2-4.獣は一人、さみしくて
ため息をつく。
いつまでもこうしているのは不毛だ。意味がない。そう思い、ニオはゆったりと歩き出す。
帰る気にはなれなかった。せっかくここまで出てきたのだ、少し散歩でもして、気を晴らしたい。
歩くのはいい。『
足の腱は見事に切られていたが、
(代わりに殺し屋なんて、別の枷があるけど)
また、ため息。背筋を伸ばし、道の隅っこを進む。
どうしようかと悩んだ。喉が渇いている。少しぜいたくに、久しぶりに外食をするのもいいかもしれない。格好は
通りを進むにつれ、日が昇ってきたためか、道なりに人気が多くなってくる。
仙月家がお目付役である『
どこの店に入ろうか――と、そこいらに視線をやって悩みあぐねていたときだ。
「あれっ、ニオちゃんじゃねーの」
聞き覚えのある声に、思わずぎくりとする。
背後を振り返れば、くたびれたシャツとスラックス姿の青年が、へらへらした笑みを浮かべてこちらに手を振っていた。
「……とおるさん」
「どもー。何、買い物でもしに来たわけ?」
「まあ、そんなところです」
白い短髪に赤い瞳を持つ彼、とおるが、背筋を丸めて近づいてくる。
「こっちにいるの、珍しいですね」
「そーでもねぇよ?
「はあ」
ニオは返答しつつ、どこか冷ややかにとおるを見つめた。
彼は情報屋だ。別名は『兎』。
気の抜けた笑顔と軽薄な口調に、ニオはそれでもなぜか、落ち着きを感じる。
「今日は
「うんにゃ。ただナンパしに来た」
「別にみやびの女の子でもいいのでは」
「あー、ダメダメ。みやびの子って基本さ、自己防護意識高いんだ。安月給のオレ様なんかについてくる人間、いないわけ」
「そう、なんですか」
「そーなの。悲しいね。だからこっちにさ。『
一を話せば十を返すとおるに、呆気にとられ、目をまたたかせることしかできない。
へらへらとしていた彼が、糸目を軽く開けた。
「こないだはお疲れさん」
「……どうも」
まぶたを開ければ、とおるの雰囲気は様変わりする。つかみどころのない、風のような様子になる。
そんな彼のねぎらいに、曖昧にうなずいてみせた。
警戒している様子を悟られないよう、とおるから視線を逸らすまねはしない。
すると、とおるの顔がまたもや気迫のない、やる気のない笑顔へと変わる。
「ニオちゃんこそ、
「ただの気分転換です」
相棒がいるかどうか、察知されているのかわからない以上、ごまかす他ない。
とおるが笑う。糸目がより、細くなる。
「なら、もっと気分転換しない?」
「例えば?」
「明日の朝まで大人のデート」
「お断りします」
「手厳しいねー」
けらけら笑うとおるを見て、ニオはため息をつく。
そんな様子もお構いなしなのか、彼は笑顔をより深めた。
「じゃーさ、お茶でも飲まない? ちっと話したいこともあるしさ」
「話したいこと……ですか」
世間話でもするのだろうか、と考え、すぐにそうではないだろうと思う。
彼は腐っても情報屋だ。自分から何か、情報を引き出すことを目的としているのかもしれない。だが、その逆もできるだろう。腹の探り合いは苦手だが、とおるから有益な事柄を聞ける可能性だってある。
「わかりました、少しだけなら付き合います」
「おっ。ならバイク取ってくるわ。ここじゃちょっとなー」
「いいです。わたしも行きます、一緒に」
「そ? 近くに駐車してあるんだよな。そんな遠くないから」
「ええ」
うなずけばとおるが歩き出す。ほんの少し先を行く彼に従い、ニオも再び歩みを進めた。
「
「は?」
「オレのまねごと」
振り返らずに放たれた言葉に、指が軽く、動く。
「どこ情報です、それ」
「
「そうなんでしょうか。あなたの方がしっかりやってると思いますけど」
「あ、そう見える? いや、聞いてよ、
間髪入れずに答えたおかげか、とおるは、普段言えないであろう鬱憤をぶちまけはじめた。
適度に相槌を打ちつつ、ニオの頭はめまぐるしく動く。
(
理屈は合う。だが、それなら彼がここにいるのは、偶然ではない気もする。何かを求めて自分に会いに来たのだとしたら、とんだ食わせ物だ。
「……ってなわけで、オレ様ってば貧乏クジなわけ」
「本当に大変ですね」
ほとんど話を聞いてないうちに、とおるのものと思しきバイクのところまで辿り着いた。
「ほい、着いた。ニオちゃん、後ろ乗って」
「わかりました」
安月給ね、と心の中で冷たく思う。個人的なバイクなんてものを持っている時点で、自分より遙かに恵まれていると感じた。
とおるはバイクにまたがり、エンジンを噴かす。ニオもその後ろに乗った。
見る見るうちに、今いた場所が過ぎ去っていく。バイクは大通りを避け、小道に入り、洗濯物が干されている路地裏を走った。
いやなことも、辛いことも、全部消えていきそうだった。今ならあらゆることを許せる気がした。自分を斬った妹。妹をそそのかした兄。他人のことは眼中にない相棒。それどころか、この不条理で血なまぐさい世界だって、愛せそうだ。
自分のことは狭量だと思う。十七年生きているが、決して慈悲深い生き方はしていない。《
兄に仕える巫女を、神主を、
(違う。知ろうとしていないだけ)
兄に見捨てられたとき、はじめて感じた恐怖と孤独。神という存在の気まぐれに付き合わされた悲劇。ここに落とされ、ようやくそれらを心で感じた。肌で感じた。
ぽっかりと開いた胸の隙間を埋めるように、
だから、さやかが羨ましい。
(この人もそうなのかな)
無言の、とおるの背中を見た。一夜の相手を求めているという事実は、彼がさびしいからなのかもしれない。そうだとしても、相手にはなれないが。
「ニオちゃん」
「あ、はい」
唐突に話しかけられ、少し返答が遅れた。
「オレの邪魔をするようになったら、容赦はしねぇよ」
冷徹な台詞に、一気に頭が冷えた。風に感じていた心地よさが、瞬時にして氷のつぶてとなって自身の胸を貫く。
「どういう、意味ですか」
「あー。ニオちゃんはもっと賢いと思ってたなー、オレって」
彼は振り向かない。
「オレだってこの地位に就くまで、血反吐吐く思いだったわけよ。それを、ポッと出の人間にお株を奪われてみろって。許せるか? 平然と自分の居場所を取られるなんてさー」
とおるの言葉は平坦で、普段の明るさなど微塵も感じられない。
ニオは何も言い返せなかった。ただじっと、彼の背中を見つめることしかできない。
居場所――妹――奪われた全てのもの。
(同じだ)
そう、思う。とおるは同じだ。昔の自分と、今の自分と。
居場所と強い縁を求め、さ迷い、視界の悪い荒野で泣き疲れた子どものようだ。他人からの評価と印象で、自分の価値が決まると思っている幼子。
「何も成長してない」
「えー? 何、聞こえねーって」
「いいえ」
自分のつぶやきに、内心で自嘲する。
「大丈夫です」
ばからしい、と思いつつ、甘い声を出した。自分に言い聞かせるように、とおるを安心させるように。
「自分がいるべき場所くらい、わきまえてますから」
嘘のような言葉を、吐き出す。声は意外と震えておらず、嘘をつくのにも慣れたのかもしれない、とぼんやり思う。
彼がそれにどう答えたか、記憶にない。ニオの意識はすでに自分へ向いている。
血と暗闇と孤独の中が、自身の居場所だ。これ以上何を求めようというのだろう。衣食住の保証と、最低限の自由。それがあればいい。
そう感じて頭で理解して、しかし心の奥底では怖かった。もしかしたら、と口元を歪める。
人はこれを、さみしさと呼ぶのかもしれない、と。
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