神の贈物
居場所を探していた。
どこというわけもなく。孤独を感じない居場所。自分を救ってくれる居場所。
またどこかへ旅立とうと思った。今度は山なんてどうだろう。物理的距離もかなり遠いし、山の方の文化は全く知らないから、新鮮な体験となるのではないか。
心のどこかでは、どうせまたここに戻ってくることになるのだろうとわかっていた。今までも何度かここを離れてあちこち放浪したけれど、結局海へと帰ってきてしまう。生まれ故郷だからなのか、単に海が好きなだけなのか。戻ってきて、少し休んで、そしてまた、旅立つ。その繰り返し。
一先ず春になったらと決め、凍えそうな冬を越した。
冬の間にもうひとつ歳をとった。しかしもはや年齢に意味などなかった。一年前と比べても、二年前と比べても、何も変わらない日々。生活が多少変化していようが、本質的には何にも変わらない、変われていない。すぐに千切れるような人間関係ばかり積み重ねて、だらだらと惰性で起きて食べて寝る時間だけが過ぎた。
そうこうしているうちに、春雨が降った。この雨が明けたら、また歩き出そう。行く宛もなく、足の赴くままに、居場所を探して。
更に数日後に、春一番の温かい日が訪れた。空気は澄んでいて、ひんやりと肌寒い。とは裏腹に日差しが燦々と照りつけて、服の上からじんわりと温かい。誰かに抱きしめられているような妄想が頭に浮かんで、馬鹿らしいと独り自嘲気味に笑う。
雨上がりにしては穏やかな波音をバックミュージックに、さくさく、海岸線を歩いた。
――そこに、彼がいた。
浜辺に横たわる様子があまりにも穏やかで、そこだけ絵の中の景色を切り取ったみたいだった。目が離せなかった。心を盗まれた。
日光が透き通って、柔らかく繊細な茶髪は金色に光っている。冷たい空気に晒された肌は青白い。尖った耳から見るに、砂漠の方の人だろうか。手足が長く、スラッとした細身で、かといって筋肉に乏しいわけでもなく、全身バランスよく引き締まっている。
神秘としか言いようがない、まるでつくりものみたいな彼は、いやはや現実の生き物らしかった。海水を含んだ重たげな服の中で、緩くカーブを描いた胸が微かに上下している。ほんの数秒見ただけでは気付かないくらいに、ゆっくり、ゆっくりと。
一歩、近付いてみた。ほんの少し解像度が上がった。
もう一歩、踏み出そうとして、はたと動きを止める。
長い睫毛の上に、綺麗な二重瞼が現れていた。中から覗いた瞳は深い緑色で、眩しそうに海を見つめている。
やがて、その瞳から涙が溢れ出した。ぽつりぽつり、目尻から流れ落ちて髪の中へと消えてゆく。濡れた瞼に太陽光が反射して、きらきらと、化粧のように目元を輝かせた。
彼の瞳の中に映ってみたい。そんな欲望に駆られた。
そろそろと近付き、顔を覗き込む。
ぱちぱちと瞬きを繰り返していた瞳の焦点が、自分を捉えたのがわかった。
もっと近くで見たい。更に欲が湧いてきた。
しゃがみこんで、ぐんと顔を近付ける。
潤った緑眼は、不思議な魅惑を携えていた。儚げで、しかしどこか強かさを感じるような。消えそうな炎が、消えまいと薪にしがみついているような。幻想的な美しさがあった。
きっと、一目惚れだった。
この出逢いを運命と呼ばずになんと言おう。
「あなたは、神様を信じる?」
今の気持ちをどうにか伝える術はないかとしばし悩んだ。結果絞り出したのがこれだった。
こんな質問、外の地域の人に尋ねても意味などないのに。宗教国のこの国では、神様を信じない人の方が少ないだろう。
ところが。
「信じてみてもいいかもしれない」
掠れた声が、これまた運命的な返答をするものだから、つい気分が高揚するのを感じた。
「私もそう思う。縋るほど確かなものではないけれど、時に現実に奇跡のような救いをもたらしてくれる」
不意に、彼が手指を動かした。そのまま腕を持ち上げ、指先が私の頬に触れた。湿っていて冷たくて、割れ物を扱うかのような優しい触れ方だった。
「これは、現実?」
彼の言葉に思わず笑ってしまう。あなたがそれを言うか、と。
でも、もし、彼も同じなのだとしたら。現実に疲弊して、放浪して、流れ着いた先がここだったのだとしたら。ここで何か救いを見たのだとしたら。
どうか、幸せになってほしい、と思う。
「大丈夫、現実は思っているより優しいものよ。
――さあ、起きて。身体が冷えているわ。温かいものを用意しましょう」
幸せになってほしい、でもまずは、自分が幸せにする。自分たちで幸せになりにいく。
運命と思える相手に出逢えたのだから、易々と手放したくはないでしょう?
「ありがとう」
立ち上がって言った彼の言葉に、図らずも泣きそうになってしまった。笑みを作ってやり過ごしたけれど、バレなかっただろうか。
どうか神様、この灯火を絶やしてしまわないで。
どうか。
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