第16話  恋の卵と喧嘩

「ほ、ほんとに悲恋ばっかりだ……ひどすぎるよお……」


 誰もいない女中部屋の和室で、くるみは思わず声を出した。

 たけるから借りた恋愛小説や歌集はどれも最初に聞いていた通り、悲しい結末を迎えるものばかりだった。特におすすめされた異国が舞台の短編小説は最悪だった。くるみの祖母と恋仲だった異人さんのこともあって、どんなものかと思って読んでみたら、留学した主人公がその国の少女と恋に落ち、子を作り、そして少女が捨てられる話なのだ。腹が立ちすぎて、途中で放り投げようかと思ったけれど、人種は違えど相手を待ち続ける悲しさや寂しさは同じなのかと、不思議な共感を覚える。


(でも、これはよかったな。無邪気で初々しくって、野菊もりんどうも、二人で一緒に摘んでるだけで楽しそう……分かるなあ)


 くるみが一番気に入ったのは、何の変哲もない農村の幼馴染の話。ただ一緒にいることが楽しくて、畑仕事も水汲みも、夕日を一緒に見るさえも眩しく感じる。淡い初恋の話だった。結末はやっぱり悲恋だったけれど、二人にほんの少し勇気があれば、成就したのではないかとも思える恋。恋愛小説は激しい熱情も苦しい恋心も、身を引き裂かれるような失恋も、自分のことのように胸が締め付けられた。


(面白かったけど、私はやっぱり悲恋はいやだ)


 自然と思い浮かぶ顔に、くるみは裏山へ視線を向けた。


(……あくた、なにしてるかな。寂しがってないかな?)


 この気持ちが恋というものなのか、未だに分からない。分からないこそ、顔が見たくなった。芥のこと、曖昧なままにしておかず、ちゃんと考えてみたかった。悲恋のまま、悲劇のまま、終わっていく物語のようにならないように。


(今日はお嬢様も、武さまもいない……よしっ)


 折よく、時期はお盆休み。大半の使用人が里帰りし、いつもにぎやかな豊穣邸ほうじょうていはひっそりとしている。

 家主である大旦那さまや奥様、一人娘の美乃里みのりは避暑地の別荘に旅立っていった。実家に帰らない使用人がわすがに屋敷に残り、留守を守る。守るといっても、遊びに出かける者が大半で、つかの間のあるじのいない休暇を楽しんでいた(くるみももちろん居残り組だ)。今夜は近くの神社で夏祭りも行われると聞いたから、すでに街へ繰りだしている者もいるのだろう。この港町の打ち上げ花火は異国でも評判がいいのだそうだ。


 くるみはこっそり女中部屋を出て、辺りを窺う。人の気配はない。今ならば──。一度会いたいと思ってしまえば、くるみの行動は早かった。


***


 裏山の入り口で、こっそり名前を呼んでみたものの、返事はなく、久々にくるみは山頂へ自分の足で登った。じっとりと汗が滲むけれど、足取りは軽い。季節は盛夏を迎えている。どこからともなく蝉の声。野鳥の囀り。夏の野草。最初に来たときよりずっと、山が生き返ったと感じる。

 山頂の開けた場所に出ると、眩しい日差しに目を細めた。明るく照らされた空地は、散乱していた供物ごみの山が片づけられ、落ち葉や雑草も刈り取られていた。なにより、一畳ほどの小さな畑には胡瓜や茄子、夏野菜が実をつけて輝いている。芥が朝も夜も手入れしている証拠だ。くるみは微笑み、きょろきょろと辺りを見回した。


「芥ー! いないの?」


 それなのに、肝心の芥の姿が見えない。水場やあばら家の裏手も見て回ったものの、どこにも気配はなく、仕方なしに背を向けると。


「……くるみ、帰るの?」


 ──突然、頭上から声が降ってきた。見上げると、杉の木の影からこちらを見下ろしている琥珀色こはくいろの目玉が二つ、光っていた。茂る青葉の影に覆われて、よく顔が見えない。


「なんだ、いたの? ちょっと暇見て出てきたんだよ。すぐ戻るよ。ねえ、そんなところでなにしてるの? 降りてきてよ」


 ふるふると芥が首を振る。


「今、麦わら帽子、編んでるの。くるみにあげるために作ってるの。だから、僕忙しいんだ」

「芥……」


 くるみはぎゅ、と胸を押さえつけた。無理に感情を押し込めた声色。その姿が痛々しく、切なく感じた。


「ありがとう、うれしいよ。麦わら帽子も楽しみだけど、顔が見たいよ。どうして降りてこないの? 拗ねてるの?」


 芥は無言で、また首を振る。じれったい焦燥を感じて、くるみは声をあげた。


「あのね、芥。今夜ね、近くの神社で夏祭りがあるんだ。だから、わたしと──」

「──あいつと行くの?」


 低い声で遮られ、くるみが目を瞬かせる。琥珀色の眼が鈍く光った気がした。


「くるみと楽しそうに話してた奴」

「えっ芥、お屋敷に来てたの? だ、だめだよ、もし見つかったら困るって言ったじゃん」

「どうして? あのお屋敷だって、もともとは日神様にちじんさまの敷地だったんだよ。勝手に住み着いたのはあいつらじゃないか」

「それは、そうだけど……」


 くるみが戸惑っていると、いら立つような声がした。


「ねえ、くるみ、指輪はもういいの?」


 突然、芥が左手の薬指をかざした。鋭利な鉤爪かぎづめにはまった指輪を見せびらかすようにくるみに向ける。


「もう飽きちゃった? 指輪を取り戻したくて、くるみはここに来ていたのに、どうでもいいの? それとも、くるみにとって、この指輪は──そんなに大事じゃないんだ」


 くるみは大きく目を見開いた。次の瞬間には、かっと頭に血が上った。


「だっ、大事じゃないわけないじゃん! それは、おばあちゃんの形見の指輪だよ! 返してほしいよ!」

「……でも、最近は指輪なんてどうでもよさそうじゃないか」

「それは──!」


 芥とただ会うことが、楽しかったから。芥の喜ぶ顔が、見たかったから。なのに、芥は指輪を取り戻すためだと思っていたなんて、それが悔しくて喉がつまった。


「なんでそんな意地悪なこと言うの? ちゃんと供物を届けに来なかったから? 私にだって事情があるんだよ。ちゃんと説明したじゃない」


 形見の指輪がどうでもよかったわけじゃない。そんなわけがない。けれど、指輪のためだけに会いに来ていたわけでもない。祖母の指輪もくるみの想いも、その両方を踏みにじられたようで──未だに顔も見せない芥にも心底腹が立って、くるみは石ころを拾って投げつけた。


「芥は、芥だけは、どんなごみくずでもガラス玉でも、ばかにしないって、思ってたのに!」


 くるみが投げた石ころが、こん、と杉の木の幹に当たり、芥はようやく驚いたようにくるみと視線を合わせた。目と目が交わって、徐々に視界が滲んでいったのはどちらだったのだろう。

 同時に、頭のどこかで理解した。自分の言葉で納得した。芥と会うのことが楽しかった理由。芥なら、同じ目線で、同じものを、大切だって言ってくれる気がしていた。故郷の村人やくるみの母親のように祖母の想いを馬鹿にするんじゃなくて、美乃里や武のように、不要なモノをいらないとすぐ切り捨てるわけじゃなくて。芥だったら、ただのガラス玉も、なんにも結実しない恋も、宝物のように扱ってくれるってそう信じていたのだ。


「~~っ!! ずっとそうやって不貞腐ればいいよ! もう知らない! 芥のばか!!」

「くるみ……」


 は、と気づいた芥が手を伸ばしたが、くるみは一切後ろを振り向かずに裏山を駆け降りた。夏草に足をとられ、息切れして、転びそうになっても、できるだけ早く屋敷に戻りたかった。


(芥のばか、ばか、ばか! 欲張り! 自分勝手! 分からず屋!)


 けれど、その怒りはすぐに萎んでいった。代わりに滲む涙に、唇を噛みしめる。


(──せっかく、一緒に花火を見ようって、思ったのに。芥とだったらきっと、誰と眺めるより楽しいのに)


 裏山から出られなくても、打ち上げ花火だったら、二人で見上げることができる。誰も来ない高い山は二人だけの特等席だ。お弁当やお菓子を用意して夜、星空と一緒に眺められたら、きっと楽しい。そう思ったのに。

 豊穣邸の勝手口にたどり着くころには、くるみの足取りは、とぼとぼと力ないものに変わっていた。


(私じゃ、やっぱりだめなのかな。芥の寂しさを埋められないのかな)


 芥がずっと待っている、神様じゃないと──。


「おや? くるみさん、どうしたの? 姿が見えないと思ったらそんなところで」

「あ、た、武さま、おかえりなさい。えっと、ちょっと目にゴミが」


 外出から帰宅した武と出くわした。泣きべそをかいていたと知られたくなくて、ごしごし目をこすると、「そんなにこすったらだめだよ」と手巾ハンカチを差し出された。くるみは謝って、目じりを拭い。


「武さま、お借りしてた恋愛小説、お返しします。私にはやっぱりよく分からないみたい」

「え? この前貸したばかりだろ。いいよ、ゆっくり読んでて」


 でも、とくるみが言いよどむと武はにこやかに笑った。


「じゃあさ、代わりと言ってはなんだけど今日の夏祭り、俺と一緒に行かない? アイスクリームで有名な屋台が出るんだ」

「……ありがたいですけど、私はちょっと」


 とてもそんな気分にはなれなかったが、武はいつもように気にせず話し出した。


「君、この辺りの出身じゃないんだろ? 今日の夏祭りの日暈神社ひがさじんじゃはね。アイスクリームを広めたハイカラな場所なんだよ。開国してから創建されたからまだ新しいけど、この辺りでは有名だから、見たほうがいいよ。祀られているのはわざわざ本宮から遷座せんざされた太陽の神様だから、新しいけれど格式高いんだよ」

「太陽……」


 心ここにあらずで聞き逃していたが、その一言でくるみは肩を揺らした。


「太陽の神様って……あの、日神様にちじんさまのことですか?」

「え?」


 驚いたのは武のほうで、目を瞬いてくるみを見つめ返した。くるみは慌てて、


「……あ、あの、女中仲間に聞いたことがあって、この裏山は昔、おやしろだったって」

「……ふうん? 美乃里はその話が嫌いなはずだけど、よく知ってるね。そうだよ。日神様にちじんさまはこの裏山に祀られていた古い神様の名前さ。俺も詳しくないけど」


 武は黙ったあと、鬱蒼と茂る裏山を見上げた。


「この裏山は昔、廃仏毀釈はいぶつきしゃくのあおりで潰された神宮寺じんぐうじだったから」

「……神宮寺じんぐうじ?」


 くるみが首を傾げると、「神仏が同じ敷地内に祀られている神社や寺院のことさ」と武は肩をすくめた。


「この國は節操なしだから、いろんなものがごちゃ混ぜになってたんだ。信仰ですらそうさ。〝神様とは仏様が姿を変えた存在〟という考え方があって、社の中に寺が、寺の中に社があったりしたんだって。それを分離させたのが新政府。開国して、国家というあり方を確固たるものにしなくてはいけなかったときに、無節操な信仰は認められなかったみたい。だから、この國生まれの神様を優先し、よそから入ってきた仏様を排する運動が起きた……政府もお触れをだしたけど、民衆も後押ししたんだよ」


 そうして、皮肉げに武は呟いた。


「……よそから入ってきたっていっても、いったい何百年前の話だと思っているんだか。長い年月、神仏は区別がつかないくらい交わって、この地に根付いてきた。それなのに、あっという間に政府も民衆も覆した。……長いこと実権を握っていた武士をあっという間に排したようにね。ようは、外国人の目を気にしたんだよ。この國らしい浅はかさだろ?」


 武は笑みを歪ませたが、途中で我に返り、くるみから後ろめたそうに視線をずらした。


「口が過ぎたね。俺も、本当に詳しくはないよ。日暈神社ひがさじんじゃの神主さんに聞けば、もっと分かるかもしれないけど、祀られている太陽の神様は別ものだと──」

「行きます」


 くるみがきっぱりと言い切るので、武はまたしても目を瞬かせて、くるみを見つめ返した。


(それでも、芥の日神様にちじんさまのこと、もっと分かるかもしれない)


「すみません武さま、気が変わりました。よかったら、私と一緒にその神社の夏祭りに行ってくれませんか?」


 ざわりと、裏山の木々が風もないのに大きく揺らいだ。

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