命の天秤 ~ もしもトロッコ問題が裁判になったら? ~

神楽堂

命の天秤 ~ もしもトロッコ問題が裁判になったら? ~

 トロッコ問題をご存知だろうか?

 多くの人の命を救うためには少人数の命を犠牲にしてもよいのか、という倫理学上の問題だ。



 トロッコ列車が線路を暴走している。この先の線路では五人の作業員が工事をしている。列車を脱線させることはできず、また、作業員を避難させることもできない。あなたの近くには、線路を分岐させるポイント装置があり、そのレバーを引くと、暴走列車の進路を変えることができる。ただし、変更した先の線路には一人の作業員がおり、この作業員も避難できない。

 このまま何もしなければ五人が確実に死亡する。一方、あなたがレバーを操作すれば一人が確実に死亡する。この状況であなただったらどうするか。ただし、いずれの行動も罪に問われないものとする。


 取り得る選択肢は二つに絞られる。


A 何もしなければ五人が死ぬ。

B 行動を起こせば五人は助かるが、別の一人が死ぬ。


 少しでも死亡者を減らそうとするのであればレバーを引くことになる。

 そうすると、死ぬはずではなかった一人を死なせてしまうことになるので、あえて運命に逆らわず、そのまま五人が死亡するべきだという考え方もある。

 これが、トロッコ問題だ。


* * * * *


 線路保線員、狭山勝典さやまかつのりは今、まさにトロッコ問題に直面していた。

 森林の中の線路は曲がりくねっており、見通しは非常に悪い。山間部であるため、携帯電話やその他の無線も使用できない。狭山たちは六人で作業をしていたが、本部への連絡があるため、狭山は五人を残し、線路上を一人で歩いて戻っていた。残った五人の作業員たちは鉄橋の線路での作業を続けており、体を線路に固定していた。

 山間部の曲がりくねった線路は登り坂になっており、三十分も歩いた狭山は汗だくになっていたが、ようやく見晴らしの良いところまでやってくることができた。

 すると、線路の向こうから来るはずのない列車がこちらに向かってくるのを目撃した。運転席に人影はない。いわゆる、無人の暴走列車だ。


 狭山の頭の中は真っ白になった。


 列車を止める手立てはなかった。

 また、線路の奥で作業している仲間たちに危険を知らせる手立てもなかった。

 このままでは仲間たち五人が轢き殺されてしまう!

 なんとかできないだろうか?


 周りを見渡してみる。

 線路は分岐しており、手動のポイント切替装置がそこにあった。

 このレバーを引けば暴走列車の進路を変えて、五人を助けることができる。

 しかし……

 狭山は知っていた。

 ポイントを切り替えた先の線路上でも一人の仲間が作業をしていることを……

 川村だ。川村がこの先で一人で作業をしているのだ。


 何もしなければ、五人が犠牲になる。

 レバーを引けば、一人が犠牲になる。


 どちらにせよ、誰かが犠牲になる。

 いったい、どうしたらいいんだ……


 暴走列車はさらにスピードを上げ、こちらに迫ってくる。

 狭山はパニックに陥った。


「すまない!」


 レバーを引いた。

 暴走列車は進路を変え、狭山の目の前を猛スピードで走り去っていった。

 五人は助かった……が、この先には作業員の川村がいる。


 狭山は、作業服のポケットから警告用の笛を取り出し、それを吹いて線路の先にいる川村に危険を知らせようとした。


ヒョロロロ……


 うまく音が出ない。

 頼りない笛の音は、慌てている狭山の心情そのものだった。

 パニックのあまり、呼吸もまともにできなかったのだ。


 それでも、狭山は笛を鳴らし続けた。


ピ、ピピピ、ピ~~~~~!


 届け、この音。


 頼む、逃げてくれ……


 狭山は走って列車を追いかけた。が、線路を下っていく列車はどんどん速度を増していき、とても追いつけそうになかった。

 狭山は声を張り上げる。


「列車が来るぞ~! 退避! 退避! 川村~! 逃げろ~!」


 ここから叫んだところで山奥にいる川村に聞こえるはずもない。

 しかし、それでも狭山は叫んだ。

 なんとか助かってほしい……


* * * * *


 警察は現場検証を行った。


 狭山が進路を変えた先には、やはり一人の作業員、川村一太かわむらいちたがおり、轢死していた。


 車両の管理者は車両をしっかりと停めていなかった責任を問われ、刑事告訴された。管理責任者には業務上過失致死傷罪が適用される見通しとなった。


 分岐を操作した狭山も警察の取り調べを受けたが、やむを得ない事情であったことを考慮され、起訴猶予処分となった。


 これで犠牲者が出ていなければ、狭山は五人の命を救った英雄になれるはずであった。

 しかし、一人の作業員の命が失われている。

 

 犠牲になった川村には労災が適用されると共に、会社から多額の金員が川村の遺族に支払われた。


 助かった五人とその家族は狭山に感謝したが、川村の犠牲があるため、会社内の雰囲気は微妙であった。

 狭山が取った行動は適切であったのか否か、それについて上司たちは言及を避けた。


* * * * *


 川村一太の妻、川村美代子かわむらみよこは、喪主挨拶で次のように語った。


「私の夫は殺されました。この会社に、そして、分岐を操作した狭山という男に。会社の責任者は処罰されました。当然です。列車をしっかり停めていなかったのですから。裁判でも、おそらくは有罪になると思います。私が許せないのは、狭山、あなたです。今、この葬儀に来ている、そう、あなたです!」


 川村の妻は、葬儀に参列していた狭山を名指しで批判したのだった。

 葬儀会場がざわめき立つ。

 名指しされた狭山に一同の視線が集まった。

 怒りを押し殺し、冷静さを保とうと必死になりながら、喪主は言葉を続けた。


「私の夫は狭山に殺されたのです。狭山がレバーを操作しなければ、夫は今も生きていたはずです」


 参列していた社長や車両管理責任者、線路工事の現場監督は青ざめていた。

 彼らは業務上過失致死傷罪で既に書類送検されている。また、民事訴訟では損害賠償も請求されている。


「ここに罪を問われていない者がいます。狭山、あなたです。あなたはレバーを引いた。それは間接的とはいえ、私の夫を殺したのと同じことです。あなたが……あなたがレバーを引かなければ……私の夫は、轢き殺されることはなかったのです」


 狭山は顔面蒼白となった。

 その顔は参列者の多くの視線に晒されたままだ。


「狭山、あなたがしたことは『殺人』です。あなたは起訴猶予処分になっていますが、私は納得していません。私はあなたを訴えます!」


 さすがにここまでくると川村の親族が止めに入った。

 川村の妻は葬儀会場の奥へと連れて行かれた。


 会場のざわめきは一層大きなものとなった。

 川村の妻に同情する声。

 狭山の行為を擁護する声。

 さまざまな声が飛び交った。


 この葬儀でのやり取りを記録した動画が流出し、リアルなトロッコ問題として、テレビのワイドショーでは連日、コメンテーターが持論を展開。SNSでも炎上騒ぎとなった。


 被害者の訴えと世論は検察審査会を動かし、ついに検察は起訴猶予処分を撤回し、裁判が行われることとなった。


* * * * *


 裁判所の前には、傍聴しようと整理券を求める長蛇の列ができた。


 トロッコ問題は本来、倫理学での議論の対象であり、行為そのものに刑事責任は問われないのが前提である。

 しかし、今回、トロッコ問題が現実のものとなり、司法の場で問われることとなった。世間が注目するのも当然であった。


 腰縄を付けられた狭山は、前かがみの姿勢で入廷した。手錠をかけられているので、このような姿勢になってしまう。その狭山の前後を、腰縄を持った警備員が歩く。

 入廷後、手錠と腰縄は外され、狭山は被告人席に着いた。

 裁判官たちが入廷。裁判官の黒い法衣には、八咫の鏡をあしらった裁判官バッジが付けられている。裁判の公正さを象徴するものであり、中央に裁の文字が刻まれている。


「それでは開廷します」


 裁判長が宣言する。


「被告人は証言台に移動してください。確認します。名前は何ですか」


「狭山勝典です」


「職業は何ですか」


「鉄道保線員です」


「それでは殺人被告事件について審理を行います。検察官は起訴状を朗読してください」


「起訴状を読み上げます。公訴事実。被告人は◯年◯月◯日◯時ごろ、◯◯山中での線路保安業務中に、制止不能状態にあった車両の進路を、分岐装置を操作することにより変え、結果、変更先線路上で作業していた川村一太が轢殺される状況を作り出した。川村一太は死亡。殺人罪、刑法百九十九条の適用、以上について審理願います」


 裁判長は被告人の方を向き、次のように説明した。


「被告人には黙秘権があります。被告人はこの法廷で、答えたくない質問の回答を拒否できます。また、この法廷での被告人の発言は、内容の有利不利を問わず、証拠として扱われます。それでは、被告人に質問します。検察官が朗読した起訴状の内容に、間違いはありませんか」


「……私が操作したことで川村さんが亡くなったことは事実です。けれど、殺そうと思って操作したのではありません。五人の命を救おうと思って操作しました」


「弁護人の意見はどうですか」


「被告人の無罪を主張します。先程、被告人が述べた通り、暴走車両が向かってくる中、パニック状況のもとで人命を救うためにやむを得ず行った行為であり、決して殺人行為ではありません」


 検察官は冒頭陳述を開始する。


「検察が立証しようとする事実は次のとおりです。被告人は、車両の進路変更先に川村一太がいることを知っておきながら分岐を操作し、結果、死に至らしめた。この結果は操作の事前に想像できたものであります。被害者の死亡は被告人の未必の故意によるものであり、業務上過失致死傷罪ではなく、殺人罪の適用が相応であると主張します。証人としては、被害者の妻、川村美代子への尋問を請求します」


「弁護人の意見はどうですか」


「殺人罪の適用には不同意です。証人の採用については異議ありません」


「それでは、被害者の配偶者、川村美代子さんを証人として採用します。川村美代子さん、証言台に移動してください」


 証言台に立った川村美代子の顔は、憔悴しきっていた。

 連日、マスコミからの取材のみならず、まったく面識のない大勢の人たちから攻撃を受けていたのだった。五人を救ってくれた狭山を訴えるとは何事だ、五人を殺してでも自分の夫を助けろと言いたいのかと、苛酷な責められようであった。


「名前は何といいますか」


「川村美代子です」


「それでは、宣誓していただきますので、お渡しした紙を声に出して読んでください」


「宣誓。良心に従って真実を述べ、何事も隠さず、偽りを述べないことを誓います」


「偽証をすると罪に問われる場合がありますので注意してください。それでは、検察官、尋問を開始してください」


「被害者である川村一太さんの奥さんである川村美代子さんに質問します。本件は殺人であると主張する理由は何ですか?」


「狭山がレバーを引いたから夫は殺されたのです。レバーを引けばこうなるということは分かっていたはずです。なのに引いた。これは、狭山が私の夫は死んでもいいと考えていたということです。夫は、狭山に殺されたのです。夫を殺した狭山を殺人罪で処罰してください」


「それでは弁護人、反対尋問をお願いします」


 弁護人は意気揚々と川村美代子の前に進み、そして不敵にも笑みをこぼした。スーツに輝く弁護士バッジには天秤が刻まれている。それは、公正と平等を象徴するものである。


「レバーを引いたからあなたの旦那さんは亡くなってしまった。その点については異論はないですし、お悔やみ申し上げます。ただ、それを殺人であると主張することには賛同できません。被告人はパニックの中、仲間の命を救う決断をしてレバーを引いたのです。それは、被害を最小限にしようという、被告人なりの最大限の職業的責任感で行ったものです。被告人は五人の命を救った英雄でもあるのです。それを殺人犯よばわりするのはいかがなものでしょうか。自分の夫さえ助かればいいという、あなたのエゴなのではないですか」


「異議あり! 弁護人の発言は証人を侮辱するものです!」


 しかし、異議は認められなかった。

 美代子は口をおもむろに開いた。


「私には三人の子がいます。これから先、夫なしで三人の子を育てていかないといけません。夫が助かってほしかったと願うことが、そして、犯人を罰してほしいと思うことが、そんなにも悪いことなのでしょうか」


「あなたの夫が助かるためならば、五人の作業員が死んでもよいと、そうお考えなのですね」


「私は川村の妻です。夫には生きていてもらいたかった。ただ、それだけです」


「証人は質問に答えてください。あなたの夫を助けるために、被告人は五人の方を殺すべきだった。そう言いたいのですね」


「異議あり! 弁護人の質問は証人の責任とは関係ないものです」


「異議を認めます。弁護人は質問を変えるように」


 弁護人は一呼吸おき、尋問を再開した。


「もしも被告人が操作しなかったら、あなたのご主人は助かったでしょう。けれど、五人の命が失われていたかも知れないのですよ。被害者を少しでも減らそうとした被告人を、それでも責めるのですか」


「私は川村の妻です。五人が死ぬかどうかに関係なく、夫を殺した人を責めて何が悪いんですか! 先程、宣誓しました。何の偽りもなく証言すると。私は狭山の行為を許すことができません! それが偽りない、本当の気持ちです。いくら五人が助かったとしても、私の夫を殺した人は狭山です。狭山は、夫の命を天秤にかけて、死んでもいいって思ったからレバーを操作したんです! それが許せないんです! 私の言っていることってそんなに間違っているんですか! 狭山の手で夫は殺されたんです! 夫を返してください!」


「証人は落ち着いてください」


 裁判長が注意を促す。

 感情的になり取り乱した美代子を見て、弁護人は満足したような笑みを浮かべ、こう言った。


「これで尋問を終わります」


 傍聴席では、どよめきが起きていた。

 被害者の妻に同情する声と責める声とが入り乱れていた。


「静粛に! それでは被告人質問を行います。弁護人、お願いします」


 弁護人が、被告人である狭山の前に立った。


「被告人にお尋ねします。先ほど証人から、あなたには殺意があったとの主張がありましたが、それについてはどう思いますか」


「私は……川村さんを殺そうとしてレバーを引いたわけではありません。どうしていいのか、パニック状態だった私にはよく分かりませんでしたが、とにかく、たくさんの仲間を助けないといけない、そう思いました。それで、とっさにレバーを引きました」


「つまり、殺そうとして引いたのではなく、命を救おうと思って引いた。そういうことですね」


「はい。その通りです」


「川村さんを殺そうという気持ちはありましたか」


「ありませんでした」


「他に取れる手段はありましたか」


「ありませんでした」


「分かりました。以上で質問を終わります」


「では検察官、反対質問を行ってください」


 検察官が被告人の前に立つ。検察官のスーツには旭日と花弁をあしらったバッジが付けられている。それは秋霜烈日しゅうそうれつじつとも呼ばれ、刑罰の厳しさを象徴している。


「あなたはレバーを引けば川村さんが犠牲になることを、事前に分かっていましたか」


「……とっさのことだったので」


「質問に答えてください。レバーを引けば川村さんが死ぬかもしれない。そのことを事前に分かっていましたか」


「……分かってはいました」


 狭山の言葉を聞き、検察官がニヤリと微笑む。

 被告人の口から未必の故意であったという証言をとることができたからである。

 勝利を確信した検察官は、畳み掛けるように被告人に質問を浴びせる。


「つまり、あなたは仲間を助けたかったなどと、さも良いことをしたかのように言いましたが、五人を救うためなら川村さんの命はなくなってもよいと、そういうお考えだったのですね」


「……いや、それは……」


「あなたはレバーを引いた。つまり、あなたはその手で川村さんを殺したのも同じです!」


「異議あり! 検察官の主張は被告人を侮蔑するものです!」


 異議は認められなかった。

 検察官は質問を続ける。


「五人の命のために一人を犠牲にする。そんなことが神ならぬ人間に許されるのですか。あなたに川村さんの命を終わらせる権利があるのですか。人を救うという大義名分のもと、被告人がしたことはれっきとした殺人です。五人を殺すのも一人を殺すのも、どちらも殺人です。五人が救われたとはいっても、被告人には殺人罪を適用すべきです!」


「異議あり! 検察官の発言は質問ではなく、被告人への侮蔑行為です!」


「異議を認めます。検察官は冷静に質問を行ってください」


 注意を受けた検察官は、声の調子をやや落として質問を続けた。


「五人を救うためなら、一人を殺してもいい。そう思いますか」


「……分かりません。ただ、私は、少しでも被害を少なくしようと思った。それだけです」


「質問に答えてください。五人を救うためなら一人を殺すことは認められる。そういうことですか。その一人が自分の大切な人でも、あなたは同じことをしたのですか」


「異議あり! 検察官の質問は本件から離れています!」


「異議を認めます。検察官は質問を変えるように」


「いえ。これで質問を終わります」


 再び法廷は騒然となった。


「静粛に! それでは結審に先立って、検察官及び弁護人の最終的な意見を伺うこととします。まず、検察官からどうぞ」


 検察官は論告求刑を行った。


「本件は、被告人の責ではない列車暴走事故に起因するものではあるとはいえ、分岐の操作は意図的であり、パニック状態であったことは認めるが、思慮分別がまったくなかったわけではなく、分岐操作によって発生しうる事態を想定できていたことは被告人も認めているところであります。従って、刑法百九十九条の殺人罪を適用し、被告人に懲役五年を求刑します」


「続いて、弁護人、どうぞ」


 弁護人は最終弁論を行った。


「本件は、起こり得る被害を最小限にしようとする被告人の誠意に基づいて行われた行為であり、そこに私利利欲はなく、純然たる正義の心で行われたものです。結果、一人の命が失われたことは残念ではありますが、他に取り得る手段がない状況での行為であり、罰するのは相応ではないと考えます。よって、刑法第三十七条に基づき、緊急避難を適用、被告人の無罪を主張します」


 いよいよ最終陳述である。

 裁判長は被告人に向かってこう述べた。


「被告人は証言台に立ってください。これにて本件の審理を終わりますが、最後に何か言いたいことはありますか」


「川村さんが亡くなってしまったのは申し訳なく思います。でも、私は仲間を救いたくて、パニック状態ではありましたけど、ただそれだけを考えてレバーを引きました。殺したくて引いたのでありません。それだけはどうしても言っておきたいです」


 審理は終了した。


* * * * *


 世間が注目する中、トロッコ問題裁判は判決の言い渡し日を迎えた。

 傍聴席は満席であり、本件の関心の高さを伺わせた。


 一同の視線が裁判長へと集まる。


「それでは開廷します。被告人は証言台に移動してください」


 被告人が前に出ると、法廷内は水を打ったような静けさに包まれた。


「被告人、狭山勝典の殺人被告事件について、次の通り判決を言い渡します」


 一同は裁判長の次の言葉を待つ。

 裁判長は判決を下した。


「主文 被告人は無罪」


 記者たちが傍聴席から飛び出していく。


「以下に理由を述べる。本件にて、被告人が取った行為は、結果として被害者を死に至らしめ、そのことは予見されていたため、未必の故意による殺人罪の適用がふさわしいと考える検察及び被害者遺族の主張は理解できるものではある。しかしながら、被告人は職業的使命、及び、被害を最小限にしたいという誠意に基づいて行動したということもまた事実である。また、他に取りうる手段がなかったことも状況証拠から明らかである。よって、刑法第三十七条に基づき、緊急避難を適用し、被告人を無罪とする」


 退廷していく裁判官の背に向かって、被害者の妻、川村美代子は叫んだ。


「裁判長! 死んだのがあなたの大切な人だったとしても、同じことが言えるんですか!」


 美代子の悲痛な叫びが法廷に響き渡る。

 裁判長は何も答えず退廷した。



< 了 >

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