第五章「雨上がりに願いを」
七月も中盤に差し掛かり、いつもより遅れた梅雨が顔を出した。
教室の窓にしとしと降り続ける雨が窓を叩く。
ふと、窓の方を見やると、誰かが指で落書きをしていたようで、曇ったガラスに笑顔や泣き顔の顔文字が描かれていた。それも、午後の授業が終わった今では、うっすらと消えかかっていた。
河川敷で鈴山と会って数日経ったが、鈴山が教室に姿を見せることはなかった。それでも、彼女が授業に遅れがちだったことはあまり驚きではない。いつものようにクラスが静かに始まり、私はそのことを気にも留めなかった。
午後になったら来るかもしれないという期待も淡く散り、下校時間になって大きく伸びをする。今日も彼女は姿を見せることが無かった。
「帰るか」
昨日はもらった宿題がさっぱり終わらなかったので、望月塾に持っていき、石塚先生との熱き苦しき自習時間を繰り広げたこともあったので、続けて自習に行く勇気は無く、私は家へと直行するつもりだった。
教室に鈴山がホームルームを終えた後にやって来る前までは。
「あっ笹川~! おはよ!」
「鈴山!?」
唐突な登場に、教室中がざわついたが、鈴山は気にする様子もなく、私の元に駆け寄ってきた。
周りでは、部活に向かう生徒やこちらを見てひそひそと話し出す女子などが見えて、私は少し赤面した。
「鈴山、本当今までどこに……?」
「ちょっとサボり! そんなことより笹川どうしよう。今世紀最大のピンチなんだよ」
頭に雨粒を乗せた鈴山は、私の質問に答える前に、人生最大の絶望を押し込んだように私の耳元で秘密を言うように手を添えながらこう言った。
「いちごみるくがこの学校から消え去ったの!」
「……は?」
鈴山が必死に言う「いちごみるくが消えた!」という言葉に、私は少し呆れたが、その熱意が可笑しくて、内心笑ってしまった。
☆
「……無い」
「ね!? 無いでしょ?!」
昇降口前の自動販売機にあったはずの桃色の紙パックは、真緑一色で塗られた簡素で質素なパッケージの緑茶の紙パックに変わっていた。
今日の昼休みまではいちごみるくがあったから、もしかしたら午後の時間の間で業者がやってきてラインナップを変えたのかもしれない。ほかの場所もところどころ変わっている様子だ。
無くなってみると、私も想像以上に衝撃を受けてしまった。毎日のように欠かさず飲んでいたものだったから。やはり、人気が無かったのだろうか。
「由々しき事態だよ笹川っ。あたしの命の水が……」
「そんなにいちごみるく好きだったの?」
「笹川がくれた時からいちごみるくはあたしの血液」
「何言っているのかさっぱり分からないんだけど……」
私以上に心底落胆しているのか、彼女は視線が下に向いていた。
「だってさぁ。思い出のジュースが消えるの悲しいじゃん」
「もしかしたらどこかで復活あり得るかもしれないじゃん。いちごみるくなんてどこでもあるんだし、肩を落とさないで」
「学校にあったパッケージのもの、もう売ってるところあんまり無いんだよう」
「ほら、じゃあ外にある自動販売機とか探して……あっ、でも紙パックの自動販売機って近くにあったかな……」
そうなのだ。ペットボトルの自動販売機ならよく見かけるが、紙パックの自動販売機って、あまり見かけない……。
片田舎もどきのこの町にある自動販売機が、どこにあるのか、私は知っている。
そう考えると、あのいちごみるくと出会えたこと自体が、まるで一期一会のようだったかもしれない。
しかし、突然やってきてはいちごみるくの所在で嘆く彼女に、私はどう接すれば良いのか分からず、大きく唸った。
「あっ!!」
落ち込んだ肩を引き上げるかのように、鈴山は何かを思いついたのか、私の腕を掴んだ。
「な、なに」
「思い出した! 空井市の奥にある駄菓子屋! あの駄菓子屋に紙パックの自動販売機あったかもしれない!」
駄菓子屋なんてあったのか。聞いたことは無いが彼女の期待に満ちた瞳から察するに、きっと紙パックの自動販売機は存在しているのだろう。
「そうと決まれば行こうっ!」
「えっ、ちょっと」
そのまま鈴山は私の腕を引っ張り、街へと向かって走り出そうとした。
外に出て青色の折りたたみ傘を鞄から取り出して差してみると、どうやら雨は小降りになってきたらしく、ぱらぱらと囁くように降ってきている。
曇り空がどんよりと広がっているものの、この調子だとあと数時間後には晴れるのでは無いのだろうか。
ふと鈴山の傘が気になり、視線を向けると、驚いたことにコンビニでよく見かける、どこにでもあるようなビニール傘だった。
もっとおしゃれなフリル付きの傘を想像していたから、少し意外だった。
「ビニール傘なんだ」
「そう~。あたし傘よく無くしちゃうからさ。最近ビニール傘に変えちゃった」
鈴山は傘をくるくる回しながら、少し照れたように笑う。その顔がどこか子供っぽくて、またそれが可愛らしく感じた。
校門を出ると、女子高生のグループのような子たちが鳥のさえずりのように笑いながら、駅の方へと向かっていた。話題は人気の音楽グループや、最近近くに出来たショッピングモールなど。
この学校の中で、いちごみるくを求めて駄菓子屋に走る女子と一緒に歩いている人は私だけだろうな、と思いながら、私は隣でビニール傘を差し、スキップでもするように水たまりの水飛沫を軽く飛ばしながら、前を歩く鈴山を見つめる。
私たちは、駅方面とは真逆の、人通りの少ない裏道を通ることになった。
駅前なら多少賑わいがあっただろうが、この辺りは緑に囲まれているばかりで、店ひとつない。
鈴山は悠々と前を歩いていて、私はその後ろを慣れたように歩いていく。
畦道のような道が続き、田んぼが広がる。周りには店も人も何もない。
彼女は長く艶やかな脚を前に出し、どんどん進んでいく。
高く結んだツインテールが、風に舞う羽のように揺れていた。
背の高い草が風に揺れるのを横目に、私は数歩先に歩く鈴山に声をかける。
「目的地、分かるの?」
「分かる!」
鈴山は楽しそうに、前を歩いていた。
学校から三十分ほどかかった場所に、ひっそりと佇む古民家があった。
朽ちかけた外装は、もう修復のしようがないだろう。
まるで忘れ去られたかのように、この駄菓子屋はひっそりと身をひそめていた。
古びた駄菓子屋の前に立つと、開け放たれた入り口の近くには、年季の入った木製の椅子と机が、辛うじてパラソルの下で雨を避けて置かれていた。
空気が湿っていて、どこか懐かしく、時間が止まっているような静けさを感じた。
上を見上げると、古ぼけて色褪せた看板がかろうじて残っていた。
よく見ると店の名前であろう文字が薄く書かれていた。
「こ……ん、ぺい……? こんぺいとう?」
「そう! あたしのおすすめ駄菓子屋の『こんぺいとう』だよ!」
じゃじゃんと効果音をつけて鈴山は私に店について紹介してくれた。
「よく来るんだ~! あたしのおすすめは十円ガム」
「こんぺいとうってお店なのに?」
「この店、金平糖売ってないんだよね」
なんで『こんぺいとう』って名前でお店を構えているんだ……。
私がツッコミを入れたくも店前であるから言えないこの思いを胸に秘める。
すると、店の隣に自動販売機が三つほどあった。
一つはアイスクリーム。もう一つはペットボトル。もう一つが……紙パックの自動販売機だった。
「あった!」
紙パックの自動販売機の左下の目立たない場所に、学校で何度も見覚えのある中央にいちごの絵が描かれたいちごみるくがあった。
鈴山はビニール傘を捨てんばかりに慌てて自動販売機に十数年来にあった恋人のように駆け寄った。
「我が愛しのいちごみるく~! やっと出会えた、嬉しい!」
「どうしてそんなに愛しているんだいちごみるくのことを……」
話しながら、彼女は小銭入れを出してそのまま小銭を投入口に入れていた。
ガコンという音が鳴って、いちごみるくを取り出した鈴山はわくわくとした顔が途中でしぼんでしまった。
彼女の視線の先には売り切れの印として点滅する赤いランプがいちごみるくを選択するボタンに光っていた。
「笹川と一緒に飲もうとしたのに……一本しか出てこなかった」
「いや、私別にいちごみるくじゃなくても、お茶でもいいし」
「でもでも、笹川が好きな飲み物いちごみるくだって知ってるのに……!!」
「そういえば最初に会った日もそんなこと言っていたけれど、どうして知ってるの?」
「だって笹川が嬉しそうに何度か飲んでるところ見てたし」
「見てたの!?」
確かに、言われてみれば、私は以前からいちごみるくを買っていた。
人の飲んでいる飲み物を把握できるほど彼女は周りを見ていたのだな。
教室を見渡す時はいつも冷め切った彼女の眼差ししか知らない私は、クラスメイトのことなんて興味一つ無いのかと思っていた。
私が回想している間、鈴山はさっきまでの興奮した状態では考えられないような落胆っぷりでいちごみるくを差し出した。
「あげる……」
「鈴山が一番欲しかったのに?」
「ううん。いちごみるくは高校での思い出として残したかったんだ。売り切れだったのは過去に思い出なんか残すなって言う神様からの戒めなのよ……」
「そんな高校唯一の思い出みたいに言われても」
「高校唯一の思い出なの」
「……え?」
高校唯一? いや、私たちまだ入学してまだ夏休みだって来てないのに……と思っていると、鈴山は、唐突に言葉を続けた。
「あたしさ、一学期終わった七月終わる頃に空井高校辞めちゃうんだ」
私の動揺とは裏腹に雨が止み、雲間から光が出てくる。
「だから、笹川との思い出が高校の最初で最後の思い出」
鈴山がビニール傘を閉じて、髪の毛に真珠のような雨粒を乗せて、目いっぱい笑った。
私は何も言えず、ただ呆然としてしまう。傘を閉じることも忘れて、差したまま日が照る中で私の顔周りは、影を作っていた。
こんなにすぐに彼女と別れるまでにタイムリミットがあるとは思わなかったから。
いちごみるくを手渡しながら、まるでこれと交換条件とでも言うように。……そんなことは無いとは思うが。
手渡された紙パックを一目見てから彼女に向き合って言葉を待つと、鈴山は満面の笑みでこう言った。
「ねぇ、笹川。一つお願いがあるの。あたしが高校をやめる夏まで、期間限定で親友になってくれる?」
その言葉を聞いた瞬間、世界が少しだけ静止したように感じた。空気がひんやりとしたその一瞬、私の心の中に鈴山の言葉が深く響いてきた。
鈴山は、ぱん、と大きく音を出して両手を合わせ、まるで神社のお参りのように私に懇願する姿を見せた。
「笹川と話すの楽しいし、少しの間だけで良いからさっ! ねっ、お願い!」
鈴山が目を輝かせてお願いするその表情には、どこか真剣な思いが込められていて、私は無意識に胸が締めつけられるような感覚に囚われた。
友達、親友。そんな言葉を簡単に使えるのだろうか?
でも、鈴山の目を見ていると、そんな不安も次第に消えていく気がした。
「鈴山……。一応言うけど、私、友達多い方じゃないし……上手く親友が出来るのか分からないんだけど」
私の不安げな声に、鈴山は顔を上げ、真剣な表情で私を見た。
「笹川が、いいの」
鈴山の声も、視線も、その言葉にも嘘はなかった。
私は考えるように空を見上げ、少しの間心の中で整理をしてから、ゆっくりと顔を下ろし、彼女に向き直った。
「……わかった」
決心がついた瞬間、心の中の不安が少しずつ解けていくのを感じた。
「安心したらなんか小腹空いちゃったな。それじゃ、親友になったパーティー開くために駄菓子買いに行こう!」
鈴山の軽い口調での提案に、私は思わず笑みがこぼれる。彼女と過ごす時間が、これから先もずっと続くような気がして、少しだけ胸が高鳴った。
「そうだね」
傘を閉じて、古めかしい外観に近付いて共に中に入ると、内装もこれまた趣のある、今にも壊れそうなものだった。
「駄菓子屋って楽しくなっちゃうよねぇ~!」
店にある駄菓子はスーパーでもあるようなチョコやガム、正規品なのか疑わしい何年か前のアイドルの写真やキャラクターのお面や輪投げなどのおもちゃまで種類は豊富だ。
見たことの無いようなお菓子も多くあるので、ついじっと見つめていると、店の奥から背の低いエプロンをかけた店主であろうおばさんがやって来た。
「あら天音ちゃん、今日は友達連れて来たの?」
「うん! 表にある椅子と机使っちゃうね! 今日この子と駄菓子パーティーするから!」
「は~い。好きに使って良いからね」
鈴山は慣れた手つきで小さなかごを手に取り、私にも一つ手渡した。
「それじゃ、おやつは三百円までね!」
「三百円!?」
「三百円!?」
そういってすぐに鈴山はカゴの中にぽんぽんとリズミカルに甘いものもしょっぱいものも入れていく。
麦チョコにグミに煎餅にまたチョコに……。
店内に置いてあるお菓子を全種類制覇してしまうのではないかと思うほど大量にかごに入れていく彼女の眼は獲物を狙う狩りのようでもあった。
呆気に取られていた私も、どうにかかき集めようと頑張ったが、悩みに悩んだ末、綿飴三つで三百円になってしまった。
「こういうところで、優柔不断が出てしまう……」
「いいじゃん! あたしのお菓子とシェアしてパーティーやろうよ!」
彼女の提案で、鈴山が選んだお菓子と綿飴をシェアしながら外にあった椅子が壊れてしまうのではないかと思うほど大きく笑いながら、私たちはくだらない話を沢山した。
数学だけ異様に授業が早すぎて追いつかないこと。
クラスの静かすぎる空気が嫌いなこと。明日は天気がいいってこと鈴山がこれまで散歩した裏道の数々、私が今日見た野良猫はぶち猫で可愛かったこと。鈴山の好きな雲の形のこと、私の趣味のカメラのこと。新しい商店街のこと。最近できた饅頭屋に行ったら餡子が美味しかったこと。
星空のこと。夜は寂しいこと。夏の利点はアイスクリームが美味しいこと。
本当に、なんとでもないことを沢山話した。
こんなに誰かと一緒に喋ったことなんて一度もなかった。
噛み合っているのかさえもよく分からない会話をしていると、辺りはすっかり夕暮れになっていた。
喉も乾き、すっかりぬるくなってしまった先ほどもらったいちごみるくにストローを差した。
一口飲んでから、鈴山に渡す。
「はい」
「……えっ」
「あ、ごめん、一緒に飲めば良いんだって思ったけど、誰かが飲んだものとか嫌だった?」
「ううん、飲む飲む、笹川が良いなら、めっちゃ飲む」
鈴山は、両手を上げて喜びを表現してから私の持っていたいちごみるくのストローを口に咥えて一口飲んだ。
「これが幸せの味……。笹川って飲み物シェア出来るなんて結構ガード緩いね。もっとガチガチに固める人かと」
「……親友? だし?」
改めて「親友」という言葉を口に出すと、頬がじんわりと熱くなってしまうが、鈴山ときたらその言葉を強く待っていたかのように満面の笑みで何度も「親友、ふふ、親友……」と言いながら、左右に揺れていた。
揺れる鈴山と共鳴するように、周りの木々の葉が風と共にざわめきだした。
その中に、無造作に生えていた笹の葉を見つけ、以前の古典の授業を思いだした。
「「笹の葉に鈴」――よくおしゃべりする人のことを、こんな風に呼ぶんだって」
「へぇ、あたしみたい。でも、笹の葉に鈴だけじゃかわいくないかも」
「じゃあ、今飲んでるいちごみるくもつけちゃおうか」
「あはは! 名案!」
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