特撮ヲタⅣ「道ヅレ」
伊東へいざん
その1 微笑んだ死体
山菜採りに来たと思われる老人が熊に襲われた。彼は
熊は、急斜面上の茂みの奥から卯七の死を確認すると、踵を返した。熊の傍には、実はもう一体の凄惨な死体があった。
卯七の幼馴染である松橋英雄と上杉智は、昨日、卯七と山で別れてからの連絡を待っていた。昼過ぎになっても連絡がないことにただならぬ不吉感に襲われていた。
「連絡が付かない。まだ山に居るのかな? やはりやつを一人にしなければ良かった」
「まさか卯七に限って…兎に角、山に急ごう!」
二人は軽トラを飛ばし、卯七と別れた場所に向かった。
「東京もんと話は出来たんだろうか?」
「・・・」
「安の滝に行って話を付けると言っていたけど、なんで安の滝なんだろね」
「・・・」
「何で黙ってんだよ、英雄」
「うるせえな…あの滝壺に落ちたら、二度と浮かんで来ねえからだよ」
「山に居なかったら安の滝に向かうのか?」
「ここでくどくど考えたところでどうにもならないだろ」
「…そうだけどよ」
鬼の子村から国道105号線を下る途中に、打当マタギ温泉ホテルがある。その横の山道に沿って上ると熊牧場があり、さらに奥に入った所が、昨日、英雄たちが卯七と別れた場所になる。
最寄りが秋田県中央部を南北に縦貫する秋田内陸縦貫鉄道の無人駅『打当マタギ駅』…この駅周辺に集落はない。広い田畑が続く土地に、時折思い出したようにひっそりと民家が佇んでいるのが “マタギ集落” だ。
かつて、熊狩りなどで生計を立てる人々が暮らしていた土地で、マタギ猟で仕留めた親熊の子が、その後に山で生き延びることが困難になるのを見兼ね、“マタギ集落”の猟師たちは更に人里離れた一角に、子熊たちの一時保護施設を作ったのだ。初めは、小熊を山に帰すまでの臨時の飼育場だったが、日を追って見学者が増えていったため、熊牧場として姿を変えていった歴史がある。その後、熊牧場への観光客は増え行く中、すぐ山道下を通る国道105号線沿いに温泉が出たのを機に、遠方からの観光客目当ての宿泊施設が誕生した。よく言えば、風光明媚で閑静な自然を満喫し、マタギ文化にも触れられるホテルなのであるが、時を経てマタギ文化への関心は薄れ、高齢者の保養地となって久しい。
英雄たちが向かったのは、その奥に鬱蒼と控える広葉樹林の森で、地元民の知る人ぞ知る狩りの獲物や山菜など山の幸の豊富な穴場である。しかし、ここ数年、熊被害が急増している危険な山となった。それが山だけに収まらず民家の農作物被害が常態化している。そのため熊の捕獲が国の交付金の対象となり、市街地での猟銃使用の要件を緩和する鳥獣保護管理法の早期改正を謳っているが、権力太りした環境省の重い腰は健在だった。
英雄は現場に着くなり、違和感を覚えた。昨日、卯七と解散した時はいつもの山だったが、今、辺りを包む僅かな風に異様な緊張感が漂っているのは何故だろう…臭いである。微かではあるが血の臭いがする。智は勘の鋭い英雄の様子にただならぬ事態であることを悟った。
「急がないと!」
英雄は肩に担いだケースから愛用の村田銃を取り出し、弾丸の装着を始めた。智も携帯している “袋ナガサ” で、参道沿いに生えた程よい木の枝を伐採し、中空の柄に刺して槍状の武器を用意した。智の袋ナガサは、この地域のマタギたちが鉈やブッシュナイフとして獲物の解体に使う柄まで袋状の金属の形状になった大型ナイフだが、獣の首を一撃で打ち砕く程の性能を合せ持っている。一方の英雄も獲物を捌く木の柄の小型のナガサを携帯していた。
「じゃ、入るぞ」
二人は山に分け入るなり、すぐに惨状の痕跡を見付けた。変わり易い山の天候で深夜に俄雨が降ったらしく、鬱蒼とした樹木で日の当たらない叢の薄闇には、一面に散った水滴が蛍火の如く光っていたが、一か所から不自然に反射するものが見えた。近付くと其処にはべっとり血が纏わり付いたビニールが敗れて叢に引っ掛かっていた。
「人の血 !?」
英雄は小枝でそのビニール袋を引っかけ、臭いを嗅いだ。
「猪か…豚…じゃないかな?」
「この山に豚は居ないだろ…ということは、猪 !?」
「なんでビニールなんだ !?」
叢を掻き分けて慎重に辺りに歩を進めた英雄の動きが止まった。
「やばい…」
「どうした !?」
英雄の指差した足元を見ると、抉り取られて目の飛び出した顔面の一部が血塗れで、半ば泥に埋もれていた。
「まさか、善三…」
善三とは卯七の本名である。ふたりは蒼白となった。しかし、英雄はすぐに気付いた。
「これは善三じゃない…目の下に大きなホクロがある」
よく見ると、抉り取られた頬に見覚えのあるホクロがあった。
「こいつは、昨日、東京から来なさったあのクソヲタ様か…憐れよのう、順調に熊の餌になったらしいな」
「善三は安の滝に行く必要はなかったようだな」
「やはり帰ったのかな」
「それにしたって連絡をよこさないのはおかしいだろ」
「じゃ、まさか善三も…」
智が叫んだ。
「あれは!」
智の指し示した藪の枝に、昨日卯七が首に巻いていたスポーツタオルが引っ掛かっていた。
「沢に転がり落ちたのかな」
その先は急な傾斜になっていた。二人は叢を掻き分けて急斜面を降りながら、地面に何かが転がり落ちた痕跡を確認した。
「このまま沢まで降りよう!」
急いで急な斜面を滑り降りた英雄らは、すぐに沢岸に横たわる卯七を発見した。
「何でこんな事に !?」
凄惨な状態でそこに倒れていたのは、間違いなく卯七だった。智はがっくりと膝を落とした。幼い頃から膿とその痒みに悩んでいた卯七の左耳には、確かに先天性耳瘻孔の手術跡があった。そして、死体の右手には小学生時代に三人でお参りした集落にある山神社の御守が握り締められていた。
「こいつ…あの時の御守を持っていたのか…顔がぐじゃぐじゃになっても、俺たちに自分の身元を知らせるためにこの御守を握って死んだんだな」
「覚悟の死だよ…」
「でも、何で !? 早く警察に通報しないと!」
智はそう言って泣き崩れた。
「警察は駄目だ。救急車を呼ぼう!」
「だけど、もう…」
「死んでいるのは分かってる…だけど、警察に通報したところで、すぐに腰を上げるかどうかはやつらの匙加減だろ。それより、救急隊を呼べば彼らが警察に通報する。いくらケツが重い警察でも、救急隊からの連絡となればすぐに動くしかないだろ」
英雄は懲りていた。一年前、伯父が山菜狩りで行方不明になった時、通報してから警察が実際に動いたのは8日後だった。祖母の時は10日後、それも再三に渡る催促で警察はやっと動き出した。
「あいつらは知っているんだ…最近、この山の熊が普通ではないことを」
「普通ではないって !?」
英雄は智の問い掛けには答えなかったが、熊は仕留めた卯七の遺体を取り戻しに、いつ戻って来てもおかしくないため、いつも以上に周囲を警戒しながら救急隊の到着を待った。
「…遺体があるのが不思議なくらいだ」
智は英雄の言葉の意味を察した。
「熊に襲われたのは、善三だけじゃないと言うことか?」
「ここに善三の遺体が残っているという事は、今、そっちの遺体を喰ってるんじゃないかと…」
「突然複数の熊に襲われたのかもしれないけど、善三が易々と熊にやられるわけがないだろう」
「でも、現に熊外傷を受けている。もし、覚悟の死だとしたら…・
「他に善三に死ぬ理由でもあったのか !?」
英雄は一瞬口を閉ざした。
「どうしたんだよ?」
「…先月…奥さんが無くなったばかりって聞いたろ…」
智は英雄の冴えない口調がしっくり来なかった
「後追いか !? まさか善三に限ってそんな…昨日来た東京もんのクソヲタを、熊に片付けさせるのに成功したんだから、晴れて奥さんを供養する立場だろ」
少しして、英雄は重い口を開いた。
「善三がこうなってしまった以上、おまえには話しても、奴は怒らんだろう」
「どういうことなんだ?」
「それ以外にも…あるんだ」
「それ以外にある !?」
「善三がもし覚悟の上だとすれば、死に場所にこの山を選んだのは他にも理由がある」
「あるのか…」
「善三の息子だ」
「息子がどうしたんだ !?」
「卯七は五年生の夏に転校して行ったろう」
「休み明けになっても中々学校に現れないから、どうしたんだろうとは思っていたっけど…先生に聞いたら転校したと…でも、それだけしか言わなかった」
「内陸線に立ち退きを喰ってる矢先に、父さんが死んで、ここに住んでいる理由が無くなったみたいだ」
「その事と覚悟の死が関係あるのか?」
「やつは内陸線の終点の鷹巣に引っ越したんだ」
「そのほうが良かったかもな。鷹巣の学校には依怙贔屓はないだろ」
「姉たちを頼って引っ越したらしい」
「それで?」
「今は閉校になったけど、当時、鷹巣に新設された高校にトップ成績の一期生として入学したらしい」
「あいつ、頭良かったからな。そのことでここでは金持マンセイの先生に随分と虐げられてたけどな」
「オレたちが小学生の頃は、金持ちの子より好い成績だと睨まれたからな」
「おれ、記憶してるよ、相撲大会」
「ああ、あれね! 善三が金持ちの息子の宣喜にうっちゃりで勝ったやつだろ?」
「そうそう、それなのに、行司の中川先生が軍配を宣喜に挙げたんだよな。金持ちのご機嫌取りで有名な中川に日頃から不満を持っていた父兄からのブーイングの嵐だった。取り直しになった善三は立ち合いで、相撲を取らずにわざと両膝を付いて、さっさと帰って行ったよな。中川の奴、軍配を持ったまま事態が飲み込めずに泡喰ってた」
「観客の多くから “それでいいんだ!” の声が印象的だったよな」
「うちの父さんも叫んだらしい」
「卯七はそういう洒落たことが出来るやつだった」
「あの中川のことなんか思い出したくもない。未だに腹が立つ」
「お前も授業ではシカトされてたからな」
「うちの父さん、宣喜の父さんとは犬猿の仲だったんだ」
「何かあったのか?」
「宣喜の父さんは、うちの母さんと結婚したかったらしい」
「恋敵か、生々しく惨めったらしい話だな」
「それより、その後、卯七はどうなったんだよ」
「東京で俳優になって一姫二太郎にも恵まれたんだよ」
「出世を絵に描いたような話じゃないか。でもオレ、全く知らなかったんだよ」
「まあ、普通なら親戚から友達に自慢するようなもんだが、善三は誰にも一言も連絡しなかった」
「あいつらしいな」
「ところが、高校の閉校式に講演を頼まれて数十年ぶりに帰郷することになったんだ。その時、大学卒業間近の息子を連れて来たんだ」
「息子は父親の故郷が余りにも田舎過ぎて、ビックリしたんじゃないのか !?」
「善三は講演の次の日、幼い頃よく遊んだこの山に連れて来たんだ。山菜取りや安の滝まで渓流を登りながら釣りを経験させたらしい」
「父親の幼い頃に触れて、息子はどう思ったろうな」
「俳優とは違う父親像を見たんじゃないのか? そして何年か経ったある日、その息子は一人でこの山に入り、父親が渓流釣りに連れて来てくれた安の滝まで登った」
「なんでひとりで !?」
「安の滝に辿り着いた息子は、そこで薬を飲んで自殺した」
「…鳥肌が立つな」
「息子の墓前でがっくり肩を落としている善三に、何でそんなことになったのか聞いたことがある」
「善三は何て !?」
「死にたい奴は死なせてやればいい…そう言ったきりだった。皮肉にも善三は息子を連れて来た沢で死んでた」
「…息子の死で立ち直れてなかったんだな、善三のやつ」
二人の会話が途切れた。風で笹薮が揺れたのだ。二人に緊張が走った。
「長居は危険だな」
その時、遠くから救急車の近付いてくる音がした。突然物々しいサイレンの音も加わり、その後ろにパトカーが続いていることが分かった。英雄は一瞬ゾッとするような残酷な表情でほくそ笑んだ。
「ここで鳴らす意味があんのか?」
「怖いんだろ」
「熊への威嚇のつもりかよ。日頃威張り腐ってやがるわりには、肝心な時に役立たずだからな」
「悪口言うと鉄三郎さんのように逮捕されれてムショに入れられるぞ」
鉄三郎…松橋鉄三郎は、長くこの集落のマタギ猟のリーダーである “シカリ” として名を馳せていた。かつてこの地域最大の豪族だった紅里(あかり)又(また)一族の子孫でもある。そしてマタギ猟の取材を受けた “忌々しい” 過去があった。
松橋鉄三郎は16代目打当マタギの伝説的な現役シカリとして何度となく新聞やテレビの取材を受けていた。このところ、熊による人的被害が急増する中、また地元新聞社からの取材依頼が来た。取材記者は鉄三郎の遠縁にあたると自称する松橋巌という男だった。マタギ狩りの様々な武器に強い興味を示し、謙虚で愛想のよい取材ぶりの巌に、鉄三郎はすっかり気を許し、問われるまま、武器をひとつづつ丁寧に説明して行った。タテと呼ぶ熊槍、カモシカ猟に使ったイタヤの木を削って作ったコナガイ、頭巾として被るダオボッチ、中でも巌が特に興味を示したのは鉄砲だった。
「どの武器も初めて見ました! この鉄砲をちょっと持っていいですか?」
当時のマタギの多くが愛用した村田銃だった。現在、害獣駆除には散弾銃が使用されるが、食用の獣には不向きである。一発の弾丸で仕留める村田銃は日本初の国産軍用ライフルとして誕生し、その後、猟銃に転じた銃だ。
「それは…」
「持つだけです。この部分は記事にしませんから…なんとか…」
鉄三郎は巌の熱意に押し切られ、ついに請われるまま猟銃を持たせてしまった。傍で取材を見守っていた英雄は、とっさに嫌な予感に襲われ、取材が済むなり鉄三郎のもとに慌てて寄って来た。
「鉄三郎さん、大丈夫なんですか !?」
「何が?」
「銃を持たせたのは、いくら何でも…」
「記事にしないと言ったし、遠縁でもあるから…」
「本当に遠縁なんですか !? やつはいい加減な事を言ったんじゃないですか !? やつに会ったことがあるんですか?」
「そう立て続けに聞かれてもなあ…おまえの同級生だろ?」
「だから引っ掛かるんすよ」
「引っ掛かる !?」
「小学校の頃の奴は、根性曲がりの上、腐った嘘吐き野郎でどうしようもないやつだったから…」
「でも、今は新聞記者としてちゃんと頑張ってるじゃないか」
「だといいんですが…」
英雄の懸念どおり、その信頼は翌朝裏切られた。鉄三郎の隣で得意げに猟銃を構えている巌の姿が、新聞紙面の一面に掲載されていた。このことが大問題になり、銃刀法違反で逮捕されてしまった。親切心で油断した鉄三郎は長い収監生活を強いられ、高齢のため牢獄で体調を崩し、釈放された頃には猟に戻れる体ではなくなっていた。以来、鉄三郎を慕っていたマタギ衆は警察を理不尽と見做し、敵視するようになって久しい。その後、巌は新聞社を退職し、警察署に出入りの清掃会社の役員として雇用されたことなど、鉄三郎には知る由もなかった。鉄三郎を師と仰いでいた鬼の子村のマタギ衆には警察の裏事情が分かっていた。
「やられたな」
「鉄三郎さんの口を封じたつもりだろうが、マタギ衆はみんな知っている」
「これからは警察に油断できないな」
以来、マタギ衆は “あること” に口を閉ざした。
レスキュー隊が到着すると、英雄たちは卯七の遺体の場所を説明し始めた。そして当然のように案内を求められたが、英雄は断った。
「悪いけどあとは皆さんにお任せします。私はこの後、病院の予約がありますんで、急がないと電車に間に合わなくなります」
「じゃ、智さんが案内してよ」
消防団長の長谷部朝雄は智の麻雀仲間だった。
「朝雄さん、オレも時間がねえんだよ。これから道の駅に出荷しねえと品物が駄目になっちまう。場所はその先の斜面を下ったところだからすぐ分かる。今、地図を書くから」
「オレは車で待ってるから」
英雄はさっさとその場から離れていった。
「すぐ行くから!」
智は簡単な現場までの案内図を書いて朝雄に渡し、英雄が待っている軽トラに走って乗るや、卯七の遺体回収はレスキュウ隊に任せて現場を後にした。
「英雄、案内しなくて良かったのかな、善三をこのままには…」
「いいんだよ!」
英雄は強引だった。熊が戻ってくるかもしれないその場を急いで離れる理由があった。死体を発見するなり、近くにいつもと違う熊の気配に寒気を覚えていた。英雄が “いつもと違う” と感じたのは、その臭いだった。
「ツキノワだといいがな」
「どういうことなんだよ !?」
「一頭じゃない」
「え !?」
「他の熊が善三の死体を狙って戻って来る」
「だったら尚更戻って早く回収しないと!」
「…その前に…」
英雄は言い淀んだ。
「その前に !?」
英雄は厳しい表情のまま軽トラを飛ばした。
「その前になんだよ!」
英雄の脳裏を30数年前の惨劇が覆っていた。1987年に秋田県鹿角(かづの)市の観光牧場で羆(ひぐま)が脱走し、従業員が羆同士に体を引っ張り合うなどされ、数名が殺傷された事件があった。その後、脱走した羆6頭は全て射殺…とあるが、2頭の羆が逃走したまま行方不明であるという噂についての報道はない。しかし、その数年後、猟師たちの間で 『ハイブリッド個体』 の噂が広がった。羆とツキノワグマの交雑種の存在である。ハイブリッド個体はツキノワグマの特徴とする胸部分にある三日月形の白い毛並みだが、体毛は黒くはなく、羆のような茶褐色の毛並みを持つ。更に個体の大きさは羆なみに巨大なのだ。
英雄によれば、ツキノワグマは5~6月頃の繁殖期には主に首の後ろや頭頂部に、少し麝香(じゃこう)のような臭いを発する時期がある以外、日頃は綺麗好きな習性で殆ど臭いがないという。一方の羆は消化能力が弱く、排泄物に食べた物の色や匂いが残って、あまり消化されない状態で排出されるので臭いが強いそうだ。英雄はこの地帯に生息するツキノワグマではない臭いに、寒気の伴う違和感を覚えたのである。山に慣れた地元民でも、英雄のような感知能力は稀であろう。
「…ツキノワじゃねえ」
「だけど、この一帯は…」
「今まではな。だけど、鹿角の熊牧場から逃げた羆2頭…」
「あの熊牧場の熊は全頭射殺されたはずだろ !?」
「マスコミ向けにはな」
「まさか…その羆2頭がこの山に !?」
「まだ見つかってねえから、この山に居るとは限らねえが…」
「それって噂の域を出ねえだろ」
「鉄三郎さんが目撃してるんだよ、この山で」
松橋鉄三郎は90歳の長老だが現役でマタギ文化を踏襲し続けている生きた伝説のシカリだった。県警は、都合の悪い真実を確認しているとなれば、鉄三郎に対しては当然風当たりが強くなろう。取材記者を使った口封じを画策したとしても不思議ではない。
「じゃ、どうすんだよ…猟で仕留めるのか !?」
「鉄三郎さんはもう手遅れだと…」
「なんで !?」
「脱走から既に数年が経過している…鉄三郎さんが山で見たものは脱走した羆ではないと言っている」
「やはりツキノワだろ」
「ツキノワでも羆でもない」
「じゃなんなんだよ」
「ハイブリッドだ」
「ハイブリッド !?」
「ツキノワと羆の交雑種だ。それも一頭だけではない。既に代変りで繁殖し続けている可能性がある。鉄三郎さんはそれを糞(ふん)で確認しているんだ」
「善三はまさか、そのハイブリッドに !?」
「少なくとも、あの現場の糞の臭いはツキノワのそれとは違ってた」
「すると、卯七をやったのは、そのハイブリッドということか !?」
「そして、これから…」
「これから !? これから、何なんだよ !?」
その頃、卯七の遺体回収現場にあたる捜索現場では、既に大惨事が起きていた。英雄の懸念どおり、熊が卯七の遺体を取り戻しに戻って来ていたのだ。それも一頭ではなく五頭である。そして英雄の読みどおり、その五頭はツキノワと羆のハイブリッドだった。
先頭のレスキュウ隊員が五頭のうちの二頭の小熊を先に発見し、不用意に威嚇したことが親熊を刺激し、攻撃を加えられる羽目に陥ってしまった。突然現れた親熊の一撃で、先頭のレスキュウ隊員が命を落とした。それを皮切りに、人間の存在を確認した他の熊も攻撃本能を剥き出しにしてレスキュー隊や腰の引けた警察官たちに襲い掛かって来た。慌てた警察官が常軌を逸し、銃の乱射が始まると、レスキュウ隊員や警察官に当たり、その一帯は凄惨な殺し合いの場となって行った。
事態収拾不可能と見た消防団長の長谷部は “撤退” の号令を掛けたが、時既に遅く、狂った警察官の銃や熊の暴れようで蜂の巣を突いたようになった。現場から逃走しようにも、足元の藪が行く手を阻み、機敏な熊たちによって片っ端から攻撃を加えられていった。やっとひとり、山道に飛び出した警察官がいた。陣頭指揮に当たっていた本部長の駒井忠則である。かつて、英雄の伯父が山で行方不明になった折に、八日後にやっと腰を上げて陣頭指揮を執った男だ。現場を消防団長の長谷部に丸投げして、自分は一番後ろで威張り腐っていたが、事態がそこまで逼迫して来ると、ひとりパトカーに乗り一目散に車を出した…が、そこまでだった。二本足で立ちはだかった巨大な熊が行く手を阻んだ。駒井は思わず急ブレーキを踏んでフリーズした。
「なんだ、あれは !?」
深い樹林や茂みに覆われて、その全貌が見えなかったハイブリッドが目の前にその姿を現わした。ハイブリット熊の全容をまじまじと見たのは、この駒井が最初の人間だった。県警にとって存在してはならない、この地区に存在するはずもない異様な毛並みの巨大な熊が、パトカーに突進して来た。強烈な体当たりの衝撃でフロントガラスが飛び散り、その反動で警察官は車の外に弾き出された。熊は容赦なく駒井の頭を齧り砕いた。足をバタバタさせて苦しみ藻掻いていた駒井は、間もなく全身がダラリとなり、ボロキレの態で引き摺られて山中に消えていった。夕焼けが運転席を朱く照らす静寂の空に、応答を求める無線の声が忙しく響いた。遺体収拾に駆け付けた警察官もレスキュウ隊員も誰一人山中から出て来る者はなく、山あっという間に闇に包まれて行った。
大惨事が起こっているであろう山林を後に走る軽トラのバックミラーには、器用だった鉄三郎が作ったミニかんじきとコナギ(木製のヘラ型杖)がセットになったアクセサリーが揺れていた。英雄に残された唯一の鉄三郎の形見だった。
驚くかな、この惨劇は記事にもならなかった。あろうことか、英雄たちは極秘捜査を理由に警察から難く口止めをされたが、英雄も智も
「意味分からんですね」
「警察からの命令には従ってもらわないと困ります」
「オレは警察官じゃないんで、あんたに命令される覚えはないんだがね」
「それはそうだが、県民が警察の捜査に協力するのは義務でしょ」
「隠蔽に対しての協力は出来ませんよ。それにオレ、口が軽いんでそんな約束なんか守れないです」
「この先、あなた方が困った事になっても知りませんよ」
「今度は脅しですか !? 警察は怖いこと言うね」
「兎に角、このことは他言しないよう…」
「実は、もう何人にも喋っちまってね。今更、俺一人が黙ったところで、山での熊騒動はもう村中に広がってる頃だよ」
「松橋さん、そんなこと言わないで協力してくださいよ」
「そう言えば、本部長の駒井さんも熊に襲われて亡くなったそうですね」
「・・・」
「あの人、オレの伯父さんが山で行方不明になった時、中々動いてくれなかったんですよ。腰を上げてくれたのは8日後でしたよ。そんなに放ったらかしにされたら、助かるものも助からないですよね。今回、そのバチが当たったんじゃないですかね?」
「おまえな !!」
「今度は恫喝ですか? 受けて立ちますよ。逮捕しますか? 罪は何です?」
「これ以上、用がなければ帰らしてもらいます。束縛するんであれば弁護士を呼ばしてもらいますが、どうします?」
苦虫を噛む担当刑事の金田克夫巡査部長は、鉄三郎を陥れた松橋巌の義兄だった。その金田を尻目に二人は警察署を後にした。
ハイブリッドの存在は、絶対にあってはならない警察の古堅に関わる怠慢事項なのだ。そして、英雄の脳裏を覆っている羆とツキノワグマのハイブリッド説は、物好きな連中の噂話の域を出ることはなかったが、糞でそのと繁殖の可能性を確信していた鉄三郎の釈放は、事実を知っているであろう鬼の子村マタギ衆共々、警察にとっては実に油断ならない警戒事項だった。地元新聞記者の巌を使って、鉄三郎をスケープゴートしたまでは良かったが、収監期日には限度があった。釈放後、鉄三郎によって羆脱走の事実が公表されれば、許されざる県警の失態に繋がる。90歳の長老にとって厳し過ぎる一年間の実刑判決による刑務所暮らしは、県警に自業自得の時限爆弾を背負わせることになった。しかし、鉄三郎の出所の姿は、死相を漂わせた見る影もないやつれようだった。
そして釈放から一週間後、鉄三郎はこの世を去った。県警は一先ず胸を撫で下ろしたことだろう。しかし、鉄三郎を師と仰ぐ英雄ら鬼の子村マタギ衆にとって、我慢ならない司法の傲慢に、警察への敵対心が迸って今に至っている。
あの時、大仰に山林に到着した県警に、英雄が秘かにひとりほくそ笑んだのは何故か…その目にはこれから起こる大惨事が見えていたからに他ならない。そして、マタギの師・鉄三郎へのせめてもの “供養” の象徴として絶好の機会となった。
「…鉄三郎さん」
熊はバカではない。ターゲットは攻撃をしない卯七の遺体ではなく、無鉄砲に騒ぎまくる連中だ。自分たちのテリトリーを守るには、侵入者の皆殺ししかない。熊は、人を襲った場所には人が来なくなることを知っている。ここは自分たちの新たな聖域であり、人間どもが容易く足を踏み入れるところではないということを知らしめる必要があった。そして惨劇は理想的に完結された。子どもには鮮度が落ち始めている卯七の死体より、今仕留めたばかりの新鮮な人肉を食べさせてやりたい。その結果、卯七の遺体は未だ取り残されたままになっている。生まれながらに感知能力が鋭い英雄は、卯七の遺体を発見した時、既にそのことを想定していた。英雄が熊の心を読めるようになったのは、長く鉄三郎にその裁量を伸ばしてもらって来たからに他ならない。
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