第26話

山登り当日。

 僕はバスに乗って、小暮山に向かっていた。

 山へ近づくにつれて、車窓から見える景色は美しくなっていく。

 バスが小暮山の麓の停留所に着いた。

 僕は料金を払って、バスから降りて、待ち合わせ場所の山の入り口前に向かった。

 山の入り口付近に女性が立っていた。

 女性は僕に気づき、手を振っている。

「真一君!」

 女性の正体は亜子だった。

 亜子は山登り用の服装をして、リュックを背負っている。

 僕は手を振り、亜子に駆け寄った。

「おはよう」

「おはよう」

 亜子の表情は明るい。何も悩み事がないかのように。

 僕はここに来る前に決めた事がある。今日は亜子に存分に楽しんでもらう事だ。

「あれ、残りの二人は」

 僕はそう言って、周りを見渡した。しかし、亜子以外誰もいない。

「まだ来てないよ」

「え、本当に?」

「うん」

「次のバスだったら遅刻じゃん」

 僕が乗ってきたバスが集合時間に間に合う最後のバスだった。

 だから、あのバスに乗っていないとなると、遅刻しか想像できない。

「そうだね」

「連絡とかある?」

「ないよ」

 亜子は言った。

「何だよ、あいつら」

 携帯電話が鳴る。

 僕はポケットから携帯電話を取り出し、画面を見る。

 画面には並川から新着メッセージがありますと表示されている。

「あ、連絡来た」

 僕はアプリを起動させ、送られて来たメッセージを確認する。

ー悲報。友晴が体調を崩しました。このメッセージを10人以上に送らなければ、貴方の

個人情報はネット上で公開されます

 チェーンメールのようなメッセージだった。

 このメッセージから読み取れた事がある。

 ふざけている。

ー嘘だろ。早く来いよ、とメッセージを送り返した。

ー正解です!嘘でーす。友晴は元気です。私と友晴は山に行きません。二人で山登りデート楽しんでね、とメッセージが返ってきた。

「はめやがったな」

 きっと、ファミレスの一件後に思いついたのだろう。そうでないと、僕は人間不信になってしまう。

「どうかしたの?」

 亜子が訊ねてくる。

「な、何でもないよ」

「そう」

 僕は亜子から少し離れ、並川にメッセージを送る。

ーはめやがったな。いつ考えたんだよ

ーはめてないわよ。思いついたのは昨日よ。それにこれは気遣いよ。気遣い

ー気遣い?

ーそう。気遣い

ー意味が分からない

ーあんたの為じゃないわよ

ーどう言うことだよ

ー亜子の為よ

ーえ?

ー亜子の話を聞いてあげて。私に言えない事でも、あんたになら話すかもしれないからさ。

それにあの子、私と友晴がいると気遣って楽しめないと思うしさ

ー……分かった

ーそれじゃ、頑張ってね。バイバイ

 並川はアプリキャラがお辞儀して「お願いします」と書かれたスタンプを送ってきた。

 亜子が近づいて来て、「二人は来るの?」と訊ねてくる。

「来ないってさ。友晴君が体調崩して、並川が看病してるんだってさ」

 嘘をついた。

 僕はさりげなく携帯電話をポケットに戻した。

「……そうなんだ」

「どうする?」

「仕方ない。二人で登ろう」

 亜子は笑顔で答えた。

「そうだね」

 僕と亜子は小暮山を登り始めた。


 山を登り一時間程経った。たぶん、今は中腹辺りだろう。

「どれくらいの頻度で登ってるの?」

 僕は歩きながら亜子に訊ねた。

「二週間に一回ぐらいかな」

「そっか。登り始めたきっかけは?」

「……死に場所を探す為かな」

 驚きのあまり、足が止まってしまった。

「冗談だよ、冗談。そんな訳ないでしょ」

 冗談には聞こえなかった。だって、そう思えてしまう節があるから。

「……そうだよね」

「そうだよ。ストレス発散の為」

「ストレス発散?」

「うん。山頂まで行ったら、どんな大声出しても怒られないじゃない」

 亜子は照れながら言った。

「まぁ、そうだね」

「それに山だったら嫌な音とか聞かなくて済むじゃない。あと、自然の中に居れば心が安らぐし」

「安らぐ感じは分かる気がする」

「でしょ。だから好きなの。山登り」

 亜子はニコッと笑った。

「うん」

 僕は軽く頷いた。

「山頂まで休みなしで行くよ」

「え、本当に?」

「うん。走ろう」

 亜子はそう言って、走り始めた。

「ちょっと待って。危ないよ」

 僕も走って、亜子の後を追う。

 亜子が振り返り、「大丈夫よ、大丈夫」と楽しそうに言った。

「でも、結構距離あるし」

 僕は無邪気に走っている亜子を見て、嬉しく思った。


 亜子を追って走っている。

 彼女は思った以上に足が速く、距離が縮まらない。でも、距離を縮めようとして思いっきり走れば危険だ。傾斜のせいで足に掛かる負担が平地と違うし、古傷が再発するかもしれない。

 走っていると徐々に周りに生えてある木々の数が減っているのに気づく。きっと、もう少しで山頂なのだろう。


「着いた」

 山頂に先に着いた亜子が言っているのが聞こえる。

 僕も亜子に少し遅れて山頂に辿り着いた。

「……結構体力あるね」

 僕は息を切らせながら、亜子に訊ねた。

「そうかな」

 亜子は涼しい顔をして答えた。

「そうだと思うよ」

「あー気持ちぃ!」

 亜子は両手を上げて、深呼吸をしている。

 僕は息を整える為に何度も呼吸をする。

 着ているシャツは汗で背中に付いて、気持ち悪い。

「ヤッホー」

 亜子は両手を口に両手を当てて叫んだ。

「ヤッホー」とやまびこが返ってくる。

「そんなに大きい声出せるんだ」

 意外だった。

「うん。真一君もやってみなよ」

「う、うん」

「ほら」

 僕は目を閉じて、大きく深呼吸をして、「ヤッホー」と叫んだ。

 声が裏返ってしまった。恥ずかしい。

「ヤッホー」

 裏返った声のやまびこが返ってくる。さらに恥ずかしくなった。

「ハハハ、声裏返ってる」

 亜子が笑いながら言う。

「笑うなよ」

 顔が熱い。穴があるなら入りたい。

「ごめん。ハハハ」

 亜子の笑いは止まらない。

「それだったら謝ってる意味ないじゃん」

「そうだよね。でも、おかしい。ハハハ」

 笑いの壺にはまったようだ。少しの間はこの状態が続くのだろう。

 僕は亜子の笑っている姿を見て、少しでも長く笑ってくれたらいいと思った。

 どんなに辛いものを抱えていたとしても。笑っている間は辛いものを忘れられるはずだから。

「ハハハ」

 僕も亜子の笑いに釣られて笑ってしまった。

「何で、真一君も笑ってるの?」

 亜子が笑いながら聞いてくる。

「分からない」

「何それ、おかしい」

 亜子は笑い過ぎて、笑い泣きしている。


 僕と亜子は山を降りてバスに乗った。

 車窓から見える景色は茜色に染まりかけている。

「連れて行きたい場所ってどこなの?」

 隣の席に座っている亜子に尋ねる。

「ヒミツー」

「何だよそれ」

「……もっと早く真一君に会えてたらよかったな」

「何で?」

 ドキッとした。そして、ちょっぴり嬉しかった。

「愛花と同じぐらい気を許せるのは真一君だけだから」

「友晴君は?」

「仕事仲間」

 亜子は冗談っぽく言った。

「可哀想」

「冗談だよ。でも、真一君ほど気を許せてないのは事実」

「……そうなんだ」

 なんだか、友晴君には悪いが優越感を感じる。

「うん。本当だよ」

「そう」

「顔赤くなってるよ」

「なってないよ。夕日のせいだよ」

「嘘。なってるよ。茹蛸みたい」

「なってたとしても、その例え酷くない」

「酷くないよ。ハハハ」

 亜子は笑いだした。

「笑うなよ。バスの中だよ。静かにしなきゃ」

 僕は笑う亜子に軽く注意した。

「いいんじゃん。私達以外乗ってないんだから」

「それでもよくない」

「分かったよ。でも、ハハハ」

 亜子の笑いは止まらない。

「もーう」

 僕は溜息を吐いた。


「ここだよ」

「……街が綺麗に見える」

 亜子が言っていた場所は、街を一望出来る丘だった。

 ここから見える夜景は美しく、心の汚い物を洗い流してくれるような感覚がする。

「そうでしょ。私ね、あまりこの街が好きじゃないんだけど、ここから見る街だけは好きなの」

 亜子は神妙な面持ちで言った。

「……そっか」

「何か嫌な事があったらここに来るの。ちなみにね、ここは愛花にも教えてないんだよ。

私と真一君だけの秘密の場所ってやつ」

 亜子は儚げに笑った。

「……そうなんだ」

 僕はそう答えるしか出来なかった。

 僕に言葉で人を勇気付ける才能があれば、何か違う言葉をかけてあげる事が出来るのかもしれない。でも、僕にはこれ以上の言葉は言えない。もし、あったとしてもおこがましくて言えないだろう。本当に僕はちっぽけな臆病者だ。

「今日はありがとう」

「え?」

「色々付き合ってくれた事だよ。ストレス発散出来たし。無茶苦茶笑えたし」

「笑ってた理由。ほどんど僕を馬鹿にしてただけだよね」

「そ、そんな事ないよ……ハハハ……覚えだしたら笑いが止まらない……ハハハ」

 亜子は思い出し笑いを始めた。

「ほら、また」

「だって……」

 亜子は本当に楽しそうだ。

 僕はこの笑顔を少しだけでも長く側で見たいと思った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る