第十話

 さらに三週間経った。一カ月も続けたらさすがに昇龍もコツをつかんだようで、天秤棒を使ってこぼさずに水を運べるようになってきた。最近では汲んできた水を撒くときは爪先立ちでやっている。

 見た目は女の子のような優しい顔立ちだが、なかなかどうして筋がいい。しかも負けず嫌いで根性もある。老師は意図せず逸材を拾ってしまって、手に負えなくなるのではないかと危惧さえした。

 そして言語を覚えるのも早かった。子供は置かれた環境の言語を習得するのが早いとは聞くが、こんなに早いものなのか、もうほとんど日常会話に困らないレベルになっている。それにはこの人の貢献度がかなりの部分を占めているだろう。

「らーおーしー! しーんろーん!」

 とても遠いお隣の劉さんである。最近では昇龍も遠いという気がしなくなってきた。五十メートルならギリギリ逆立ちで歩ける距離だ。

「劉さんおはようございます」

「ちょっとちょっと、パイナップルたくさんもらったのよ。そしたら作りたくなっちゃうじゃない、鳳梨酥フォンリースー

「鳳梨酥?」

「食べたことないの?」

「見たこともありません」

「じゃ、食べなさいよ。老師と二人で。ほらこんなにいっぱい作ったのよ」

 目の高さまで持ち上げた袋には、確かにたくさん入っている感じだった。どんなものか全く見当がつかないだけになんとも言えなかったが、そこに老師が割り込んだ。

「鳳梨酥か。これはいいお茶菓子を貰ったな。こんなにたくさんいいのか?」

「うちの分もたっくさんあるのよ。そっか、昇龍はずっと日本にいたから中国のお菓子をあんまり知らないのね。じゃあ今度は開口笑カイコウショウ持って来てあげるね、あれ簡単だから」

「開口笑も聞いたことないです」

「沖縄県のサーターアンダギーみたいなもんだ」

 と老師が言うと、劉さんが補足した。

「爆弾ドーナツみたいなもんよ」

 爆弾……。

 あの空港のロビーの光景が目の前に展開された。

「すまんな、その時も貰うよ」

 劉さんは「それじゃまたね」と行ってしまった。

 老師が「あ、何も持たせなかったな」と慌てて納屋から大蒜にんにくを持って追いかけて行った。きっと昇龍の前で『爆弾』や『爆発』が禁句だということを伝えに言ったのだろう。そういう細かい配慮のようなものが老師にはあった。

 開口笑。口を開けて笑うような爆弾ドーナツ。

 あの時白川東吾は分岐点に立っていた。そして選択をした。だが観測をしていない。

 箱の中の猫と老師は言った。猫って何だ。箱って何だ。


 老師が戻ってくるまでにお湯を沸かしておいた。鳳梨酥に合うお茶がわからない。とにかくお湯の準備だけしてあとは玄関で箒を持って待ち構えた。

 老師の足音がしたので慎重に構え、入って来ると同時に振り下ろした。手ごたえがあった。なのになぜかしっかりと箒の柄を握ったまま箒ごと外に引きずり出された。

 昇龍は頭をポンポンと軽く叩かれ、「おお、お湯を沸かしておいてくれたのか、気が利くな」と言われた。完全敗北だ。

 それから老師は綺麗に手を洗ってきて烏龍茶を入れた。昭和初期のような家に住んでいる割には綺麗好きな人だ。曰く「どこにどんな毒が仕掛けられているかわからない仕事をしていたら手洗いには敏感になった」ということらしい。この人の雰囲気がのんびりしているからついつい忘れがちだが、この人は一秒あれば一人殺せるし、いつでも命を狙われているんだ。そんな生活はこれっぽっちもしていないが。

 鳳梨酥は確かにパイナップルケーキと言えばパイナップルケーキだった。だが、昇龍が思っていたものとは全然違った。ケーキに近いほろりとしたクッキー生地の中に、パイナップルを煮て水分を飛ばしたようなものが入っていた。思ったほど甘くなく、いくらでも食べられてしまって、夕食が心配になるくらいだった。

「鳳梨酥の鳳梨ってのはパイナップルのこと。酥はケーキというかクッキーのことだな。これは縁起のいい菓子なんだ。鳳という字が最初に入っているだろう。これは中国神話にでてくる霊鳥だ。神の眷族に入るんだろうな。日本にもあっただろう、鳳凰の像が。確か昔の一万円札に書いたあったぞ」

「平等院鳳凰堂にもありました。あと金閣寺? 鹿苑寺金閣のてっぺんにも」

 老師が目を細めた。

「お前はよく見ているな。良い武術家になるぞ」

「でもまだ一度も老師を攻撃できていません」

 老師は大笑いした。

「こっちはプロ中のプロだぞ。お前はまだ修行すら始めとらんだろうが。素人に一撃を食らわされるほど鈍っとらんぞ」

「悔しいです」

 この負けず嫌いは筋金入りだ。こんな気の弱そうな顔をして中には業火が燃えさかっている。

「大丈夫だ、わしの目に狂いはない」

 昇龍は黙って頷いた。

「ところで話は変わるが、お前は燻製が好きか?」

「はい?」

「燻製だよ燻製。ハムとかソーセージとかサラミとか、あとは魚の燻製に貝の燻製、チーズの燻製なんかは最高だな」

「あ、よくスモークなんとかって売ってるやつですか?」

「それだそれ。スモークってのは煙のことだ。燻製ってのは煙で燻して作る。あれは家で作れるんだぞ」

 昇龍の目がわかりやすく輝いた。

「そうなんですか! 作りましょう、燻製。自分で作ったものを食べてみたいです」

「よし、それじゃあ燻製を作る下準備を今からしよう」

「何をするんですか」

 昇龍はもう腰が半分浮いていた。

「まあ座れ。うちには燻製窯があるからそれで作れる。最初に燻すための木を集めなければならん。木の枝を集めてくるのは西側の林でいいな」

「はい。いつから行くんですか」

「明日からでもいいぞ」

「明日行きましょう」

 まだ八歳だから仕方ないか。逸る気持ちは抑えられないと言ったところだろう。老師は明日から付き合うことにした。

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