第十七話

 一カ月経って神白林シェンバイリンも秋の様相を呈してきた。昇龍がここへきて早二カ月、もう中国人と言ってもわからないくらい中国語を完璧にマスターしていた。次は英語だなどと張り切っている。

 とにかく昇龍は何でも習得するのが早い。それはあらゆるものへの好奇心から来ているのだろう。先月習ったばかりのバク転もできるようになっていたし、背の高い物干し竿での腹筋運動は既に日課になっていた。

 畑に水やりをすべき野菜がなくなって来ても、てんびん棒を担いでの水汲みは毎日欠かさなかった。どうするのかと聞けば洗濯に使えると言って洗濯機にそのまま注いだりしていた。

 身長はあまり伸びなかったが筋肉は付いて来た。というより普通の小学生並みになって来た。今までが筋肉がなさ過ぎたのだ。まあ、勉強ばかりしていたらそうなるのも仕方がないだろうが。老師から見た昇龍は『やっとスタート地点に立った』くらいに見えた。

 そんな時に急に老師が「朱鳥湖チュニャオフーに行ってみないか」と言い出した。昇龍は二つ返事で了承した。実はずっと行ってみたかったのである。

 神白林シェンバイリンに燻製用の枝を捕りに行った時に見たあの素晴らしい景色。その湖のほとりに家が二件建っていて小さな手漕ぎのボートがあったはずだ。それを近くで見て見たかった。

 朱鳥湖チュニャオフーまでは九十九折つづらおりの細い道があった。青蛇川チンシュチュエンに水を汲みに行くときはもう少し勾配がゆるいので左右に二往復くらいのU字カーブがあったが、ここは上から見たときの断崖絶壁が示すとおりの『ほぼ壁』だ。それは九十九折にもなるだろう。そのため直線距離では八十メートルほどの距離が約一キロくらいの道のりになっていた。

 二人がやっとこさっとこ断崖絶壁に作られた道を降りてくると、でっぷりと太った髭の男が迎え出てきた。

ワン、最近来なかったじゃないか」

「ああ、この子を預かったもんでな。昇龍だ。わしの遠い遠い親戚でな」

「はじめまして、昇龍です」

 昇龍は塾で習った面接用の自己紹介が自然に出そうになって驚いた。こんなところでまで東京で染みついた生活が顔を出す。改めて自分のいた環境の恐ろしさに身震いした。

「俺はシュだ。ここまでの道は覚えた方がいいぞ。ワンは冬が近くなるとやたらとここに来る」

「どうしてですか?」

「ここでとれたマスの燻製を作るからだよ。今度はお前さんに運ばせる気だ」

「でも一本道でしたから大丈夫です」

「そりゃそうだ」

 そう言って徐は笑った。彼が笑うとお腹がボヨンボヨンとしてモサモサのひげが動くので、湖の空気も一緒に動くように見えて楽しかった。

チェンはどうした」

「あそこだ」

 湖の真ん中で釣り糸を垂らしている細い背中が見えた。こちらは徐とは正反対でひょろっとボートに鷺が止まっているような雰囲気に見えた。

「昇龍と言ったか、せっかくだからボートに乗ってみるか?」

「え! 乗ってみたい!」

「でもお前泳げないんのじゃないのか?」

 老師の鋭い指摘に「はい、泳げません」と昇龍は肩を落とした。

「ちょっとその辺を回るだけだ。陳のとこまでは行かんよ」

 昇龍は「いいですか?」という目で老師を見た。老師は肩をすくめて「仕方ないな、徐がそこまで言うなら乗せて貰え」と言葉で返した。

 先にボートに飛び乗った徐がもやい綱を目一杯引っ張って、昇龍に手を伸ばした。

「ほれ、こっちに飛び移れ」

 昇龍は一瞬躊躇したが、徐の手をしっかりと握ってぴょんと飛び乗った。バランスを崩してアワアワしている昇龍に、徐が「座れ」と手を引っ張る。見ている方の老師は気が気ではない。

 さあ、落ち着いてしまえば昇龍質問タイムである。それを知っている老師は可笑しくて仕方ない。

「このオール二枚で右に行ったり左に言ったり進行方向を決めるんですよね、一本だったらどうなるんですか?」

「同じところをグルグル回るな。だがそうなったら船のともの方に移動して左右に動かすことで魚の尾ひれと同じようにして進むだろう。まだそんなヘマはしたことないがな」

 そう言って徐はガッハハハハと笑った。その笑い声で陳の方がこちらに気づいたようで、老師に手を振っている。

「こうして舟に乗っている時に穴が空いたらどうなっちゃうんですか」

「もちろん水が入って来るから沈むさ」

「え! じゃあ大変じゃないですか」

「ここは船着き場だからちょっと深みに作ってある。だが家の近くは浅瀬で十メートルほど行ってもまだ膝のちょっと上だ。そういう浅瀬に引っ張っていって、そこから陸にあげて修理するんだよ。この舟なんか、何十回修理したかわからん」

「僕にも漕げますか?」

「やってみるか?」

 昇龍に『やる』以外の選択肢はない。

「よし、ここに座れ、オールは両手に同じように持て。ここから船着き場までたったの八メートルだ。そこまではお前が漕いで帰ってみろ。お前がうまく漕げなかったら俺も帰れねえぞ、ガッハハハハ」

 自分が漕ぐという選択をしたことで、自分と徐の命を預かった。これが選択に対する責任だ。そう自分に言い聞かせて昇龍はオールを漕いだ。

「逆だ。ここの水を前に出すようにすることで後ろに進む。それが舟の漕ぎ方だ。今はまるっきり反対を向いてる。まずは舟を旋回させて正しい方向に向けろ。お前は右利きか?」

「はい」

「じゃあ、右手だけで漕げ。そのうちに真後ろを向く。そうなってから両手で漕ぐんだ」

「わかりました、やってみます」

 老師はヒヤヒヤして見ていたが、あの徐が笑っているということは大丈夫だ。向こうから陳も向かって来ているが、昇龍が漕いでいるのを見て、決して邪魔にならないところでストップして見ている。

 良い友人を持った、老師は思った。

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