ユキ
夢を見ているのだろうか、と思った。
ふわりと、わずかに生じた風と共に女の子特有のくすぐったくも柔らかな匂いが僕を包んだ。彼女の腕は胴回りを伝って、バックパックを抱くような形になっているけれど、有無を言わさないような、たしかな力強さを感じた。
自分の身になにが起こっているのかわからなかった。どうして僕は、この見知らぬ女の子に抱きしめられているんだろう?
やがて彼女が離れていくまで、僕は身動きすることも、思考することもままならなかった。ゆっくりと距離をおいた彼女の顔に改めて目をやっても、やはり知っている顔ではなかった。こんなに綺麗な子を、忘れるはずがない。
そう、これまでの僕だったら。
不意をついた出来事によって散らばった思考は一瞬で収斂され、鉛のように重くなり昏い自我の底へと沈んでいく。
早くここから離れよう。僕は左手でバックパックの肩紐をぎゅっと掴んで、一歩踏み出す。どうしようかと迷った末に、女の子とのすれ違いざまに一言声を掛ける。
「終電なら、もう行ったみたいだよ」
重くくぐもった声は、こんなにも物静かな空間にあっても目の前の彼女に届いたかどうか怪しかった。けれど、こちらを見上げるその表情は穏やかな笑みを浮かべていた。
「知ってる」
さっきまで彼女の中に息づいていた高揚のようなものは、すっかり鳴りを潜めている。むしろ、その笑顔には諦観のようなものが滲んでいる気がした。それもやっぱり、初対面の相手に向けるには奇妙な表情だった。
ふと、女の子はさっきまで座っていたベンチまで戻り、そこにおいていたバッグ――彼女の体格に不釣り合いな、やけに大きい黒色のボストンバッグ――からなにかを取り出した。
それは、淡いグレーのヘリンボーン柄をしたカバーがかかったB6サイズの手帳らしいものだった。挟んでいたペンを右手に握り、なにやら記し始める。ペンを走らせる手を止めないまま、視線だけこちらにやって、「今起こったことを、あの子に教えてあげる必要があるから」と言った。
「あの子?」
僕が訊き返しても、返事はなかった。黙々と手帳への記入を続けている。
なんなんだ、この子は。
まったく関心を惹かれなかったといえば嘘になる。けれど僕は、自分に言い聞かせる。
これ以上、異性と必要以上に関わり合いになるべきではない、と。
「じゃあな」
「待って。名前を教えてくれないかな」
彼女の横を通り過ぎようとした瞬間、名前を訊ねられる。ああして一方的にハグをしておいて、どうして今更名前なんかが気になるのか、と思ったけれど、そんなことを気にする必要はないのだ。考えなくていい。アンテナを張らなくていい。
そうしないと、僕は父と同じ運命を辿ってしまうかもしれない。
「未来」
僕は簡潔に自分の名前を告げた。
「未来。いい名前だね」
彼女は、どこか無邪気な調子でそう言った。自分自身を貶めるような爛れた感情が、もう少しで表情筋を醜く動かすところだった。
「私は、ユキ」
閉じた手帳をボストンバッグにしまいながら、彼女は僕に背を向けたまま名前を名乗った。僕は返事をせず、駅舎をあとにした。
今のやり取りは忘れてしまえ。
僕はそう自分に言い聞かせる。けれど、おそらくそれは不可能なのだろうな、ということも、わかっていた。
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