緑雨
殿下
第1話
南国の港町らしい、頬を撫でるように吹き付ける風を感じる。周囲を見渡してみるとさわやかな風とは対照的な、欲望をかき立てる原色のネオンサインが煌々と光っている。僕はどこで道を踏み外してしまったのか。帰る家も、愛する人も失ってしまった。公園のベンチから通りを見渡すと、ブランド品を身にまとった人々で溢れかえっている。胸にプリントが付いただけで数十万円もする半袖シャツに身を包み、欧州製の高級腕時計で死までの時間を計っている。僕が季節の移ろいや、段々と思い通りに体が動かなくなってくる感覚から死を意識しているのにもかかわらず、市井の人々は張りぼての生命にしか頭には存在しない。この街が持つ二面性にもっと早く気付くべきだった。
僕は、疲れ切った体に鞭を打って街を歩き始めた。大陸への玄関口としての街。文字が生まれて数千年経ったにもかかわらず、この街が歴史の表舞台に出てくるのは約二百年前からだ。たった数十人が住んでいるだけの寒村が、人間の欲求によって人口数百万人の大都市へと変貌した。蛍光灯に群がる蛾のように、僕はまやかしの希望に誘われてこの街へとやってきたのだ。自らを美しい蝶の幼虫だと信じ込み、必死に生きてきたが僕は醜い蛾でしかなかった。自分の存在を他者に認めさせようともがき、この街を駆け抜けていった日々が思い出される。僕は、街灯の下に腰を下ろした。街を行きかう人々は僕に目もくれず足早に過ぎ去っていく。最後の煙草に火をつけて、煙を吐き出した。青白く、赤く、黄金に光る煙は天高く昇って行きそうだ。星にでも届くくらいに。だけれども、煙は街灯の光にぶつかると消えてしまう。何度試しても、煙はぶつかり消えてしまう。僕は「もういいんだ」と独り言をつぶやいて、空腹と喉の渇きに抗いもせず静かに目を閉じる。
第一章
1
麗らかな乙女が流す、涙のような雨が降りしきる夜。僕は、いつものように仕事場へと向かっていた。クワイエット・スワン、という極彩色の文字がでかでかと掲げられている店、そこが僕の生活を支えていた。中はカウンター席が六席とテーブル席が八席、そんな店内に、小ぶりのステージがある。僕は、意気揚々とアンティーク調のドアを開けて張りぼての名声を手に入れに行く。店に入るなり僕は急いでミュージシャンたちの控室へと向かった。バーの開店まであと三十分だ。
「調子はどうだ?今日もいつも通りワンステージ数曲を三セット行うからよろしく。」と自らが演奏する楽器のような低い声でバンドリーダーが声をかけてきた。他愛もない会話をしている間に今日も歓声を浴びる時がやってくる。さあ、ライブの時間だ。ハードケースからギターを取り出し、真新しいステージライトに照らされた小さなステージへとかけていった。
「レイディース&ジェントルマン。今、この街で一番ホットな音楽をお届けします。皆さん拍手と声援でお迎えください。」と司会者は小さい体を大きく使って、僕たちのバンドを呼び込んだ。颯爽と飛び出し、楽器に命の息吹を吹き込む。観客は僕が奏でる人生に触れ、甘い溜息と歓声を上げる。そうだ、ぼくが生きているという実感を得ることができるのはこの瞬間だ。一セット、二セットと進んでいくごとに熱気が高まっていく。三セット目になると、この店から溢れ出るほど観客が集まった。絶叫と嬌声が入り混じる混沌とした状況の中で、僕の頭の中にあふれる神からの啓示をひたすら吹く、何も考えずに吹く。、「ありがとうございました。今日のライブはこれにて終了です。またのお越しをお待ちしております。」とバンドリーダーが観客に話して終わった。僕の音楽人生はこの日である一つの頂点に達していた。
演奏を終え、店の前に出ると外は柔らかい雨が降っている。濡れないように、急いで停留所に止まっているバスに乗り込む。車内はいつもとは違って人で埋め尽くされていた。三分ほど見渡してやっと見つけた席に着くと、バスは大きな音を立てて出発。ポケットから板ガムを取り出し、くちゃくちゃ音を立てながら噛んだ、噛んだ。乗客たちは、スマートフォンの世界に没頭している。車から溢れんばかりの人々がいるにもかかわらず、彼らは壁を作り他人を認識していない。目的のバス停へと到着すると、僕は財布からクレジットカ―ドで乗車賃の支払いを済ませると通りに立った。
バスに乗り込むとき降っていた雨は、一層強くなり目を開けているのが難しくなるほど。そんな中、そびえたつビルの真下で傘もささず俯いている一人の女性がいた。その時の僕は、演奏が終わった興奮とバスの車内で感じた孤独によってどうかしていたのだろう。雨の中、一人立っている彼女が、人生に絶望し涙を流しているかのように感じられる。いてもたってもいられなくなった僕は、流されるように彼女に「大丈夫ですか?」と声をかけていた。彼女は突然、僕に抱き着くと「しばらくこのままでいさせて。」と呟いた。降りしきる雨の中、ただそこに存在することを確かめ合うように抱き合った。心臓が脈打つ音と生命の体温を感じながら、虚飾と欺瞞に満ち溢れた街の中心で。「私、迷子なの。」ぽつりと僕の耳元で彼女がささやいた。
2
机に牛乳が入ったコップを二つ置く。「汚い部屋だけど、ゆっくりして。」とタオルで濡れた体を拭きながら話しかけた。彼女は濡れた服装のまま玄関口に佇んでおり、したたたる雫は羊水の様。その姿は偉大なる生命の誕生を思い起こさせる。「遠慮しないで、入って。」と言いながら綺麗に洗濯されたタオルを箪笥から取り出すと彼女に渡した。タオルで濡れた体をふくと、彼女は生まれたての胎児のような姿から一瞬にして覆い隠されていた彼女の美しさがあらわになった。「風邪ひくと悪いからシャワーでも浴びてさ。服は入っている間に適当なものを見繕ってくるから。」そう言って浴室のある方を指さし、足早にアパートを飛び出した。これまで美しい人を沢山見てきたが、彼女ほどの美人を目の前にすることは初めてのことだ。そのため、居心地の悪くなった僕は自分の部屋であるにもかかわらず、一刻も早くこの部屋を抜け出したかった。僕のアパートは繁華街沿いにある15階建ての古い建物だ。周囲には高級ブランドを扱う店が立ち並び、通りには成金たちがひしめいている。そんな一角にあるのが僕の住むアパートだ。この場所にはまともな人間など住んでいない。不法に入国した外国人労働者か売春婦たちだ。アパート前の通りには、厚塗りの化粧をした娼婦と訛りのきつい英語を話すポン引きしかいない。しかし、今日は雨が降っているからなのかそんな人たちはまばらだった。
ブランドショップが立ち並ぶ通りから、一本奥に入るとそこは夢をつかみ損ねた敗残者たちで溢れ返っている。働く場所を失った者、薬物におぼれて身を崩した者、彼ら彼女らを横目に見ながら歩く。金属でできた虚構の塊を懐から取り出し、彼らの前に置かれているさび付いたブリキ缶に投げ入れようかとも思った。だけれども、さっき街で拾った彼女以外の人物の人生に干渉するほど僕は恵まれてもいないし、それほど酔狂な人間でもない。人間とは奇妙なもので、自分が興味を持つ人や好意を持つ人に限り慈しみの気持ちを持つのだろう。はるか遠い花の都で生まれた博愛の概念がいまだに浸透しないのは人間本来の性質に合致していないのかもしれない。だからと言って、そこまで悲観的に考える必要があるのだろうか。民族や人種単位での群れから、地球という星に住む高度な知能を持った動物の群れへと価値観を転換させなければいけない岐路に立っている。でもやはり、僕には目の前にいる群れに対して愛と慈しみを与えることしかできない。新聞やテレビで写し出される縄張り争いは遠いものでしかなく、僕にとってはその日に行うマスターベーションのためにポルノ女優を選ぶことの方が重要なのだから。
今にも消えそうな光を放つライトに照らされた、傷んだドアの前に来ると僕はいつもと同じように優しく扉を開けた。「いらっしゃい」と酒場の店主が酒に焼けただれた声で呼びかける。右から5番目のカウンター席に座り、「ウイスキーの牛乳割りを」と頼み、一息に飲み干した。
「女性ものの服が一式欲しいんだ。」
「あら、あなたにそんな趣味があるなんて思いもしなかったわ。」
「いや、雨の中で迷子の女性を拾ってきた。この雨でしょ、風邪でも引くと悪いから僕の部屋で今、シャワーを浴びてもらっているんだよ。だけど彼女の服は濡れてしまっているし、僕の箪笥には女ものの服なんてあるわけがない。だから、馴染みのママに頼もうかなと。」
「そういうことね。そんなことなら、最近出ていった人の服があるわよ。」
「そんな人いたの?この店で見たことがないけど。」
「そう、いたのよ。つい昨日までね。あたし、寂しい男どもを慰める商売もしてるの。そっちの方で働いてた女の子がいろいろと問題を抱えてたみたいで、着の身着のままいなくなったの。部屋を彼女に貸してたものだから荷物がたくさん残ってて困ってたとこ。今持ってくるから待っててね。ちょっと、皿洗いなんていいからカウンターに立っててちょうだい。すぐ戻るわ。」
大仰なドレスに身を包んだ妙齢の女性は店の二階へと昇って行った。僕が、これから三本目の煙草に火をちょうど火をつけようとしたとき、店主は籠一杯に女性ものの服を持ってカウンターへと戻ってきた。「ありがとう。」僕は服が入った籠を受け取って出口の方へと急いだ。「今度飲みに来た時のツケにでもしとくわ。」背後で店主の声を聴きながら、小さく手を振りその店を後にした。
外に出ると、街の静けさが一層身に染みてきた。店の扉は固く締まっており、通りに佇んでいた敗残者たちの姿は見当たらない。たまに水たまりを切り裂く音を立てながら走り去る車の音が聞こえてくるだけ。街灯の下を歩くと、道端のゴミに群がっている虫たちが暗闇へと逃げ回る。僕のような臆病者もこの虫たちと同じだ。数年前、僕はほかの店で、ほかの仲間たちとライブ活動を行っていた。今とは比べ物にならない程にやる気と希望に満ち溢れていたと思う。それは一旗揚げてやるという大きな気持ちで、この街に仲間たちと移り住んだからでもあるだろう。だが、この日々も長くは続かなかった。仲間たちはそれぞれインターネット投稿や個人営業を行い、一刻も早くスターになるためのチケットを掴もうと努力をしていた。でも、僕は何もしていなかった。バイトをして日銭を稼ぎ、月1回あるかないかぐらいのステージ演奏。それだけで満足していた、彼らと会い話すだけで苦しい生活なんてどうでもよかった。そんな日々でも、仲間たちはそれぞれの地道な活動が評価され一人また一人と大きな契約を勝ち取っていく。最後に残されたのが僕だ。そして、僕は彼らとのバンドをやめた。輝きを増していく人のそばにいることが辛かった。仲間から逃げ、僕は闇の奥深くへと身を隠していった。
「ただいま、シャワー浴びた?」そう言って、アパートの玄関に入る。風呂場からは水が体にぶつかって落ちる音が聞こえてきた。脱衣所の近くまで来ると、受け取った女性ものの服が入った籠をそっと置き、「上がったら籠に入った服を着て、サイズが合えばいいけど」と彼女に告げる。「ありがとう」彼女は答えた。しかし、シャワーの音でかき消され僕の耳には届かなかった。カバーがほつれてところどころ綿が飛び出しているソファーに腰を下ろすとタバコに火をつけた。
「私にもちょうだい。」
「びっくりした。」
「ごめん、脅かすつもりはなかったの。」
「どうぞ、ライターはその机の上においてあるから。」
ガラクタが散乱している机の上からやっとこさライターを探し出すと、彼女は煙草に火をつける。彼女の所作に僕はどことない上品さを感じた、そしてその行動は彼女の美しさを一層際立てた。彼女は僕の心に火をつける、それは消えることのない不滅の法灯として心に刻まれた。
「まだ名前聞いてなかったね、僕は遼。君の名前は?」
「私、雅。」
「そうなんだ。雅、寝る時はベッドを使っていいから。僕は寝袋を使うよ。」
「ありがとう」
僕は得体のしれない緊張感のためにうまく話すことが出来ない。
「寝る時になったら、そこにあるスイッチで電気消して。熱いと思ったらエアコンつけていいから。僕は隣の部屋で寝るから安心していいよ。おやすみ。」
「わかった。」
立ち入った話をする前に、僕の方から一方的に話を打ち切った。やはり僕は光に群がる虫だ。
3
聴き慣れない声で僕は目を覚ます。一瞬、なぜ僕が寝袋で寝ているのか疑問に思ったが、雅に僕のベットを貸しているのだということをすぐに思い出した。立ち上がり、カーテンを開けて見ると窓の外はまだ夜だった。隣室からは、僕を心地よい眠りから覚させた唸り声が聞こえる。心配になって雅が寝ている部屋へ行くと、彼女は悪夢を見ている様子で汗だくになっていた。静かに近づき、雅を落ち着かせるように優しく彼女の頭を撫でようと手を近づける。
緑雨 殿下 @dennka
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