第7話 悩む沙樹と尊敬する人物

 ライブ喫茶っていうくらいだから、薄暗い店内を想像していた。でも予想に反して、中はちょっと広めのごく普通の喫茶店だ。

 奥には小さなステージがあり、左端にグランドピアノがおかれている。生演奏が入ることもあるのだろう。ステージの上にはドラムやキーボード、そしてスピーカー、中央にはマイクスタンドもあり、ライブの準備はすっかり整っている。


 なのに……。

 あたし以外のお客さんって、窓際のテーブルに男子が三人いるだけだ。どうしてこんなに人がいないんだろう?

 あたしに声をかけたくなるのも理解できるな。


「チケットを買ってくれた友達は、ギリギリにならないと動かないやつらばかりなんだよ。そのうえ出不精が多いんだ。今みたいに雨が降っていると、来てくれるか怪しくてね。

 これはヤバいなってみんなで話していたところに、きみの姿を見つけたんだ。神がわれらに使わした天使かもしれないって思ったら、声をかけずにいられなかったんだよ」


 あたしを呼びこんだ大学生は、考えを読んだかのように状況を説明してくれた。

 天使だなんておもしろいことを言う人だ。さすがにちょっと照れてしまうよ。

 彼の本当に嬉しそうな顔を見ると、身内ばかりだったらどうしよう、なんて心配も消え去った。


「きみはうちの大学の学生? えっと……名前聞いてもいいかな。おれは北島きたじまワタル。ワタルってファーストネームで呼んでおくれよ」

「西田沙樹、高校三年です」

「三年生ってことは受験生か。もしかして見学帰り? うちの大学受けるの?」 「ま、まさか、そんなに成績よくないし……」

 あわてて否定してしまった。そりゃ、入れるものなら入りたいけど……。


「あれ、がっかりだな。来年沙樹ちゃんが入学したらいいのに。せっかく友達になったんだからさ」

 え、あたしのこともファーストネームで呼ぶの? それに友達って、五分ほど前に出会ったばかりですよ。

 やけに親しげな口調といきなりのちゃんづけに、あたしはとまどう。でも不思議と嫌な気がしない。

 むしろ心地のいい距離感だ。

 さっき彼が見せた無邪気な笑顔と、人懐っこい温かそうな人柄のおかげかな。


「そうそう。夏休みに入ってすぐに、オープンキャンパスと入試説明会があるんだ。時間あるならおいでよ。おれたちもキャンパスで、ゲリラライブやるかもしれないし」

 ワタルさんはあたしにカウンター席を勧め、自分も横に座った。

「ゲリラライブってなんですか?」

「学生課に申請しないで行うライブだよ。オープンキャンパスの日なんて認められるわけがないから、出すだけ無駄なのさ」

見つかったらどうなるのかも含めて興味が出てきた。でも……。


「見に行きたいけど、時間が取れないかも……」

 受験するなら行くべきなんだよね。

「たしかに受験生時代って時間のやりくりが大変だよな。自分も体験しているのに、もう忘れているよ」

 夏期講習に模擬試験。休みとは名ばかりの、勉強漬けの毎日が待っている。夏休みは天王山だものね。


「勉強中心の生活をしているから、いやになっちゃいますよ」

 ため息をつくと、ワタルさんははっとした表情を見せた。

「もしかして予備校に行く途中だったのを、無理矢理引っぱりこんでしまった?」 「いえ、そんなことないです」

 学校の講習会が充実しているから、今は予備校には通ってない。


「でもその鞄、テキストで一杯だろ?」

 図星だ。ショッピングに行くようなかわいい鞄ではなく、教科書や参考書を入れる機能優先のものだ。

「実は、図書館で勉強するつもりだったんだけど、途中で気が変わったんです」 「へえ、そうなんだ」

「急に勉強が嫌になって行くのをやめちゃいました。でも本当にそれでよかったのかなって気になって……」


 わからない問題、解けない問題が山ほどあって、不安が拭い切れないときがある。

 面倒だ、いやだ、サボってやるという気持ちの一方で、真面目にやれば第一志望に手が届くかもしれないと思うと、サボる勇気もない。

 あたしがガリガリ勉強するのは、最悪の結果が怖いからだ。


 あれ? どうしてあたし、会ったばかりの人にここまで話しているんだろう。


「気持ちはわかるよ。そろそろ疲れてくる時期かもしれないね」

「ワタルさんもそうだったんですか?」

「そうだよ。でもあきらめずにがんばってね。勉強が気になるなら、待っている間やっていてもいいよ。気兼ねすることないさ」

 思わぬ形で勧められた。

 断るのも悪いような気がして、あたしは昨日の講習会で渡された数学の宿題を取り出す。せっかくの得能ノートを取り上げられたので、自分で解かなきゃ。

 解けそうな問題はないか、ざっと目を通す。どれも難しい。世の中にどうして数学なんて存在するんだろう。


「数学、好きなの?」

「その逆です。大ッキライ。いくら解いても、なかなか理解できなくて」

「じゃあ、教えてあげるよ」

「え?」

 期待であたしの胸がときめく。

「教育学部で数学を専攻しているんだよ。受験問題なんて簡単簡単」

 簡単って。そんなにあっさり言われると、ちょっと傷つくかも。


「うちのメンバーにも受験生がいるんだ。毎日のように質問されてるよ。だから受験の数学くらい解けるさ」

「メンバーって、大学生だけじゃないんですか?」

 大学のサークルに高校生が混じっているとは思わなかった。


「うちの大学を受けるっていうんでメンバーに入れているんだよ。本当は合格してから入ってほしいんだけどね。何をするにしても、両立は簡単じゃないからさ」

 その人、あんな難関大受けるのに、大丈夫なんだろうか。

「ライブをするときは、準備がいろいろと大変なんだよ。それでもうちの大学に合格してバンドに入りたいっていうんだ。本当は勉強以外の時間を取らせたくないよ。でも本人がどうしてもやりたいってきかないからね」


 ワタルさんは右手の指を二本立てた。

「そこでふたつ条件を出したんだ。ひとつは、合格しなかったら来年一年はバンドをがまんして、勉強する。もうひとつは、絶対に学校の勉強をサボらない、てね」

「結構厳しいんですね」

「中途半端な気持ちでは、何もできないからね。天才じゃないんだから、どこかで無理しなきゃならないことになるんだよ」


 その人は隙間時間をうまく利用しているらしく、今も裏で宿題をやっているそうだ。

 受験生だからって、何もかも我慢することないの?

 でもそれができるのは、その人に特別な才能があるからじゃない?

「すごいですね。そんなに器用にできるなんて」

「いや、あいつは器用どころか、不器用だよ。人より優れているものがあるとしたら、絶対にやりとげるぞっていう情熱かな」


 その人にとって音楽活動は、欠かすことのできないものなんだろう。大切だからいくら大変でもがんばれる。だから、ギリギリまで両立させようとしているんだね。

 すごいな。とても真似はできないけれど、近づけられるように努力しなきゃ。

 あたしはいつのまにか、見知らぬ人に尊敬の念を抱き始めた。

 そんなことをぼんやりと考えていると、いつの間にか問題を解く手が止まっていた。


「これか。慣れていないと、とっかかりが見つけにくい問題だね」

 解けずに悩んでいると、ワタルさんに思われたようだ。

「ノートとペン、貸して」

 ワタルさんはスラスラと答えを書き始めた。きれいな文字を書くんだ。

 あれ、どこかで見たような筆跡?


「この部分をこの式におきかえてやると……ほら、簡単になった。あとは基礎が解っていれば解けるよ」

 教えられた通りに解いてみた。あれ、どうして簡単に解けるの?

 持ってきた問題集から、ワタルさんに指定された問題をやってみた。同じやり方で解けるはずなんだけど、おかしいな。

 手が止まるたびに、ワタルさんがヒントをくれる。それを元に挑戦すると、少しだけ理解できた。

「こんなにスラスラ解けるなんて、あたしの数学人生でも初めてのことですよ。感動しちゃった」

「ごめん、いつものクセで。メンバーの受験生に教えているからかな。それに数学の問題が目の前にあると、つい解きたくなってしまう。どうしようもないだろ」

 ワタルさんは照れるように、ハハッと笑った。


 不思議だな。ワタルさんと話していると、昨日からのもやもやが消えていく。

 今日会ったばかりの人なのに、ずっと前から知っていたような気がする。身近に似た人がいるの?

 それは本当に心地のいい時間だった。

 このままずっと話していたいと本当に願う。でも残念ながらそういうわけにはいかないのが、世の常だ。


「ワタル、この問題どうやって解けばいいんだ?」

 控室から声がして、人の近づく気配がした。例の受験生だろう。

 あたしはワタルさんにつられるように、振り返った。

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