第28話 触媒

屋上から見える星空と、手すりの向こうに広がる街の光が懐かしい景色に思える。


だが感傷に浸っている余裕はない。周囲を見渡すが、何も置いておらず役立ちそうな物は見当たらない。下を覗き見ると恐らく5、6階建てだろうか。道具なしに降りられる場所では無かった。


上に登ったのは間違いだったかも知れない。引き返そうと扉に近づいた時、嫌な気配を感じる。耳を澄ますが何も聞こえない。しかし近づいてはいけないと本能が言っていた。唯一の遮蔽物になる貯水タンクの方へ走り、その裏から様子を伺った。何秒も経たないうちに、屋上の入り口の扉が吹き飛んだ。


隠れても無駄だと思った。自分が怪物の気配に気がつく様に、お互いが何かを感じ取っている。貯水タンクの裏、ほんの4、5m先に奴はいる。


あと1歩だと思っていた。もう少しで何かが変えられると思っていた。あの世界を訪れる前には考えられないほどの窮地だって乗り越えた。だが今の状況を乗り切るビジョンは見えない。赤い世界で日々を過ごすうちに忘れていたが、所詮自分はこんなものなのだ。

悔しさとやるせ無さが自分の中で渦巻く。それは次第に自分自身、そしてこの世界の理不尽さに対する苛立ちに変わっていった。拳を強く握り、貯水タンクを思いっきり殴りつける。そしてガクリと項垂うなだれた。同時に貯水タンクが横に真っ二つに切り裂かれる。頭上数十cmの所を怪物の鋭い尾が通過した。

中から飛び出す水勢で体は後方に飛ばされ、再び背中を強打した。




「起きて。今しかないの。起きて!」


寝そべったまま目と口を大きく開く。呼吸が出来ず口をぱくぱくさせる自分を見て、レベッカは手のひらで鳩尾を強打した。その勢いで口から大量の水を吐き出す。咳き込みながら何とか呼吸を再開させた。


「水にでも落ちたの?でも良かった。早く今のうちに探すわよ」


言われて起きあがろうとするが体が動かない。


「待ってください。何があったんです」


「こっちが聞きたいわよ。あのクソ犬が来て2階部分を壊したと思ったら消えちゃったのよ。それで瓦礫の中にあんたがいるのを見つけた」


「レベッカは怪我は無いのですか」


「腕も足も大怪我よ」


そう言ってまだ血の流れる傷口を見せつけてくる。そうだ、寝てはいられない。


「探しましょう。すいませんが、手を貸して下さい」


レベッカの怪我をしてない方の腕で引き起こしてもらい、何とか立ち上がる。瓦礫だらけの周囲を見渡し、確かに番人の気配が無くなっている様に感じた。


「もうどこにあるかわかりません。しらみ潰しに探しましょうか」


「待って、確か本では水が必要だって書いてあったの。触媒を大量の水に触れていられる所に置くようにって」


「となると湖の底かもしれないですね」


「それは無いわ。触媒は呼吸をして今も生きているはずだから」


この教会は長いこと管理されていないはずだ。となると蒸発してしまう所や、水没してしまう場所にはいないはず。


「手分けして探しましょう」


1階の聖堂は崩れ落ちた瓦礫が大半を占めていた。幾つかの部屋があるようだが、何も置いていなかった。聖堂の奥の亀裂から外が見え、少し先には湖が見えた。やはり湖から水を引いているのかもしれない。しかしどうやってこの高さまで水を組み上げているのか。

その時、ハッと閃く。


「レベッカ!」


声に反応して足を引きずりながら近づいてくる。


「地下です。どこかに地下への入り口があるはずです」



それが大事なものなら隠すだろうと思っていた。だが教会の信徒や、触媒となる人にとっては崇高なものなのでは無いのか。そう考えると、聖堂にあるに違いない。

聖堂の中央、普通の教会なら神父が立つ場所に置かれた石の机。風化していて僅かではあるが、その足元に机を引きずった跡が残っている。


「ここです」


レベッカは近づきその場を見る。


「どれのことを言ってんだい」


「とにかく一緒に押して下さい。せーの」


ガリガリと石の擦れる音を響かせながら机は溝を滑り、そして真っ暗な地下へと繋がる階段が姿を見せた。

思わず鳥肌が立つ。松明は無い。だが進むしか無かった。手を壁に触れながら、ゆっくり1段ずつ階段を降りていく。レベッカもすぐ後を続いた。

20段ほど降りた時、正面にある何かにぶつかった。手で探ると木の扉の様だった。手探りで取手を探すと、鉄の輪っかの様なものに触れる。力を入れて押すと、ギシギシと扉は開かれた。


扉の隙間から光が差し込んでくる。中に入ると、そこは20畳ほどの少し広い部屋だった。

湖の側に幅が10cmほどの縦に長い隙間が窓のようにいくつも並んでおり、そこから部屋全体に光が差し込んでいた。部屋にあるのは中央に置かれた台座のみ。台座は噴水のように水で囲まれて、その水は壁の穴まで続いている。あの穴は恐らく湖へと繋がっているのだろう。

そして台座の上には赤いローブを着た何かが横たわっている。恐る恐る近づくと、それはミイラの様に痩せ細った遺体に見えた。ちぢれた髪の毛は僅かにしか残っておらず、胸の前でクロスする腕は骨と皮しかない。それでも肌は腐っておらず、陥没した目は閉じられたまま、眠っているように佇んでいる。


「これが触媒ですか」


「こいつを殺せば全て終わるんだろ」


レベッカは腰につけたナイフを取り、こちらに差し出した。


「あんたがやりなよ」


ナイフを受け取る。


「一緒にやりましょう」


台座を挟んで立ち、2人でナイフを掴む。これからどうなるかわからない。この手を下ろせばもうレベッカと会えないかもしれない。不安は尽きないがやるしか無い。


そう思い手に力を入れた時、触媒の目がゆっくりと開かれた。

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