第38話 従僕をもふもふする(後編)
白いタオルの隙間から覗くアルトバロンの菫青石の瞳が瞬き、『意味がわからない』と告げている。
その隙に、私は「えいっ!」と彼の黒い狼耳にふわふわのタオルを滑らせた。
「ふふふっ、もふもふもしっかり拭いてあげるわね」
「…………っ!」
「ねえ、初めてアルトの耳をもふもふさせてもらった日のことを覚えてる?」
「……お嬢様、そこ、は。……うっ」
ぶわりと目元を真っ赤に染めたアルトバロンの瞳が、潤んだように濡れる。
黒い狼耳がぴくりと小さく反応した瞬間、アルトバロンは目を瞑りながら俯いて、「はっ」と感情を逃がすように短い息を吐いた。
「ふふっ、もしかしてくすぐったい? あの日以来何度かもふもふさせてもらったけれど、最近のアルトったら、全然触らせてくれないんだもの」
「それは……っ」
「ねえ、どう? 気持ちいい?」
「は? ……う、ぐ」
労いのなでなでをしながら問いかける。しかしアルトバロンの反応は芳しくない。
時折気持ち良さそうにしているのに、眉根を寄せて「うう」とか、「ぐう……」とか唸りながら険しい顔で堪えている。
前世で愛犬をもふもふして培った〝なでなでスキル〟は今も健在のようなのに、一体なぜ。
「ねえ、アルト? 気持ちよくない? どこをもふもふしたら、アルトをもっと気持ちよく――」
白いタオルを持っていた私の両手首を、黒革の手袋を嵌めたアルトバロンの手が掴む。
突然の制止に驚いた私は、こてりと小首を傾げる。
「アルト? どうしたの?」
「お嬢様。お戯れはそこまでになさってください」
「へ?」
突然ストンと表情を無くしたアルトバロンが、絶対零度の冷たい声音で甘やかに囁く。
彼は優しい手つきで私の手から白いタオルを引き抜くと、私の両手首を拘束するかのように、するりと巻きつけた。
そうして優しく、拘束した両手を彼の方へ引っ張られる。
「ひゃあっ! な、な、なに!?」
前のめりになった私は、アルトバロンの胸に上半身を倒す結果になってしまった。
「どこを触ったら僕が気持ちよくなるか、ですか? ……本当にお答えしても?」
彼の菫青石の双眸が、熱を帯びたようにしっとりと濡れている。瞳の奥には仄暗く燻る炎が爛々とちらついているように思えた。
まるで奥底から湧き上がる感情を無理やり抑えつけているような、切ない色気を帯びたアルトバロンの様子に、恥ずかしくなった私の頬はかぁあっと熱くなる。
「あ、アルト……?」
しかし、彼は何がおかしいのかクスクスと小さく笑い出したあと、「はあ……」と自嘲気味にため息を吐いた。
「お嬢様に対するこの激情を、僕はどこへ向けたらいいのでしょうね」
「へ? え、っと。……もしかしてアルト、怒ってる?」
「いいえ。まったく」
そういう割には笑顔が怖い。黒髪美青年の悪魔がいる。
「激情って、超過激な怒りの感情って意味よね? えっ、やっぱり怒って……!?」
「違います。ただ、」
そう言ったアルトバロンの低くて甘い声が、小さな吐息とともに鼓膜を揺らす。
そうして彼は、本物の狼が甘えるみたいに、私の首筋に鼻梁をするりと擦り寄せた。
「………………っ!」
「撫でられると、お嬢様のうなじを噛みたくなるので。この辺で止めて頂かないと歯止めが効かなくなりそうです」
ひぇええっ。な、な、な、なに!?
突然の出来事に驚きすぎて、ドキドキと心臓が激しく鼓動を刻む。
それに、それにっ、シャンプーのいい匂いまでする……っ!
じゃなくて、うなじ!
私のうなじを間違いで噛んだりしたら、大変なことになっちゃう! アルトの人生の終わりだわっ!!!!
アルトは、聖女様の、聖女様の……っ。
あまりにも驚きすぎてぐるぐると目が回る。
「それから……本日の髪型は初めて見ますね」
「え、ええ。そう、ね」
「そちらの髪型もとても可愛くてお嬢様に似合っています。ですが、猛暑日以外にはお控えください」
「そ、それは、なぜか、聞いても……?」
ドキドキと胸がうるさいけれど、もうなにがなんだかわからなくて、理由を聞かずにはいられなかった。
するとアルトバロンは蠱惑的な悪魔の笑みを浮かべながら、私の首元にまた顔を寄せ――そっと、うなじに唇で触れた。
そうしてゆっくりと、余韻を残すかのごとく離れると、壮絶な色気をまとったままアルトが私を見下ろす。
「大切なお嬢様のうなじが僕以外の男の目にも晒されていると思うだけで、独占欲で頭がおかしくなりそうなんです。……こうやって、僕という存在を刻みつけたくなるくらいに」
「…………っ!」
私は頬だけでなく、目元も、耳も、うなじまで真っ赤になっているのを感じながら、ぶんぶんと首を縦に振って頷く。
色気たっぷりに凄まれたせいで胸がきゅううっと締め付けられて、いてもたってもいられなくなった。
「わあああああっ! ごめんなさいアルトっ!!」
拘束を解かれた両手で、私は顔を覆う。
「だだ私は、アルトをたくさん可愛がって、労って、もふもふなでなでしたかっただけなの〜〜〜!」
なのに、一番やってはいけない間違いを引き起こしそうになるなんて……っ。
「う、うなじは獣人の番契約にとって大切なものだからこそ、安易に晒すなと言いたいのよね!?」
「ええ、そうですね。それも理由ではありますが」
「自分を犠牲にしてまで、従僕として主人に尽くそうとするアルトの忠誠心、あっぱれだわっ!!」
それにしても、やり方が恥ずかしいぃぃぃ。
彼に触れられたうなじがまだ熱くて、熱くて、たまらない。
私は「んんっ」と咳払いをしてから、主人としての平静を取り繕う。
ここはきっちり、心の底から反省と謝罪の言葉を伝えなくてはいけない。
「さっきは無遠慮にもふもふして、ごめんなさい。アルトを虐めたかったわけじゃないの。私はあなたのことが、心から大好きよ」
「…………っ、お嬢様」
「それから」
「は、い」
「私がアルトの〝最愛〟を奪うことはない、から」
アルトバロンは切ない表情を浮かべる。それから言い表せない感情を理性で無理やり飲み込んだみたいに、今にも泣き出しそうな顔で苦しげに眉を寄せた。
まるで、酷い胸の痛みを我慢している風にも見える。
「だから、いつかあなたが……〝最愛〟と幸せになれますように」
「…………ありがとうございます」
アルトバロンの双眸に、長い睫毛の影が落ちる。
「そうですね。……必ず、どんな手を使ってでも……――〝最愛〟を手に入れてみせると誓います」
私を見下ろす彼の菫青石の瞳は、どこか危険な雰囲気を秘めた、とろりと甘く重たい仄暗い熱を帯びていた。
◇◇◇
後日――。私は獣人族の番契約を研究した本を、こっそり自室に持ち込んで読み漁った。
そこに書かれていたゲームでは明かされていなかった衝撃の事実に、「えぇええっ」とひとりきりの室内で赤面する。
なんと、十五歳を過ぎた獣人が耳に触れ合う行為は、相手への〝求愛行動〟のひとつらしい。
ひとつ触れるごとに、『大好き』『愛してる』『あなたを私のものにしたい』『私だけの番になって』『一生離れないで』『今すぐうなじを噛んで、〝最愛〟と認めて』と伝えることになるのだそうだ。
「じゃあ、あの時、私はアルトに……っ!」
私のもふもふを、アルトバロンがどんな気持ちで受け止めていたのか想像するだけで、恥ずかしさで爆発しそうになる。
しかも獣人の男性は、〝最愛〟と感じている相手に〝求愛〟をしながら耳を触れられると、〝最愛〟への独占欲や愛情で思考が溶けて、強い幸福感や酩酊感を伴うとか。
求愛行動を受けても〝最愛〟と番っていない場合には、さらにその後の七日間ほど、ヒートに似た症状がでて苦しむことになるらしい。
「こ、これはものすごいカルチャーショックだわ」
でも、私はアルトの〝最愛〟じゃないからひと安心ね。
それだけは効果がでそうになくて良かった!
「だけど……今度改めて真面目に謝りに行こう」
そう決意した初秋の夜なのだった。
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