第35話 従僕の独占欲(後編)


 アルトバロンは王城にある宮廷魔術師団の専用演習塔から転移魔法を使って、王都の郊外にあるディートグリム公爵邸へ向かう。


 途中、王都内にある衛兵が管理する転移魔法陣を通過する。これは事前にグレイフォードから指定された中継地点だ。


 転移魔法は上級魔法の中でも非常に扱いにくい部類に入る。

 独学で学ぶには難しく、王立魔法学院を卒業した者の中でも、『空間魔法理論』を修めた者だけしか使用できない。転移魔法陣を一切使わずに転移できる者はその中のさらに少数となる。


 勤勉家なアルトバロンも理論は当然把握していたが、九歳という若さで魔法陣に頼らずに転移できるようになったのは、グレイフォードの徹底した指導のおかげだ。


 けれども、今日のように鍛錬で魔力を使いすぎた時には、成長途中の身体に負担をかけないためにも、転移魔法陣を使用するようにしている。


 王国内にはこのように衛兵が管理する転移魔法陣がいくつもの存在する。

 その性質上、一般人の使用頻度はかなり低いのだが、防犯や警護の観点から、転移魔法陣を通過するたびに許可証を見せて通る必要があった。


「許可証を」

「宮廷魔術師団長、グレイフォード・ディートグリム公爵閣下より賜っています」


 通行許可を得るため、許可証となる特殊な魔法陣を衛兵が持つ魔法石にかざす。この魔法石に、いつ誰が転移魔法陣を使用したか詳細な記録が残る仕組みだ。


「……確認した。転移魔法陣の使用を許可する」

「ありがとうございます」


 魔法陣は転移魔法の補助を行ってくれるものの、結局その発動は自分の魔力で行わなければいけない。

 アルトバロンは衛兵にお辞儀をしてから、無詠唱で転移を行う。

 それを二度繰り返しながらも、思考は先ほどユーフェドラに告げられた言葉で埋め尽くされていた。


 ――『ティアベル嬢にだって、いつかは婚約者ができる』


 それはそうだろう。ティアベルはディートグリム公爵家直系の血筋を受け継ぐひとり娘。将来を考えれば王族に嫁ぐか、上流貴族の次男あたりを婿にもらうのが妥当だ。……だが。


(王太子殿下にはっきりと告げられたからこそ――、お嬢様がと番になる未来を想像しないようにしていた自分に…………やっと気がついた)


 第二王子レグルス殿下の求婚以来、あえて考えないようにしていた〝ティアベルの婚約〟。

 当然の未来を急に突きつけられ、アルトバロンは困惑せずにはいられなかった。


 そんな状態のまま、ディートグリム公爵邸の門前に到着する。

 馬車寄せには、今しがた離れてきたばかりの王城に掲げられた旗と同じ、シュテルンベルク王家の紋章が施されている四頭立ての豪奢な馬車が停車していた。


(……嫌な予感がする)


 そう思ってしまったのは、王太子殿下の言葉が尾を引いているからだろうか。


 馬車から降りてきたのは、案の定、今一番会いたくないと思っていた人物……レグルスだった。


 彼がちょうど今ディートグリム公爵邸へ到着し、ティアベルを訪問しに来たのであればまだ良い。

 しかし、アルトバロンの縋るような願いは、レグルスがエスコートする姿勢で馬車の中へ手を伸ばしたことで、すぐに一蹴された。


 彼の視線の先では、期待や羞恥に頬を染めたレグルスの手に、社交的な微笑みを浮かべたティアベルが遠慮がちに手を添えて馬車を降りてくる。

 ふたりにだけスポットライトが当たるような錯覚。

 アルトバロンの狼耳から、ふっと周囲の喧騒が消えた。無音だ。


(……お嬢様も、今日は王城にいらしていたのか。……知らなかったな)


 長い睫毛に縁取られたアルトバロンの瞳は、恐怖にも似た焦燥に染まる。


 従僕としていとまを出されてから、徹底的に主人の情報が回ってこない。それが旦那様から下された罰なのだから、それもそのはずだ。


 けれどもその裏で、こうして知らぬ間にレグルスがティアベルと近付き――もしかせずとも、婚約への階段を徐々に登りつつあるのかと思うと……。

 心臓が鷲掴みされたみたいに痛くなって、ひどく苦しくなった。


 同じ馬車に乗っていたのだろう。周囲にはティアベル専属メイドであるエリーや、レグルスの従者であるスタンハイル公爵令息もいるが、アルトバロンの視線はティアベルとレグルスを映したまま、凍りついている。


 ティアベルがそばに居たら、『どうしたのアルト? どこか痛むの?』と問いかけてくれていただろうが、あいにく彼女はレグルスの隣に立っていた。


(従僕として望むべきは、お嬢様の幸せだ)


 だというのに。

 きゅうっと喉にどうしようもない切なさが詰まって、胸がこれ以上にないほど締め付けられる。


(従僕の任を解かれてからの日々は……お嬢様に付き従い、守護する護衛騎士たちが羨ましかった。

 お嬢様から時折笑いかけられ、会話に小さな花が咲いている様子に憧憬が募って。羨望の眼差しで見つめては悔しさに苛まれた。……その場所は僕のものだと、叫びたかった)


 羨望や憧憬にまみれた感情の渦が、うねりを帯び、激流になり。灰色に、黒に染まっていくのを感じながら…………それでもアルトバロンはまだ、お嬢様への忠実なる忠誠心がと信じていた。


(だが、そうじゃない。……僕は、嫉妬しているんだ。護衛騎士に、レグルス殿下に)


 アルトバロンは黒革の手袋をつけた手でお仕着せの胸元をグッと握りしめて、ふつふつと湧き上がる激情を無理やり抑え込む。


 自分の中にある強烈な嫉妬心を自覚したせいか、これ以上にないほどどくどくと血液が全身を巡り、異常な脈を打つ鼓動音と同じ耳鳴りがする。


 そんな中、鼓膜の内側では――『私は絶対に、アルトに私のうなじを噛ませたりしない』と、ティアベルからまっすぐに宣言された言葉が蘇っていた。


(……あの瞬間、僕にもたらされたのは……たったひとりの〝最愛〟を見つけたのだと確信した、至極の幸福と、絶望だった)


 あの時の自分はめちゃくちゃだった。

 ともすれば泣き出してしまいそうなほど、切なくて苦しくて、悲しかった。


(お嬢様の言葉の全てが、優しく優しく真綿で包むかのように……至極の幸福に満たされた心を包んで、掻き乱して、掻き乱して……)


 頭から冷水をかけられたのかと思うほど、身体も心も冷たくなって。

 心が短剣でズタズタに引き裂かれたかのように痛くて、あまりの苦痛で思考が焼き切れてしまうかもしれないと思った。


(僕の欠陥だらけの心はきっと忠誠をはき違えてしまったんだと、諦めて笑うしかなかった。

 ……だが、従僕としての任を外された今ならば明確に理解できる。

 僕の胸にあるこれは、忠誠じゃない。

 忠誠なんかよりも、もっと深く、深く、お嬢様を渇望してやまない――独善的で苛烈な、独占欲)


 それも、自分以外の男がお嬢様を守り、庇護するのが許せないほどの。

 思考がぐちゃぐちゃになり、心が黒く塗りつぶされていく。苦しくて苦しくて、吐きそうだ。


アルトバロンがお嬢様の従僕として存在する意義に、早く強固な理由づけをしなくては。

 家庭教師としてお嬢様の時間をいくら独占しようが、主従契約を結んだ従僕という地位だけでは足りない。ディートグリム公爵家の護衛騎士団で名を上げて権力を得るだなんて、生ぬるい……)


 どんな上流貴族の令息も恐れをなすほどの地位が欲しい。


(王太子殿下やレグルス殿下にも無下にはできない、彼らの喉元を狙えるような揺るがぬ地位に立つ必要がある)


 伏せられた長い睫毛から覗く彼の菫青石の瞳が、仄暗い決意に染まっていく。

 その時だった。


「あっ、アルト! おかえりなさいっ!」


 耳鳴りのする無音と独占欲に支配されたアルトバロンに、ティアベルの眩しい笑顔が向けられたのは。


 真珠色の髪に橙色にとろける夕陽が滑り、彼女の頬を淡く染める。

 きらきらと輝きを増す透き通った紅玉の瞳は、朝陽に照らされていた時よりも、どきりとするほど艶めいて見えた。


 彼女はレグルスに断りを入れると、先ほどまでとは全く違う表情ですぐにこちらへ駆け寄ってくる。

 社交的ではない、安心しきった唇。警戒心の宿っていない純朴で無垢な指先。


(……僕にだけ向けられる、お嬢様の特別な表情)


 酩酊するほどの幸福感が身体を包む。


「いつ帰って来たの?」

「今、帰ったばかりです。お嬢様も王城へお出かけでしたか?」

「そうなの。メローナ様の案件でね。帰りはレグルス殿下が送ってくださったのよ。朝はメローナ様が迎えに……というか、さらわれたみたいな感じだったんだけど、帰りは置いていかれちゃったのよね」


 まったく、メローナ様ったら『健康にいいこと』にしか興味がないんだから!

 とティアベルが、随分と打ち解けたらしい女性癒師団長を思い出してか、腰に手をあててため息をつく。


「そうでしたか。では僕も、お嬢様の従僕としてレグルス殿下にお礼を伝えなくてはいけませんね」


 アルトバロンはティアベルへ向ける激しく重たい独占欲を隠すため、その美貌に、誰もが見惚れる絶世の微笑みを浮かべた。



(初恋と呼ばれるような淡くやわらかな段階は、とっくに通り過ぎている。この歪な感情に、名前をつけるとしたら……――きっと愛だ)


 それも愛を深淵の奥深くで煮詰めて、蜂蜜のようにどろどろに溶かした――……




 ……――〝猛毒〟に近い、深愛だ。




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