第二話 失恋は朝日交じりに

 いつか少年が夢で見た砂浜で、少女はラムネを飲んでいた。


 その夢において最も特徴的なのは端に漂着している海賊船……ではなく空。砂浜から見える海は空をそのまま反射したように青い波を描いている。しかし、その空には反射させるに足る光源が存在しない。つまり、太陽が無いのだ。空を漂う雲のどの隙間を探しても、その白い恒星は欠片も姿を見せない。その原因はただ単に、少年が夢を見るときにイメージし忘れて、夢の中でも気が付かなかったからそのままになっているというだけなのだが、その特徴に少女がこの場所を気に入る所以があった。

 真っ白なワンピースを揺らしながら、彼女は波の終着点を歩き続けている。そんなある時、少女はふと立ち止まって、何かを探すように海へ視線を向けた。

 「あれぇ、中々来ないなぁ」

 ここに時計は無い。それどころか、時間という概念があるかも微妙なところである。しかし、彼女が少年の来るタイミングが感覚で分かるようになるために、九年という期間は十分なものだった。

 「せっかく初めて泣き以外の声が聞けたのに。あーあ、退屈」

 どうやら、海に目当てのものは見つからなかったようだ。彼女はまた前を向いて、ラムネに口をつけながら足を進める。そんな退屈が、この後丸々二十四時間続くことになるのだった。


 ☆


 「明けない夜は無い」という言葉を初めて聞いた小学三年生の時。僕はそれを言葉通りに受け取って『そりゃそうだ』と思うのと同時に、些かがっかりした記憶がある。

 断じて僕は自分のことを捻くれているだなんて思わないし、今はきちんとそれがいい教えであることも分かっている。しかし、どう考えても人は「夜」より「昼」の方が嫌なことが多いように思えてならない。昼は学校や仕事に行かなければいけないし、嫌いな人に遭ったり、何かを失ったり、挫折したりなんてのも、まだ日が出ている時に起きる事であるという印象がある。「夜が明ける」というのはつまり、「辛いかもしれない一日がまた始まる」ということではないだろうか。「明けない夜は無い」は「暮れない昼は無い」とかにすべきであると思う。

特に、僕にとっては「夜が明ける」ことは「彼女との別れ」に直結する話になるため、可能なら一度訪れた夜には明けてほしくないし、太陽との別れは今生のものであってほしい。ただ極論、夢から覚めないでいられるなら、世界の明るさなんかどうでもいいんだけど。さて、なんでこんな話をしてるかと言うと。



 「はるかぁー、ご飯できたって!」

 「……ぁあーい」

 思春期の弟の部屋くらいノックしてから開けてくれよ、姉さん。

 「ちょっとー、なんか顔色悪くない?めずらしー」

 「……そうかな、大丈夫だよ。今行くから先行ってて」

 「ふーん、そう?」

 早くしろよー、と言い残して姉さんはリビングに向かった。まったく、朝から元気な人である。年が二つと性別が違うだけで、同じ腹から生まれた命はこうも変わるのか。

 「……ぁふわぁ」

 欠伸を皮切りに一度諸々を諦める。

今日、僕は人生で初めて眠れない夜、つまりは彼女の顔を見ない夜を過ごした。理由はいわゆる「遠足の前日は楽しみで眠れない」といった類のものだろう(僕は一度もそんなことが起きたことは無いが)。彼女と話すことのできなかった九年間と、それが変わるかもしれないという実感は、自分で思った以上に大きかったようだ。

 「それで遠足に行けなくなってちゃ、世話ないけど」

 漏れ出た独り言含めて、こんな人生最悪の朝すらいつか彼女に話せる笑い話に出来るといいんだけど。



 さて、こんな日はとりあえず学校をさぼろう。


 そそくさと家を出て、家とも学校とも遠い場所、電車で三十分の公園にやってきた。その公園には日当たりのいい池と併設された図書館があり、この暑い季節に一日暇を潰すのに持って来いの場所なのだ。

 「やーねー、もー」

 「そう、向こうの施設の方がな……」

 「かーちゃ、あやく、はやう」

 平日昼間とはいえ、公園はそれなりに人で賑わっていた。もっとも、それのほとんどは老人か、まだ保育園にも行っていないであろう小さい子供とその親ばかりで、働き盛り学び盛りな感じの人は僕含めて少数だ。恐らく、この公園にいる人全員の年齢の平均を取ったら、ちょうど人生の折り返しくらいの年齢になるのではないだろうか。

 思ったよりも風が涼しい日だったので、日向のベンチに腰を下ろす。もしかしたら昼間になったらもう少し暑くなってくるかもしれないが、その時のことはその時でいい。今、この場所が最高に気持ちいのだ。学校指定のバッグから文庫本を一冊取り出して、午前の予定の方針を立て終える。考え事は焦ってしたって仕方ない。思慕のあれこれは後回し、コーヒーでも飲みながら買ったままの小説でも読もう。風情を携えたチルな時間の中に、良い考えとは転がっているもので……って、あ。

コーヒー買い忘れた。

 「……ふぅ」

 自販機どこだっけ。あーあ、本格的に語り始める前に気づけてよかった。





 さて、少し困ったことになったぞ。

自販機はすぐに見つかって、それまではいい。しかしそこからが問題で、コーヒーが無いのだ。いや、正確には無いことは無い。ただ、僕は「ミルクたっぷりカフェラテ」がコーヒーであるとはどうしても思えない。別にこだわりなんて無いから、出来れば無糖、微糖やカフェオレなんかでもいいかなくらいの気持ちで来たけど、この手のカフェラテはどうしても、甘ったるくて好きになれない。どうしよう、別の自販機を探すか?いや、大きい荷物をベンチに置いて来ている、あんまり遠いところまでは行きたくない。じゃあ他の飲み物で妥協するか?ふーむ。

「なぁにしてんの?」

 「ほぇ?」

 なんだなんだ?ちびっ子が話しかけてきたぞ。年齢は三、四歳と言ったところか。半袖半ズボンで長めの棒を持っている姿に、早くもわんぱく小僧の片鱗が見える。

 「あ、こら、すいません」

 母親だろうか。女性が小走りでちびっ子の後ろにやってきた。

 「いえいえ、お構いなく」

 「ねぇーぇねー」

 「ほら、行くよ」

 「んー、あ、そーちゃんね、のどかわいた」

 目の前の自販機を見つけたのか。その意思表明からは、飲み物を買えという強い意志が伝わってくる。

 「ほら、どうぞ」

 母親は恐らくさっき買ったのであろうペットボトルのお茶をちびっ子に渡した。多分、ちびっ子の言いたい事は大方察しているだろう。が、言外にそれは駄目だと伝えているような態度に見える。残念だったな、ちびっ子。

 「おちゃやだ、じゅーすがいい」

 「まだ午前中なのにそんなの飲んじゃだーめ」

 「やーだ!じゅーすがいいの!」

 「だめよ、後で飲ませてあげるから」

 「やーだ、いまがいいの!やだやだやだ!」

 おやおや。こんな駄々も、傍から見てると可愛いんだけど。この場から離れようにも、うっかり長居してしまったせいでなんだか気まずくて動けない。ふむ、仕方ない。正直こっちとしては完全にもらい事故なんだけど、見て見ぬ振りも出来ないし、余計なお世話にならない程度にちびっ子とお話でもしようかな。

 というわけで、僕は自販機でそれを買った。まだ話を聞いてくれそうな内に急がねば。

 「ねぇ、ちびっ子」

 「やーぁあ……あ、ん?」

 しゃがんで目線を合わせようとしても、まだ彼の方が少し小さかった。

 「これ、何か分かるかな」

 「んーとね、えっと、おちゃ?」

 僕が買ったのは、緑茶。

 「そう、正解!よく分かったね」

 「……うん」

 褒められたのが嬉しかったのか、そうだといいな、ちびっ子は少し大人しくなった。けれど、どうやらまだ何か腑に落ちていないようだ。

 「君は、お茶が嫌い?」

 「そーちゃんはね、じゅーすのほうがいいの」

 「そうか……でもね、お茶は君のことが好きだって」

 「……どーゆーこと?」

 至極真っ当な疑問である。

 「僕のこれもそうだけど全部のお茶は、皆に飲んで欲しい、って思ってるんだ」

 「そうなの?」

 「そう。君に美味しい、って言ってもらうのがお茶にとって一番の幸せなんだ。でも逆に、お茶はいらない、って言われるととっても悲しくなっちゃう」

 「……」

 「優しいそーちゃんは、それでもお茶が嫌い?」

 頼む、どっかで誰かが、この子を優しい子だって褒めてあげていてくれ。そして、そのことが少しでも、彼の心の中に響いていてくれ。

 「そーちゃん、おちゃにする」

 「おぉ」

 我慢出来てえらいね。作戦大成功!

 あと、お茶も結構おいしいぞ。その言葉の行先は、自分自身にも向けていた。



 「それでは、ありがとうございました」

 「余計なお世話でないとよかったんですが」

 「とんでもない、助かりました」

 「それは何よりです」

 「ばいばーい」

 「あぁ、ばいばい」

 ちびっ子は角を曲がるまで、僕に手を振ってくれた。他人に構う余裕がないからここまで来たのに、難儀なものである。まあその辺はいいか。時刻は九時半。まだ、世間一般では「朝」に分類されるだろう。元の場所に戻って、少し狂ったものの予定通り、緑茶片手に読書に勤しむとしようか。

 夜が明ける事が良しとされる理由が少しだけ分かった気がする。なるほど確かに、こんな素敵な出会いは、太陽が見守ってくれている中でしか起き得ないな。



 その後は特に、何が起きるわけでもなく。本を読み終えたのは午後二時だった。 そろそろ本題に入らなければならない。

 僕の『夢』は、これからどうなるのだろう。

 そして、僕はそれに向けて何をすべきだろうか。

分からないことを、よく分かっていないことを材料に推理する。やろうとしているのは、なんとも不毛な気がしてならない上に終わりの見えない作業だ。何が世界の終わりをもたらすのか、そんなことを真面目に考えたって仕方ないだろう? 

しかし、彼女のことを思う時間なら、そんな妄想すらきっと無駄にならない。恋とはそういうものなのだ、と昔聞いた曲で言っていた。

今はそれを信じてみよう。他に、出来る事も無いのだから。







今夜も夢を見れたことにまずは一つ、安堵を覚える。

公園のベンチに僕は座っていた。そういえば結局、一日の丁度半分くらいここに座っていたな。夢のスタート地点として、妥当な場所だろう。

見える景色はちょいちょい変化があって、池の向こうの原っぱに見える横たわったでかい自販機がその代表例だろうか。後は、空に線路があってそこに電車が走っていたり、木からは鳥の代わりに本が羽ばたいていたり。わりかし、オーソドックスな夢である。

結局あの後、特に妙案が出たりもせず、考えがまとまらないまま日が落ちた。彼女に言葉は再度届くのか、夢の仕様は今までと同じだろうか、そもそも、今日もまた夢を見られるだろうか。そんな思考の分岐がいくつもあったのだ。まとまらなくったって、自分を責める気にはならない。でも、一つだけ決められたことがあった。

 もしも昨日の様に彼女と言葉を交わせたならば、まずは名前を聞こう。

初恋相手の名前を知らないなんて、由々しき事態である。僕の中にいる全ての僕の総意により、そうすることに決めた。後は、彼女が来ることを待つのみ。いつもはあっという間に過ぎてしまう夢でのひと時だが、今日は少し長く感じる。ふらつかせている足が軌道に乗ってきた。



そして、その時はやってきた。


「どうしたの?楽しそうじゃない」

現れた彼女が、当たり前の様に僕の隣に座ったから

「やあ、えっと……一日ぶり!」

いつもは一瞬しか見られないその笑顔に、目を合わせて返事が出来たから

「ははっ、緊張しないでよ。でも確かに、会うのは毎日会ってるけど、ちゃんと話したのは今日が初めてだね。やっと慣れてくれたか」

白いワンピースが、彼女が笑うたびに小さく揺れたから

「さて、じゃあ少年。早速本題なんだけど……」

僕は

「……ぃ」

もう

「ん、どうかした?」

何も考えられなくなって


「貴女のことが好きです!僕と付き合ってください!」


「はぇ⁉」

今日の自分の考えを全て無に帰させて、何より今を優先させて、ずっと言いたかったことを彼女に伝えた。

その結果得られたのは、一瞬垣間見えた彼女の見たことの無い表情と


「ん、えぇと……ま、ず、は……ごめんなさい……かな」

気まずさの添付された、想定し得る限り最悪の返事だった。


 ☆


  今日は前回よりも長く話せた。話せる時間は延びていくのだろうか。

 『慣れてくれた』と彼女は言っていたが、あれはどういう意味なのだろう。

 『本題』彼女は何か僕に伝えたい事があったのだろうか。

 「いやいやいや、そんなことよりさ」


 僕、振られた……よね。


 人生最悪の朝は、ものの一日で更新されてしまった。


 ☆


 なんか、悪いことしちゃったかな。まさかあのタイミングで夢から覚めるなんて。変に誤解したまま、落ち込んでないといいんだけれど。……んー、いやまあ、完全に誤解かって聞かれるとそうでもないんだけど……

 「情が移っちゃうといけないからねー」

 次に来た時に、きちんと話してあげよう。『私』という、存在について。

 廃れた古城の上で、彼女は少年に思いを馳せた。



 もっともそれは恋心なんかではなく、もっと、単純な

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