6
初夏の爽やかな風がそよぐバルコニーに、一組の若い男女が並んでいる。
微かな笑い声がまろび出るのに合わせるかのように、レースのカーテンが揺らめいてシャンデリアの水晶が陽光に瞬く。
王宮の三階の一角にある貴賓室でオリガはエドゥアルトと共に、その光景を少し離れた長椅子から目を細めて眺めていた。
「おふたりとも楽しそうですわね」
「いい関係が築けるなら何よりだ」
今日は九公家の一角であるドミトリエフ公の孫娘のユーリヤと友好国の王太子との縁談がまとまり、皇帝皇后が後見として同席する両者の顔合わせとなる日だった。
「帝国と我が国はますます強固なものとなりましょうな」
付添人である王太子の伯父がそうにこやかに言って、隣の夫人もうなずく。
「ええ。帝国のご令嬢は皆様、聡明でいらっしゃいますわね。賢さが美徳というのはわたくしたちの国ももっと見習わねばなりませんわね。読み書きを早くに始めるのでしょう」
「ええ。ふたつの時には読むことを、みっつから書くことを始めますの。それからある程度読み書きができるようになれば、簡単な算術も。成長に合わせて歴史や地理、と学ぶことが増えていきますのよ」
オリガは読み書きと簡単な算術は人並み程度になったものの、後はまるで駄目だった自分の子供の頃へ話が向かないことを祈りながら作り笑顔で答える。
「ユーリヤ嬢は特に経済に強いのですよ。だから交易を発展させたい王太子殿下と気が合うのでしょうね」
エドゥアルトがそう話題を持っていってオリガはほっとする。
実際、十五になるユーリヤが第二子であるが故に家督を継げないのを、ドミトリエフ公が密かに惜しんでいたとドミトリエフ公夫人から聞いたことがある。
(同じ九公家に生まれたわたくしとは全然違うわ)
婚約した二人が難しい話で意気投合していた内容はよく分からなかった。今日はエドゥアルトが横にいるので、難解な話題を躱す努力は最小限ですんでいるのだけれど、彼に頼ったままでいると思うと気が塞ぐ。
それでも笑顔を絶やさず、落ち着いて言葉を交わすのが自分にできるせめてものことだ。
それから顔合わせが終わると、晩餐会に向けての準備が慌ただしく始まる。
「オリガ様、お髪は結い上げずに流しましょうか」
侍女のライサがオリガの顔色から疲れ具合をみて、確認する。
「結い上げて、その代わり髪飾りは軽いものがいいわ」
きつく髪を結われるのは疲れるが、少しでも大人びて見せるには仕方ない。
「今年の外交予定はこれとあともう一件でございますから、もう少しでございますよ。二十日後の通商会談はオリガ様にがお出になるのは昼食会だけですし、皇帝陛下と外事官達が取り仕切るのでそうお気を張らずともよいでしょう」
「ええ。そうね。晩餐会もそれほどたくさんお喋りするわけではないものね」
諸外国からの来訪者を迎える社交の場は苦手だ。
使う言葉がほとんど同じでも、些細な言い回しや発音の違いで戸惑うことが多い。その上、外交を司る外事大臣と産業を司る産事大臣から、話題に上げて欲しいという事柄や特定の話題の受け答えと色々と覚えなければならない。
外事の女性官吏が侍女としてついてくれるものの、主催が皇后の時は頼り切ることはできない。とはいえ、いつも横から助けを出してもらっているのが常である。
人と話すのは好きだけれど、頭をたくさん使うことになると会話を楽しむ余裕が持てない。
「……何をお悩みかはしれませんが、皇帝陛下の隣に並び立てるのはオリガ様だけなのですからもっと自信をお持ちください」
ライサが宝飾品を選びながらそう言うのだけれど、無理な話だ。
同じ年頃の九公家の令嬢の中で有能な人が多くいながら、皇后に選ばれたのは父が九公家の中でもとても影響力が強い人だからでしかない。
(わたくしに何があるのかしら)
初めて側室の話を聞いた後に抱いた疑問は、数日前にヴェラと話してからことさら胸に重くのしかかっている。
難しいことはわからなくとも、皇后としての務めは自分のできることを必死にやってきた。
すべてはエドゥアルトのためだ。自分の能力が十分でないことも、よくわかっている。
(もっと賢い女性がいいわけではないんだわ)
ヴェラは賢い。ただそれ以上に、ひとりで立っていられる人だ。かといって他人を寄せつけないわけでもなく、情が薄いわけでもない。
自分で自分を支える確かなものを持っている。
その揺るぎなさにエドゥアルトは安堵するのだろう。
(わたくしには、何もない)
オリガは、不安げな鏡の中の自分と目が合ってしまって口を引き結ぶ。
「さあ、オリガ様。これはいかがです。重たければ、そうですわね。これを外してもよろしいかしら」
髪が仕上がり、ライサがそう問うてくるのにこれで大丈夫と小声で返事をする。
五つの頃から一緒にいるライサは、落ち込んでいるのを見透かしているのだろうけど何も言わない。
オリガは深呼吸をして、晩餐会へと向かう。
「母上!」
会場の少し手前で、緊張した面持ちのイーゴルと合流する。
今年に入ってから、イーゴルが外交の場に顔を出す機会が増えた。顔見せのための挨拶程度で何をするというわけでもないが、事前に相手国のことも一通り学んでおかねばならず頭を悩ませている。
ひとつのことを覚えきれない内に次から次へと学ぶことが増えて苦労しているイーゴルは、自分を見ているようで胸が苦しくなる。
「今日はご挨拶ができればいいだけだから、大変なことはないわよ」
自分自身に言い聞かせている言葉をそっくりそのままイーゴルに返すが表情は硬いままだ。
「はい。あ、父上がいらっしゃいました」
イーゴルがオリガの後ろにエドゥアルトを見つけ、オリガも振り向く。エドゥアルトはオリガ達を目に留めると、一緒に話していた官吏達を下がらせる。
「そう固くなるな。俺も母上もいるのだから、そう怖がることはない」
エドゥアルトに優しく頭を二度叩かれたイーゴルが両親の顔を交互に見やって、幾分か体の力を抜く。
体が大きい分年齢を知る者にさえ実年齢より上に見られやすいイーゴルは、中身はまだまだ年相応の子供である。
(エドゥアルト様と同じようにとはいかないわよね)
これから重圧が増していくことを考えると気が重くなるけれど、イーゴルが落ち込まぬように穏やかに見守るしかない。
先のことへの悩みは多いけれど、晩餐会はつつがなく進んでいった。無事婚約となったふたりを祝い、賑やかな雰囲気の中イーゴルの緊張も解け終わる頃にはいつも明るい笑顔があった。
晩餐会が終わってもまだ公務があるというエドゥアルトは、平服に着替えてすぐに執務室へと行ってしまった。
疲れていたオリガも、エドゥアルトを待つこともなく何を考えることもせずに眠る。
翌日は午前中に王太子一行を見送り、ユーリヤと一緒に気軽なお茶会をして過ごして日に渡る公務が終わるとどっと疲労が押し寄せてくる。
編みこんでいた髪をすべて下ろしてもらい、締め付けの緩いドレスに着替えると長椅子にぼんやりと座り込む。
まだ夕刻まで時間があるので少し眠ってはとライサの提案もあったが、疲れているのにまだ眠気はなかった。
イーゴルは午前中に見送りにも顔を出した後、座学を短時間して今頃は馬術訓練を楽しんでいるだろう。
夕餉の頃にはまた着替えなければならないが、それすら億劫だ。
オリガは交流のある貴族達から届いた手紙を読み始めるものの、頭が回らず目を閉じて休息に専念することになった。その内に少しだけ眠ってしまっていた。
「オリガ様、今日はこちらでゆっくりお食事をなさりますか?」
うたた寝から目覚めると、エドゥアルトは急な政務で夕餉は執務室で済ますということだった。イーゴルも馬術訓練のついでに狩もして、兵舎で食事の準備から皆と共にするらしい。
「そうするわ。みんなで一緒にいただきましょう」
ひとりきりの食事は寂しいので侍女達に声をかける。
皆、嫁ぐ前から仕えてくれている気心の知れた間柄で、たわいのないお喋りをしていると子供の頃を思い出して、ようやく心身が安らぐ。
「よかった。ご政務はもう片付きましたのね」
ゆったりした時間の後に湯浴みをすませて身繕いを終え、寝所に入るとすぐにエドゥアルトも夜着で現れた。
昨日も遅くまで政務をしていて今日もでは落ち着く暇もないのではと、心配だった。
「ああ。大した事ではないが急ぎだったからな。オリガも昨日今日と疲れただろう。しばらくはあまり予定が詰まっていないが、これから暑くなるからな。無理はしないようにな」
暑すぎても寒すぎてもすぐに体調を崩してしまうので、いつも公務は体を気づかわれながら予定の調整をしてもらっている。
「ええ。だけれど、わたくしに、できることはきちんとこなしたいですわ」
寝台に上がって、オリガはそう弱々しく告げる。
「……イーゴルは兵舎で泊まることにしたんだな」
「ええ。兵舎の演習場で野営の練習をするのですって。あの子は兵舎が好きですわね」
イーゴルが自分と違うところは武芸が得意ということだ。居心地のいい場所があるのは安心する。
(エドゥアルト様も、ヴェラ様の所の方がゆっくりお休みになれるのではないかしら)
ふとそんなことを思ってしまい、蝋燭の薄明かりに照らされたエドゥアルトの横顔を見やる。
エドゥアルトは側室を迎えてからも、自分を蔑ろにすることはない。
以前と同じようにこうして公務をねぎらってくれたり、イーゴルのことを話したりする時間をもってくれる。
(あなたがわたくしに最後に触れたのはいつだったかしら)
ただ、違うのは同じ寝台にいても指先すら触れ合わないことだ。
エドゥアルトにとって、情交を結ぶことは跡継ぎのための義務でしかなかったのだろうか。
「オリガ、どうした?」
気がつけば止めどなく涙が溢れていて、エドゥアルトが薄暗い中でも気付いた。
「ご、ごめんなさい。なんでもありませ……」
間近から顔を見られたくなくて距離を取ろうとすると抱き寄せられる。
「言いたいことがあるなら言っていい。いつも無理をさせてすまないな」
エドゥアルトは優しい。だけれど彼の本心はその優しさにくるまれて何も見えない。
「わたくしは、エドゥアルト様に必要ですか? お父様の娘でなく、イーゴルの母でもなく、わたくし自身はあなたのお役に立てていますか?」
「……大丈夫だ。オリガは、よくやってくれている。何も引け目に感じることはない」
抱きしめてくれる腕の強さの安心感と、顔が見えない不安がないまぜになってオリガはエドゥアルトの背へ縋り付くように手を回す。
「わたくしは、あなたを好きでいてかまいませんか」
ふっと抱きしめる腕が緩んで、言葉の代わりに口づけが降りてくる。
そっと寝台に横たえられてオリガは、少しだけ頭を上げて自分から口づけを求める。
やさしく、いたわるように肌に触れるエドゥアルトの掌に大切にされていると感じる。
(あなたにとって唯一のひとになりたかった)
それと同時にその願いは永遠に叶わない気がした。
***
短い夏が盛りを迎える頃、乳母の選定を考えていたオリガは来客が予定より早くついたとの報せを受けて立ち上がろうとする。
「オリガ様!?」
その瞬間、目の前が真っ暗になって体が傾いで倒れそうになる。幸い机に手をついて難を逃れたものの、まだ少し頭がぐらついて侍女に支えられながら長椅子に座る。
「……ご予定の変更をいたしましょうか」
「少し、休んだら大丈夫だと思うわ。……お水をちょうだい」
そうは言うものの弱い頭痛がしていて、これからの侯爵夫人との茶会を最後まで終えられる自信がなかった。
「最後の月のものからふたつき半にはなりますわね」
ライサが扇でオリガに風を送りながら険しい表情になる。
「もう、そんなになるかしら。だけれど、まだ来ていないと思うのだけれど」
始まればまず腹部に鈍痛がくるはずだ。暑くなってから胸がつかえて食欲もなく、いつもの暑気あたりではないだろうか。
「ご予定はお断りしましょう。神官様と産婆をお呼びしますね」
ライサがそう言って、いそいそと人を呼びに行かせる。
(産婆はいらないのではないのかしら)
月の触りがふたつき以上ないことは珍しくもなく、何度もそれでがっかりした覚えがある。そもそもエドゥアルトと共寝をしたのも、あの夜一度きりである。
まだ立ち上がることもままならないオリガは、茶会を取りやめて大人しく居室で診察を待つことにした。
先に産婆がやってきて体を見た後に、帝国において医療を担当する神官もやってきて脈を取り舌や下瞼の裏を見てこの頃の体調を聞き取っていく。
そしてふたりがお互いの見解を話し合い始める。
「皇后陛下は月のものが不定期でありますので、確実なことはあと半月は様子を見てからになりますがご懐妊の可能性が高いかと」
産婆がそう告げるのに、喜びよりも信じられないという思いの方が強かった。
「血の巡りがよろしくないのと、体が冷えておりますのでこちらをご処方しておきます。十日ほどしたら、またお呼び下さい」
神官が荷からいくつか薬を出して侍女達に処方の仕方を教えるのを、オリガは他人事のように見ていた。
(わたくしの、赤ちゃん)
腹部に手をやってもまだ何も分からない。
信じ切れないまま数日が過ぎる内に、つわりが始まり苦しいながらもじわじわと望んでいた新しい命への喜びがわいてくる。
(どうして、今、なのかしら)
オリガは頭の片隅でそんなことを一瞬だけ思うものの、すぐに重たい気持ちを振り払い芽生えたばかりの我が子を慈しむことだけに意識を注ぐのだった。
***
ヴェラは壁一面を覆う書棚の一角から迷いなく一冊選びとる。
読む本は何でもいいので、この頃はおなかの同居人に合わせて子供向けの教本を広げることが多い。
「読んだって分かるわけないんでしょうけどね。いたた、そっち側はやめて欲しいわ」
胃の腑の下辺りに衝撃を感じて、ヴェラは眉根を寄せる。
臨月に近づいている腹部は重たく、胎児は元気に動き回っている。内臓を押されるのは困りものだが、狭くて何も見えないなら仕方ないことである。
「狐の三兄弟と神の楽士のお話。懐かしいわね」
兄弟仲よくという有りきたりの教訓と妖精を従えるという楽士の話を合わせた、子供なら誰でも知っている寓話だ。
文字を読み始めた子供向けなので字は少ない。
「あなたには、お兄様とあとは妹か弟かがいるのよ。要は真ん中だけど下の子とは半年ぐらいしか違わなさそうね」
なんとも複雑な兄弟関係になりそうだと、決まりが悪そうに皇后懐妊の話をしに来たエドゥアルトを思い出してため息をつく。
(もっと開き直ればいいのに)
皇帝が複数妻を持つのはよくあることで、その上自分は側室である。
あんなに後ろめたそうにされたらかえって困る。
自分がここへ来た理由はなくなって、エドゥアルトの助けになりたいという気持ちは宙ぶらりんになってしまったけれど誰に非があるわけではないのだ。
「後はなるようにしかならないわね。あなたのお兄様は優しい良い子だったわね」
オリガがつわりで動けなくなり、乳母や教育係の選定もできなくなったというのをイーゴルが彼女の名代としてやってきた。
皇后から側室への牽制ともとれる人選なのだが、オリガの人柄からして約束事を反故にするにあたって最大の誠意なのだろう。
そしてイーゴルはエドゥアルトが言っていた通り母親似だった。
(エドが欲しくても手に入らなかったものを全部持ってた)
恵まれた体格、武芸の才能、そうして誰にでも愛されるし愛せる素直なこころ。
ほんの少し接しただけでも善良という言葉を形にしたらきっとこんな子供なのだろうと思えた。そして、エドゥアルトの危惧をやっと実感した。
(あの子が帝位につくのは危ういわ)
あの様子で政がわからないのは、先行きが不安すぎる。
「あなた思った以上に大役を任されるみたいね」
最善の策が有象無象の貴族でなく、後ろ盾のない兄弟が支えることだったとはいえその能力があるか未知数だ。
しかしアドロフ公家の血を引く二人目の直系が産まれるとなるとまた事情が複雑化してしまう。
「兄弟仲良くしておくことに変わりはないわね。あなたへ他に何か残す言葉はあるかしら」
お産で自分の身に何かあった時に家のことや仕事のことなど後始末については書き記した。我が子に向けても何か残すべきかと考えているものの、思いつかない。
まだ産月まで少しあるので、思いついたらでいいかと本を読み始めた時だった。
「何かしら。……大丈夫?」
廊下で茶器をひっくり返したような大きな音がして、ヴェラは扉を開けて部屋の外を覗き見る。
二つ隣の部屋の前でナタリアと床に座り込んだ給仕係がいて、床には案の定陶器の破片が散乱していた。
「あ、申し訳ありません私がぶつかってしまって。すぐに新しいものをお持ちしますね」
ナタリアがそう申し訳なさそうに言う傍らで、給仕係は遠目から分かるほど血の気の引いた顔で固く両の拳を握りしめている。
「……ええ。お願い。片付けは手伝いたいのだけど、このおなかだから無理そうだわ」
「そちらはご心配なく。すぐに綺麗にさせますのでヴェラ様は私が戻るまでお部屋でお待ちください。さあ、早く後始末をしないといけませんわね」
ナタリアが笑顔で答えながら、一言も発さず震える給仕係を立たせる。
ヴェラは静かに扉を閉めながら、施錠できるならした方がいいのだろうかとドアノブに目を落とす。あいにく鍵はなかった。
「そこまでしてとはナタリアさんも言ってなかったし、かまわないかしら」
お茶の中身がなんだったのかは、エドゥアルトに説明してもらわねばなるまい。
扉から少し離れた長椅子にゆっくり腰を下ろすと、急に背筋が冷たくなる。
落ち着かないけれどある程度住み慣れたと思ったこの場所は、絶対的な安全圏ではない。
「大丈夫よ、あなたのお父様はちゃんと守ってくれるわ」
半ば自分に言い聞かせるようにヴェラは呟いて、胎動を繰り返す腹部を撫でた。
***
エドゥアルトはオリガの居室の前に立つと、一呼吸して険しくなっていた表情を穏やかな夫の顔で覆って扉を開く。
「オリガ、調子はどうだ?」
寝台に横になっているオリガの顔色はあまりよくなく、頬が少しこけている。
このところつわりが重く落ち着くまでは絶対安静ということで部屋の隅には侍女の他に産婆もいた。
「昨日より、食事の量は増えましたわ。この子のためにもっと食べないといけないのですけれど」
「少しずつよくなっているのならいい。焦りすぎもよくない」
はい、とうなずくオリガは体調は芳しくなくとも幸せに微睡んでいるような穏やかさがあった。
何度となく、第二子を授からずに落胆しているオリガを見てきた。数年前からはもう半ば諦めているようであったが、時折臣下達が幼子を連れて謁見にくると慈しみと羨望が混じった視線を向けていたのを知っている。
だけれど、自分はオリガと同じように喜べない。
予想外の妊娠に驚きと同時に、間が悪いと思ってしまった。
オリガがまだ芽生えたばかりの命を慈しみながら自分に微笑みかけてくるのを見ると、罪悪感が先立つ。
ヴェラを側室に迎えてから、オリガと床を共にしていなかったことは自分自身でまったく気付いていなかった。
自分が良き夫を演じていただけで彼女の望んでいる愛情とは違うと気付いているだろうに、どうしてあんなにも無垢な笑顔を浮かべられるのだろう。
「ライサに相談事がある。少し、借りていいか?」
エドゥアルトはオリガと向き合うことから目を逸らし、本来の目的を口にする。
「ええ。ライサ、エドゥアルト様が御用があるそうよ」
オリガは少し不思議そうな顔をしながらも、彼女の一番近くに控えている侍女のライサへ声をかける。
「…………承知しました」
落ち着いた様子でライサが立ち上がるのを、見やって先にエドゥアルトが部屋を出る。
外にはすでに近衛が控えていた。
続いて部屋から出てきたライサは視線を一瞬近衛に向けたものの平静を保っている。
「独断か、アドロフ公の指示、どちらだ」
近衛を従え別室に移るとすぐにエドゥアルトはライサを問い正す。
「失敗したということは、早々に目をつけられておりましたか」
「聞いたことに答えろ」
この状況においても落ち着き払ったライサに、エドゥアルトは静かに畳みかける。
「独断でございます。私はどこで失敗しましたか?」
「俺はただの小娘を侍女には置かない。まず、そこからだな」
「……デミドフ伯のお孫様でしたね。可愛らしいご令嬢だったと思ったのですが見た目にはよりませんね」
「ヴェラに飲ませるはずだったはずの茶を実行役に飲ませるのを見ながら、自分も新しい茶を入れて飲んでいたというから悪趣味な娘だ。まあ、飲ませて中身を確かめろと指示しておいたのは俺だが」
ナタリアと共に実行役を捕らえていた衛兵の報告を教えると、わずかにライサが顔をしかめる。
実行役は少なかった。茶を用意した使用人ふたりと給仕係の三人。
給仕係は最後まで判断がつきかねたので、ヴェラの元へ運ぶ途中に中身をナタリアが問い正したところで給仕係は茶器を割った。ただしティーポットの中身はナタリアがすでにすり替えており、証拠は確保していた。
「誰も今の所死んではいないようだが、指示役のお前なら後がどうなるかわかるだろう」
「妊婦でないならそうでしょう。ですが死んだ方がましやもしれませんね。私もそれを飲むべきでしょうか。それともすぐに縛り首でしょうか」
恐れではなく探るような目でライサがエドゥアルトを見上げる。
「すぐさま縛り首にしたいが、オリガがあの状態だ。出産後三月以内に侍女の役目を辞してアドロフ公領に戻れ、後の処遇はアドロフ公に委ねる」
オリガの侍女の中でもライサは最古参だ。誰よりも近しい侍女が急にいなくなってはオリガに余計な不安を与える。
「お申し付けの通りいたします」
瞳を伏せて心底安心した様子でライサが返答する。
「……俺を試すなら、もう少しましなやり方を取るべきだったな」
ヴェラを腹の子供ごと始末するのが一番の目的ではあるものの、自分がオリガに対してどれだけの配慮を見せるかも重要だったのだろう。
今のオリガが無事に出産できるか、子供が無事でも彼女自身が堪えられるかの不安がある。
侍女の失態も加わり皇后を廃するなら都合のいい状況が整っている。だが、そうすればアドロフ公家との対立は必須である。
そこまでして側室を実質的に皇后とするという意志があるのか確認するにしても、危険な賭にでたものである。
「オリガの元に戻れ。二度目はないぞ」
これ以上何も答える気がなさそうなライサを部屋から出し、近衛も下がらせる。
「信用ならん自覚はあるがな」
嘘を吐くのは慣れきっているというのに、オリガに愛しているとは言えなかった。
ヴェラへの想いすら嘘になってしまうようで怖かったのかもしれない。
「報告は必要か」
ナタリアはよくやってくれたが、唯一の失態はヴェラに勘づかれたことだ。できれば隠しておきたかったのだがこうなれば彼女には中途半端な誤魔化しはきかない。
話す内容は気が重かったが無事なヴェラの顔を見るべくエドゥアルトは小宮へ向かうのだった。
***
「そういうこと、ね。やっぱり、面倒なことにはなってるわ」
ヴェラはエドゥアルトからことの顛末を聞いてため息をつく。
使われた毒は手に入りやすく特定の香草茶と香りがよく似ていて扱いやすいものの、致死量まで混入すると独特のえぐみが出てしまうものだ。ただし致死量の半分もあれば流産させる成功率は高く、妊婦も重篤に陥りやすい。香りが似ているのとは別の香草と見た目が似ているので意図的に盛られるより事故のことの方が多い。
うっかり間違ったとも言い逃れ出来るかもしれないが、給仕係が証拠隠滅しようとしたのは決定打のひとつだろう。その後、毒入り茶を出された使用人の様子からも故意なのは間違いない。
「症状は発熱、嘔吐、全身疼痛。後遺症は四肢や顔面の麻痺、慢性的な疼痛。数年以内に突然死する事例も多い」
記憶から淡々と毒の情報を引っ張り出し、ヴェラはつぶやく。
「それで不満ならさらに重刑を科してもいい。首謀者の方はすまないが、すぐには処分は下せられない」
「そこまでしなくてもいいわよ。首謀者の方も皇后陛下のご体調があるから仕方ないわ。処分はアドロフ公にお任せするのね」
隣に座るエドゥアルトに確認すると、彼はちいさくうなずいた。
誰よりも首謀者を許さないのは皇后を窮地に追い込まれかけたアドロフ公だろう。刑罰の重さはエドゥアルトに対するアドロフ公の姿勢を示すことにもなる。
「私もこの子も無事だし、アドロフ公には貸しを作れるしあなたにとってはいい状況ね」
「……ヴェラは政には向いていると思うんだがな」
「あなたが昔からしゃべり倒しているのを覚えているだけよ。今の所おさまったけれど、これで終わりということでもないでしょう」
皇位継承順位は母親の地位も子供の性別も関係なく生まれた順番通りだ。
継承順位一位と三位が皇后の子。その間に自分の子が入る。
「後は生まれてからでなければ分からんが、イーゴルはあの通りだ。下ふたりで主導権争いにならないように気をつけはするがな」
「あなたにはあんまり似てないことを祈るしかないわ。……お父様の良くないところは見習わないでちょうだいね」
おなかの子に声をかけると、エドゥアルトが相好を崩す。
「なんだかんだで母親らしくなってきたな」
「その母親らしいっていうのいまひとつわからないのよね。この子にも何か手紙を書いておこうかと思ったんだけれど、何も思い浮かばないし。顔も性格も分からないかしら」
何も知らない相手に言葉を伝えるというのはなかなか難題である。
「産まれてから少しはいるんだろう。顔を見てからなら違うさ」
「ああ、そうじゃなくて、ほら、出産って何があるか分からないでしょう。私のことの後始末はもうまとめて寝室の鏡台の机の中に置いてあるから、何かあったらその通りにしてちょうだい」
そう言うと、エドゥアルトは怪訝な顔をする。
「そんなもの必要ないだろう」
エドゥアルトはそう言うけれど、別れは突然にくることを自分は知っている。
雪の中から掘り出された夫の凍り付いた手の冷たさは今もはっきりと覚えている。
「家に大事なもの全部置いてるし、向こうにはお世話になってる人も友達もいるんだから、全部放りっぱなしというわけにはいかないわ」
「……ここに、俺と子供といるより大事か?」
一体この人は何を言っているのかと、ヴェラは呆れる。
「あなたが絶対ここから出さないって決めたら私は帰れないけど、そうしないのはどうして?」
ちょっとした意地悪を返すと、エドゥアルトは子供のようにむくれる。
「ヴェラに選んでもらえないなら意味がない。……無理矢理でも引き止めるなら、十年前だったな」
「そのころだったらちょっとは迷ってたかもしれないわ。でも、きっと答は同じだったと思うのよ」
中途半端な関係のままで、いつまでもエドゥアルトを待ち続けることは自分にはできなかった。仕事を捨てたくない気持ちも今と同じだ。
「自分の生き方を全部変えられるのが本当の愛なら、私があなたを本当に愛してたとは言えないかもしれない。だけど私にとっては本物だったわ」
ひねくれもので寂しがりやだった少年を誰よりも愛していた。
今でも性格は相変わらずだけれども、彼にはちゃんと大事に思ってくれている家族がいる。
「……嘘だと思ったことはないさ。俺もあの時、帝位をとることが第一だった。どうして大事なものをどちらもとれなかったんだろうな」
「あなたは欲張りすぎるのよ。でも、ちゃんと大事にしないといけないものは、大事にしてるからよかったわ。今回のこと、皇后陛下にはこの先も言わないつもりでしょう」
エドゥアルトがオリガに政の汚泥に触れて欲しくない気持ちは分かることは分かるのだ。
「ああ。知らなくていいことだ。アドロフ公家も何も言わずにいるだろうな」
しかしすべての問題から遠ざければおのずと嘘が増えていくものだけれど、それは自分が口出しできないことだ。
エドゥアルトの選択を否定するにも肯定するにも、オリガの強さも弱さもよくは知らない。
だけれど、エドゥアルトがオリガを護ることを念頭に置いての判断だったことだけは確かだ。
「ヴェラ、俺も全部は捨てられない。だけど、本当に愛してる。あの頃からずっと」
エドゥアルトが指先に触れて、ヴェラは静かに手を繋ぐのを受け入れる。
「知ってる。でも、もう分かっているでしょう。私達お互い一緒にいない方が幸せでいられるわ」
お互いが大事なものを護るためにも、側にはいられない。
エドゥアルトが何も言わないまま、堪えるように手を握りしめてゆっくりと指先を離す。
「この子のことお願いね」
「ああ。会いたいと言ったら、子供には会ってくれるか?」
「ええ。あなた抜きでなら」
会いたいと思ってくれるのだろうか。
(でも、勝手で悪いけれど私は会いたいわ)
語りかけに答えるように胎動がして、ヴェラは腹部を愛おしげに撫でた。
***
毒殺未遂から二十日近く経ってすっかり夏の面影は遠ざかり、衛兵の配置の仕方が変わり使用人も少し入れ替わったがヴェラの身の周りは静かなものだった。
いまだに子供への手紙は書けずにいるものの、書架を眺めているとこれでいいかもしれないとも思う。
自分や修復士達が残した知識を子供は利用する側になる。受け継げるものがあるのなら十分な気がする。
「さて、お返事書かないといけないわ」
ヴェラは重い腹を自分の手で支えながらなんとか机に向かう。
今朝、オリガから手紙が届いた。つわりは多少はよくなり少しの時間なら歩くこともできるようになったらしい。
『――わたくしはあまり体の強くない自分が子供達ふたりをちゃんと見られるのか、少し、不安です。できることなら、子供達が幸せでいられるようにふたりで育てられたらと思っております。せめて、わたくしの子が産まれるまでは王宮に残っていただけないでしょうか。わたくしの我が儘であることは承知の上です。産まれたら、顔を見せてくださいね』
王宮を去る時期は正直迷っている。本来なら早ければふたつき、遅くともよつきになる頃には家に帰るつもりだった。
オリガがまだつわりもおさまらないなか、産まれたばかりの自分の子を気にかけることになるのはさすがに気が引ける。
「どうしようかしらねえ」
迷いながらペンを取り文字を書き連ねている途中、下腹部に鈍い痛みがあってヴェラは眉根を寄せる。
「ナタリアさん、痛いから産婆さんを呼んでくれる?」
部屋の片隅で書架の整理をしていたナタリアが、飛び跳ねそうなほど驚いて人を呼び始める。
痛みは堪えられないほどのものではなく、ついに同居解消となりそうなのにいまひとつ現実味がない。
ひとまず長椅子へと移動しているうちに産婆が来て、一定間隔で痛みが来ていて強くなっているのを確認してから産室へと移ることになった。あっという間に手伝いの産婆の姉妹や娘も集まり、慌ただしくお産の準備をしているのをヴェラは夢の出来事のように眺めていた。
それからが長かった。
昼前に始まった陣痛は日暮れ頃には次第に痛みを増し始め、まだ長いからと今の内にと産婆達に茶を飲まされ粥を啜ることになった。部屋に蝋燭が灯される頃には激しい痛みがやってくるが朝までかかりそうだと言われて不安になってしまう。
痛みの合間でうとうとするものの産婆達の声と次の痛みで目が冴えを延々と繰り返すうちに、夜が白み始めていたがヴェラはそれどころではなかった。
産婆達にうながされて必死にいきむ。
もう限界かもしれないと思ったときだった。
「産まれましたよ、姫君でございます!」
産婆の声と共に、大きな産声が上がる。さっきまで自分の腹にいたとは思えない大音声に少々面食らう。
やっと顔が見られると思い首を巡らせて姿を見ようとするものの、布にくるまれ産湯へと運ばれるその姿ははっきりと見えなかった。
疲労が限界に達したのかやけに寒くて、眠くなってくる。
「いけません、気をしっかり!! 目を開けていなさい」
産婆の声が聞こえ、周囲が慌ただしくなるが彼女たちの声は次第に遠ざかっていく。それなのに、赤ん坊の泣き声だけやけにはっきり聞こえた。
疲れたから少しだけ休ませて欲しいと薄れていく意識の中でヴェラは思う。
(また、後でね)
そしてその言葉が果たされることはないことも知らず、瞼を閉じた。
***
オリガはふと目を醒まして、いつの間にか朝が来ていたことに気付く。
ヴェラが産気づいたと聞いて出産まで待っていようと思ったのに、結局寝てしまっていたようだ。もう産まれたのか確認をするために、侍女達を呼ぶ。
「夜明け頃、お産まれになりました。皇女殿下だそうです」
「まあ。女の子だったのね。早く会いたいけれど、ヴェラ様もお疲れでしょうしもう少し先ね。……何かあったの?」
侍女達の重たい空気にじわりと足先から冷たいものが上がってくる感覚があった。
彼女たちは目配せして頷き合い、ライサが落ち着いてお聞き下さいと前置きをして口を開く。
「皇女殿下はお元気ですが、御側室はお亡くなりになりました」
「どうして」
言葉の意味を呑み込むより先に、そんな言葉が転がり落ちる。
出産直後、大量の出血によって意識を失いそのまま亡くなったとライサが淡々と説明するのをオリガは呆然と聞く。
違う。そんなことが知りたいわけではない。
どうしてこんなむごいことが起こってしまうのか。
「……子供とエドゥアルト様はヴェラ様のお側にいるの?」
聞けば今は清めのために神官が小宮に訪れていて、エドゥアルトはオリガのいる本宮の一室に子供と一緒にいるそうだ。
「オリガ様、お体に障りますので」
会いに行こうと寝台から降りると侍女達から止められる。この居室から少し離れているとはいえ今の体調なら無理のない距離だ。
「行かせて、大丈夫だから」
懇願すると侍女達は仕方なしに承諾し、その代わり部屋まで全員が付き添うことになった。オリガは侍女がせめてこれだけはと用意したガウンを寝間着の上に羽織っただけの格好で、はやる気持ちを抑えながらゆっくり歩いて行く。
そうして近衛が扉の前に立つ部屋へとひとり静かに入室した。
「……オリガ、来たのか。体は大丈夫なのか」
ゆりかごの傍らで座り込むエドゥアルトは憔悴した顔をしているのに、真っ先にそんなことを口にして胸が苦しくなる。
(こんな時ですら、あなたはわたくしにお心を隠そうとするのね)
オリガはゆりかごの中を覗き込む。生まれたての小さな赤子は周りで何が起こっているのもわからずすやすやと眠っている。
「かわいい」
触れるのも躊躇うほどに柔らかで小さな命に愛おしさが込み上げてくる。
自分の腹にもまだ動かない赤子がいる。ふたりの子供を自分がちゃんと見ていられるだろうかという不安は、実際に子供を目の前にしてしまえばできるかできないかではなくやらなければならないという決意に消えてしまう。
「エドゥアルト様。わたくしこの子のお母様になってもかまいませんか。少しでもこの子が寂しい思いをする時間を減らしたいの。本当のお母様のことはエドゥアルト様が教えてあげて。姿形が分からずとも、身近に感じられるくらい、たくさん」
もう少しヴェラと交流が持てていたら語れることもあったかもしれないが、それでもエドゥアルト以上に彼女のことを知ることはできない。
「ああ。任せる」
エドゥアルトが短く答えながら、その視線はずっと赤子に向いている。
彼の心の奥にいつか自分が寄り添えることはあるのだろうか。
「名前はまだ決まっておりませんの?」
「……フィグネリア。この間、女児だったらそれがいいとふたりで決めた」
ヴェラが子供へ最初の贈り物を決めていたことにほっとする。
それから久しぶりの新生児にまごつきながらも腕に抱いてみると、そのすべてが愛おしくてたまらない。
「陛下。準備が整いました」
ゆりかごへとフィグネリアを戻した頃、外からナタリアの声が聞こえた。小宮での清めが終わったらしい。
「皇后陛下、こちらはヴェラ様がご出産前に書かれていたものです。途中ですが、皇帝陛下がお渡しになるようにと」
ナタリアが二つ折りにされた書簡を差し出してくるのに、自分がヴェラへ手紙を書いていたことをふと思い出す。
「俺は中を読んでいない。受け取ってくれるか?」
エドゥアルトがそう言うのに、オリガはもちろんと書簡を手に取る。
「フィグネリアはここに置いていく。困った事があれば隣にいる乳母を呼んでくれ。自分の体調を第一に考えるようにな」
エドゥアルトがそう言ってナタリアと共に部屋を出て行くのを見送り、長椅子に腰を下ろしたオリガは書簡を広げる。
精緻な筆跡はまだヴェラが息づいているようだった。
『――王宮を出る日程はまだ決めかねております。皇后陛下のご負担にならぬようにとは考えておりますが、熟考しているところです。私も自分の子と皇后陛下の御子にとっての最良の道がなんであるか、皇后陛下とご相談したく』
ぷつりと手紙はそこで途切れていた。
「もっとあなたとお話したかったわ」
半分以上白紙のままの手紙に語りかけていると、じわりと涙が滲んでくる。
それに呼応するようにフィグネリアが泣き声をあげて、オリガは涙を呑み込んで抱き上げる。
「大丈夫よ、大丈夫」
フィグネリアを抱き上げながらオリガは乳母を呼んで、乳をあげてもらう。
座ってさえいれば、体はずいぶん楽だったのでその日はずっとフィグネリアの側を離れなかったのだった。
***
「フィグネリア、しっかり食べるんだぞ。よし、よし。おお、また食べるか?」
生まれて半年が経ち、すくすくと成長したフィグネリアはイーゴルの差し出す匙から旺盛にパン粥を食べている。
オリガは想像以上に妹の面倒をよく見てくれているイーゴルに目を細める。
この頃は臨月を迎えてフィグネリアを腕に抱くのは難しいけれど、その分イーゴルがよくフィグネリアを抱いてあやしている。
侍女達は最初の頃、側室の子の子守をするなどもってのほかだと窘めるよう進言していたが、自分が何も言うつもりがないと悟って諦めたようだ。
「母上、後でフィグネリアを散歩に連れて行ってもかまいませんか。中庭でたくさん花が咲いているところを見つけたので見せてやりたいのです」
「ええ。連れて行ってあげて。あら、お兄様に抱っこしてほしいみたいだわ」
食事を終えたフィグネリアが、イーゴルに両手を伸ばしてまだ言葉にならない言葉をむにゃむにゃと言っている。
イーゴルに抱き上げてもらえば楽しげに声をあげて満面の笑みを浮かべた。
仲のいい子供達をみていると、それだけで心は温かく満たされる。
ここにまたもうひとり増えるのだと思うと、楽しみでしかたがない。そんな自分の気持ちが通じたのか、その夜には陣痛が来た。
イーゴルの時丸一日かかったことやヴェラのことも頭にあってまったく不安がないわけではないが、それでも子供に早く会いたい気持ちが大きかった。
そうして二度目の出産は、夜明け前に拍子抜けするほどすんなり終わった。
「……少し、小さいかしら」
取り上げられた赤子はフィグネリアが産まれた時よりも小柄に見えて、泣き声も弱々しかった。
「お小さいですが、姫君はちゃんと産声を上げていらっしゃいます。さあ、後産がまだありますのでね」
産婆のどちらともつかない言葉に心配しながらも、後産もさほど苦しむ事なく無事に終えオリガはほっとする。
疲れにうつらうつらしながら処置を終え産室から、隣の部屋へ移ってすぐにエドゥアルトがやってきた。
「無事に産まれてよかった」
オリガの手を握りそう言うエドゥアルトはここ半年で一番穏やかな顔をしていた。
ヴェラの葬儀は遺言に従い簡素に行われ遺髪が彼女の夫も眠るシドロフ公領の神殿へ送られた。エドゥアルトが喪に服したのはたった二日だった。
その後はいつものように政務に打ち込み、時々自分や子供達の様子を気にかけてと何事もなかったように過ごしていた。
フィグネリアを見つめる表情に慈しみだけでなく哀しみが入り交じっているのに気付いてはいても、まだ踏み込めずにいる。
「今は、ゆっくり休むといい。先にあの子をイーゴルとフィグネリアに見せてもいいか」
「ええ、もちろん。名前は、前にわたくしがつけたいとお願いしたリリアでかまわないませんかしら」
「もちろんだ。……ありがとう」
いつか、喜びばかりでなく哀しみも分け合うことができるようになる日が来るといい。
淡い期待を持ちながらも、今はたくさんの喜びを分かち合うことを考えながらオリガは夢も見ず眠りについた。
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