【30】弱肉と強食
「──汝ら、隣人を愛せ。かつて我らが聖女が遺した聖句を、このパブリックの町民たる君らも知っているだろう。人は独りでは生きられない。故に誰かを愛し、慈しむべきと、アラトスの敬虔なる民ならば心に刻んでいることだろう。否、そうでなければならないと、僕は声高に叫ぼう。それこそが、パブリックの町長たる僕の責務と考えるからだ!」
翌朝は晴れていた。
自分に酔ったような声色さえ吸い込まれていく、嫌味なほどに青い空の下。
パブリックの広場に
「昨晩の悲劇を、皆も既に耳にしているだろう。痛ましい姿で発見されたミリア・ポースネスは年若くも優秀な秘書官だった。このパブリックを少しでも良き町にしようと良く働く、身も心も美しい女性であった」
奪われた命があったと、パブリックの町長は嘆く。しかし広場には、追悼するような空気は漂ってはいなかった。
当然だ。男はこの場を葬儀の場としてではなく、処刑の場として
「だが、彼女は奪われた! 我々の愛を幾度となく裏切り、盗みを犯し、卑しくもこの町の陰りに潜み続けた、この──醜悪なる『
秘書官でもあり、彼の"愛人"でもあったミリアを奪ったその手が、裁かれるべき罪人を指し示す。
絞首台に吊るされるのは、オウガである。しかしその姿は『悪鬼』と呼ぶには余りに弱々しく痛ましいものだ。
身の毛もよだつ暴力の嵐に襲われたのだろう。
全身の至る所に傷を負い、ロープに吊られた小さな体躯は指一つ動かせないほどに憔悴していた。
幼いながらに町民達から恐れられた凶相など、元の顔も思い出せないくらいに酷い有様だった。
「聖女様はおっしゃった。隣人を愛せと。ならば隣人を愛さずに奪うだけの存在は、決して赦されはしないのだ! これより行うは処刑ではない。聖女様へ捧ぐ、我らの信心を証明する為の儀式である!」
この処刑を『茶番』だと気付いた町民は少なくない。
何故なら町長の女癖の悪さは周知の事実だった。そんな男と、妻子を除けば彼ともっとも近しい立場の美女と来れば、勘繰るのが大人というものだ。
だが大人だからこそ──哀れな生贄の味方をするはずも無かった。
「隣人に愛を! 悪鬼に鉄槌を!」
町長の言葉をなぞっては、揃って石を拾い上げ、無力な少年に投げつける。
路地裏の悪童の為に、町一番の権力者に楯突く馬鹿など居なかった。
(そうか。死ぬのか)
相次ぐ痛みと罵声に晒されていながらも、オウガの胸中に巣食うのは諦めだった。
(でも、仕方ないよな)
けれど痛みがない訳ではない。
特に自分よりも小さな子供から投げつけられた石は、大人の投げるそれよりも痛かった。何故だか、とても痛かった。
(強い生き物が生き残って、弱い生き物は、死ぬ。いつだって、そうだったし)
痛みから逃れるように、頭の中を諦めで染める。
だって、どうにもならないのだ。生きるだけで必死な、何も持たない弱い自分に、一体なにが出来るというのか。
(俺の番になっただけ、だよな)
だから、もうどうにもならない。
弱いから死ぬ。強い者に利用されて死ぬ。
あの夜にかびたパンを奪い合った野良犬に、今度は自分がなるだけ。
涙の一筋すら流れなかった。
(⋯⋯⋯⋯美味かったな。あの人がくれたパン)
灰色の人生の最期に、ほんの少しだけ色のついた記憶が心を通り過ぎて。
どうせならもっと味わっとけば良かったと。
是非もない後悔の苦味に、ほんの少しだけオウガが笑った時だった。
薄ぼやけた視界が──ガクッと、落ちた。
(⋯⋯⋯⋯?)
想像していた苦痛は来なかった。
ロープで喉が締まる感覚も、体重に首が圧し折れる痛みもない。
襲い来るのは、強く全身を打ち付けた痛みだけ。薄っすらと視界を開けば、目の前には身体を吊っていたはずのロープの切れ端。
鋭利な刃物によって断たれた断面が、『まだお前は生きてるぞ』と訴えかけているようだった。
「よう、町長さん。お励みのところにちょいと失礼するぜ」
「は⋯⋯? な、なんだお前は!?」
「ん? 通りすがりの渡り鳥さ」
飄々とした声が、静まり返った広場に響き渡る。
薄目を開けば、絞首台の前に男が立っていた。
砂漠越えでもするかの様な麻のローブから覗くのは、薄ら笑みを浮かべた精悍な顔付き。黒い髪に無精髭と、精悍ながらもあまり特徴のなさを感じさせる。
だが揺れずに光る翡翠色の瞳が、男への印象を平凡へと埋もれさせなかった。
「いやなに、こちとら長旅でね。合間にちっと羽根休めでもしようかと、大好物のアイスを片手にのんびり観光と洒落込むつもりだったのよ。そこでこの騒ぎと来た」
「戯言を⋯⋯! 観光ならば大人しく見てれば良かったものを、余所者風情が何故邪魔をした!」
「そりゃお前、どこぞの誰かが投げた小石が俺のアイスを見事に台無しにしてくれたからだろ。見ろよこれ、砂利石のトッピングなんてサービス、俺は頼んだ覚えもねえのに⋯⋯あんまりだぜ。なぁ、あんたもそう思うだろ、町長さんよ」
「⋯⋯は?」
闖入者の物言いに誰もが呆気に取られた。
オウガでさえ、痛みも忘れてポカンと口を開いたままだった。
アイスを台無しにされたから。たったそれだけで、この異様な処刑の場へと乗り込んだというのか。
あり得ない。度し難い。虚偽にせよ事実にせよ、それこそ戯言だろう。町長は彼の主張に取り合わず、むしろ虚仮にされていると怒りに顔を歪めていた。
「この下郎めが! 神聖な儀式を、よくもそんな戯言で⋯⋯おいお前たち、こいつに本当の土の味をたっぷりと味合わせてやれ!」
『おう』
せっかく拵えた舞台を壊そうとする男を、無論ただで済ませるはずもない。傲慢ながらも権力の使い方を良く知る町長は、躊躇いもせずに屈強な町男共を、闖入者へとけしかけた。
男共の中には、昨晩にオウガを捕え、幾度となく殴打を浴びせた輩も居る。歯向かう者を許さない"強者の暴力"に、また一人折られる未来は誰の目にも見えていたはずだった。
「ひひ、悪く思うなよおっさん。これからは首を突っ込む時と場所を⋯⋯ぶへっ!?」
町長が差し向けた男達の一人が、藻屑のように蹴り飛ばされるまでは。
「悪いね町長。こちとら土の味はもうとっくに飽きてんだよ」
「や、野郎⋯⋯やりやがったなぁぁあ!!」
挑発を滲ませる乱入者の笑みを皮切りに、戦いが始まる。対峙するのは、余所者一人と町長の取り巻きであるゴロツキ達。
数だけみれば余所者の方が不利である。
⋯⋯だが。
「ひいっ、お、お前、なんだその馬鹿でかい
「さあて、な。切れ味を知りたいなら、試されてみるかい?」
蓋を開けてみれば、あまりに一方的で。
「く、なんだよこの鎖はっ! お、俺の服にくっついてやがんのか?!」
「ほほう、綺麗に結び付いたもんだな。ほれ、剥がすの手伝ってやるよ、っとぉ!!」
「や、やめろ! そんな力任せに引っ張ったら⋯⋯うわぁぁぁぁぁっ!! お、俺の服が⋯⋯!?」
「ぶっははは、大観衆の前ですっ裸とは悪いことしたね。そんじゃ、お次はそのきったねえ肌でリベンジさせてくれねーかい?」
「ひ、ひいいい! やめてくれええ!」
もはや戦いとも呼べない。
どちらが強者であるのかは、一目瞭然であった。
「なんでだっ、なんで⋯⋯あああ足が地面から離れな⋯⋯げふっ!?」
「お、お前いきなりなにしてんだよ、離れろよ!」
「ち、違う、俺じゃない⋯⋯俺たちの"服同士"がくっついてんだよっ!!」
「く、鎖だ! あの鎖の先端に触れたもの同士が、くっつけられて⋯⋯だぱっ!?」
「やめろっ、やめてくれ! 誰か、この鎖を⋯⋯ぐあああっ!?」
純粋な格闘術。空間そのものを裂きかねない大鎌のひと振り。生きた蛇のように唸る、大鎌の柄から繋がる鎖
挙げ句には鎖の先端が触れた物質同士を『結合させる』という、まるで理解の及ばない"超常能力"まで。
「ぶっ!?」
「ぐえっ!」
「や、やめ⋯⋯おぶあっ!?」
明確なまでの壁があった。
鮮烈なまでの差があった。
まるで届かない強者としての位置に、その男は立っているように思えた。
「っとと、動き過ぎたか。脱げちまったか」
「⋯⋯⋯⋯────は、ぁ?」
故に「脱げちまった」という言葉こそが、真に"戯言"なのだとオウガは察せられた。意図は分からない。
だが、効果は一目瞭然だった。
露見した男の服装を見るなり、町長は思考回路が焼き切れたかの様に愕然と立ち尽くした。
「そ、そんな。その修道服⋯⋯しかも、その
露わになった男の姿に、町長の顔から血の気が引いていく否、町長のみならず、町中の大人の顔が蒼白に抜けていく。
当然だ。大宗国家における黒き修道服など、意味する所は一つしかない。ましてや"赤い染色の襟"を目にした時、町長は生きた心地がしなかっただろう。
「アラトス教会の、『特級神父』様⋯⋯!」
特級神父。
即ち、アラトス聖教における聖罰の代行者。
つまり、この男はパブリックの町長とは比べものにならないほどの"強者"であったのだ。
故に。
「さーて、パブリックの町長さんよ。アイスの件とは別にもう一つ俺から物言いだ。
確か、我がアラトスの法では、教会の聖職階級に沿わぬ者が聖女様の名を用いた宣教や礼拝、祭典や儀式、そして処断を行う事は、聖職者への重大な権利侵害行為や道徳的規約違反と見なされてるはずなんだが。
なぁ、町長さん。
小さな町の顔役風情が、一体、如何なるつもりで絞首刑なんぞ執り行おうとしていたのか──是非とも、お聞かせ願おうじゃないか?」
故に。弱肉強食の摂理に基づくのであれば。
真の強者を前に、弱者と成り果てた町長はもはや、地を舐めるようにひれ伏すしかなかったのである。
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