第三十八話
老師はニヤリと笑って外に出た。外に誘われるのをずっと待っていたかのようだった。二人は何も無いヘリポートの方へ向かった。
「あ、あの、老師は寸止めでお願いします」
「当たり前だろう。わしが普通に入れたらお前など命がいくつあっても足りんわ」
こうして向き合ってみると、初めて会った時よりずいぶん大きくなったな、と老師は感慨深い。あの頃は身長も百三十くらいだったが、今では百五十五くらいはあるんじゃないだろうか。それでも十六歳でこの身長はかなり低いが。
あれだけ勉強していたのに、目が悪くならなかったのは幸運だろう。眼鏡をしているとどうしても距離感がつかめない。
老師がすっと左を向く。右手だけが鎖骨の下あたりに上がって来る。老師が昇龍に教えた構えとは違う。老師はその場所で十分間に合うからだ。昇龍は教わった通り顎の前に構える。お互いが間合いを測っていてなかなか動かない。
唐突に昇龍が動いた。右のストレートを顎を狙って放ったが、瞬間老師の左手に払われた。昇龍はそうなるのを想定し、右ストレートはフェイクで本気の左籠打ちを入れたが当然のようにそれも老師に内側から払われ、その勢いでみぞおちに寸止めされて止まった。
「今のは止めなかったら死んでいたな」
老師が言い終わる前に昇龍は親指と人差し指の間を直角にして老師の首に入れようとした。つもりだったが、それも軽く後ろに飛び跳ねられた。「やられる」と直感的に思った昇龍は老師が着地するまでに軽くバク転を入れて戻り、強烈な後ろ回し蹴りをブッ放した。だがその脚も軽く押さえつけられ捻りを入れて仰向けに倒された。
どうしたらいいんだこの人! 七十三歳だろ!
もう一度基本姿勢に戻ろうとすると同時に今度は老師が基本姿勢の右手を内側から弾き、肘を内側に折り込んだ。昇龍が勢いで前に倒されそうになったところで、視界から老師が消えた。振り返ると老師が指を二本立ててこちらに向けていた。
「はい、今ので目が潰れたな」
それなら金的蹴りだ、と思った瞬間、昇龍は平衡感覚を失った。老師の背中に担ぎ上げられて投げられていたのだ。咄嗟に受け身を取って勢いで立ち上がった。
「おお、受け身はずいぶん上手くなったな。合格だ」
受け身が合格しても攻撃が一つもできていない。
「焦るな昇龍。お前は来年くらいにはわしを越える。心配するな」
しかし昇龍は今日も一撃も与えられなかったのが悔しかった。
「わしが初めて今のボスのボディガードを頼まれたとき、一度だけのつもりで引き受けたんだ。その時運悪くナイフ遣いがボスに突っ込んできた。まあ鉄砲玉だな。そのとき
「寸勁?」
「一寸の初動で相手に打撃を与える。三センチくらいのところから心臓のある位置に正確に掌底を打ち込み、エネルギーを送り込む。それで心臓は止まる」
昇龍は空いた口が塞がらなかった。普通は思いっきり反動をつけたり体重を乗せたりするものなんじゃないのか。
「もう相手が懐に入っていてナイフが届きそうだったからな、それしか方法が無かった。だがボスはそれをこんな美しい技は見たことがないと言ってわしを専属ボディガードにしたんだ。そのとき断っていれば人生も違ったものになっていただろうな」
ちょうどそのとき、ヘリのローター音が近づいて来た。
「春蘭さんだ!」
「さすが春蘭はタイミングをよくわかっとる」
そう言って老師は家の中からA4判くらいの封筒を持って来た。昇龍はいつものようにヘリが降りる前にドアを開けて飛び乗ると、封筒を入れてドアを閉めて飛び降りた。降りる前に春蘭の「今日はここエーゲ海なの」という冗談が聞こえた。
次に春蘭が来たのは冬だった。いつものようにタッチアンドゴーのノリだったので、封筒を受け取る代わりに紙バッグを入れた。昇龍が作った月餅だ。ちゃんと味見もしてあるし美味しかったので、春蘭にも食べて欲しかったのだ。
家に戻って老師に封筒を渡すと「月餅の他には何も入れてないだろうな?」と釘を刺された。
「はい。実はお世話になっているお礼を一度書きましたが、月餅だけであの人になら全部通じると思って燃やしました」
「それでいい」
「あと、今日はここセブ島だそうです」
老師はそれを聞いて腹を抱えて笑った。
夜になって老師が「ちょっと座れ」と言った。なんの話だろうかと緊張したが、老師が出してきたのは昼間春蘭が持って来た封筒だった。中から出て来たのはなぜか大学の入学案内。
「これ……?」
「お前ももう十六だ。来年は大学受験だろう。だから春蘭がお前に合いそうな大学の入学案内を大量に取り寄せたらしい。わざわざ大学の特徴や春蘭本人のオススメ度まで書いてあるぞ。春蘭はお前が理系だとわかっているようだな。文系は潜れる(こっそり入って受講することができる)のも視野に入れて理系ばかり集めたようだ。しかもお前がそこそこ頭がいいのがわかってるな、Sランばっかりだぞ、どうする?」
「大学なんて考えたことなくて。僕はずっとここで老師と生きていくつもりだったので」
老師はさも愉快そうに笑った。
「わしは今七十三だぞ。いつまでも動けると思うな。それに武術家がこんなところで燻っていてどうする。お前はいったい何のために武術家になるんだ?」
「大切なものを守るためです」
「ここの村にはお前の他に四人住んでいるが劉さんは六十過ぎ、あとの二人は七十過ぎだ。守るべき相手が違う」
考えたことも無かった。だが、老師の言うとおりだ。
「わしは分岐点で選択を誤った。本来なら真面目に生きている人たちをマフィアから守らなければならなかった。だが、選択を間違ってマフィアのボスのボディガードになってしまった。それが一生の後悔だ。猫は死んでしまったんだ。お前には選択を誤って欲しくない」
「何の罪もない真面目な人たちをマフィアから守りたかったから武術家になったんですか」
「そうだ、そして乗る舟を間違った。次々に壊れて行って何度も直しているうちに別の舟になってしまった。結果としてわしは武術家ではなく殺し屋になってしまった。お前は乗る舟を間違えるな」
老師はテセウスの船に乗ってしまったんだ。
「良い武術家は頭もいい。裏を返すと頭のいいヤツしか良い武術家にはなれん。大学は慎重に選べ」
「はい」
昇龍の返事には、大量の大学案内が入った段ボールよりも重みがあった。
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