第5話 閉塞感と開放感(一)

 暑さで寝苦しくて、あたしは目が覚めた。

 枕元の目覚まし時計は午前六時ちょっと前をさしている。遅くまで英語の長文読解をやっていたから、八時までは寝るつもりだったのに。

 日が上ったとたん室温が上がって、おちおち寝られなくなる。一晩中エアコンがないと熟睡できない季節がきたみたい。


 あたしはベッドから起きあがり、窓を開けた。朝の空気は思っていたほどじっとりしていなくて気持ちいい。

 幸いなことに昨夜は熱帯夜ではなかったようだ。


 キッチンに入ると、香ばしい匂いがあたしを迎えてくれた。

 パン作りが趣味の母さんは、ダイエットの邪魔になると言っても聞く耳を持たない。

「糖分は脳の栄養になるから、食べても太らないのよ」

 と本当かウソか解らない言葉を口にして、せっせと甘いパンを焼いてくれる。それがまだ残っているのに、今朝はブレッド・マシーンで食パンを焼いている。


 あたしは冷蔵庫の野菜を適当に使って簡単なサラダを作り、オレンジにヨーグルトをかける。

 ボトルコーヒーをグラスに入れて母さん手作りのシナモンロールを皿に乗せたら、ちょっとした朝食の出来上がりだ。部屋に持ち帰り、サイドテーブルにおいて、昨日解けなかった数学に再挑戦する。

 ある程度簡単な問題は解けるが、レベルが上がると途中で手が止まった。これではセンター試験の高得点は望めそうにない。

 志望校を戻すのはやっぱり難しいか。昨日水野先生が持ちかけてくれたけど、断って正解だった。


「沙樹。そろそろ出かける時間じゃないの?」

 得意な英語の長文読解に取り組んでいると、内線で母さんに呼ばれた。いつのまにか九時をすぎている。

 出かける予定なんてあったっけと考えながらリビングに降りると、テーブルにお弁当と水筒がおかれているのが目に入った。

「図書館に行くんでしょ。サンドイッチとアイスコーヒー作っといたわ」

 母さんに言われてあたしは、昨日家に帰るなり半分ヤケになって

「行きたいところに合格するなら、燃え尽きるまで勉強してやるんだから!」

 などと迷言を叫んだ自分を思い出す。

 亜砂子や水野先生に言われたことがトリガーになって、あのときは頭のなかがぐちゃぐちゃになっていた。

 そんな娘を心配してくれた父さんが、勉強可能の図書館を調べ、気分転換に外で勉強するように勧めてくれた。


「ありがとう。けど図書館は飲食禁止じゃないの?」

「市民公園の中にある施設でしょ。休憩時間に木陰のベンチで食べるといいわ」

 半ば押しつけられるように母さんに手渡される。あたしは一度部屋に戻って準備をし、そのままの勢いで家を出た。

 今朝焼いていたパンはサンドイッチ用だったのね。わざわざ作ってくれたんだ。


 母さんは娘をピクニックに送り出すような顔で見送ってくれたけど、あたしはそんな気分になれない。

 昨夜あんなことを言ったものの、せっかくの日曜日に勉強目的の外出だよ。そんな気持ちを胸にしているのに、足取りが軽くなるはずがない。

 考えてみれば、迷言も沈んだ気持ちも、元を辿れば得能くんに行き着く。


 得能くんは講習会をサボってばかりなのに、成績はいつも上位。全国模試で名前の載る常連だ。

 ガリ勉って陰口を言われているあたしは、英語と国語で後ろのほうに載ることはあっても、総合ではあと一歩およばない。

 勉強は昨日の自分との戦いだ。そう思っていたから、今まで人の成績なんて気にしたことなかった。でも昨日の出来事が影響して嫌でも意識してしまう。

 来週も逃げ帰らないように捕まえなきゃならないのかなあ。気が重いよ。


 そして昨日の亜砂子の言葉が、なぜだか頭から離れない。


 ――受験終わったら燃えつきてしまうわよ。


 本当にそうなっちゃうのかな。

 入学したら英文学でたくさん知りたいこともあるし、サークル活動も楽しみたい。燃えつきる暇なんて、ないような気がする。


 ふとあたしは、自分が大学生になったときのことを思い浮かべてみた。

 イメージに出てくるキャンパスは、昨日水野先生に勧められた大学だった。

 ……まだ未練があるのかな。

 でも数学が足を引っぱって、あきらめざるを得ない。水野先生は特別セミナーをするって言ってくれたけど、そこまでやってもらって合格しなかったらどうしよう。顔向けできないよ。


 それにほかの教科も余裕で合格圏にいるわけではない。なんとか底上げできているのは、英語と国語のおかげだ。

 苦手科目を夏休みにがんばれば、もしかしたらって可能性は残っている。でもそこまでこなす自信がない。

 あれもこれもやらないといけないのに、夏休みをそこまで効率的に過ごせるだろうか。必死でやっているのはあたしだけじゃない。

 そんなことを考え始めると、踏み出す勇気がわいてこない。


 結局のところ、どうしても行きたいっていう強い動機が足りないのよ……。



 いつもの駅からいつもの電車に乗る。英単語を聴きながら、見慣れた景色が流れるのを眺める。

 日曜の朝は、平日と比べると乗客も少ない。心持ちゆったりした車内で、胸の中にもやもやする何かを抑え込む。

 変わらない街の姿、通い慣れた通学路、決められた電車に乗る日々の積み重ね。

 同じことの繰り返しばかりが続く。


 少し暑い電車に乗っていると、妙に蒸し蒸しして不快指数が増す。すいている車内なのに息苦しくなって、脂汗が吹き出した。

 一刻も早く降りたかった。ここから出られるならどこの駅でもいい。

 このままだと今にも叫び出すんじゃないかと不安で、パニックを起こしそうだ。


 これ以上耐えられないっ!


 そう思ってつり革に体重をかけたとき、タイミングよく駅に着いて電車の扉が開いた。

 新鮮な空気を求めて、あたしは無我夢中で電車を飛び降りる。

 ホームに立ったとたん、優しい風が頬をかすめた。額ににじんでいた汗が徐々に消えていく。

 ああ、気持ちいい。あたしは深呼吸して気持ちを落ち着ける。

 ところでここはどこだろう。逃げ出すことが目的で電車を降りたあたしは、自分のいる駅名を確認した。


「え? こんな偶然ってある?」

 胸がどきんと鳴った。だめだ。落ち着かなきゃ。


 あたしは気持ちを落ち着けようと、このあとの予定を考える。

 後続の電車に乗って、予定通り図書館へ行こうか。それともこのまま駅を出ようか。


 図書館で勉強しろと理性が訴える。でも次に来た電車に乗ろうとして、足がすくんだ。

 これがいまのあたしの正直な気持ちなのね。

 ベンチに座ってしばらく考えた結果、あたしはホームに背を向けて階段を降りた。


 改札を出たところは小さなターミナルで、バスがちらほら停まっている。自転車やバイクが目につくと思ったら、運転しているのは大学生くらいの人たちが多かった。

 それもそのはず。ここは学生街なのだから。



 あたしは両親と一緒に、この近くにある大学の文化祭に何度か来ていた。両親の母校で、あこがれの大学だ。

 この前来たのは一年生のときで、夏休みのオープンキャンパスだった。でもそれっきり一度も来ていない。憧れと現実の差を見せつけられるようで、自然と足が遠のいていた。

 それなのに今日はなぜかキャンパスを見に行きたくなった。昨日水野先生に言われたから?


 大通りを東に向かって十分ほど歩くと、レンガ色の建物が見えてきた。交差点の先の一角が、大学の広いキャンパスになっている。

 あたしは学生に紛れて、学内を歩いてみることにした。


 荘厳な正門を通り抜けると、広い掲示板にサークルのポスターが貼られている。どれもユーモアいっぱいで、読んでいるだけでも楽しい。

 向こうの工事区域を囲む塀も、サークルのポスター掲示板として活用されていた。あたしは一枚一枚目を通しながら、のんびり歩いた。

 角を曲がるとここにも大きな掲示板がある。たくさん貼られているポスターを蹴散らすように、大きくて目立つポスターが他のポスターの上に堂々と貼られていた。

「ロック研、オーバー・ザ・レインボウライブ」と書かれたそれには、ミニライブ開催のお知らせとともに、今日の日付と会場の案内が出ている。

 場所を確認すると、ライブ喫茶ジャスティは歩いてきた途中にあったらしい。


 サボったついでに、このままライブに行こうかな。

 でもそんなにロックに詳しいわけじゃないし、お客さんは身内というのが相場だ。誰も知る人のいない飛び入りのあたしは、まちがいなく浮いてしまう。

 なんとなく名残惜しい気もしたが、生憎そこまでの度胸はない。


 まあいいか。ライブが目的でここまで来たんじゃないものね。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る