第10話「躍進」
病院で上司と会話をしてからというもの、自分の中で何かが変わったかのように働くことに意味を見出してた。これだけポジティブになれたのは入社して新人の頃、初々しくも期待感を伴ったあの感じに似ている気がした。今日から僕は社会人だ、この会社で役に立てるように頑張ろう。そんな気持ちが今になって再確認するように蘇ってきたと言えばいいだろうか。
あの見舞いに行った日から既に1ヶ月が経とうとしていた。会社から「係長 兼
課長代理」の肩書きを貰ってからすぐ人事連絡が発信され、全社員に僕の名前が知れ渡ることになった。もう迷っている暇なんて無かった。とにかく上司といつも一緒に行動していた時の事を思い出しながら商談をこなした。何度も伺ったことのある取引先では、運の良い事にというか当たり前と言うか、僕の事は覚えてくれていた。そのお陰もあって仕事は滞りなく進めることができていた。
「初めて会った時とはゼンゼン違うじゃねえか。なんかオーラみたいの出てるぞお前。」
こいつがそう言うのだから本当に視覚的に何かが見えているのかもしれない。だがそれもこれも本当に上司の助けがあっての事だ。人から貰う言葉には魂がある。言霊というヤツだ。それを僕は上司から貰った。自分からやってやろうと思えた。今までのなんとなく仕事をしてなんとなく過ごす毎日を変えることができたことは確かだ。
人事連絡のあった日に全社員が集まって緊急業務連絡会が開かれた。上司が退職する事になった旨が伝えられ、代わりにそのポジションに収まる僕が紹介された。本当に入社したての新人の時以来、こんなにも多くの人前で話したのは久しぶりだった。緊張するかと思ったが特にそんなことは無く、思った事を伝える事ができたと思う。僕の簡単なスピーチのあと、部長からの話があり、業務連絡会は終了した。
そして待望の、と言うべきか、僕に部下が2人就くことになった。専属の部下だ。今までは後輩に簡単な仕事を頼むくらいしか指示を出していなかった僕は少し不安を覚えた。何せ僕の判断と指示によって動くのだ。偉い言い方をすれば命令ができるということだ。それから交流も深めねばならない。人を知ってこそ自分を知ることが出来、自分への理解を深める事でまた成長できる。そう言う姿を部下に見せていくのも上司の仕事だ。今更ながらに僕は上司から学んだことを噛み締めていた。こういう事だったのか、と気づくまで正直時間をかけすぎた。
「ふうん。エラくなるってのは大変なもんだな。最近のお前見てるとよくわかるわ。」
仕事中にこいつの思考が紛れ込んできても簡単な会話をするくらいの事はもう慣れていた。仕事のスイッチとこいつとの会話のスイッチの切り替えはもう無意識にできるような状態にまで僕は成長していた。そうか?まだ大きな実績を挙げたワケじゃないからこれからさ、と思考で答えながら部下の一人に次の仕事のアポイントの話を持ちかける。
こんな具合に毎日忙殺されるような忙しさを体感してはいたが、不思議と疲労感に襲われる事は少なかった。どちらかと言うと疲労感より充実感の方が上回っていたからだ。特に大きな問題も無く、継続更新、新規契約、いつものお得意先との接待など、だんだんと自分の置かれている立場に順応していけた。僕自身が少し驚いているくらい、物事は順調に運んでいる。だがそう言うところに落とし穴というものは待ち構えている。これはそこそこ長い社会経験から得た僕の勘だ。仕事を進めていくに当たって、ちょっと待てよ、と立ち止まることを忘れてはならない。
小さい頃に教わった「おかし」の法則のように、社会には「ホウレンソウ」という言葉がある。案件をスムーズに進めていくためには必要不可欠な要素だと僕は思っている。入社した時からずっと僕はこの「ホウレンソウ」を守ってきた。上司の病室に訪ねた時も、「その当たり前をできないヤツが少ないんだよ。」と言っていた。少なからず僕は出来ていると自分で認識している。社内だけに留まらず、仕事というのは社外との密接な関わりがある。その関係性を保つ上でも重要な基本事項なのだ。
「ホウレンソウってのはなんだ?決まりごとか?そういう食い物があるのは知ってるんだが。」
こいつも多少は分かっているらしい。報告と連絡と相談の頭文字を取ってホウレンソウ、だ。僕らの住む日本と言う国ではこれが常識と言っても過言ではないほど浸透しているが、こいつの住む世界にはそういった所謂「造語」的なものは無いのだろうか。疑問ついでに思考で語りかけてみる。
「そもそも言語が違うからな。そういうのはほとんどねーよ。」
まあ想像はしていた。言語が違うのは当たり前だ。どんな言葉なのか文法を使うのか全く浮かんでこない。もの凄く今更だが、こいつが日本語を喋れていることに改めて疑問を持った。もう色々と信じられない出来事が巻き起こっているのでどうでもいい話なのだが。
「あーセツメイしてなかったな。要はその、俺らの中のイチバンエラいやつのおかげ。こっちではホンヤク?っつうんだっけ?そういう能力をくれるんだわ。」
何かのマンガでそういうコンニャクがあったな。しかし本当にもうなんでもアリだと思った。そんな事が可能なら全世界どこでも通用するじゃないか。どこの国の言葉も理解できるようになるなんてそんな話は普通無い。非常識にも程がある、と思ったがこいつの世界と僕の世界の行き来が出来てしまっている以上そんなに驚きはなかった。もう非常識や非日常が僕の日常の一部になってしまっていたからだ。特段大きなリアクションもせず、なるほどな、と思考を返す。
そんなことをしながらも手を動かし、部下から報告を受ける。今日は特に外出の予定も無し。最近になり、外出に関するスケジュール管理は部下に任せるようにした。いつまでも僕がやっていては下が育たない。その上で今度は僕が部下に仕事を見せる順番なのだ。上司がそうしてくれたように部下に対しては自分の背中を見せる。追って来てもらえるように、追い越してもらえるように教育していかなければならない。会社に利益をもたらす仕事とは別に上司としての役目を考えながら僕はふぅと息を吐いた。ちょうど時計はお昼を少し回ったところだった。
部下に声をかけ、昼飯に出かける。今日もいつもの定食屋だ。あそこの日替わりランチは安くて量もあって美味い。お昼時はサラリーマンで大体満員になっているここらでは有名な場所だ。価格帯も決して安くも高くも無く、700円から1200円程度までで収まる。日替わりランチは750円。至って普通の値段だろう。会社から定食屋までの道を部下と他愛も無い話をしながら歩く。昨日のドラマ見ました?だとか、あの女優かわいいっすよねーオレ好きなんすよー!だとか。そういえば僕も上司とお昼を一緒にとる時はこうやって話しかけたもんだ。今更になって自分の立場が変わった事を実感した。
入院している上司からは「今度はお前が奢ってくれよ。」と言われたが、僕が今の部下や後輩に対してどのように接するかでも恩を返す形にはなるのではないだろうか。ふと、高校の部活を思い出した。先輩から受け継いだものは後輩に託す。自分たちのできなかった事を実現してもらいたいという願いがあるから先輩は後輩に対して時に優しく時に厳しくするのだ。アメとムチという言葉が日本には存在するが、本当に良く言ったものだと思う。今や僕は上司であり先輩になった。自分で言うのもなんだが、羽振りも前よりは良くなった。だから週に何度か出かける部下との食事は出来るだけ僕が出すようにしていた。こうやって僕から部下へ、部下から後輩へと受け継がれていくのだ。
昼飯を済ませ、会社に戻る道の途中、いつもの喫煙所に僕は寄る事にした。部下二人はタバコを吸わないので先に戻ります、と言い会社へ帰っていった。相変わらずの混雑具合の喫煙所に身を滑り込ませる。電子タバコを取り出し一本セットする。少し間を置いてランプの色が点灯に切り替わったことを確認してから一服する。
本当に目まぐるしい1ヶ月を過ごしたな、と頭の中でここ最近の事を振り返ってみた。いつも上司にくっついて回り、取引先で頭を下げることくらいしか出来なかった僕が、今度は部下を持ち先頭を切って仕事を切り盛りしている。しかもこの1ヶ月でだ。人は追い込まれると火事場の何とやらで信じられないような力を発揮することがあると聞いたことはあったものの、まさか僕がそういう状況に置かれるとは思ってもみなかった。多分僕にとって、今の期間が人生で一番充実していると言っても過言ではないのかもしれない。
タバコを吸い終えて会社に戻る道すがら、これからランチに出るであろう顔見知りの社員とすれ違う。皆それぞれ僕に一声かけていく。考えてみれば緊急業務連絡会後、声をかけられたり挨拶される事が多くなった。実質昇進という形になった事も大きいが、それまで同期でありながらも全くと言っていいほど喋らなかった人にも声をかけられるようになった。もちろん彼らの中には僕より先に昇進し、係長クラスまで行っている人間も居たが、僕のようにトップダウンでいきなり飛び級をする事は社内でも稀だったようだ。所謂OLと呼ばれる女子社員などの僕への態度が目に見えて変わったのには少し引いた。権力、というか立場というのは恐ろしいものだと我ながら感じた瞬間だった。
そんなことを考えながら会社に戻り、エレベーターに乗る。なんとなく目線が上を向き、変わっていく階数のデジタル表示を見てしまうのは何故なのだろう。誰でも一度は考えたことがありそうな、そんなどうでもいい疑問を頭に浮かべながら僕は職場に戻った。
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