第十九話

 チェンが普洱茶のおかわりを持って来た。確かこの家はシュの家だったのだが。

「俺たちみたいなヘボでも、ワンとの戦い方を見ていると盗めるものがたくさんあるだろう?」

「なんか僕、とんでもない人と一緒に住んでる気がしてきました」

「ああ、とんでもねえ化け物と住んでるぜ。知らぬが仏だ、ガッハハハハ」

「昇龍君は強くなるよ。王と一緒にいるだけでいろんなことが学べる。ここにもチョコチョコ遊びにおいで。と言わなくてもどうせ王がマスを取りに行って来いとか言い出すんだろうけどね」

「そうですね」

 陳と昇龍がクスクス笑っていると唐突に徐が「おお、そういえば」と言い出した。

「あのボート、またともの方イカレてたな。次に昇龍が来るまでに直しておかんとな」

「あの……」

 三人が一斉に昇龍の方を振り返った。そういう声だった。

「あのボート、何度も何度も直したって言いましたよね。もう元の部分がどこかわからないほど」

 老師が小声で「来たぞ、覚悟しろ」と言った。二人の友人に言ったようだった。

「舟の底も直した、側面も直した、オールも直した、とも舳先へさきも直した。じゃあ、逆にどこが残ってるんですか?」

 徐はさっき自分で言った手前困った顔で「う~ん残ってねえかなぁ」と言った。

 老師がニヤリと笑った。

「つまり、全部のパーツが変わったんですよね。最初に作った時のボートのパーツは一つも残っていないんですよね。それって最初の舟と同じって言えるんでしょうか」

 陳が普洱茶をすすってから静かに言った。

「それを『テセウスの船』って言うんだよね。昇龍はどう思う? 同じ舟だと思う?」

「その舟を組み立てているパーツが全部違うのだから、別の舟だと思います」

「ふん、なるほど。だが俺は同じ舟だと思っている」

 陳の話し方はゆったりしていて、続きを待ちたくなる。

「俺たちは魚を捕って暮らしている漁師だ。舟は相棒みたいなもんだ。一心同体で心が通い合ってる。例えば俺が膝をすりむく。絆創膏を張る。そのうちに治る。それと同じで舟も壊れたら治療してやる。そして元気になったら一緒に漁に出る。それが漁師としての俺の結論だ。昇龍は漁師じゃない。だから結論が俺と違っていいんだよ」

 昇龍には陳の言葉が、湖の水がヘリポートの乾いた土に撒かれたくらい自然に沁み込んだ。


 帰りは小さな魚をいくつかもらって帰った。今日は大物が捕れないうちに二人が来たので仕方がない。こちらの道は川に降りる方と違って断崖絶壁の九十九折つづらおりに加えて、スロープがない。階段だけの道なのだ。なにか大物を貰っても抱えて(若しくは背負って)帰るしかないのだ。

 しかも老師は燻製にするマスはここから貰ってくる気らしい。きっと運ぶのは昇龍だろう。

 だが昇龍はそれを嫌だと思わなかった。徐はおおらかで楽しいし、陳はいろんなことを知っていて教えてくれるだろう。

「楽しそうだな昇龍」

「老師のお友達がみんないい人なので嬉しいんです」

「と言ってもこの村は今の二人と劉さんとわしら二人の五人しか住んどらんぞ。北の炭鉱で働く人が五、六人、毎日トラックで来るらしいが、必ず帰るしな」

「炭鉱?」

墨亀峰モーグイフンだよ。あそこでは石炭が採れる。山の向こう側から穴を掘って、こっち側に出して運んでいるらしい。向こう側は絶壁だから運べないんだろうな」

「こっちはどうやってるんですか」

「中で掘り出した石炭を、トンネル内用の小さなトロッコでこっちの出口まで出して、こちらでは大きなトロッコに積み替えて緩やかな坂道を降りて来てトラックに積むんだそうだ。そしてまたトロッコを炭鉱の入り口まで人力で押して行くらしいぞ。

まあ、トラックいっぱい積んだらその日は終わりらしいがな」

「へぇ、面白そうですね」

 出た。昇龍の『面白そう』だ。昇龍がこう言ったら絶対に見に行くはずだ。

 家に着くと早速老師が昼食に魚を焼いた。その間、昇龍は、朱鳥湖チュニャオフーで見せつけられた老師の技を思い出して真似していた。

 お茶の入ったカップを投げ上げ、自分はスッとかかんで起き上がった時にはもう普洱茶を飲んでいた。剣で斜めに叩き割られたと思ったときはヒョイと横を向いて最小限の動きで回避した。

 とにかく老師は『動いた』という印象をほとんど与えずに攻撃を躱している。同じことをしようとすると必ず腹筋と背筋を使わないとできないのだ。だからあの鉄製の物干し竿(むしろ鉄棒というべきか)での訓練を教えてくれたのかもしれない。

 昇龍は考えた。今自分が、何を、どの順番ですべきかを。

 まずはストレッチだ。体が柔らかければ怪我をしない。そして受け身。これも投げられたり転んだりしたときに衝撃を吸収できると言っていた。次はなんだ?

 脚は水汲みと、しゃがんで脚を前に出すやつをやっているし、腕と腹筋は懸垂からの腹筋運動をしている。

 今はこうして教えられたことすらまともにできていない。これが普通にできるようになったら老師は何かを見せてくれるのかもしれない。その時は老師の技を盗むときだ。そのためにはやるべきことをしっかりやっておかないと。

 昇龍が気ばかり焦っているのを見越してか、老師が言った。

「なんでもゆっくり時間をかけた方がうまくなる。煮物もな」

 テーブルの上に小芋の煮っころがしとさっきの魚の焼いたのが並んだ。

「ねえ老師。さっき陳さんはどうしてテセウスの船を自分の舟だって言いきったんだろう。パーツは全部入れ替わっているのに」

「それは漁師の誇りってやつだ。ヤツの魂が宿っている舟なんだよ」

「魂か」

「冷めないうちに食え。せっかく脂ののったヤツを貰ったんだ、うまいぞ」

「はい、いただきます」

 だがどうしても昇龍の中では全てのパーツが入れ替わったものを同一と見做すことはできなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る