第三十三話

「登りの後の休憩はまた格別だろ? しかもここはいい風が吹くんだ」

「兄貴はここ、お気に入りだもんね」

「帰りはみんなで劉さんのところへ寄るんですよ」

「なんで?」

「お菓子作っておいてくれるって」

「よっしゃ!」

 しばらくのんびりしていると、おじさんの「よーし行っていいぞ!」が聞こえた。三人は声を揃えて「ありがとうございまーす!」と言ってトロッコの真ん中に昇龍を立たせ、両側を固めた。梓豪と昇龍が軽く押し始めたときに浩然が急にブレーキをかけた。

「兄貴何すんだよ」

「今は昇龍を乗っけてんだ、ブレーキのチェックくらいしておきたいだろ」

 それを聞いて昇龍は感動した。これが危機管理というものだ。分岐に出会った時の選択が人の命を預かるんだ。あのとき空港なんか行ったのが間違いだった。

 今度こそ片脚をトロッコの端に乗せ、もう片方の足で地面を蹴る。三人で息を合わせると面白いように進むが、途中から下り坂が始まる。さっき登って来るときに「俺は心臓破りの坂って呼んでる」と梓豪が言っていた坂だ。ここは三人とも蹴っていた足を浮かせているだけでいい。かなりスピードが出て来て昇龍は怖くなってきた。このままスピードが出てカーブがあったら死ぬ、そう思った。

 唐突に友永を思い出した。遊園地に行くと必ず絶叫マシンに乗りたがる友永。東吾は絶叫マシンなんか大嫌いだった。

 そのとき浩然が少しずつブレーキをかけて危なくないように調整してくれた。

 どのタイミングでブレーキをかけるかこの人は知っているんだ。僕が乗っているかいないか、それが分岐。乗っているから早めにブレーキをかけるというのが選択。そして観測の結果僕は生きている。いつも馬鹿馬鹿しいことを言ってるけど、この人はプロだ。

「兄貴、今日はいつもほどスピード出さねえんだな」

「今日は昇龍が乗ってんだろ」

「危ないから?」

「ばーか、重さと速さはエネルギーに化けるんだぞ、よく知らんけど」

 あ……それ……。

「K=1/2mv²、エネルギーは重さに比例して速さの二乗に比例するってやつですよね」

「え、なんで昇龍知ってんの?」

 ちょうど沐辰と奕辰の兄弟とすれ違う。兄弟は昇龍がいるのを見てギョッとした顔をしていた。

「本で読んだから」

 本当は老師に教えられたのだが、老師はただの爺さんだと思われたいらしい。

「そうそう、いつもの重さに昇龍の重さが加わってんじゃん。だからいつもよりゆっくり目にしないと危ないんだよ」

「へー、さすが兄貴」

 と言っても僕の体重なんて誤差の範囲だろうけど、などと思っている間についてしまった。

「昇龍、分岐器の確認」

「はい、大丈夫です」

 梓豪が分岐器の再確認をして本線にトロッコを流す。昇龍が再び分岐器を戻すと梓豪が確認してくれる。その間に浩然がトラックの真上にピタリとトロッコを停めていた。

「昇龍の仕事はここまでだ、どうだった?」

「すっごく楽しかったです。もう少しほかの人のも見てます。三往復で終わりってことは次で終わりですよね」

「ああ、次俺たちが帰って来たら終わりだ」

「じゃ、それまで待ってます」

「好きだなー。じゃ、行って来るよ」

 彼らは分岐器を複線の方に倒してトロッコを流すと、また本線に戻して行ってしまった。

 またしばらく暇になったので、太極拳などやっていると、パパさんチームが帰って来た。

「おー、昇龍、さっき押してただろ」

「はい」

「どうだった?」

「重かったですー、えへへ」

 昇龍は照れたように肩をちょっと上げた。

「俺たちはもう今日はおしまいだから、空のトロッコは伏線の方に並べておくんだ。あとはその辺に散らばった石炭をスコップでトラックの荷台に積む。これで後の仕事が楽になるだろ?」

 分岐と選択と優先順位だ……昇龍は唐突に思いだした。

「下りは怖くなかったか?」

「浩然さんが三人分の重さを計算して少しブレーキを強めにかけてくれてたんで平気でした、フルスピードの時は死ぬかと思ったけど」

 これもだ、これも分岐と選択だ。そして観測した結果僕は今恐怖もなく生きてここにいる。頭のいい人はこれを無意識にやってるんだ。

 そして僕が操作した分岐器に、今トロッコに乗っている人と、そのあとに来る人の命がかかってる。その責任の重さを梓豪さんが負ってくれていた。

 あの時浩然さんがブレーキを強めにかけなかったら? 

 猫は死んでいたのかもしれない。老師の言っていた『猫』というのは僕のことなんだろうか。

 兄弟チームも戻って来た。

「分岐器よーし」

 どちらかが指差し確認をして本線に入って来る。昇龍にはどっちが兄かわからない。

「固定装置よーし、空けるぞ」

 中身を空けると二人で固定装置をセットして、片方がトロッコを押し、もう一人が分岐器を操作に行く。この二人は係が決まっているようだ。

「はい、終了。昇龍まだいたんだな」

「劉さんがお菓子を作っていてくれるからみんなで帰りに寄るようにって言ってたんで」

「おお~、劉さんのお菓子!」

 この二人にも好評なようだ。

「なあ、昇龍さあ、トロッコ問題って知ってる?」

「兄貴それ難しすぎ」

 というところを見ると、浩然と梓豪は知っているのだろうか。

「ううん、知らない」

「昇龍が押さえている分岐器が本線の方を向いていて、そこに俺たち六人が寝てるんだ。伏線の方には劉さんが寝ている。そこに石炭を山積みにしたトロッコが走って来る。ほっといたら俺たちが死ぬ。でも分岐器を動かしたら劉さんがお前の手で死ぬことになる。見て見ぬふりをする事もできるが、そしたら俺たちが死んでお前に責任はない。置き石をしたりトロッコを脱線させたりはできない。お前にできるのは分岐器を操作することだけだ。さあ、どうする」

「兄貴、劉さんはマズいよ。俺だったら劉さん助けちゃうもん、犯罪者にしようぜ」

「同じことだよ、誰か一人または六人が死ぬんだ」

「俺は家族を助けるけどな。そのためなら浩然だって殺すかもしれない」

 とゲジゲジ眉毛の趙さん。

「それって、ものすごく難しい問題ですよね」

「ああ、これにはいくつかのパターンがあるんだけどさ、いずれも道徳的・倫理的ジレンマをどう解決するかって話で、俺としては浩然がそんな話をしだす方が驚きだけどな」

「あ、いや、さっき昇龍がK=ナントカって知ってたから、もしかしてトロッコ問題にもこれっていう解決案を一発で出してくるかな~って」

「K=1/2mv²だなそりゃ。無茶言うなよ」とテイが言う。

「なんで昇龍そんなこと知ってんだよ」

 そう言って笑いながら七人は劉さんのところへ立ち寄った。さっき例題で殺されてたとも知らず、劉さんはみんなの分を一人分ずつ袋に入れておいてくれた。昇龍は老師の分も渡された。

 みんなは「次回は例に使うなら別の人にしような」と言いながら帰っていった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る