第4話 五月病予備軍

「ああ、もうだめ。再起不能」


 悪夢のような二時間が終わったころ、あたしは精も根も尽き果てて机に突っ伏した。

 ふと顔をあげると、板書を消していた水野先生が心配そうにこっちを見ている。そんなに大声を出したつもりはなかったが、前から二番目の席だとつぶやき声も教壇きょうだんに届く。

 不覚にも目があってしまった。


 言いたいことは山ほどあるが、口に出す気力も残っていない。視線を外して体を起こし、あたしは帰り支度を始めた。

 水野先生が物言いたげに近寄る気配がしたが、あえて気づかないふりを続ける。

 同じタイミングで数名の女子が先生を取り囲み、質問を始めた。あらあら、今日も女子高生にモテますね。

 あたしは先生を無視して、鞄を手に教室を出た。



 昇降口では、親友の亜砂子あさこが一足先に靴をきかえて待っていた。

 帰りに駅前のショッピングモールによって、アイスクリームを食べる。ほんの些細ささいな、でも大切な息抜きの時間だ。


 人がたくさんいるフードコートでなんとかシートを確保して、あたしたちはアイスクリームを食べ始めた。

 亜砂子はオレンジシャーベット、あたしはチョコチップチョコだ。冷たい喉越しが、真夏の暑さをひととき忘れさせてくれる。


「沙樹も大変ね。水野先生ったら完全に狙い撃ちじゃない」

「でしょ、でしょ。今日のあれって誰が見てもまちがいなくいじめよね。あーあ、これがあと半年以上続くかと思うとうんざりするよぉ」

 シクシクと泣きまねをしたら、亜砂子も一緒に泣きの演技をしてくれた。親友ってありがたい。


「でもさ、沙樹も数学さえなんとかなれば、志望校下げずにすんだのに。もったいないな。家庭教師をつけるか、予備校に行くかすれば?」

 亜砂子は急に真顔になった。ブルータス、おまえもか。

「やだよ。今でもいっぱいいっぱいなのに」

 亜砂子はアイスをひとさじすくう。だが口に運ばずにあたしの顔を見えた。

「そんなことだろうって思ったわ。沙樹ってまじめだから、いざ始めると手を抜けないのよね。さしずめ朝から晩まで受験勉強中心の生活してるんでしょ?」


 え? それが普通じゃないの?


「勉強もいいけど、ガリ勉やりすぎて試験前に倒れないようにね。ほどほどにしないと、受験終わったら燃えつきてしまうわよ」

「まさか。そんなことあるわけないよ」

「ところがね。あたしのお兄ちゃんがそうだったのよ。一浪して合格したのはいいけれど、灰になっちゃって五月病にかかったんだから。あの人も真面目な努力家だからね」

 亜砂子は左手で頬杖ほおづえをつき、遠い目をして、ふう、とため息をつく。


「そう、なんだ……」

 あたしは目の前においたカップに視線を落とす。甘いはずのチョコレートアイスが、急にほろ苦くなった。



 三十分ほどおしゃべりしたあとで亜砂子と別れ、あたしは家路に着いた。

 次の電車を待ち、到着とともに席に座る。ショッピングモールが始発駅にあるのがありがたい。

 いつものように英語のテキストを出し、ミュージックプレイヤーで朗読を再生しよう。通学時間はリスニング対策に充てている。


 ――ほどほどにしないと、受験終わったら燃えつきてしまうわよ。


 プレイボタンを押そうとしたとき、亜砂子の言葉が浮かんだ。

 あたし、そんなにガリ勉ばかりしているのかな?


 気になって車内にいる高校生らしき人たちを探す。おしゃべりに夢中なグループもいれば、スマートフォンを眺めている子もたくさんいる。ゲームかな、それともSNSで友達とチャット中?

 隅の席に座っている男子は、あたしと同じ英語のテキストを開いていた。カバーを裏返して目立たなくしているが、自分と同じテキストなのですぐに解る。

 その姿になぜか勇気づけられ、あたしは英単語を聴きながら電車に揺られた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る