娯楽

 人間は生きている限り学び、労働し、社会活動を行わなければならない、因果な生き物である。

 それ故に、勤勉である事はいつの時代も美徳とされるが、娯楽に金と時間を費やす事を賞賛されるケースは少なく思う。

 学びも労働も、結果として何らかの価値を生み出す。自己を高めつつ、社会貢献に繋がる行為である。これは誰の目にも明らかに、好意的に見られるだろう。

 それに比べて、娯楽に熱を上げる者はどうだろうか。好事家と言えば聞こえは良いが、大抵は酔狂な者として扱われるだけだろう。

 娯楽にも様々あるが、人によっては公に言う事を憚られる類いのモノなどあるかと思う。背徳感を覚える遊びというのはいかがなものかと思うが、それを選ぶもまた人の性であろう。

 人が何かを成す事は大義である。勉学に励んだり、額に汗して労働する姿は崇高なものとして尊ばれる。彼ら彼女らは、目的を持って努力する。その行為には明確な意味があるし、価値が生み出される。

 それでは、娯楽はどうだろうか。中には何かを生み出す行為もあるだろうが、大抵はただ消費するだけだ。何も生み出さず、ただ消費するのみ。それが引け目になる要因であろう。

 趣味が高じて云々という話もあるが、大抵の者は何も生み出さない。単なる消費行動でしかないのが娯楽というモノだ。

 昔は男の遊びとして『呑む・打つ・買う』の三つが挙げられた。もはや時代遅れの概念だが、根底に流れるものは何も変わらない。

 端的に言えば、無駄である。無駄な事に貴重な時間や金銭、労力を費やす行為。娯楽とは、そういうモノなのだ。

 だが、娯楽は悪ではない。怠惰でもない。れっきとした人類の営みである。娯楽無くして人類の文化は発展しなかった。

 人類史上連綿と受け継がれる、様々な娯楽を否定するのは浅はかだ。真に無意味で無価値なモノなぞ存在しない。

 娯楽は無駄を楽しむ行為であり、ただ消費するだけであっても意味がある。人が消費行動を取れば何が起こるのか。真っ先に挙げられるのは経済活動であろう。

 娯楽を提供する者、それに関わる大勢の労働者が存在する。言うまでもなく、提供する側は仕事として取り組んでいる。

 享受する側は、ただ金を払って消費するだけだとしても、その金の出所はどこなのか。労働の対価である。

 何の苦労も無くぬるま湯に浸かるように、赤ん坊が母親からミルクをもらうように楽な話ではない。金銭を得る為の行動が必要になる。

 ほんの一握りの特権階級でもなければ、必ず労働しなければならない。それが金を生み、娯楽を享受する際の種銭になるのだ。

 何の意味も無く、ただ消費するだけのように思えても、それらは社会を構成する一部となっている。意味はあるのだ。

 野生動物は生きる為の行動に終始するが、人間は違う。文化がある。文化活動を脈々と受け継いでいる。有史以来受け継がれる芸術作品も庶民の娯楽も、誰が無意味で無価値なぞと思うだろうか。

 無駄を全て排除し、娯楽が一切消え去った世界を想像してみるといい。ゾッとしないだろうか。少なくとも私は、そのような世界は御免被る。

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