第1話、冒頭の「私はキッチンで立ち尽くしていた」という一文に、すでにこの作品の空気が詰まっている。弱視で山奥に一人暮らし、名前も分からない正体不明の何かが肩に居座っているその状況を、主人公はパニックになるでも怒鳴るでもなく、ひたすら冷静に、時々ぼやきながら観察している。このトーンが絶妙だ。
主人公のキャラクターが非常に丁寧に作られている。交通事故で両親を亡くし、失明に近い状態になり、名前まで分からなくなったという重い過去を背負いながら、施設を拒否してひとりで山に戻った。その選択の重さが、日常描写のひとつひとつに静かに滲んでいる。弱視ゆえの「音で世界を認識する」という描き方も丁寧で、「カラカラ」という容器の音でブルーベリーを食べられていると気づく場面など、視覚に頼らない感覚の描写がとてもリアルだ。
「何か」との関係の築かれ方も好ましい。容器を二つ用意することで折り合いをつけるくだり、食べ物以外では邪魔をしないという観察結果の箇条書き。懐きあっていくわけでも追い出そうとするわけでもなく、お互いの存在を渋々受け入れながらじわじわと距離が縮まっていく感じが、この作品の一番の魅力だと思う。
全666話・147万字という大作でありながら完結済みというのも安心感がある。ゆったりとした日常の積み重ねが好きな人には間違いなくおすすめできる一作だ。