フリーズ182 時雨を喰らうリコリスへの応援コメント
びっくりしました。ほんとに美しくて。
カフェに読んでいたんですが、本気で泣きそうになりました。
最初結構ポップな感じかなと思って読み始めましたが、良い意味で裏切られました。
藤本タツキの短編で『さよなら絵梨』という作品を思い出しました。
作者からの返信
コメントありがとうございます!
びっくりしました。ほんとに美しくて。
→そうでしょうか! 嬉しいです。ありがとうございます。
カフェに読んでいたんですが、本気で泣きそうになりました。
→本当ですか! それは書いたかいがありました!
最初結構ポップな感じかなと思って読み始めましたが、良い意味で裏切られました。
藤本タツキの短編で『さよなら絵絵梨』という作品を思い出しました。
→今度読んでみます。お読み下さりありがとうございます。今後とも応援よろしくお願いします!
ー幸福についての詳察ーへの応援コメント
『ミクロコスモスの死』が今までで一番刺さりました。
最初読み始めた時にシシュフォスの岩っぽいなと思いました。だから箱が空洞ってのはなんとなく予想していたんですが、悲観的なニヒリズムに陥らず、「何もない」を「はじまり」と捉えている点がすごく新鮮でした。
『幸福についての詳察』も拝読しました。『ミクロコスモスの死』の結末とも関連しますが、最後の一文で膝を打ちました。というか、この文に触れて『ミクロコスモスの死』の結末の意味がわかりました。
すべての作品を読んではいませんが、空花先生の作品を時系列順に読んでいく中で、結局は最後まで残る客体は死しかあり得なくて、それとの関係を通してしか存在意義は規定できないという結論なのかなと考えていました。しかし、
他がないなら、創ればいい。
その通りですね。自分の人生についても何か示唆が得られたような気がします。ありがとうございます。
作者からの返信
コメントありがとうございます!
『ミクロコスモスの死』が今までで一番刺さりました。
→ありがとうございます!
そう言って頂けて感謝です!
最初読み始めた時にシシュフォスの岩っぽいなと思いました。だから箱が空洞ってのはなんとなく予想していたんですが、悲観的なニヒリズムに陥らず、「何もない」を「はじまり」と捉えている点がすごく新鮮でした。
→ありがとうございます。世界の始まりは無。無から始まった世界。遥かな久遠の昔、虚空に火が点って僕は生まれた。
『幸福についての詳察』も拝読しました。『ミクロコスモスの死』の結末とも関連しますが、最後の一文で膝を打ちました。というか、この文に触れて『ミクロコスモスの死』の結末の意味がわかりました。
→ちゃんと言いたかったこと、伝わって嬉しいです。ありがとうございます。
すべての作品を読んではいませんが、空花先生の作品を時系列順に読んでいく中で、結局は最後まで残る客体は死しかあり得なくて、それとの関係を通してしか存在意義は規定できないという結論なのかなと考えていました。しかし、
他がないなら、創ればいい。
その通りですね。自分の人生についても何か示唆が得られたような気がします。ありがとうございます。
→私は悟った真理を紡ぎたい、残したい。そして、自分を救って、その哲学で人をも救いたい。こちらこそありがとうございます。感謝感激です。
orderへの応援コメント
不思議に心地良い質感の作品でした。何か大きな存在に抱きしめられているような感じです。
何作品か読んでみて感じましたが、空花先生は神聖・荘厳なイメージと日常にある温かさみたいなものを融合させるのがお上手だと思いました。その接点において、視界が開けたような爽やかな感触があります。
なぜ9月なんだろうと思って少し調べてみましたが、ユダヤ歴の新年ということでしょうか。ユダヤ歴の新年はヤハウェによる天地創造に基づくそうなので、創世記が関連しているのかなと思いました。
星新一著の『最後の地球人』という作品がありますが、本作と雰囲気が似ているなと思いました。この作品も創世記のオマージュだった気がします。
人生の謎という言葉もエゼキエル書からの引用とお見受けしますが、如何せん旧約聖書に疎くて完璧には解釈できず悔しいです…。
作者からの返信
コメントありがとうございます。励みになります!
心地いいという感想は嬉しいです。
恐らく荘厳、神聖な理由は死や全知全能などの神とか仏とかの真理を書きたいからです。でも、日常的なものも書くのは生活を、人生を諦めていないからでしょうか。
つばり、創世記が関係してます。鋭いですね。流石です。
『ああ、美妙な人生の謎よ、ついにわたしはお前を見つけた、ああ、ついにわたしは、その全ての秘密を知る』
という文言はいつか読んた本の一節ですが、その本が何か忘れてしまいました。もし知っていたら教えてくださいね。
編集済
3少年Zの場合~痛ましい鼓動の叫び~への応援コメント
no.44の次に読んだので、少し解釈が同作品に影響されているかもしれませんが、この作品もテーマはある程度共通していて、識った者がどう孤独に対処するかという問題を扱っていると解釈しました。自他・善悪のないエデンに居ては自分の存在理由がわからないから、リンゴを求めてあえて堕落することを望んだということかと。
クリシェにはなりますが、ウパニシャッド哲学とユダヤ教で悟り的な状態の表現が近いのは面白いですね。
また、よく考えてみれば梵我一如で他のない世界に在って、唯一自分の外にあるものが死なので、識った者が死を求めるのも納得できました。それ以外の救いがあるとも信じたいですが。
作者からの返信
コメントありがとうございます。知った者は死を求める。これは宗教的自殺の典型例のように思います。ですが、それ以外の道を探したいのです。そのために私は詩を紡ぎ、小説を書きます。
知った者は孤独です。何故なら本質的には自分1人しかいないと悟ってしまうからです。
宗教は根幹では繋がりあっていると思います。ユダヤ教もウパニシャッド哲学も。私は宗教や哲学、科学や学問の統合を目指しています。
これからもコメント待ってます!
ありがとうございます。
after『僕はまだ何も識らない』への応援コメント
すべての苦から解放されるためには一人で生きなくてはならないが、
存在は関係の中に現れるのだから、存在理由の悩みは最後まで尽きない。
という矛盾について書いていると解釈しました。
私はウパニシャッド哲学に明るいわけではないので語用が正しいかわからないですが、真の意味で梵我一如まで至れば自他境界のようなものはそもそもないわけで、他との関係に存在理由を見出すのは原理的に不可能だと思います。
だからこそ、我も空であると納得できればきっと心穏やかに生きれるんだろうなと感じました。
作者からの返信
コメントありがとうございます!
その解釈でいいと思います。梵我一如の悟りは自他との境界線の消失及び、時間の超越です。他が生まれたから、一から二になったから、不安や恐れが生まれた。それさえ超えた安らぎの境地が梵我一如のように思います。
全てが関係性で生まれるからこそ、人は努力し、関わり、生み出すのでしょう。それはきっと美しいもの。それはきっと大切なこと。
だから読者のあなたにこの秘密が届いてくれたことを嬉しく思うと同時に、感謝します。
読んで下さりありがとうございます。
永遠を越えて:またはレントより遅くへの応援コメント
こんにちは。
自主企画への参加ありがとうございます。
各詩が物語のようになっていて、それぞれの主人公が思いをぶちまけている様子が読んでいて気持ちがこもっている感じがしてよかったです。
これからも執筆頑張ってください。
もしお時間がありましたら、是非拙作へもご訪問くださいね。
作者からの返信
コメントありがとうございます。
暇潰し請負人さんの作品も見に行きます!
編集済
追記2023/05/11 5:38への応援コメント
エルニスが7日目に死んだり、真理を表現する存在をタナトスとかヒュプノスと呼んだりしていることから察するに、空花先生の中で悟りの感覚は「止まる」なのかなと勝手に解釈しています。それが時流などないとかラカン・フリーズの意味するところかなと。私はその感覚になったことがないのでただ記号間の整合性からそう推論するしかないのですが。
AIが第二部に登場したので、少しAIの話題に触れると、シンギュラリティを最も阻む要因として記号接地問題というものがあります。すなわちAIは身体性がないがゆえ、記号の意味について単体で理解することができず、記号同士の相対的関係から各記号の意味を推論するしかないというものです。つまり、わたしたち人間には五感があるから、バナナのシニフィエとシニフィアンを何の問題もなく接地できるわけですが、AIにはできないのですね。私が空花先生が持つ悟りの感覚について一人称では理解できない状況と似ているなと思ったので書いてみました。
第二部で書かれているのは、真理に一番近い言葉は愛であるということかなと考えています。相補性を伴ったソフィアという言葉からアンドロギュノスを連想したので、完全性みたいな意味での愛という感じかなと。この部分については実感を伴って理解できました。私は軽い躁鬱のきらいがあるんですが、躁転した日には駅を行き交う人々全員が他人ではないような感覚に陥り、勝手にその人たちの人生に思いを馳せたりしていました。可愛らしい何かを見たときのように、人間をみるだけで微笑ましい気持ちになりました。あれはいうなれば博愛だと思います。
仮に愛をひとつであることとするならば、「止まる」も愛かもしれません。時間は変化=差異の集積ですから、差異なきひとつの世界に時間はありません。
追記も読みました。数字と自然の抽象度はそれ以外よりも高いという主張は納得できるのですが、抽象の階梯の先に真理があるという考えはデリダ以前の西洋哲学的バイアスがあるんじゃないかとも思います。むしろ汎神論の言わんとしてることは、神=ロゴスは抽象であり具体でもあるってことなんじゃないのかなと。だからこそ空花先生の涅槃的体験にも色がついていたんじゃないかなと思います。神性は具体物に宿り、具体物を媒介としてしか見れないが、具体物自体は神ではない。だから抽象だけを求めていても真理には辿りつかない気がするんですよね。
追伸
naughty marriettaは見たほうが良いですか?WINEが唐突で笑いました。
寝れなくてコメント書いているので、起きてまた読み返したらわけわからない感じになっていてそうで怖いです。