第36話 旅の始まり

 出立の時刻。

 まだ夜も明けぬ早朝であった。


 城門の前に集まった、三十人ほどの侍たちは厳しい顔で家康の下知を待つ。

 家康の側には、本多忠勝が短槍を持ち立っている。

 その後ろには、旅支度を済ませた千寿の姿も見える。

 彼女は本当のこの危険な逃避行に供するらしい。


「殿。そろそろ参りましょう」石川数正が出立を促す。


 家康は目の前に立つ見慣れた家臣たちの顔を一人一人目で追った。

 目で告げると静かに深く一礼する様に頭を垂れた。


 大きく息を吐く。


「皆っ。飯はちゃんと喰うたかっ!」

「顔色は良いようじゃな」


「ではっ皆の者。参ろうか!」


 その声に武器を持ち上げる音と腹に響く鬨の声が一斉にあがった。


 家康は目の前に集まった家臣の中へ歩み出した。

 その後ろ姿に家臣たちが次々と続き付き従って行く。


 千寿が振りかえりミナトに右手を上げた。

 ミナトは万事うなづいて見せる。


 最後に残された於義丸たちは、開かれた城門から隊列をなして出て行く家康一行の背を見送った。


 ◇◆◇◆ 旅の始まり


 門前には六人の若者が場に残った。


 千寿が事前に用意してくれた関所の通行手形は、荷を納める御用商人のものだ。急ごしらえで造ったニセの通行手形だが、書面には旅の目的、旅人の名や年齢、職業、容姿などの特徴が事細かく記されたもの。


 こちらは旅商人の商隊を装う。

 馬に荷を乗せ、商隊である証の旗を掲げる。

 馬の手綱を引く役のミナト。於義丸、鳥居新太郎、男装姿の佳乃が商人の役どころ。

 商隊の護衛役に石川康勝、永井伝八郎、多田三吉の三人が付く。

 さすがにこの三人の体格は風貌からすれば商人というのは無理がある話しだ。

 いっその事、武器を持たせた護衛役にする。


 出発前に佳乃が於義丸の衣服を整え、あれこれと世話を焼く。

 その姿にミナトが思わず笑ってしまう。


「ミナト殿。何か可笑しいですか?」


「いや、すまない。ちょっと思い出してしまって……」

「俺にもの様な人がいてね。 あれやこれやと世話を焼いてくれる」


 ナギは今頃心配してるだろうか……。

 こんな事に首を突っ込んでしまった俺……。

 伝助が言っていた飛脚問屋には言付けはしたが、伝言は無事に届いているだろうか。

 甲賀の里で用事を済ませたナギと合流して二人で、近江、京都、大阪・堺を旅するはずであったのに。

 また厄介事に巻き込まれて、怒られるな……きっとこれは……。

 

 東の空向こうを遠目に見る。

 と、何やらナギの顔とキセルを噴かす玄爺の渋い顔が浮かんでくる。

 腹の中が沸々と沸き、何やら可笑しくなってきた。


 ◇◇◇ 


「では、我々も参りましょう」


 康勝の出立の声に、背筋を無理に伸ばす於義丸。

 大きく深呼吸をする若侍。

 無言で前を見る目つき鋭い男。

 顎髭を摩る男。

 それぞれの出立の姿があった。


「於義丸殿は、この馬の背に乗るといい」


 於義丸が少し慌てた。


「わ、私はっまだ馬に乗った事がないのだ」


 ミナトが馬の鬣をなでる。


「この馬の名は、白仙といいます」

「良く言う事を聞く馬なんですよ」

「ご安心なされ」

 

 躊躇する於義丸の両脇をミナトが抱え上げると馬の背に押し上げた。


「さあ、顔をあげて。背を伸ばして」

「前を見なされ。そして、前に進みなされ」


 於義丸が馬のたてがみにしがみつきながらも恐る恐る顔を上げた。


「わぁ」於義丸が小さく声を高鳴らす。

「高いっ。高いぞ佳乃っ。遠くが良く見えるぞ」


 於義丸の騎乗する姿を見ていた康勝の口元が緩む。


「於義丸様。三河国に戻ったら遠駆けにでも出かけましょう」

「三河の地は海もある山もある。良い処ですぞ」


 康勝が、白み始めた東の空を眺め大きな声で国自慢の声をあげた。


 ◇◆◇◆


 伊賀国を越える路を行く家康一行。

 大和峠を行く揺動の役目を担う影武者一行。

 近江・安土を目指す於義丸一行。

 そしてもう一組、京へ向かう武田家の国主・穴山梅雪の一行の姿があった。

 武田家当主であった武田勝頼が討たれ、武田家は滅亡。その後、武田家の復興を担った叔父の穴山梅雪は織田信長に降り、織田家の配下として恭順の意を示す為、織田信長の居城である安土城に訪れた。

 今回、盟約を結んだ徳川家康と共に京・大阪での遊覧中であった。

 家康同様、少ない供侍だけを連れた穴山梅雪も甲斐国への帰還を目指していた。

 

 梅雪は京の知り合いを頼り、宇治田原城から家康一行と別れ、別の道を選んだ。

 於義丸たちとは途中まで同じ道を行く。


 宇治の町へと続く大橋のたもと。


「於義丸殿。儂らはこちらの道を行きますので」

 

 途中まで同じ方角であった穴山梅雪は、足を止め町並みが見える方角を指さした。

 目の前の橋を渡れば宇治の町。右へ行けば近江へと続く峠道。


「儂は知り合いの者を頼って京へ向かうのでな」

「於義丸殿も道中、気をつけて行かれよ」

「無事に国元に戻れたら、甲斐の国を御案内いたしましょう」

「それでは、御免っ」


 と、梅雪は通り一辺倒な大人の挨拶を並べ、そそくさと共侍をつれて橋を渡って行く。


 橋を渡っていく後ろ姿を見送りながら、康勝が「ふんっ」と鼻を鳴らす。


「これでこちらも少しは安心できるわい」

「背後から寝首でもかかれたら、たまらんからな」


 と一言吐き捨てた。


「あぁぁぁっ。申し訳ないっ!」

 

 三吉が声を上げた。


「こいつが空になっていたようで」

 

 と腰に下げた赤い瓢箪を持ち上げてみせる。


「若殿様。大変申し訳ござらぬが、その先の酒屋でを調達したら、後からすぐに追い着きますので」

「かあぁっ。俺とした事が、間が抜けておりましたなぁ」


 と頭を掻く。


「三吉い。それはお前の大事な力の水だろうがっ」

「仕方の無い奴だのう。早く買って来いっ」


 多田三吉は申し訳なさそうに謝る。

 そして店のある場所、先ほど穴山梅雪一行が橋を渡って行った方角に向かって走っていった。


 ◇


 一行と別れた三吉は、峠道の方角へ向かう於義丸たちの遠ざかる背を見つつ、一人で大きく息を吐いた。


「ふー。やれやれ……とんだ貧乏クジだ」


 と瓢箪に口をつけるとゴクリッと酒を一口、喉を鳴らす。


 瓢箪を大事そうに腰にくくると腰に差した刀を左手でしっかりと握る。

 腰の重心を落とすとギロリッと目線を橋向こうに向け、勢いよく走り出した。

 その身は獲物を追う獣のごとく、宇治の町へと続く橋を渡って行った。

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