笑って左右に持ったそれをすぐに納め、涼しい顔で言った。

「靴にも入ってます」

「特注の合金製です」

「おっかね……現役ナースの装備じゃねえな」

合金などという言葉が意味不明なほど、履いている靴はフラットなスニーカータイプのナースシューズにしか見えない。しかも、そんな重さを感じさせない素早い動き……スプリング適合者には及ぶまいが、一人同然のシンクロが可能な二人を相手にするのは、未春でも手こずるかもしれない。とにかく、この二人には絶対に蹴られたくない――そう思いながらハルトは素早く弾丸をチェックし、マガジンを手に取りながら言った。

「お前ら、何から始めたい?」

双子は顔を見合わせた。

『釣り』の手順は決まっていない。

使用許可の下りたものをフル活用してやるべき事はただ一つ――ドイツ支部に入り込んだ獲物を”釣る”こと。

『ハルは?』

「おーい、先に居候おれの意見を聞くのかよ……一応、お前ら主体なんだぞ」

銃のスライド部分などを弄りながら怠そうに溜息を吐くと、口元を尖らせた。

「そうだなあ……まずは……」

『未春に連絡する?』

無表情に問いかける二人に、ハルトは首を振った。

「それは俺らで対処不能な場合に取っとけ」

何故かニタニタと見交わす双子に気味悪そうに言い返し、片手で顎を撫でた。

「先んじてやっておきたいのは現状整理だ。『レディ』はベルリンに居るのか?」

『約束を守っていれば、空港待機中です』

「そこは俺にとっちゃどうでもいい。どっかの誰かさんが余計な事をしたおかげで、ロッテとイルゼのガードが外れてる今がやり易い。お前らから連絡して――」

『ハルでもいいですよ』

「……断る。『レディ』とは極力喋りたくない」

子供じみた口調は本気で言っているのだろう、エマとラナは顔を見合わせ、しょうがないなあと言わんばかりに掛け始めた。

「レディ、釣り大会が始まったのです」

「ハルも居ます。状況整理を頼みます」

了解アレクスラー。――フライクーゲル〉

即刻の指名に、呼ばれた男は唸った。「出ない」とジェスチャーで片手を振るが、あろうことか、エマとラナは顔を見合わせ、端末を男の方へと無造作に放り投げた。受け取らざるを得ない男が泡食ってキャッチすると、その様子を見ていたかのように電話向こうで、刃物を研ぐような声がした。

〈居るならさっさと出なさい〉

「……どーも、レディ……その呼び方やめて下さ――」

〈現在の状況を説明するわ〉

しぶしぶ電話に出た言葉が言い終わらぬ内に口を挟まれ、ハルトは頬をひくつかせたが、言い返すのは諦めたようだった。ニヤニヤする双子と共に耳を澄ます。

〈ベルリンで活動中のネオナチグループは、一つに絞られた。テロをやる程の連中は“全て”一時的な排除が完遂された様よ〉

「誰だか知らんが、よくやるな……」

ハルトが他人事のようにぼやいたが、女は無視して続けた。

〈貴方の同胞でしょう、フライクーゲル〉

「その呼び方、やめて下さいって――」

〈残ったグループは、『Wolfヴォルフ』。リーダーはテオドール・ゲッツ。仲間内ではテオで通っている〉

再び清々しいほど無視した女は続け、無視された方は唇を引き結んで押し黙った。

〈グループの殆どがアウトロー気取りの若者。ただし、薬か酒に病み窶れてる。こいつらは白人至上主義を語ってはいるけれど、思想や差別意識よりも、クズの自分たちを認めて欲しいガキ共といったところね。テオの神経質で臆病な部分は扱いやすくもあり、面倒でもある。今回の一連の攻撃により、ドイツ支部に対する警戒心と懐疑心は増している筈〉

「……フラストレーションが溜まった、いつでも消せるザコが残ったわけか」

〈一概にザコとは言えないかもしれないわ。昨年末に、厄介な用心棒を雇っている〉

「用心棒?」

〈こちらも貴方の知り合いよ、フライクーゲル〉

「……誰です?」

〈七月生まれのジュライ〉

ハルトは眉間に皺を寄せ、双子は顔を見合わせた。

「確かですか?」

〈顔は照合済み。疑うなら、ラッセルと貴方の元上司に確認を〉

「ブレンド社の情報を疑いやしませんけど……なんでまたドイツでネオナチの用心棒なんか……?」

〈マグノリア・ハウスの閉鎖と共に解雇されたことになっているけれど、刑務所に戻った記録と、釈放の記録の両方が存在する〉

なるほど、彼の行方はうやむやにしたいということだ。アマデウスが関与した以上、全く関係のない男がジュライとして服役中の可能性も十分ある。

「アマデウスは何て?」

〈解雇した後の足取りはチェックしていないと〉

――怪しすぎる。

ペトラもそう思っているのだろう――当然だ、一兵卒程度ならともかく、強力な単騎をあの男がそう簡単に手放すまい。だが、ネオナチなんぞに肩入れするのはアマデウスらしくない。ジュライの独断か? それとも、二人の間に何かあるのか……?

『七月生まれのジュライって?』

双子が訊ねたので、ハルトは思案から顔を上げ、気怠そうに言い添えた。

「説明していいですか、レディ?」

〈どうぞ〉

「俺が居た、BGMの殺し屋を作る為のマグノリア・ハウスで、銃の教官をした、どっかの元軍人だ。まあ、服役先がアメリカだから、米軍出身と考えるのが適当だと思うが」

『元軍人』

「ジュライという名は『七月生まれ』という情報しか開示しない男だったから付いた名前で、本名は俺も知らない。当時の年齢で三十代ほどだから、今は五十代くらいだな。相当ヤバイことをやって、無茶苦茶な刑期の服役中だったらしいが、腕を見込んだ北米支部のアマデウスがスカウトしてきた」

『フーン。強いですか?』

「強かった。体格が良いし――ああ、そういえば……体格はブレンド社のブラックに似ている。顔はあんな色男じゃあないが、単純なパワー型でもない点は似ているな。当時でもだいぶくたびれた無精髭のオッサンだったから、今はもう枯れ果てたオッサンだと思う」

さらりと酷いことを言ってのける元生徒だが、此処には見ず知らずのオッサンをフォローしてくれる女は居なかった。

『オッサンなら、そんなに怖くないです』

「余計なこと言っといてなんだが、侮るな。この手の人間の脅威は歳食っててもあんまり変わらないことが多い」

ハルトの忠告に続けて、事務的な声が響いた。

〈ジュライは銃に関して、世界クラスの達人と弊社でも認識している。ラッセルも同僚として、彼の技術を神業と評していた。その評価は現在も変わっていない〉

「銃の扱いはともかく、変な男でしたけどね……普段は寡黙ですが、指導時や、興味の有る事には急に多弁で――」

〈どこかのフライクーゲルを思い出すわね〉

双子が口許に手をやってクスクス笑う中、当の殺し屋は嫌そうな顔で髪を掻いたが、否定はしなかった。

「レディ、イルゼが行方不明になった件は聞いています?」

〈ええ〉

「その犯人が、こいつである可能性は?」

〈現在、この犯行は何者の可能性も有る。根拠を聞きましょう〉

「ジュライの授業の中で、誘拐に関する想定トレーニングがありました。今回の手はそれと同じだ」

『殺し屋が誘拐なんか勉強するのですか?』

双子の問い掛けに、ハルトは片手を振った。

「逆だ。誘拐される側の訓練だよ。警戒心の強い――そう思い込んでるガキ共に、弱点を思い知らせる為のな。このトレーニングで誘拐をまぬがれたのはフレディぐらいで、全員が何らかの方法に引っ掛かった」

〈まんまと引っ掛かった獲物の意見は貴重ね〉

一言多い女の意見にうんざりしつつ、ハルトはなるべく冷静に付け加えた。

「ジュライがネオナチに与しているなら、動機も生じます。神経質なリーダーなら尚更、現在起きている事情を知るためにヒルデガルトのスタッフにアクセスする」

〈それがイルゼだったのは、あまり良い人選とは思えないけれど〉

冷静に返って来た一言に、ハルトも腕組みして唸った。

「……俺も気になるのは、相手がジュライにしろ、イルゼが小鳥好きなのを知っていたことです。彼女たちの帰宅時間に合わせて行うのも、ある程度の情報収集が要る。

収集した上で、イルゼを選んだのなら……それも妙だ。――エマ、ラナ……お前たちの個人情報は、ドイツ支部内で共有されてるのか?」

双子は顔を見合わせてから首を捻った。

「個人的なことは、知っている人と知らない人が居るのです」

「中心スタッフは知っていますが、共有は程々だと思います」

「つまり……お前ら幹部連中は付き合いが長いから知っているだけで、問題ない情報は隠してない?」

『はい。レベッカは皆のことを知っていますが』

「まあ、レベッカから情報が漏れていたら本末転倒だ。もう一件、怪しいのは――」

端末を見たハルトの動作が見えるように、鼻で笑うようなノイズがした。

〈フライクーゲル、弊社は他支部の情報を安く買い叩くことはありません〉

「高額売買はするんすか」

〈売る相手は選びます。他支部の情報ともなれば、ボスを通すのは必須。確認が欲しいのならボスから貴方に直接――〉

「あ、ノーサンキューです。疑った俺が悪かったです」

青い顔でハエでも払うように片手を振ると、ハルトは顎を撫でた。

「じゃ……まずはネオナチを狩った連中を探すとするか。俺が市街をウロウロするだけでも釣れそうだが、向こうがそれを待っていたらしゃくだからな。レディはまだ空港に?」

〈要請段階からベルリン市街に移動中〉

一体何を使って移動しているのか、全くと言っていいほどノイズや揺れのない音声は、さすがは現役スパイか、良い端末を使っているらしい。

「じゃあ、悪いが外はあんたに頼もう。あんたが動けば、動く奴が出る。もし、ジュライ――或いはフレディの野郎に遭遇したら俺に繋いでくれ。以上だ。宜しく頼む」

〈未春たちに連絡は〉

「おい……あんたまで言うのかよ。良いって……必要になったら頼むから」

〈どうかしら?〉

嘲笑うように言った女にハルトは何か言い掛けたが、とうに通話は切れていた。唸った男に、双子が目をぱちぱちさせた。

『ハル、私たちは?』

「俺たちはレディが獲物を捕らえるのを待つ」

『待つだけですか?』

「いや、此処の内部を探る。お前らの情報にアクセスした奴が居ないか、可能な限り全部調べる。アナログな会話や院内を探るのはそっからだ」

双子はちょっぴりつまらなそうな顔をしたが、デスクの薄型の引き出しからパソコンを取り出し始める。ふと、デスクワークなら拳銃は要らないのではと顔を見合わせての視線に、ハルトは頷いた。

「――そうだ。ヒルデガルト内に入り込んだ相手次第では、武装が要る可能性がある。俺はお前らほど肉弾戦は強くないんでな……何か有るとまずいから」

フッと尊大な顔で双子は笑った。

「心配要りません、ハル」

「私達が守ってあげます」

「そうなりたくねえから拳銃借りたんだっつーの。始めるぞ」

呼び掛けに双子は顔を見合わせてニヤついてから頷いた。




 「『みりん』って何なの?」

カリーナが訊ねた時、未春はフォークに肉を刺した状態で首を捻った。

周囲はかなり薄暗いが、木製の素朴な雰囲気の店内は大勢の客で賑わっていた。賑わっているといっても、日本の居酒屋とは異なり、どことなく静かだった。

どのテーブルにもヴルストやらハム、カットされたチーズなどと一緒にビールジョッキがどすんと鎮座し、一体何を揚げたのかわからない巨大な塊も見えた。

今夜目新しかったのは、今、フォークに刺しているロースト・グース――アヒルならぬガチョウである。絵本で見た「ガチョウ番の女」を思い出したが、こちらは色よく焼かれ、しっとり柔らかな身はスライスされていた。初だと言うと、ニムとカリーナには驚かれたが、日本ではガチョウもアヒルも食肉としては珍しい。鴨こそ一般的だが、生肉が普通のスーパーで売っている事は稀である。テーマパークなどでお馴染みであるターキーは七面鳥なので、やはりガチョウは初だ。

「えーと……」

既に、ヒルデガルト内部での話は聞いた後。

聞かれると思わなかった問いに未春は言い淀み、料理酒の一種だと言うと、ニムが首を捻った。どうやら海外では、料理専門の酒という概念は無いらしい。そういえば、ワインや製菓に使うブランデーなどはあるが、これらは酒として飲むことも普通にあるし、そのまま飲まない『みりん』に該当する酒は思い浮かばない。

詳しく説明してようやく納得したニムのあれやこれやの翻訳に、カリーナは察してくれたようだった。

「日本料理は奥深いのね。じゃあ、あの彼も料理をするの?」

「はい。ハルちゃんはアメリカ暮らしが長かったので、日本料理より向こうの家庭料理の方が上手ですけど」

「貴方も?」

「彼は達人だよ。殆ど毎日、家族の食事を作るんだ」

ブラックの入れ知恵らしいニムの回答に、未春は恥ずかしそうに肩をすくめたが、女は感心した様子だった。

「日本人は皆そう?」

「それは……どうでしょう。調理を仕事にしている人は多いと思いますが、自宅で料理する人の割合は、少ない方だと思います。考え方が変わってきている人が増えた気もしますが……デリバリーやインスタントとか、作らない選択肢も増えているので」

「じゃ、あなた達は家庭的な日本人男性ってワケね」

彼女の日本人への印象に少なからず貢献したようだが、未春は曖昧に微笑んで頷いた。ハルトはともかく、実の叔父は家事に関して全方位から『何も出来ない』と罵られる最強のダメ男だ。思い付く関係者でも、室月辺りはそつなくやりそうだが、あの仕事の鬼は毎日自炊はしていまい。力也や明香も食べる専門だし、優一辺りはどうなのだろう……器用そうだが、彼も忙しさにかまけて食べること自体をおろそかにしていそうだ。ニムが聞いたら来日してでも説教しそうな気がした。

「ドイツはどうなんですか?」

「んー……女性イメージは根強いけど、半々ってとこじゃないかしら? やる人はやる、やらない人はやらない。私もあんまり得意じゃないし」

「それは意外だね。あんなに手間の掛かる美味しいドーナッツを作っているのに」

「ああ、私は主に販売と補充だからそうでもないの。あれはウチのオーナーがマジメなのよ。チェーン店じゃないから、彼女が午後7時くらいまでに就寝して、深夜に起きて出勤、生地から作り始めて、朝のオープンに間に合わせてるの」

ニムが感嘆詞を漏らす中、未春も驚いた。日本でも早くから仕事をする飲食業といえば、パン屋や弁当屋、早朝に開くカフェ等、さららも早朝から準備をするが……どうも個人がドーナッツだけで商売するには、豆腐屋並の労働が必要らしい。

「どうりで美味しいわけだね。後の為に取材させてもらおうかな」

酒の席のジョークではなさそうなニムが作家の方の名刺を渡して言うと、彼女は嬉しそうに受け取った。妙な調査会社と作家の二足の草鞋わらじという男に違和感は無いのか、興味深そうに頷いた。

「海外からの取材なんて、オーナーも喜ぶわ。いつでも連絡して」

「ありがたい。正直、いつも女性誌のコラムに困ってるんだ。スイーツの話題は大抵喜ばれるし、僕も楽しい」

「なんて雑誌? 発行したら買うわ」

「いやいや、ドイツ語版じゃないけれど、ちゃんと送るよ」

そんな具合に、夕食は穏やかに過ぎた。彼女を家の近隣まで送っていくと、ポニーテールを揺らして手を振ってくれた。ニムは街灯の薄い灯りにその望遠鏡並の目を凝らし、彼女が家に入るまでをしかと見届けてから呟いた。

「世の中には、見えない場所で頑張ってる人がまだまだ大勢居るねえ……」

感慨深そうに呟く作家に、未春も頷いた。

これも、一種のBGMかもしれない。誰かの為に深夜から働く人が居てこそ、美味しいドーナッツが沢山並ぶ。

――自分は。

ふと、すぐ隣に立つ作家との距離を感じて、未春はぽつりと言った。

「……先生、明日はお帰りになるんですよね?」

「え?」

「え?」

きょとんと振り返ったニムに、侘し気に問いかけた未春もきょとんとした。

「君さえ良ければ、まだ付き合うよ」

「え……?」

「え……?」

向かい合って疑問符を投げ合った後、作家は例によってその育ての親に似た笑みを浮かべた。

「だって、気になるじゃないか。ドイツ支部のお嬢さんが行方不明なんだろ? 僕らは別に敵じゃあないんだし、女性が困っているなら何とかしてあげなくちゃ。白アスパラが言うことじゃないかな?」

……まあ、その精神だけで戦えるほど、世間は甘くないが……

ハルトなら、或いは数カ月前の自分なら即座に「居ても無意味」などと否定したかもしれない言葉を、未春は自身の中で否定して首を振った。

この男にとって、助けられるかどうかは二の次だ。やるか、やらないか。

もちろん、こちらの力も織り込み済みで。

暗がりにも豊かな森のようにきらめくグリーン・アイを見つめ、未春は少しだけ仕方なさそうに両のアンバーを和ませた。

「俺は、先生が正しいと思います。先生がやるなら、手伝います」

「君はそう言ってくれると思ってたよ」

にっこり笑うと、彼は端末を取り出した。

「まあ、僕が帰らないと、たぶん……出版社からおぞましい呼び出しコールが有ると思うが、原稿なんてどこでも書けるからね。まずはウチの魔王――じゃない、レディに連絡しよう。僕らが知っていることなんて、彼女はとっくに知っていると思うけどね――」

そう言いながら、ニムは電話をかけようとして、その姿勢のまま道路の向こうを見て硬直した。未春がつられて振り返ると、通りを頭の先から爪先まで真っ黒な人物が歩いてきていた。夜闇の暗さに尚、溶けることのない闇のような人物は、靴音も物静かに、男物の黒い帽子の下から刃物のような目をこちらに向けた。

「魔王とは、誰のことかしら? ニム」

カラスめいた黒い喪服に更に黒のコートを纏った麗人は、地獄からやって来たような声で言った。

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