E/N’04:“Chaos Corridor”
‘This is Brashka Central. Change here……’
« Gare de Brashka. »
欧州の言語が耳に入る。今日の朝早くから声調言語を聞いたものだが、今は其の言語の影は薄い。最も、欧州の言語が流れ始めたのは此の路線に乗った時からであるとは雖も、今になって国を跨いだ事を実覚した。
„ Brashka. Átszállhatnak a ……”
数十の言語での放送を終えて漸く、列車は駅に入線した。併し暫くは止まらず、鳴らす音を下げつつも時折跳ね上がりを繰り返し、空気を吐くと、端の方でやっと停車する。列車は自らに穴を開ける様に扉を開くと、人を吐き出していく。先程迄車内に満杯だった人は駅構内に溢れ出し、階段や昇降機に列を成して行く。
其の昇降機への列に、彗星を追う二人の姿があった。
「ウエモン、
「ンゥ。あゝ、入ろう」
今の様に気遣いは出来るが、他者と云うものの型が一種類のみであるかの様に思っている節がある。例えば、俺が目を逸らせば顔を覗くが、俺が見返せば目を合わせて、而て逸らす。恐らく彼れは、長く決まった人とばかり付き合って居たか、他人を忘れたか、そんな種類の人間である気がする。
昼間の市街地。其れも、近代的な新しさに溢れた町だ。彼れも、此の町並みに興奮していない訳がないだろうが、人間に目が行きがちなのが変っている所……此れは良いとも悪いとも言えない。あゝ、セイエイは辺りを見回して、「見よウエモン、観光客だ」などと声を上げる儘に腕を引っ張って行く。俺は体勢を崩しかけて、立て直して付いて行き始めたと云うのに、セイエイは俺より歩きが速い。セイエイが見つけたという観光客の方向なのか、目的地への方向なのか、腕は流れの車道寄りへと引かれている。確かに、目的地は車道の行き止まりの先、中央寄りにあった。
「何を急いでいる」
頻りに腕を引っ張られては、今度は本当に鞄を残して連れて行かれてしまいかねないと、然う発した。
「分らないか、あの観光客、困ってるみたいだよ」
幸いなヿに、セイエイの言葉は正しいらしく、彼れの指す先の人は立ち止まっていた。セイエイが見つけた観光客は道路の向かいを歩いており、モンゴロイド的な顔立ちである。道路全体の人の流れは道路の両脇を同じ方向へ流れつつ、其の人を避けて途中で岐れていた。確かに、其の観光客は困っている。
「正しいな……」
斯う云う勇気は、俺にはない。手を差し伸べようとする心持ちと、其れを異国の地でも行おうとする意志がある。抑々、人混みの中で困っている人を見つけるなど至難の業だ。此奴との係わりは、きっと「彗星」を追う旅に添えられた花になるかもしれない。
横断歩道が青を示して、俺とセイエイとが向かいの人へ渡った時には、人々は既に彼れらの目的地に吸い込まれていた。一人、彼れは携帯電話を手に、観光案内看板の前に立ち尽くしていた。
「どうかされましたか」
「あ……」セイエイの日本語の言に、彼れは反応した。「お二人も観光客ですか」
「然うだ」
「困っていたした様でしたので声をかけた迄です」
「
アルチヤス。安堵した彼れから発せられた其れは、俺とセイエイの乗る列車と同じ名前をしていた。
俺は手帳を取り出して伝える。
「ブラシュカ中央の改札口迄ならご案内できます。アルチヤスは……次の西行きなら、番線が分かりますが——」
「
「喜んで」セイエイが間髪入れず発した。「駅舎は直ぐ其処です。道が混み出す前に行きましょう」
三人で固まって歩き出した。
道中も不安げに辺りを見回しつつ進む彼れに、セイエイが声をかける。
「僕は寺内情栄と申しまして、二人で旅をしております。彼れは元津右衛門。貴方について聞かせてもらってもいいでしょうか」
「
よくある誤解だ。欧州連邦は確かに欧州各国を統一して成立したが、現状は以前と殆ど変りない。英語は確かに国際語としての地位を年々高めているが、西欧でも東欧でも、どんな所でも然うとは限らない。
「桐君、と呼べばいいかな。元津です。欧州連邦は確かに一つの国家ですけど、地域差は否めません。あと……英語で通じ合えるかは個人としての問題でもありますから、何処でも何時でも通じると云う訳にはいかぬものですよ」
「はい……」
其の他、欧州連邦以前以後の政治についてや「彗星」についてなどの長い会話の末に、欧州国鉄ブラシュカ中央駅の駅舎に辿り着いた。
「あゝ、切符の受け取りをせねばいかんかった。寺内君、元津君、暫く待っていて下さい」
然う云うと、桐三竹は俺とセイエイを置いて窓口へ早歩きして行った。窓口に居るのは人ではなく、機械らしさのあるロボットだ。ざわめきの中でも、言語の差異故か、小さくも桐三竹の声が聞こえる。
「日本語でお願いします。……切符の受け取りを……。はい」
セイエイが目の向く先を桐三竹から俺に変えた。
「こんな地域でも多言語対応のロボットが配備されてるんだね」
セイエイの耳打ちに頷きながら、返す。
「こんな地域であっても確実に需要のある所は導入をしてるってヿなんだろうな」
自動改札機の並ぶ場所の上に掛かる画面を見た。言語が切り替わってもラテン文字ばかりだが、時折別の文字体系に切り替わっているのが認められる。
切符を取り出して見る。画面には、乗車予定の便が既に表示されていた。桐三竹が戻って来る。
「切符、受け取れました。お二人とも、行きましょう」
国際列車は、ブラシュカ中央駅の特別な番線から出発する。今や目的地と経由地の殆どの地域が欧州連邦として統一されたとは言っても、国際列車の乗客には特別な対応がなされる。空港に準じた検査が其れだ。
乗客の検査の後、俺とセイエイと桐三竹は
装甲車の
列車は停車して直ぐに扉を開いた。降りる客もなくて、既に車内整備を車庫で終えたらしかった。食堂車に荷物を詰め込み始めるのを横目に、乗車が開始され、俺とセイエイと桐三竹とはアルチヤスに乗り込んだ。偶然か、桐三竹の指定した座席は俺とセイエイとの座席と机を挟んだ向かいであった。
「何もなかったら列車に来て向かいに知らない人が座っているって状況になってたね」
「其れは其れで、セイエイなら興味を示すだろう」
「私なら、多分、態々此処で出会った同胞と云うヿで、興味を持ちますね」
何故だろうか、桐三竹もセイエイも大して変わらない人間の様な気がする。思案の最中に、銃声の様な音——後で知ったが制動解除の音らしい——がして、アルチヤスが動き出した。
「……あゝ、然うだ。先刻、『彗星』に就て少し話したよな。桐君は何うして今、アルチヤスに乗る事を選んだのか」
「……さア……此れ迄中欧に行った事が無かったのと……決定的だったのは、安さですかね……。閑散期ですので。寺内君と元津君は何故ですか」
「『彗星』観測の日程の都合上、此れが煌沙漠から車と地下鉄とでの都合がよくて、ゲドマンシュからの余裕がある……だったよね、ウエモン」
話を聞くだけの体勢でいたら、突然話の矛先が向いた。
「あッ、あゝ……然うだ」
少しの経たずして然程混乱せずともよいと気づき、余裕を取り戻した。
「『彗星』観測……
「北半球中で、だな」俺の言に、セイエイも頷く。「夫々の班は、日を追う
「さては昔……戦前のブラックホール観測に影響を受けましたね」
「然うだな」
桐三竹の言う通り、此の計画を立案したのは先の大戦以前の天文学に就て調べていた時に見つけた、同期させた複数の望遠鏡を用いたブラックホール観測が元になっている。当時、而して現在でも、遠距離の天体は複数の天文台の望遠鏡を用いる場合がある。今回は天文台ではなく、同じ宿を複数、特定期間取って行う。宿泊費と、目的地を同じくして特定期間動き続ける移動費が途轍もなく掛かるが、「彗星」——恒星間天体だからと云う事で予算が増えた為めに実現出来たのだ。付け加えるならば、先の大戦の戦禍が漸く収まり、貯蓄の必要性が薄まった事も背景にあると言えそうではある。
「先の大戦と云えば……いえ、やめておきます」机の上に食事が置かれた。気付かぬ内に列車は既に出発しており、今はブラシュカの郊外を進んでいた。「アルチヤスと云う豪華な観光列車で話す内容ではありませんので」
セイエイが改めて内装を見回した。大きくとられた窓、黄金色の内装と照明。大きな窓は防弾硝子である。特別さを演出する工夫が惜しみなくされている。きっと此の食事も然うなもだろう。
「頂きますかね」
「私も頂くとします」
「……俺も頂きます」
中欧・東欧の文化に精しい訳ではないが、叮嚀に味わう心算で食べ始める。其の横で、会話が再開していた。
「然うですね。先の大戦だとさ、此の先の通過する町のラドバ……ヴァールだっけ、そんな名前の都市が結構栄えてたんだっけね」
セイエイの言に、桐三竹は溜息を吐く。彼れの言う通り、
「然うだな……街並みが見えるんだったか。俺の記憶が正しければ、沿線紹介でもラドバヴァールを——紙面は割かれていなかったとはいえ——経由するのは確かだ。停車するか迄は覚えてないがな」
俺と
「楽しみだね。鉄路も、鉱山も、人の歩んだ歴史だからね」
「寺内君は歴史に興味があるのですね」
「……関心の一つではあるかな。僕は其の時に識りたいと思った事を識る迄だから」
「大胆なんですね」
セイエイと桐三竹は、食べ進めつつも途切れる事無く会話を続けている。食べながら喋るでもなく、二人はきちんと嚥下してから発言している。食事も殆ど会話に加わっていない俺と同程度に進んでいる。
セイエイ越しに、硝子が見える。其の景色は電源の落ちた液晶画面の如くであり、隧道に入っている様だった。併し、驚くべき事に、気圧の変化を感じない。通勤通学に使っていた車両は、隧道に入る度に耳が痛くなった事を思うと、技術の進歩を感じた。
食事を提供した乗務員が客室を出ると、程なくして隧道を抜けた。列車は平野と山並みとを縫う様にして走り、桐三竹は車窓に目をやる。
俺は食事を食べ切り、壁に張り付かんばかりに平野を見つめるセイエイに言う。
「あの、煤けた建物が見えるか。旧時代、先の大戦の遺物さ」
漸く調子が戻ってきて、彼れに説く。セイエイは俺の言の後に、其の巨大な円筒を凝視する。
「ラドバヴァールって、今、こんなになってたんだ…………」其の目は恐らく、円筒に記された掠れかけの文字を捉えていた。「『軍需専用』、ね。精錬工場か何かゝな」
「だろうな……」
「知りませんでした。今も旧産業の遺構が残っているとは……元津君は先の大戦に精しいのですか」
「いゝや。沿線風景に就て少し調べただけだ」
黄金色に照らされた内装と共に、化石燃料と工業の為めのプラントが窓に写り込む。而して、列車は下り始めていた。今も、鉄路はラドバヴァールに続いている。
嘗て、鉱山資源の為めに鉄路が張り巡らされた地は、旅客輸送には向かずして寂れている。公共交通とは、利用客が存在しない場所にあっても意味がないのだ。ラドバヴァールは繁栄の時を過ぎたとはいえ、ある程度の人口を維持している為め、また沿線の山紫水明ゆえに一部の鉄路が維持されている。
「……桐君」
「……」
桐三竹は、俺の話し掛けに応えず、其の鉄塔を見つめている。眼下には、今も残る「新市街地」に所
「ミタケ。ウエモンが……」
「
「君の関心は何か、訊いてもいゝか」
「……」桐三竹は、其の目を天井へ向けた。「……『外』、ですかね。全てと言って差し支えないかも知れません。待ち焦がれていたんです、斯う云うのを……」
桐三竹の言に、セイエイの表情が一瞬変わったのが視界に入った。苦しみか、哀れみか、俺のした事がない顔だった。
「一人、誰にも知られぬ儘でも、多くを見たかったんですよ。……環境が特殊だったので」
桐三竹の言葉遣いは、とある「父親を失った悲劇の少年」の映像を思い出させる。太陽系外縁天体の有人探査と云う人類初の栄誉を得る筈だった其の一人である父親と家族とは、不慮の事故で引き裂かれたのだった。
回想から逃れようと今見えるものを見ようとする。桐三竹が両目を開き、俺を見つめていた。
「元津君。無関心とは、こわいものですよ」
桐三竹の其の言は、直ぐ理解し得るものではないと直感が告げている。
「関心だけを追って、追求するのも其のこわさを孕んでいるだろう」
「えゝ。併し……後者は前者よりずっとやわらかいのです」
桐三竹は周囲を見た。俺も釣られて見回すと、ある程度
「こわい人は強張った儘の事が多い。見てみれば、此のアルチヤスの車内の様に、世界にはやわらかい人も多いと分かりますが、私はあまり其れを実感出来る場所にいなかった」
然う言ってから、桐三竹は初めて会った時の様な状態に戻り、微笑ましさを顔を湛えた。
「はい。今日は此れ位にしておきましょう」
神妙な空気感になる中で、アルチヤスはラドバヴァールに近付いて速度を落とし始めていた。路線の片側にだけ駅舎と出入口がある、中規模の駅によくある構造であるのが遠くからでも見て取れた。
ずっと黙っていたセイエイが口を開いた。
「ミタケは、無関心を嫌う理由があるのかな」
「私ですか。外から一切関心を持たれず、死にかけたからですよ。まあ、此の地球上に、他者に関心を向ける余裕のある人間など当時は限られていましたけどね」
俺の脳裡に先の大戦の文字が浮かぶのに最早此れ以上の時間は必要なかった。
「君は……」
「ご想像にお任せします。其れより他の話題にしませんか。政治の話題、興味深かったんですから」
「暫く……然うだな、俺の故郷の話をしよう。旧国名は——」
——先程迄視点を借りた彼れ、元津右衛門と「セイエイ」、桐三竹の三人は、「セイエイ」の相棒である元津右衛門の故郷の語りに耳を傾けている。普通、観光列車に乗っていて、列車が停車したならば、景観の紹介や、特産品の販売がある事が多い。だが、此処は例外である。三人は聞いていないが、車掌によって列車交換の案内がなされている。旧線は単線である為に、上下双方向の列車を同時に動かしているならば、何処かで行き違わなければならない。今回はラドバヴァール駅が其の場所となっている訳である。尚、乗務員用のものを除き、扉は開かない。
扨、話を戻しておこう——
「こんなものかな」
「都市の発展と、支持政党の変化ですか。興味深う御座いました」
「……意見を言うのも憚られるね」
俺の語りの後、二人は短い感想を発した。列車は未だ停車しており、車内では食事や会話が続いている。事前に予約した料理の量が桐三竹やセイエイ、俺より多い、或いは丁寧に食事をする客が数名いる様だ。
窓の外に目を向ける。閑散より荒廃と云う言葉が似合う
「お金を募ってるみたいだね」
セイエイの言の通り、人々は横断幕を提げている。拡声器を用いている姿も見える。人の並びは駅の長さと同じ位に迄なっている。食事を終えた乗客も、食事を終えていない乗客も、此の人々を一瞥はしただろう。だが、其の後に何うするかは又別の話である。
「此処ぢゃあ扉は開かないぞ」
然う呟いてから、拡声器の声も聞こえない事に気附く。アルチヤスが車内に流す雰囲気出しの音楽と、窓と車体との材質故だろうか。
「あ、
窓に石が当たり出して、冷静な桐三竹は然う呟いた。
「桐君、あぶんふって何だ」
「元津君、
「ェンヘェ……」
応答を考えていると、遠くから警笛が聞こえた。列車の走行時の揺れとは全く異なる振動が次第に増す。見ると、貨物列車が走り抜けて行く。自動車やコンテナを乗せたコンテナ車の合間に時折ある、自動車やコンテナのないコンテナ車から覗けて見えたのは、血も涙もない景色。銃声も聞こえた気がする。先程迄、此方に石を投げたり募金を呼びかけたりした人の姿は歩廊から全く消え去っていた。だが、幻覚かだに分からなかった。俺と云う、元津右衛門と云う人間は、初めて訪れる地方で目に見えた実在の疑わしいものを、然う易々と信じれる人間ではなかった。
貨物列車が駅を抜けると、アルチヤスは出発した。桐三竹は会話を始めようとしたが、其の第一声は会話にしづらい類いのものだった。
「あら……」
AFNFに就て話題になりかけた時には関心があると言わんばかりの顔をしていたセイエイが、座席に体重を預けて寝ていた。
「あの向かいのホームに、AFNFの
桐三竹は立ち上がって、荷物を手に歩いて行く。厠らしかった。
「桐君、待ってるよ」
彼れは振り向かなかった。
/*視点変更*/
アルチヤスと云う観光列車は、トイレも最新の設備を備えているらしかった。其の儘、何もせずに便座に座る。鞄から、「
外に出たと云うのに、此れが無いと生きていけないと云うのは仕方のない事ではある。文句を垂れていれば此の肉体の維持が立ち行かなくなるのだ。意を決して注射器を打ち込む。
痛みはない。打ち込んでから体に変化は見られない。下着に記された科学信仰AFNFの教義を一つ黙読する。此れを簡潔に言えば、常識の二文字だ。常識が書いてあるが、嘗ては常識に通じない場所にいた自分の心の支えとなっていた。自分が地球人であると云う事実は、他の拠り所を掻き消された自分には最早、唯一と言っていい程の何にも代え難いものだった。
鏡を見て、顔に変化がないか確認しようとした時、紫の何かが見えた気がした。後ろを振り向くと、当然、トイレの個室内には私以外に誰もいない。
注射した箇所に絆創膏を当て貼り、手を洗い、鞄を整理してから扉を開ける。其の釦は丁度、ワンマン運転時の普通列車のものの様だった。扉の前には、一人、乗客が待っていた。菫か、紫苑か、藤色か、あまり見ぬ髪色の人は、私と入れ違いでトイレに入って行った。——アルチヤスには不釣り合いな程、若々しく見えた気がした。
座席に戻ると、寝る寺内君と私を待っていた元津君が居た。「待ってるよ」なんて、何時振りに言われたろうか。
寺内君の顔を見ると、魂が抜けている。休息は出来るのだろうか少し心配にもなるが、元津君は心配を一切していないから、きっと大丈夫なのだろう。
…………
其れは、静かな場所だった。
狭い部屋に一人寝そべって、揺れるが儘に転がっていた。
「……何で僕が此処に居るんだろうかね」
「マコト」は其れを言葉にし呟く。手を伸ばして上下に振れば、右手を下げた時に何かに挟まった。圧力は強く、上げ抜くにも力が要った。挟まった方向を見れば、円い物が目に入った。其れは自動車(此処での「自動車」は自動運転車の略称ではない。念の為め)の車輪であると気付くのに時間を要する事はなく、また自身が自動車の下に寝ていたのだと気付くのにも直ぐに結び付いた。
下に這入っていたマコトは抜け出し見回す。自動車の多さからして、此処は自動車運搬船と考えて間違いなさそうである。
何故、自分がこんな所で眠っていたのか分り兼ねる。振り返ってみれば、時折記憶が欠落している箇所がある。「雪山」から「沙漠」、「沙漠」から此の「自動車運搬船」という移動をどうしたのか覚えていない。抑々、「雪山」に入る直前の「
「今直ぐに分かる事でもなさそうだな」
マコトは
「マコトッ」
劣化した音響装置が、雑音交りにひよいの声をば出していた。其の「見える声」を発する方を見れば、ひよいの髪色と同じ青い体色をした自動車がある。歩き近づき、其の青い車は運転席の扉を開けた。右運転台、とでも言い表すべきか、ハンドルが右側に付いている車輛の様である。
中に座ると、車内の画面にひよいが居た。
「ひよい……何うしたんだ」
「分らないわ。ただ、此の車の制禦機構は私が操れる様になってるみたい」
声は見えなくなり、普段の様に聞こえた。
「識るべきヿが増えたね」
「……」悩ましい顔をし、ひよいは画面の中で周囲を見回す。「『外』は何うなってるか見えるか」
「船の中らしい。他にも車が仰山あるけど、話しかけられたりしなかったよ」
「然う……私が閉じ込められてる此れに就ては何か知ってるの」
「自動車、と嘗て呼ばれていたものだ。工業製品の一種で、人を載せて人が走らせる。あ、でもひよいが運転できるなら、今も自動車と呼ばれているものであるかも知れない」
「何故同じ名称で指すものが異なるの」
「自動車は人口に、今や自動運転車を指すとする解釈が膾炙したんだよ。以前の名称で指していたものは置換えの語がない儘の筈だ」
「
ひよいは其れから、暫く黙っていた。船の汽笛が響き、時折揺れる。
何時間待ったろうか。車に満たされた船内に、人が溢れ出した。作業着を着て、他の車に乗り込み始めている。
「あ、ひよい、人が……」
マコトがカーナビの画面に手を振れたのは、無意識下の行動だったろう。彼れが左手の指の間に別の手指を感じた時、既に体は画面に引き摺り込まれていた。
画面の内部の空間は、暗くとも明るくともつかぬ少し広い空間であった。格子状に白い線の入った其の空間は、何のテクスチャも無い状態の四次元時空を模倣した仮想空間に似ていた。
「大丈夫か」
マコトの体はひよいに受け止められていた。其処に居るだけで、マコトには奇妙な感覚がした。「
「何か言えよ」
「ひよい……」
「うん」
「えらい。寝かせてくれ」
「然う。わかったわ」
ひよいはしゃがみ、マコトを寝かせる。布団もない硬い地面に寐て、マコトは辺りを見た。上、中空には長方形の「穴」が開いている。其処はひよいの背丈ならば丁度、斜めに見上げる形になるが、外——自動車の車内の様子が映っている。マコトが引き込まれたのも此処を通じてのものだった様だ。
地面には、何か画面が転がっていた。気絶した顔のアスキーアートを思わせるものが表示されていて、時折
マコトは咄嗟に手を其の画面に伸ばし掴み取り、ひよいに差し出す。
「ひよい、此れを穴に嵌めてくれ」
「ッエッ。ウン」
上下を確かめてから、穴に嵌め込むと、何故か
「目的の港に到着した。エンジン始動、此れより貨物列車に積み替えよ」
「了解しましたにゃ。自動運転開始ですにゃ」
何処からか男の声と女の声が響き聞こえてきた。マコトとひよいの声に似ているものゝ、込められた感情は全く異なる。男の声は冷静、女の声は溺愛とでも表現すべきか。
ひよいは其の女声の過度な甘さに生理的に嫌悪感を抱いている様に見えた。一方のマコトには、此の内、女の声が「自動運転車」にありがちな人工智能の合成音声であると分かった。親しみ易さの為に声は優しく、聞き取り易く、長時間聞いても飽きない。——だが其の語尾は幾ら親しみ易さの為めと言っても奇矯なものだった。
車が動き出した。其の揺れは何故かひよいとマコトも感じ取ったが、此の空間は其れ以上に異様に静かだった。
ひよいはマコトの横に座り込んでいたが、其の顔は内部に血が流れているかの様な赧さである。自分と同じ合成音声の声を聞き、自分が其の台詞を言ったかの様な心持ちになったのである。
「貨物駅に到着しましたにゃ。燃料の残量を確認して下さいにゃ。積載する貨物列車と、貨車の状態を確認して下さいにゃ。貨物列車の運行番号は——」
マコトは彼れが耳を塞ぎ
「運転手さん、難有う御座いましたにゃ。お仕事頑張って下さいにゃ」
作業着姿の運転手は丁度、車を降りる所だった。画面から覗くマコトに気付く事もなく、エンジンが止められ、扉が閉まった。
「やっと終わったみたいね」
ひよいが立ち上がり「穴」を見つめる。「穴」は見つめ返す。外の景色を薄ら映した儘、再び気絶した顔のアスキーアートを表示したかと思えば、其れが目を開けて喋り出したのだ。曰く、「あっ。お前、私にそっくりな声をしてるにゃ。真似するんぢゃないにゃ」と。
「偶々でしょう。私は識りに来ただけよ」
「識る、にゃア……。アヽ大胆ダコト……なんて、巫山戯るんぢゃないにゃ。
「貴方の事を……でも事故よ」
「
其の時、マコトの聴覚がアスキーアートを捉えた。感覚がおかしくなる不気味さに、一旦治った筈のえらさがぶり返す。
「人間もいるなんて想定外にゃ。(o_o)」
「……ッ」
「マコト————辛いなら外に出てもいいのよ」
「然うさせてもらう」
「いってらっしゃいにゃ」
マコトの体は再び運転席に戻された。風音が彼れを迎えた。ハンドルは冷たく、座席には未だ体温の残る。温度感覚が戻って来たのだ。
マコトが此処にいる限りは、視覚に声が見えたり、聴覚にアスキーアートを感じたりといった事もない筈だ。
「外はどうなってるの」
「貨物列車の筈だにゃ」
「彼れの言う通りだ。既に発車しているみたいだ。貨物駅も座席からは見えない」
「マコト、車の外には出られそうかな」
「全く駄目だ。抑々扉が開かないし、外も列車の中だ。危険過ぎると思うよ」
ひよいの溜息が聞こえる。
「然う云えば、カーナビの君に自己紹介を頼んでもいいか」
「いいけど、そっくりさんのお前から始めよにゃ」
「ひよい。人工智能だ」
「
「……固有名はないの」
マコトは不図した問いだったが、カーナビは捲し立てる。
「人間。誰にでも固有名があると思うんぢゃないにゃ。人から愛され、特別な名をつけてもらう事が何れ程の幸せか分かっているのかにゃ。
愛玩動物がいゝ例にゃ。犬や猫も野生ならば人に名付けられる事は殆ど無いにゃ」
「済まない」
マコトは咄嗟に謝罪したが、妙な沈黙が空いた。カーナビの画面には熟考するひよいの姿が映されている。
「分かったらいいのにゃ。まあ、名付けられた後も愛され続けるとは限らないけど……にゃ。人間、最後に自己紹介せよにゃ」
「マコト。旅人をしている。ひよいは相棒だ」
「にゃ」驚きの声色でカーナビは言いった。「ぢゃあ、ひよいの名付け親は人間マコトなのかにゃ」
「あゝ、其れは
カーナビの画面に驚愕の表情のアスキーアートが現れ、疑問符が浮かぶ。
「誰にゃ」
「…………」
ひよいは沈黙した。マコトは既に其の理由を知っていた。「雪山」で彼れが語った、二つの夢。記録に残らず、記憶にだけ残る「夢」で、彼れは「ひよい」と呼ばれた、と彼れは話していた。
「夢を見たのよ。其処で私はひよいと呼ばれていた。誰かが見せたのか、自分が勝手に見たと思い込んでいるのかは知らないけど……誰が名付けたかと云う問いには、分からないと答えるしかないわ」
カーナビの画面はひよいを残して疑問符で埋め尽くされる。
「あと、溺愛系イヽ・アヽって何よ。溺愛するのか、されるのか。其れに、イイ・アアってどんな存在なのか知らん」
沈黙。其の間に、此の自動車を乗せた車が分岐器を通過する音が前から響き出す。列車が大きく揺れる時、画面から疑問符が溢れ出した。
「ああ〳〵っ」
「マコト、何うしたの」
「疑問符が、疑問符がっ、画面から溢れ出て……」
「何当たり前の事言ってるにゃ」
吐き捨てられた所為で、マコトは何を喋るべきか、全ての選択肢を失った。
「あと、お前、人工智能ひよい。イヽ・アヽは人工智能の略称にゃ。
「人工智能はC.B.'nでしょう。
「お願い、待ってくれ……別の世界なんだから、名称も変わるだろう」
又画面から疑問符を溢れ出させても、マコトは驚かない。
「意外と痛いんだな、疑問符って」
マコトの思案に、カーナビは割り込んで来る。
「分からない事を分からない儘にしないで欲しいにゃ。然うでなければ相互理解の障壁として立ちはだかるにゃ。人間マコト、説明せよにゃ」
「旅人と言ったが、異世界を旅している。ひよいも此処とは別の世界から来た。僕も同じく、だがひよいとも別の世界から来た。然う云う事だ」
「科学者が聞いてないか心配になってきたにゃ。人文科学も自然科学も異世界なんて想定してない筈にゃ……」
此のカーナビに体があったらば頭を抱えておろう。
「暫く考えさせて欲しいにゃ」
カーナビは然う言って、永劫にも思える沈黙を始めてしまった。
何時間経ったろうか。
何本の隧道を抜けたろうか。
雪景色と、雪のない草木とを何回交互に見たろうか。其れは何れ程長かったろうか——一瞬でもあり、とても長くもあった。
「人工智能ひよい、お前は物理的な体があるのかにゃ」
「ねぁ」
「フウン……きっと其の所為にゃ。此の空間、元々はカーナビの
納得出来る。然れど、体がないと云う理由だけでは足りないと感じる。
「ひよい、きっと此の世界には、前の世界とは違う何かがある筈だ。其れが彼れに閉じ込められた理由だ。何か感じるか」
違い……。
「御免ね、マコト……貴方こそ、何か気づいてるんぢゃないの」
マコトは緩りと首を回した。左右には車窓、車内には座席。何時もの自動車からの風景——何時ものか。一体何時マコトが「自動車」を識ったと云うのだろうか。マコトには「セイエイ」の知る自動車の情報しか無いと云うのに、此処は彼処ではないのに、既に識って居ると言えようか。
「共通項が多い、か……」マコトは「セイエイ」の記憶を思い出しつつ、語るべき内容を構築していく。「此の世界は以前以上に僕の出身世界との共通点が多い。自動車に列車、あと疑問符の形も然うだ。其れは——此処が科学技術の発展した世界と云う事だ」
しゞま。貨物列車の中は異様に静かにあった。遠く機関車の唸る音、車輪の軋み揺れる音、自動車の履く車輪の奏でる揺れの音。窓の硝子越しにも聞こえる音の数々は、此の奇妙な集いの背景音楽として、響き続けていた。其れに、甲高い制動音が加わる。
「停まるみたいね。マコト、入って」
其の声への返答迄に、一瞬の躊躇いが生じた。「にゃ」と言わないからひよいの言葉なのだと気付いた時、自分にひよいとカーナビの声とは聞き取りづらいのだとも気付かされた。
「うん」
二回目ともなれば慣れたもので、空間の中での感覚も普通の事の様に思えてくる。だが、ひよいは改めてまじ〳〵とマコトを見つめる。
「マコト、理由を分った後、何うやって脱出する心算だったの」
「其れは……」
マコトは答える言だに見つからなんだ。思案の最中、カーナビの声が聞こえた。最早ひよいは赧くならないが、其の声は彼れが初めて示す感情があった。
「——にゃッ。待って下さいにゃ、売りに出そうとしていませんかにゃ。手順に従って……」
カーナビが乗客と口論になっていた。画面越しには荒れた身形の女が一人運転席に座っている。
「五月蝿い。人間様に対して……可愛ければ許されるのか。此の車は私が買ったんだ。此処に送る迄の列車と船の手数料も払った。文句あるか」
「人間サマ……」其のひよいの呟きは意識的なものであったかは、マコトにも区別がつかない。「…………」
「此のゼエゲの地で、生き物以上に偉い存在なんて居らんのだよ。黙ってな」
此の女の声は、又、ひよいにそっくりであった。まるで同じ人が、声を使い分けている様だった。
「ッ。何をするにゃ」
其のアスキーアートは険しい顔に見えた。
「電力が潤沢な地に送られたら幸せだったかも知らんなァ」
「——ッ、必要な部品ですにゃ。取らないで下さいにゃ」
「痛い、のかな」
ひよいが右手を押さえた。
「ひよい……どんな」
ひよいに手を触れたマコトの尋ねる前に、女の声が聞こえた。
「必要なのは君にとってだろう。目的は部品取りだよ。邪魔物は消えてもらうよ」
車のケーブルを切断されたのだろう、カーナビの絶叫が空間を満たした。
「ああ〳〵ああ〳〵ああ〳〵ああ〳〵ああ〳〵ああ〳〵ああ〳〵ああ〳〵ああ〳〵ッ」
叫びの文字が、空間の壁と床と天井とから溢れ出す。文字はマコトの服を切り裂いた。だが、中洲を襲う急流の様に逃げ場なくひよいとマコトとを包み込む。互いを抱き寄せて文字の空間に孤立した其の時、空間は闇に染まった。
其れは痛みだった。目を開ける事すら躊躇われる、壮絶な痛みだ。暗闇に一人、倒れた時の様な、或いは自動車の為の舗装に膚を傷付けられ血を流した時の様な——近くを通る者は、暗がりに倒れ込んだ人間など視界に入る筈もない、そんな孤立した空間で感じる痛みだ。痛みを感じる程に圧されている筈なのに、何もされずに無重力に浮かんでいる様に思えた。
「……聞こえる、マコト」
孤独感が生み出した幻聴か、聞き慣れた声が耳に来る。切り裂かれ、全てが譃の様に思えてしまった。あの日、音楽を聴いていたばかりに、銀河鉄道を夢想し、別人の様な役割を得たと思い込んだのだ、然う考えた方が自然な筈だ、と。だが、何もしていなくても、向こうから来る事はある筈だ——「現實」に見た、「彗星」と云ふものゝやうに——。
「マコト」
仄かな青い光が目に入った。触覚が頬に触れる手を捉えた。
叫びの文字は透明だったらしい。青髪の女は、全身を切られながらも彼れの前に立っていた。鮮やかに青い髪が光っている。其の血は、髪と同じく、青く、併し淡く光を放っていた。
血がありながら、こんなにも血を流しながら、生きていないものなど、夢である事などあるのだろうかと、彼れは思う。
「ひよい……」
彼れは其の存在の名を呼んだ。
「ナビゲートするにゃ」随分と掠れたカーナビの声がして、二人は辺りが明るくなるのを感じた。「お別れにゃ」
闇は弾けた。
車庫に、自動車…………カーナビは女の手で分解されかけている。単なる機械であるのに、其の姿は、妙に生々しく思えた。あの機械から、文字が実体化したり、妙な口調の声が聞こえたりする事はもう無いのだ。
「気付かれる前に行こう」
「えゝ」
二人は自動車の分解に夢中になっている女を後目にし、車庫を去った。此の世界に就て識るには、「ゼエゲ」が重要な言葉だと二人共勘付いていた。
然うではありながら、マコトもひよいも血塗れだった。恐怖心のある人間ならば、化け物か幽霊かと思って逃げ出すと思われる程のものだったが、何故か何時もと変わらず歩けた。車庫の外、日差しの強い森の中でも、自らを反射するものが無ければ忘れてしまう程に変りなく、普段通りである。
「平気か」
「然うだけど、マコトも平気なのか。血が止まっとらんけど」
——「きっと、此れは夢だから」と言い掛けた自らの言を呑み込む。先刻、現実なのだと結論に達したではないか。
手足を見てみると、鮮血が止め処なく溢れている。言葉に傷つけられた所為か治りが悪いらしく、其れはひよいも同様らしかった。
「ねえ、マコト」情熱の炎を燃やしてか、言う。其の顔に一筋の青い鮮かな血が流れても拭き取らずに続ける。「貴方を識りたい」
「……」
マコトは人間に対する恋愛と云うものをした事がなかった。だが、相手は恐らく人間に対する恋をしないであろう人工智能である。根底には自分が世界を旅する事に共感し、元の組織を離叛する位に強い好奇心があるのだ。言の意味はきっと文字通りであろう。
「貴方の感じた共通点の理解を深めるにも必要な事だと思うわ」
マコトはひよいの行動を思い返した。思慮深く、知識も豊富でありながら、口に入った沙に興奮することもある。其の行動は混沌としている様にも思えるが、「セイエイ」とは別の世界に生まれたのだから或る程度は仕方ないだろう。
「短く済むから」
マコトは思案の無意味さに自分で呆れた。
「わかった」
「舌で好いよね」
「他に何があるんだ」
「見つめあったり、頭をくっつけたりとか」
「……やり易い方法にしてくれ」
「わかった。舌でお願いね……はい、開けて」
「ん」
ひよいの舌は冷え切った金属の様に冷たかった。ひよいの目が明らかに好奇心で輝き、次の瞬間、衝撃を受けた過冷却の氷の如く、マコトは全身を冷え切った金属の手で一斉に触れられた心地がした。
鳥肌が立たない者が居ようか。「手」は模糊としていき、記憶から内臓から何から何迄、一気にひよいと云う白日の下に晒す。「セイエイ」さえも、識らされるのだ。
唇が離れた事だに気付かずに、マコトは暫く立ち尽くしていた。
「人間は面白いね」記憶に就てか此の人間の反応に就てか、ひよいは然う告げた。「ぢゃあ、次は此の世界を識っておこう。カーナビが図書館の位置を教えてくれたんだ」
理由は知らねども、二人の服装は普段通りのものに戻っていた。其の儘、マコトとひよいとは丘を登り始めた。
マコトは未だ呆然とした感覚が残って、少し遅れてひよいが「人間は」面白いと言った事を認識した。既に応えるのも不自然になる程に時間が過ぎており、マコトは思案しつゝ道を登る他なかった。
丘に生えた林が、見下ろすと丁度、見て下さいと言わんばかりに途切れている箇所があった。マコトと、カーナビの中に居たひよいが先程迄いたと思われる貨物駅と、巨大な建造物がある。おまけに、「……専用」と掠れている文字が書かれている。其の視界はマコトにとって、此処が夢現の何両方かであるかを惑わせるに十分だった。
「ラドバヴァールに似てるかもね、マコト」
「……」少し上に立つひよいがマコトに視線を合わせる様に降りて来ていた。
「『ゼエゲ』にも、マコトの——『地球』にも、似た様なものが存在するなんてね」
「ゼエゲの意味が分かったのか」
マコトの問いに頷き、本を手渡した。——「
「上りましょう。他にも識りたい事はあるもの」
特徴的な建物が丘の頂上に聳えていた。三階はあるだろうか、高く、面積も広い。
「手分けして読もう。私なら一時間に四千冊位読めるから」
「順路だけ決めようか」
建物に入るや否や、マコトは館内図を指した。
「私は上から読むわ。下でお願いできるかな」
「わかった」
既に停止して久しかろうエスカレイタの手摺に手をかけたかと思えば、上の階へ飛んで行ったひよいを見つつ、マコトは一階の本棚を確認する。殆どが「ゼエゲ」の歴史に就てのものだった。本棚は綺麗に手入れされており、何者かの手が入り続けている事は確かだった。
危殆に瀕したゼエゲ国は、困窮したと多数の本は語るが、其の様には見えない。マコトは既に十台の棚の本を読み終え、入り口から更に図書館の奧へと入り出していた。
其処で、マコトは初めて骨を見た。人間と云うものは、「セイエイ」ならば時折、科学館や歴史民俗資料館に行って目にした事があった。併し、此のマコトは見た事が無かったのだ。床に倒れ、服は未だ残っている一方、肉と云う肉は既にない。マコトは其の服に手帳がある事に気づいた。手を合わせて、マコトは手帳を抜き取り、開き読み始めた。
――――ゼエゲ(Znaoh-e)と云う、嘗て存在した永世中立国家があった。激しい海流が国土を守る中に、独自の文化を築いた鉄壁の島国であった。其の文化は、簡単に言えば、両手を合わせて死者を労わり、先祖を崇め、異なる世界の神々を信ずる精神性を持っていた。此の文化は栄華の中にあったと言ってもよいだろう。併し、時代が移ると、航空機がゼエゲに激動を招いた。大国がゼエゲの有する戦略的価値を争い、ゼエゲの各地を舞台に鎬を削った結果、島は破壊と混乱に包まれた。だが、戦争の果てに、嘗て敵対した大国たちが手を取り合い、ゼエゲを永世中立国家として独立させる。これが近代ゼエゲの誕生だった。併し、此れも結局の処大国の自己満足に過ぎなかった。倫理が全ての人間を平等に扱うべきものに変ったから、ひどいことをされた地域が戦乱から永世中立と云う形で切り離されたに過ぎない。
永世中立と云う言葉は、君には少し難しいかも知れない。ゼエゲは若者を中心とした徴兵を主軸に据えて、武装による中立で国内の平和をも保ち、外交的努力によって周辺地域の平和の維持にも貢献した。大戦で此の世界が疲弊して以来、平和な時代に於いても武装中立を貫き続けるが、やがて周辺国家の輝きや倫理意識は薄れ、軍事的緊張が高まっていった。其の中にあっても、戦争は——「戦争だけ」は忌避されていた。此の倫理の御蔭で、滅亡の危機が訪れる度に乗り越える事が出来た。
「世界は幾度も滅亡の危機を乗り越えた」と言えば聞こえはいい。但し、実際は泥臭い。他国の報道機関は何時しかプロパガンダの濁流と化していたのだ。イデオロギーや文化の差異があれば互いに侮蔑し、軍事的同盟関係にあれば互いに称賛する様になっていた。ゼエゲの人々は、其れを見て笑っていたものだ。其の手の報道の中ではゼエゲは決まって侮蔑も称賛もされず、只あるだけの「物」扱いされていた。或いは、軍事的な事は忘れ去られて、文化面だけが称賛されていた。そんなものを見て、笑っていたのだ。「永世中立である事」である筈の彼れらにとっての正義を、時々「大国から無関心である事」に挿げ替えていた事に、何割のゼエゲ人が気付いていたのだろうか。
処で、ゼエゲの誇るべきものは天然要塞だけではない。科学技術もである。其れは天然要塞を補強する要素の一つとなって、永世中立を支えた。素晴らしい性能と称賛される自動車も、おそるべきレーダー網も、ゼエゲが洗練した科学技術の産物だ。ゼエゲは或日、おそるべきものを生み出した——或いは、精神性の中に忘れ去られたものを科学的に再発見したのだ。其れは、永世中立の「切り札」に成り得るとも目された。併し、論文とは全てに対して公表されるものだ。外の大国は其の論文を恐ろしげに読んだのだろう。大国はゼエゲに圧力をかけた。大国の殆どが、嘗て資源欲しさにゼエゲに侵略し、返り討ちにされた国だった。徴兵経験のあるゼエゲ全国民が、「切り札」の正体を理解せずして、侵攻されれば再び返り討ちにすればよいと思っていたのだろう。敢えて言うならば、「切り札」は
論文公表から暫くして、永世中立国家と云う立場から半永久的に与えられた貿易の自由が、脅かされた。大国によってである。世界は其れを許す時代になっていた。ある大国の外交官が、何時ものプロパガンダを口にする様にゼエゲへの侵攻を示唆した時は批判があったが、失態も其れ位で、自由が、外から締め上げられていった。私には何が起こっていたのかは知らない。夜間の電力統制が始まり、潮力発電所が次々国営化されて、ラヂオは自由な発言を塞がれていったから(後で知った事には、此れでも一応、大国とゼエゲは和解の道を探っていたらしい)。
町の若者の数は見る見る内に減り、空には奇妙な形の鳥が飛んだ。
無人機だ。
私の居た町は内陸にあり、敵のものである筈がなかった。だが、機体には「両手」が描かれていた。其れは、大国の一つを象徴するエンブレムだった。まるで、見ている者に差し伸べられたかの様な「両手」の図案——だが、其の手を取った時、「彼れら」は何をするのだろうか。私は町を逃げ出した。逃避行の中で何を見たか知りたいか?嘗て平和の象徴だった噴水が、怒れる神のように火を吐き、炎の鳥たちが空から舞い落ちた。焼け落ちた鳥に替って無人機が空を支配していく。辿り着いた港町には、大きな図書館が爆破されて、天井に穴が開くのを見た。此の図書館だ。どの町も不安に蝕まれていた。何かも知らない「切り札」が、自分の命を脅かすきっかけとなったのだから当然の事かも知れない。
君が若し、異世界から来たならば、「切り札」の正体に気が付く筈だ。君は此の世界で何を見て来たかな?恐らく、嘗てゼエゲ独自の技術だったものが他国に広がっているものだったろう。其処に「切り札」はない。君はきっと、「切り札」か、其れに限りなく近い何かを手にしている筈だ。然うでないならば、此処にはいない筈だ。而して、君はゼエゲと呼ばれる此の地がどうなっているか、知っているだろう。————
「失礼しました……」然う言い乍ら、本を閉じて元の懐に戻した。「誰かゞ、僕達の事を知っているのか……此の人が…………知っていた、のだろうか………………」
マコトは、其の目を人骨に向けた。図書館は新品の様に綺麗でありつゝ、此の生きていたものだけは旧く見えた。汚れも此の人の周りだけだったが、汚れと云うにも綺麗過ぎる気がした。叮嚀に扱われているのだろうが、明らかに、放置されたものではないのだ。而して、此の人の手帳には、異世界から来た人へ向けた伝言が残されていた。
「切り札、
マコトはゼエゲの内情に介入出来る様な存在ではない。ひよいも然うである。たゞ、識るだけ、識りたいものを識るだけの存在に過ぎないのだ。
「マコト」
遠くから、ひよいの声が聞こえた。階段とエスカレイタとの為めの穴から、ひよいが降りて来た。
「……ひよい」
「識れたよ。マコトは何うだったかな」
上に目をやれば、天井に空いた穴に罅が入っている。
「然うか。識れたけど、悩みが増えたかな……」
天井が軋む。
「そっか。ぢゃあ、又、識らないとね」
天井が崩落した。
「然うだね……」
…………
光が目に入った。ウエモンの声が、「セイエイ」を「マコト」の奇怪な夢から引き戻した。柔らかな座席に沈み込んだ頭を動かすと、旅の相棒たる元津右衛門の顔が覗く。
「目覚めたか。もう直ぐゲドマンシュだ」
「え……」セイエイは自分が終点に付く迄、長く眠っていた事が信じられなかった。「山紫水明は……」
「残念だったな」其の窓に映る青白い山並みは、既に遠い。「まあ、俺も少し寝ていたんだが」
「逆に言えば、元津君は寺内君の様にしっかり眠るべきだったかも知れませんね」
ミタケ——桐三竹はウエモンに微笑んだ。ミタケは起きていたのだなと思うが、抑々、未だ太陽の高い時間帯に眠るのもおかしいのだと別の自分の様な思考が割り込んできた。
「寺内君、目がはっきり覚めましたか」
「……恐らく」
「貴方は此処に居ますか」
「……」其の言葉に、セイエイは唇——否、全身に残る奇怪な悍ましさを感じて、答え
「なら好かった。つい前迄、魂が抜けた様だったので尋ねたんです」
敢えて使ったのかは解らないが、魂と云う単語は今時殆ど使う者が居ないのだ。使うとしたら、其れは非科学的な意味合いを持つ事が、全体的な潮流だった。
「魂が抜けた様……何か失礼な事でもしたか」
「いえ。息しているかも分からない程に動きませなんだよ」ミタケの台詞は本心からの様に聞こえた。隠し事が余程巧くなければ、だが。「此方こそ何か失礼な言動でしたか」
「え……」
「セイエイは識りたがってるだけだ」ウエモンの言に、セイエイは必死に頷いた。「ほら。ぢゃあ、そろ〳〵降りる支度をしようか」
列車は甲高く何かが擦れる様な音を発し、止まる。三人は其々の荷物を抱え、ゲドマンシュと云う都市の中心駅に降り立った。ゲドマンシュも欧州連邦の国内にある為め、既に入国手続きは廃されている。
「ねえ、ウエモン、昼食はミタケを誘おまい。ミタケ、先刻からお腹を
淡紫のミタケの鞄の動きが止まった。
「聞こえていました。
「何か心配事でもあるか」
「……」ミタケは逡巡の後に曰く、以下の通りだ。「自分の分は自分で払いますから、お願いします。場所は決めてるんですか」
ウエモンは悪かった反応の切り替えに暫し対応を考えていた様だが、何時もの調子で言った。
「ゲドマンシュの、庶民向けの飲食店だよ。観光地区からは離れとって、工業地区に近いぞ」
ウエモンはゲドマンシュの事も一通り調べていたらしい。此れも一応、観光案内にも載せられてはいた情報である。ただ、訪れる観光客数は立地故に少ないらしい。総数も減っているが、此れは機械化の潮流の所為だ。ゲドマンシュの主力産業である自動車製造も、機械の導入で雇用が減り始めている。労働者は減り、観光客も観光地から離れている為に期待出来ないのだと云う。
背の低いながらにも必死に甍を争う街並みには、不釣り合いな程広い車道がとられている。自動車産業の盛んな事を示している様だった。或いは、先の大戦で入り乱れたものをきちんと整頓した事を、かも知れない。
「寺内君に元津君、こんな同胞と食事を共に出来るとは思わなかったよ」
「冗談はよせ。俺は苦手なんだ」
「本気ですよ、元津君」
「あ、若しかして、同胞って地球人か」
「其の通りです。寺内君はよく覚えてますね。寝てたからでしょうか……」
ミタケは然う推測を始めたが、店の入口は直ぐ其処にあった。「マレツィナ」の名前が読める。先の大戦は欧羅巴の言語を混交させてしまったのだと、改めて思った。別に、欧州に限った話ではないが……東亜でもよくあった。ミタケが軈て静かに扉を押し開くと、室内は温かな食堂独特の香りに満ちていた。煮込まれた肉の匂い、焼きたての麵麭の香ばしさ、そして香辛料のほのかな刺激とがある。外光が差し込む窓際の席に案内されると、セイエイは自然とメニューを手に取った。
「
「俺はグラーシュにしよう」
「ぢゃ、僕はピエロギを」
ミタケ、ウエモンと続き、セイエイも言った。
店の女主人が頷き、厨房へと戻る。最早、自動翻訳は此の店に当たり前となっている様だ。気にもせず、桐三竹と云う此の存在は静かに外を眺めていた。窓の向こうには、車の流れと対照的に、遅々とした歩みで通りを行く老人の姿があった。
「ミタケ、甘いものは好きかな」
セイエイの問いかけに、ミタケは少し考え込んだ。
「……ええ、好きですよ。甘味には、心を和ませる力がありますね」
「なら、デザートも頼もまい。シュトゥルーデルがあるみたいだ」
「何……ユーロか、幾らですか」
「気にしなくていいよ。割れない料金になってるから」
セイエイが軽く笑うと、ミタケもわずかに微笑を返した。
「……次があれば……次、次ですか……寺内君、若し、然う云うのがあったら……」ミタケはセイエイを凝視した。だが、セイエイには自動車の窓からの光の反射で顔が見えなかった。「お返しさせて下さい」
「何か連絡手段はあるかな。僕とミタケで他の連絡を取り合うのもいいかも知れないから」
「……疑わないんですね。……番号を教えます。寺内君の携帯電話を貸して下さい。電源が入ってさえいればいいですから。自分で書き込みます」
セイエイが携帯電話を手渡すと、ミタケは其れを胸に抱えて、一分程目を閉じていた。「祈り」か。どうも、ミタケを見ていると、セイエイの心には非科学的と云う言葉が浮かびがちである。
「はい、大丈夫です。繋がりたい時に繋がる様になりました」
「難有う」
「……本当に疑わないんですか」
セイエイは質問の意味が理解出来なかった。何故、二度も問うたのか。だが、幾らまじ〳〵と見つめた所で、ミタケの瞳は真意を語らない。
「現代に生きているから疑わずに済むんだ。桐君、先の大戦は覚えているだろう」
「ぢゃあ、学んだ事を忘れたんですか」
嬰鱗…………。この三つの文章が、互いに篋底を触る事になるとは思ってもいなかったのだが、何うやら其の通りらしい。
「忘れられる訳ないだろう。俺は確かに見たさ。人の手に余る力が暴走した、そんな戦場ばかりだった。人間が人間によって人間でなくなっていった…………」
「ウエモン」
「……寺内君、今声を掛けてしまえば……危ない事に——」
寺内情栄は先の大戦を知らない。共感し易い体質故に体験した気になっていることは否めないとは雖も、戦後の生まれである。
「……父さん…………」
其の呟きは、確かにウエモンが発したものだったが、二人は咄嗟に聞いていない振りをした。丸まった背中は、拗ねた子供の様で、一人寂しく路上に座る大人の様で、セイエイには分からない何かを孕んでいる。
以前、あの坊主頭の女……
————「何せ、今回の『彗星』は、元津さんの父親が……」
父親が何だったのだろう。発見、探査、命名……何であるかが分からない以上、突拍子のない答えも十分あり得る。「彗星」に対して何かをしたとセイエイは今のところ考えているが、人が星になる事もあると云うから……否、流石に比喩に過ぎないか——非科学的だからきっと然うなのだ。
然うやってセイエイがウエモンを見つめている一方で、ミタケは其の視線がウエモンと交わる事は無かった。食事が届いても、終えてからも。
此の様な空気になろうとも、旅は続く。今日の西への移動は未だ続くのである。アルチヤスの次は、自動運転車で西ローラシア――嘗て北アメリカと呼ばれた大陸へ渡る予定となっている。大西洋横断自動車という観光客向け貸し自動車の大手企業への予約は既に済んでいる。
セイエイとウエモンとは、其のゲドマンシュ支店へ向かっている。二人の後ろにミタケが付いているが、ウエモンは気にする余裕もない容子である。彼れの震える
「いらっしゃいませエ」
店は、
そんな此の店の中で、二人が待つ中、ウエモンは店員と保険の確認を行い、車を受取る——其の手筈になっていた。
「次は、車の状態をお確かめ頂きますが、先に申し上げておきます。カーナビの性格が初期化せども変更できませんでした」
「自動運転には問題はないね」
「正常です。問題ないと言って差し支え御座いません」
「よさそうだね、ウエモン」
一瞬顔色を悪くしたウエモンも、直ぐに元気を取り戻していた。店員は青い車に案内し、僕達二人に車種や問題点を解説している。然うしている間、ミタケは其の説明に耳を傾けながらも、窓の外を一瞥しては目を逸らすを繰り返した。此の仕種は、単なる注意散漫ではなく、明確な警戒心から来るものに思えた。其れは、セイエイと云う人間である僕が見た限り、空への恐怖ではない。きっと何かが見えているのだろう……だが、其れが科学的なものであるとも限らない。ミタケは「魂」が云々と言う人間なのだ。其の所為で、此の時、声を掛ける事は出来なかった。
「最後に、到着は出発より五時間後となります」
「——経路に問題がないなら、構わない。な、セイエイ」
「ン。あゝ、然うだね、ウエモン。賛成するよ」
予定されていた車両で行く事に決まり、鍵がウエモンに手渡された。乗り込んでみると、店側でカーナビの性格を問題視した理由が分かった気がした。
「こんにちは、ご主人様。本日も宜しくお願い致しますね」
「ハヽハ……」
カーナビの画面が点灯し、少女の姿が映った。ウエモンは引き攣った顔で笑ったが、セイエイは笑えず、其のカーナビを見つめてしまった。其の画面には、少女が映っている。確か、自動運転車のカーナビは、アスキーアートではなかったか……少女、乃ちアバターと云うのは、初めて見た気がする。前、煌沙漠での経験は、普通の乗用車に人工智能附き人工人体が乗っていただけであるので、カーナビ自体に人工智能が載っているのは、今回が初めてである。而も、彼れは何か、「既知」の空気感を纏っている——セイエイは然うとしか言い表せない感覚を覚えた。
「…………」
「あ。会いたう御座いました、ご主人様。今日は助手席なんですね」
「え……」其の口振は、以前から僕を知っていたかの様であった。「君と会った事があるのか……」
「貴方とは、初めてかも知れませんね」
「……何を——いや……」ウエモンは、一旦翻訳機の電源を確認して思った。「こりゃ、修正したくもなるか……」
訳が分からなかった。何が起こっているのか、其れを識る人間は此の場所には居ないのである。
「済まなかったな、桐君。笑ったら、何うでもよくなってしまった。過去の事は……確かに今に影響しているが、其の影響を薄める事が出来るのは、今に
「いいのです。元津君、寺内君、お二人に会えた事は、まあ、何かの縁なのでしょうね。
「ぢゃあ」
「はい。元津……右衛門君、難有う御座いました」
ウエモンとの会話は其れが最後。
「桐三竹……僕も覚えておこう。ぢゃあね」
「はい、難有う御座いました、寺内情栄君」
僕と彼れとは、其の名を呼び合った。桐三竹——ミタケは車の脇に立っていたが、加速の準備の為めの固定具を避けて立ち去った。
「今度、自動車に乗る積りはあるかな」
「残念ですが、無理そうです。体があるかも保証できません」
其の言は奇妙だった。其の理由を語らない儘、桐三竹は店の外へ出て行った。
「ご主人様、其れにご主人様の相棒さん。発進致します。固定具を確認して下さい。…………宜しいですね」
助手席から見た鏡、其処に人間・桐三竹は立っていた。何処迄も、何時迄も、突っ立っていた。此方を見つめて、彼方より動かず——離別ではあれ、映画に見慣れた感動の離別の場面とは異なって、馳せ寄りもない。だが、其の行為こそ、僕に彼れを刻み付けたのだろう。
「大西洋横断自動車所属、九千百四十一号、射出」
警告灯が赤く灯り、店の西側を周期的に照らし始める。其れが、別れの合図だった。
衣服、而て「天ツ川会」の望遠鏡と観測装置一式と共に、此の二人は欧亜を飛び去った。
/*視奌変更*/
「
ゲドマンシュの街外れ、其の一角を、寺内情栄と元津右衛門と別れた桐三竹は歩いていた。抑遜剤を注射して数時間だが、妙なヿに効果が切れつつあった。日没迄の時間は迫り、桐三竹の居る区画には古めかしく、色めかしい街灯が点き始めている。
街灯のある道から少し外れて、細い
「……こんな場所で一人とは、何うされたんですか」
日本語を聞いた。欧州連邦の領域で日本語を聞くとなれば、其れは出張に来た労働者か、観光客かだ。だが、桐三竹はつい先刻、何の生ける魂もないと確認した。周囲を見回すと、紺の外套に身を包んだ少年が立っているのが見えた。男とも女ともつかない少年は、途の更に奧に立っている。
「……君は地球人なのか。生きている様には見えないが」
「地球人ですとも。母親も、父親も地球人です」
街灯は遠なれども、少年の顔を照らした。見覚えのある顔、其れはアルチヤスのトイレで見かけた顔だった。彼れは冷徹に語る。
「貴方は生きる事を欲しがりながら、其れが叶わないと知っている……貴方の望みを叶える方法を知っています」
桐三竹は目を見開き、其の少年の姿を見る。
「私に何をする積りだ」
「キリのミタケさん。私は地球人で、貴方も地球人です。此の方法ならば、地球人である儘、生き延びるヿが出来ます。貴方も、私も……」
少年は、彼れの鞄にかけられた儘だった手を握る。繋がったのは手と手、だけではない。其れを接触と云うのは奇妙である。意識と、肉体と、夫々とが統一される其の様は、悍ましいものである。
「此の地球人は此れを忌諱すると聞きましたが、貴方は
いかがわしい雰囲気がある。其れは斯う云う地区が故か、実在を疑いそうになる少年故か。桐三竹の視界では、少年の目が紫色に輝いていた。桐三竹の触覚は少年の手を感じていたが、其の感覚が突然に、此の、少年の形をした異質な存在の正体を感じる迄拡張された。「こんな事が起こっているとは誰も考えまい」と、桐三竹に流れ込んで来た言は少年のものだった。
「君は……其れは地球と云えるのか」
流れ込んだ記憶には少年の「地球」があった。外敵に脅かされた地球文明が叡智を結集して何かを創り上げたと、桐三竹は理解させられた。
「何う感ぜられますか。確かに、私は地球人でしょう」少年は微笑んだ。併し其の表情に隠された桐三竹への感情は明るいとも暗いともとれぬものであったが、融合しつつある桐三竹には理解を拒む術などなかった。「貴方に似て、併し別の地球文明の産んだ——」
桐三竹の思考は、少年の冷徹な語りの途中で破断してしまった。新たな友人セイエイへの好奇心による生存欲求を以ってしても、今し方現れた「未知」なる此の存在が「既知」に塗り替えられていく事に耐え切れなかったのだ。
桐三竹の視界が捉えた紫色に輝く少年の目。併し同時に、桐三竹の目も又、紫色に輝いていた事を、彼れは気付く余地もなく意識と思考とを手放してしまった。
「また、斯うなってしまいましたか」
目の妖しい紫の光が収まった時、少しづつ身長の伸びる少年だけが座っていた。暫く身長が伸び続け、青年の様な姿に迄成長する。服も、其れに合わせて大きくなっていた。
「此れぢゃあ識り合う事も出来ません……少し精神の強い地球人を探さないといけませんね」
少年だった、今や青年の姿をした其れは、桐三竹の鞄を手にして、
「済まない、お兄さん……お姉さんかな、君。『桐三竹』を名乗る日本人を見なかったか。実は、先の大戦の
「拾いました。彼れのですか」
「多分、然うだ」
青年は彼れに鞄を手渡す。彼れは鞄に桐三竹の管理番号がある事を確認して、受け取った。
「其れで、君は桐三竹を見たか。あと、此れをば何処で見つけたか」
青年は冷徹に語る。
「私は……多分、見かけませんでした。私は狭い路地が好きで、先刻迄其処に入ってたのですが、其処で見つけました。うゝんと、桐という人の特徴は何かありますか」
「黒い髪に、灰色の目、赤黒い瞳。あとは、腹に管理番号が数字で記されている。此の鞄と同じ番号だ」
「知りませんね……」
「然うだったか、済まない。難有う」
「見つかるといゝですね」
青年は名残惜しそうに鞄を見つめた後、彼れを一瞥して去る。欧州連邦の警察組織の制服だ。逃亡した桐三竹を追っていたらしいが、彼れは最早存在しない。
警官は報告の後、青年に励まされた事を微笑ましく同僚や部下と語っているが、青年は其の様子を見て、嘘をついた事を少し申し訳なく思った。其の感情は確かに、青年の中に桐三竹の思考様式の断片が入り込んでいる証拠だった。
青年は姿を現し始めた「彗星」を観察する。何故だか此の世界を象徴する存在の様にも思える。此れが来る前から、此の世界は存在していた筈だ。青年のものとなった桐三竹の記憶が、其れを示している。だが、若し桐三竹が青年——あの時は少年——と運命を共にすると踏ん切ってさえいれば、桐三竹の直感と自身の冷徹さとで議論が出来たろうに……と、青年は考える。
「精神が保たれずに融合してしまえば、記憶が増え、思考の様式が少し変わるだけになってしまう。結局は
青年は思いつつも、飾り窓に目も呉れずに進んで行く。其の方向には、「欧州ゲドマンシュ電波自由区」と其の外とを区切る柵と、「欧州ゲドマンシュ電波自由区より外出禁止」の警告表示があった。
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