スーパーカブ10

トネ コーケン

第1話 HOT!


 7月の最終週

 八王子の商業地帯をカブ90で走っていた小熊は、命の危機を感じていた。

 暑い!


 東京都下の一般道をカブで走っていて、もう何度この言葉を繰り返したかわからない。

 地球の自転と太陽との位置関係によってもたらされる、この惑星に住む限り避けられない四季の寒暖差。

 冬が過酷な代わりに夏も比較的冷涼な山梨北杜で青春を過ごした小熊は、初めて味わう東京の夏に負けそうになっていた。

 仕事でよく行っていた甲府はしばしば本土の最高気温を記録し、その中でバイクを走らせるのも日常の一部だったが、これほど不快なものではなかった気がする。


 甲府盆地は暑くともそれは純粋な太陽光線から来る暑さによるもので、エアコンの室外機や車の排気ガスのような、人工的な熱源の密度は東京より低く、なにより原付で少し走って盆地を抜ければ、山脈の乾いた風が涼しさをもたらしてくれる。

 東京はそうもいかない。気温が体温を超えると熱射病の恐れもある。小熊はライディングジャケットのポケットから塩飴を取り出して口に放り込み、ドリンクホルダーに差していた水筒を手に取って一口飲んだ。

 いざという時には合法的にガソリンが入れられるという理由で高校の時から愛用しているシグのアルミボトルは保冷性能に関してははほぼ皆無で、家の冷蔵庫にあるポットから注いだ鉄観音茶は自販機のホット飲料のように熱くなっている。

 何より腹立たしいのは、今の自分が生活のための仕事や通学ではなく、特に差し迫って必要なわけでもない消耗品の買い出しを兼ねたショートツーリング中だということ。


 こんなことなら買い物はネット通販で済ませて、涼しい家の中で到着を待っていればよかった。

 そう思っている間に自宅に到着する。町田市と八王子市を隔てる尾根の稜線上にある木造平屋は、市街地の幹線道路より幾らか涼しい。Tシャツを濡らす不快な汗が引くほどではないが。

 自宅敷地にスーパーカブ九〇を停めた小熊は、バイクガレージとして家の前に置いているカエル色のJRコンテナを見て、少しイヤそうな顔をした。

 カブはコンテナと縁側の間にも停められるが、先日スマホに近隣でバイク盗難が発生したという自治体メールが届いたこともあって、出来れば夜間は施錠できるコンテナにバイクを仕舞っておきたかった。

 気温が体温を超えている晴天の昼下がり。スチール製コンテナのドアは素手で触れられぬほど暑くなっていた。


 革のライディンググローブを着けた手でレバーを操作しドアを開けると、コンテナの内部に籠った熱気が小熊の顔にぶつかってきた。

 揮発油の匂いが混じった熱気に耐えながらコンテナ内にカブを運び入れる。全長四〇フィートのコンテナの中には、バイクの整備に使う工具やケミカル、工作機械類が置いてあって、その中に小熊が今のバイト先から貸与されているグリーンのハンターカブ一二五が停まっている。

 今まで乗っていたカブ九〇をハンターカブの隣に停めてからサイドスタンドを下ろす。小熊は車体を少し傾げて停められたカブ九〇にそっと触れた。


 さっきまで炎天下を走ってたプレス鉄板の車体は、まるで小熊の記憶には残したくない灼熱の記憶を半ば強制的に印象付けようとしているかのように熱くなっていた。

 隣に停められたハンターカブにも触ってみる。樹脂製の車体はコンテナ内部の熱を溜め込んでいて、さっき触れたカブ九〇の車体と同じくらい熱かった。

 なんの益にもならぬ確認をしていると、体中から汗が吹き出してきたので、小熊はカブ九〇の後部ボックスから荷物を取り出した。

 夏の暑さから逃げるように鉄の箱から飛び出した小熊は、コンテナの扉を閉めて施錠し、玄関を開けて家の中に逃げ込んだ。


 夏の終わりは、まだ遠い。

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