第4話 甘美


「ねぇ、――ちゃん」


 これは、"誰"……?

 誰かの――記憶……?


「もし、僕がさ」


 まだ幼い子供の声……


「もし、僕が――」



「――って言ったらどうする?」


 

 あの時には、もう戻れない。



――ポチャン


 水の落ちる音が、杏樹の鼓膜を優しく叩いた。ここは洞窟……なのだろうか。遠くの方で、跳ねた水の音が暫く反響して、やがて消えると、また水が落ちる。その繰り返し。近くからは焚き火の、火の粉がぱちぱちと上がる音もする。

 何か夢を見ていた気がするけど……どうも思い出せない。体の至る所から感じる冷たさで、いやでも現実に戻される。この冷たさは、現在の体勢が横になっているから感じるものなのであろうか。

 そういえば人の気配も近くにある。とりあえず起き上がろうと力を入れるが、目を開けるのも億劫な程の、酷い倦怠感があった。まるで施設で迎える朝のような。それでも、と力を入れるとやっとのことで少女の白く、細い指先が動いた。

 と、その様子に気づいてか、人の気配が声を発する。

「ん。目、覚めた?」

 聞いた事のない声――いや、聞いた事あるか……?

 ゆっくり、だが確実に倦怠感は引いているようで、少女のその目が開いた。だが、焦点が合わない。頭がぐらぐらする。その後、たっぷりと時間がかかってから意識がはっきりしだした。と、自ずと焦点も合ってくる。

 やはり洞窟のようなこの場所は黒っぽい。じゃあ白っぽいこれは……人?人の頭?でも、黒っぽい服を着ているせいか、背景と同化して生首みたいに浮いて見える。なんだか、おもしろい。……ん?少しずつが近づいて来るような――


「おはよ」


「わああああ!?」

 耳元で聞こえた甘い声に驚くと、杏樹は一気に半身を起こした。それを青年はひょい、と避ける。だが、急に起き上がったためか、杏樹の体がぐらりと傾いた。青年はすぐさまその華奢な体を支えると、声を押し殺して『くくっ』と笑った。急な情報量に頭が追いつかず、杏樹はなすがままとされる。

 ちら、と青年の顔を窺うと、相変わらず右目は髪に隠れて左には黒い眼帯があった。にんまりと笑った、口元しか見えない。

「そんなに驚く?あれ、もしかしてもう僕のこと忘れちゃった?それと、急に起き上がると危ないよ?」

 そう言って青年は杏樹をもう一度寝かせた。体の下には青年がくれたポンチョがひいてある。

「ご、ごめんなさい……」

「いいよ、別に謝らなくても」

 施設では経験のない、年上の男性の対応にどぎまぎしながら、杏樹は改めて辺りを見渡した。

 ――洞窟。

 幻想的と言えば聞こえはいいが、暗くてジメジメしていて……杏樹は苦手かもしれない。花畑のような、日光が当たってポカポカしてるようなところの方が好きだ。遠くを見ても暗闇が続くばかりで、外へ通じるような出口は見えない。唯一の光と言えば、青年が焚いたであろう焚き火の明かりのみだ。

 そして――

 ここは明らかに施設じゃない。本当にあそこを出てしまったんだと実感する。自分が望んだとは言え、抜け駆けをしたようで罪悪感が満ちた。

 心を決めると、杏樹は少し起き上がって青年に声をかけようと口を開いた。つい先程まで居座っていた倦怠感やめまいは、ほとんどなくなっていた。

「あ、あのここは……?」

「んー……遠いところ」

「と、遠いところ……?」

 青年はまた笑う。よく笑う人だなと杏樹は思った。不思議と馬鹿にされている感じはないが、本当に教えてもらえないのだろうか。不安げな表情を見せると、青年が口を開く。

「ごめんって、ちゃんと説明するよ」

 そう言って青年は1人、語り始めた。


「まず世界にはっていうのがあるんだ。君が住んでたのが"表"ね。僕が住んでるのが……っていうか、ここがもう"裏"なんだけど。で、"裏"っていうのが――」


「ちょ、ちょっとストップ!!」

 杏樹は突然のファンタジーチックな話についていけず、たまらずストップをかけた。聞いたこともない"世界"とやらの説明に、青年の怪しさが際立つ。

「いきなり施設から連れ出されたと思ったら、表とか裏とか……初めて会った人にそんな怪しい説明されても信じられない!!……です!」

 と、片言な敬語で青年に叫んだ。

 対して青年は遮られたのが嫌だったのか、不服そうである。

「むー、だって事実だもーん!それに、その怪しいお兄さんに着いてきたのは君自身だろ?」

「そ、それは……!」

 図星だったのか、杏樹は言葉に詰まった。右手を胸にあて、自身を落ち着かせる。これは杏樹の昔からの癖だった。

「そんなにあの施設から出たかったの?仲の良さそうな友達もいたのに」

 ――友達……?

 杏樹の口から声とも言えない声が漏れた。"友達"という響きは些か懐かしくて。その2文字から思い出されるのはただ、1人だ。

 いつも私の隣にいて、琥珀色の髪を揺らしながら笑う、あの子。名前は――

「……そうだ……蓮は、みんなは!?」

「ん、大丈夫さ。火災報知器を鳴らしたのは僕だけど、火事は起きてない」

「よ、良かった……」

 杏樹はひとまず胸を撫で下ろした。

 もう会えないかもしれないけれど、あの子が無事ならそれはそれで。

 きっと、これで。


 これで……良かったのだ。


(でも、"約束"――守れなかった……一緒に施設を出たかったのに、結局私だけ……)

 杏樹の顔にかげりが差す。青年はそんな杏樹を横目で見ながら質問を続けた。

「……蓮って君が1番仲良かった子?あの子も施設育ちなの?」

「蓮は私が施設に入る前からいた……いました。私と違って交通事故で家族を亡くしたって言ってたから、家族の記憶はあるみたいだけ……ですけど」

「ふーん…………てか、なんで敬語?」

 杏樹の口から『え?』という間抜けな声がこぼれた。

 施設では"歳上の人には敬語"とずっと習って来たため、それが普通だと思っていた。尤も、施設のみんなは先生も含め、家族だったため敬語を使うことはなかったが。そのせいで慣れていないこともあり、片言であった。

「え、いや……多分あなたは年上だし――」

 苦し紛れの弁明をしようとする杏樹だったが、青年に遮られる。

「その、"あなた"ってのも距離感じちゃうなぁ。"アペルくん"って呼んでほしいんだけどなあ〜?杏樹ちゃん」

 青年は、怪しげに笑う。

 青年の中でしたためられた自身の名は、なんとも不思議な響きを孕んでいた。初めて名前を呼ばれたはずなのに、何故か耳は慣れているような感じがする。……じゃなくて!と、杏樹は首を振り、我に返った。

「あ、アペル……くん?それに私の名前……やっぱり私、昔貴方と――」

 矢継ぎ早に問おうとする杏樹を再び、青年は遮った。

「あ、それより、ここの説明だったね!遮ってこっちから色々聞いてごめん!改めて時系列を追いながら説明するよ」

 と、おもむろに立ち上がる。が、何かを思い出したのかすぐにまた杏樹の隣に座った。

「あー……でもゆっくりしている時間は僕たちにはないから、とりあえずこれに着替えて?移動しながら説明するから!パジャマだと困るでしょ?着替え終わったら教えてね〜。僕、向こうの方にいるから」

 青年――もとい、アペルはここまでを早口でまくしたてると、取り出したそれを杏樹に押し付けた。落とさないように受け止める杏樹を横目に、今度こそ立ち上がって去っていく。

 残された杏樹は、急に静かになった洞窟に再び雫が落ちる音を聴きながら、受け取った服を見た。

「嵐みたいな人って、あの人みたいなことを言うのかな……私は少し苦手なタイプだけど、でもあの人といると、何故か……」



――安心する気がする






「はぁ……危なかった。今を思い出されると、さらに混乱しそうで嫌なんだよ。ま、名前呼んだ僕が悪いんだけど。でもこの場所と今から行くところの説明はしなきゃだよなぁ。どうやったら分かりやすく伝えられるかな……分からなくなる」

 アペルは杏樹と離れた場所で1人、右往左往していた。  

 今いるのは洞窟の出口。

 と言っても、先程の場所から少し行ったところだ。杏樹は外からの光で洞窟の出口を探したが、単純な話、外界が夜なだけであって。ここは、そこまで奥深い洞窟では無い。

 アペルの眼下には粗雑な道が1本だけ通っている、大自然が広がっていた。月明かりが森や山を照らすばかりで、街灯も人もなく、静かだ。


 ――否。


 その粗雑な一本道に灯りが浮かび上がっていた。

 アペルは足を止める。前髪の隙間から覗く、右目を凝らして見ると。その篝火かがりびと共に人影が動いているのが見えた。その数、二十程度。

 アペルは珍しく、その端正な顔に焦りを浮かべた。

「あーっと……ありゃ"宵闇よいやみ"だな。でも、なんでだ……?より早い……いや、理由なんか考えてる場合じゃないね。レディが着替えているところを急かしたくはないけど、致し方ない」

 はぁ、とため息をつくとアペルは声を後ろに届けるために、少し横を向いた。杏樹の着替えている姿を見ないようにするためか、眼帯で完全に視界を奪った、左側である。

「杏樹ちゃん〜着替えた〜?」

「あ、はい!」

 自分の声が洞窟に吸い込まれたと思うと、代わりに可憐な少女の声が返ってきた。返事を確認して、アペルは杏樹の元へ戻る。





 元いた場所へ戻ると、そこには新しい服に身を包んだ少女の姿があった。

 茶色のポンチョに、白色の宝石のブローチが輝いている。中にちらりと見えるTシャツはシンプルな白色で、ズボンはこげ茶色の短パン。そして黒のニーハイソックスに黄色の裏地が目立つ、茶色のブーツ。

「うんうん、似合うね」

 上から下まで眺めたアペルは満足そうに頷いた。あまり着たことのない類のため、杏樹は恥ずかしそうにしている。

「あの今まで着てた服は……」

「そこに置いといて。多分ここにはもう戻ってこない」

「え?」

 驚く杏樹を置いて、アペルは言葉を続ける。


「単刀直入に言うよ」


 杏樹は先程といささか雰囲気が変わったアペルを見て、ゴクリと生唾を呑んだ。ほのかな夜風が、アペルの髪を揺らしている。……何を、告げられるのだろうか。

。追っ手がそこまで来てるんだ。あいつらに捕まったら――終わりだ」

 嫌な予感はアペルの言葉に載せられて、杏樹の元へと届く。何か大きな事が起こりそうだ。杏樹はそう、感じた。

 きっと、これは施設から逃げた自分への試練だから。親がいなくて、普通の人と同じように過ごせなくて、そういう現実から逃げた自分と向き合うチャンスだから。この人と一緒に行ったら、自分の"秘密"を知れるかもしれない。

 杏樹は直感と共にそう思った。

「……急に、ごめん。僕に着いてきてくれる?」

 気づけば思っていたよりも近くにアペルの顔がある。杏樹と目線を合わせるために、アペルは膝立ちをしていた。薄い水色がかった前髪から、その寂しい色をまとった右目が見えた……ような気がした。

 果たして、杏樹はこくりと頷いた。その瞳には決心の色が浮かんでいる。

 アペルはふわりと微笑んだ。

「ありがとう。君のことは僕の命に変えても守るよ。とりあえずここを出よう。話は歩きながらするよ」

 そして、手袋に包まれた細い指が杏樹へと向けられる。出会った、あの時のように。

「御手をどうぞ」

「あ、ありがとうございます……?」



 かくして、2人の奇妙な旅は始まった。

 杏樹の一抹の不安と、希望を抱えて。

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天使と悪魔と死神と、 哀乃 @aino_sousaku

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