都市怪奇譚【異世界転生トラック】
縣邦春
第1話 異世界転生トラック①
【一】
「荷物の積み込み、確認しました」
「はーい、ありがとーございましたー」
俺は倉庫のスタッフに手を振り返す。
12月の寒空の下、トラックの排気ガスが白く立ち昇っている。鉄錆とコンクリートと排気ガスの匂い。朝一番の物流倉庫は、今日もいつもと変わらない光景だ。
安全靴の踵を鳴らし、四トントラックのステップに足をかける。重たいドアを引き寄せ、バムッと閉める。外界の喧騒がふっ、と遠のいた。
この瞬間が好きだった。
世界から切り離され、自分だけの城、あるいは移動する要塞に籠るような安心感。
キーを回すと、巨体の下でディーゼルエンジンが低い唸り声をあげて目覚める。腹の底に響く微細な振動は、まるで鋼鉄の獣が息を吹き返したかのようだ。
今日の配送先は和歌山の工業地帯だ。湾岸に沿って倉庫街が延々と連なるエリアで、目をつぶっていても走れるほど身体に馴染んだルートである。
守衛所の手前でエアブレーキを吐かせ、一旦停止する。窓を開けると、顔なじみの守衛が手持ち無沙汰そうに立っていた。軽く挨拶を交わし、記名帳に慣れた手つきでボールペンを走らせる。
日野雄二。所属、個人。
俺はいわゆる「持ち込み」のドライバーだ。特定の運送会社に雇用されているわけではなく、自前のトラック一台で仕事を請け負う。今の相棒は三代目になる。二年前に一念発起して買ったこの中型トラックは、荷台が空であることを喜ぶように、軽快にアスファルトを滑り出した。
倉庫街を抜けて幹線道路へ出る。
高速道路は使わない。料金が馬鹿にならないし、この距離なら下道で十分だ。
和歌山で荷を降ろし、その足で神戸港へ向かう。その仕事が終われば、今日は兵庫のボロアパートへ帰れる算段だ。
個人ドライバーと聞けば一匹狼のようで聞こえはいいが、その実態は下請けの、そのまた下請けのようなものだ。いくつかの配車センターからこぼれ落ちてくる仕事を拾い集め、昼も夜もなく走り続ける。
休みは不定休、生活は不規則。コンビニの弁当と缶コーヒーが主食で、たまの贅沢といえばサービスエリアの定食くらいだ。
当然、彼女は出来るはずもなく、三十八歳でいまだに独身。結婚歴もなし。天涯孤独というほど身の上でもないが、守るべき家庭もなければ、明かりを灯して待っている女もいない。
それでも、誰に気兼ねすることもないこの生活が、俺には合っていたはずだった。煩わしい人間関係もなく、ただハンドルを握り、前へ進めばいい。
――そう、先月の「あの日」までは。
ハンドルを握りながら、俺の意識は一ヶ月前の福井県へと飛んでいた。
珍しく遠方の依頼だった。慣れない北陸の道に加えて、11月だと言うのに雪も降っている。高速道路ではスリップした車の事故渋滞まで発生して、スケジュールは大幅に狂っていた。
倉庫に到着したのは、とっぷりと日が暮れた頃だった。
「次は、十八時までには入ってくださいよ」
倉庫の担当者の刺々しい声が耳を刺す。事故渋滞は俺のせいではない。だが、それを口にすれば余計な角が立つだけだ。
「すみません、以後気をつけます」
深々と頭を下げる俺の顔を相手は見もせず、舌打ち交じりに伝票をめくる。これもまた、流通という巨大な怪物の末端で生きる俺たちの、日常茶飯事だ。
荷下ろしを終え、そそくさと倉庫を出た時には、あたりは真っ暗だった。走りなれている関西圏に比べて、福井県は緯度が高く陽が落ちるのが早い。日本海側特有の曇天も相まって、まだ19時前だというのに、すでに深夜のような暗さだった。
心身ともに疲れ果てていた。街灯もまばらな県道を、幹線道路へ向かってトラックで走っていく。
腹が減っていた。とにかく、温かいものを胃に入れたかった。道の途中で路肩に停めて、スマホを取り出して店を探す。しかし、土地勘のない場所では思うように店が見つからない。
とりあえず、この道を抜けて国道沿いに出れば、派手な看板のチェーン店があるだろう。そこで妥協しよう。クラッチを繋ぎ、だんだんとスピードを上げていく。
前方の通りに向かって、アクセルを踏み込んだ時だった。
突然、視界の端、漆黒の闇から「何か」が飛び出した。
高校生くらいの若い男だった。
手元の青白い光――スマートフォンを覗き込んだまま、あたかも自室から廊下へ出るような無防備さで、数トンもの鉄塊の前に躍り出たのだ。
危ない、と叫ぶ間もなかった。反射的にブレーキペダルを床まで踏み抜く。それでも間に合わない。
ハンドルを左に切った。俺は、咄嗟に目を閉じてしまった。
タイヤが悲鳴を上げ、ゴムの焦げる臭いが車内にまで入り込む。ドォン、という鈍い衝撃が来るはずだった。あるいは、もっと嫌な、骨と肉が潰れる生々しい音。
だが、トラックはただ静寂の中に停止した。
「やっちまった……」
全身の毛穴から嫌な汗が吹き出した。心臓が早鐘を打ち、呼吸が浅くなる。
人身だ。それも、歩行者。終わった。俺の人生が終わった。
震える手でドアレバーを引き、俺は夜のアスファルトに降り立った。
だが、そこには誰もいなかった。弾き飛ばされたのか? ガードレールの外へ? 懐中電灯を取り出し、震える光の束を闇に走らせる。
路面、側溝、草むら。――どこにもいない。
トラックの前面を恐る恐る確認する。バンパーは鏡のように磨き上げられ、俺の青ざめた幽鬼のような顔を映し返しているだけだ。傷一つない。凹みもない。付着しているのは、高速道路で張り付いた小さな羽虫の死骸だけ。
轢いて、いないのか? いや、あの距離だ。絶対にぶつかっていた。
あの少年の、スマホの画面に照らされた無表情な顔まで見えたのだ。
青白い光に浮かぶ、あの死人のような無関心な瞳が、網膜に焼き付いている。
十分ほど周辺を探し回ったが、徒労に終わった。
警察に通報するべきか迷ったが、被害者もいなければ、衝突の痕跡もない。何を説明すればいい?
「幽霊を轢きました」とでも言うのか。時間が経つにつれて、肌に張り付いた汗が冷えていく。
あれは、この世のものではなかったのかもしれない。
通りがかる車たちは、懐中電灯を持ってうろうろする俺を不審そうに見るが、誰も止まろうとはしない。
結局、俺は逃げるようにその場を去った。その後で食べた牛丼の味は、ほとんど覚えていない。
まるで濡れた粘土を噛んでいるような、生暖かく湿った味しかしなかった。
――幽霊を轢いた。
長距離ドライバーの間では、怪談としてよく聞く話だ。目的地に着いたら後部座席が無人だったタクシー。高速道路の途中で消えるヒッチハイカー。
深夜のサービスエリア、紫煙の中で繰り返されるドライバーたちの噂話。
俺もとうとう、その仲間入りをしたというわけか。そう自分に言い聞かせ、無理やり納得しようとした。
だが、一ヶ月が経っても、心の底に溜まったわだかまりは消えなかった。
仕事の休憩のたびに、スマホの検索履歴は「福井 ひき逃げ」「事故情報」という不穏な言葉で埋め尽くされたが、該当するニュースはない。
きっと気のせいだ。疲れていたんだ。幽霊でなければ、目の錯覚だ。
頭でそう思ってはいた。ただ、その日のドライブレコーダーを確認するのは恐ろしくて、結局見ることはなかった……
今日、この日まではそう納得しようとしていたんだ。
【二】
――あれから、ひと月が経っていた。少しずつ、いつもの感覚が戻ってきたような気がしていた。
今日の仕事は順調だった。神戸港で荷物を下ろし、仕事を終えるつもりだったが、港内の配達事務所に呼び止められる。
神戸市内の商店街に急ぎの荷物があるという。帰り道だ。快く引き受け、思わぬ収入を得ることができた。
地元の近くへの配送を終え、時計を見れば十七時。
これならスーパーで惣菜を買って、家でゆっくり晩酌ができる。たまには安酒じゃなくて、プレミアムなビールでも買おう。明日は久しぶりの休みだ。昼まで泥のように眠るのもいい。
ささやかな幸福を胸に、帰路についた。
商店街の外れ、大通りに出る手前の太い道を走っていた時だった。
そこで、再び、悪夢が繰り返された。
信号が青に変わり、俺がトラックを発進させた直後のことだ。
視界の左端、建物の影から黒い塊が走った。小さな影――猫だ。それを追うように、制服姿の若い女が飛び出してきた。
危ない! 脳が危険信号を発し、右足がブレーキペダルへと移動しかけた、その刹那。
俺の意思とは裏腹に、トラックが咆哮した。アクセルペダルの上に軽く乗せていただけの右足。その感覚がふっと軽くなる。大して力を入れていないはずなのに、ペダルが床板まで一気に引きずり込まれる。
ブォオン! という爆発的な加速音。
やめろ、と叫ぼうとしたが、声は喉で凍りついた。
慌ててアクセルから足を引き剥がし、ブレーキを蹴飛ばすように踏み込む。しかし、巨大な鉄の塊となったトラックは止まらない。間に合わない。
先月と同じ、タイヤがアスファルトを削る摩擦音。
そして今度は、ガリガリッという鋭利な金属音が響いた。避けきれずにハンドルを切った車体が、ガードレールを擦り上げたのだ。停止した車内で、俺はハンドルにしがみついたまま息を呑む。
あの時と同じだ。まさか、先月のあれは予告だったのか。今の加速はなんだ。いや、それより確認しないと。
震える足で車外に出る。膝が笑って、うまく歩けない。夕方の商店街だ。ガードレールにぶつかった音を聞きつけ、野次馬が集まってくる。
「大丈夫ですか!」
誰かの声が遠く水の中で響くように聞こえる。俺は祈るような気持ちで、トラックの前へ回った。
いない。女子高生も。そして、最初に飛び出した黒猫も。影も形もない。
「トラックが事故したってよ」
「単独か?」
「いや、何かを避けたみたいだったぞ」
人々のさざめきが波のように押し寄せる。俺は必死で周囲を見回す。あの時と同じだ。人はいない。血痕はない。落とした鞄も靴もない。
だが、今回は違った。目撃者がいた。
「女の子がいたよな?」
「うん、道路に飛び出したように見えた」
「でも、なんか……消えちゃったんだって」
「消えた?」
遠くからパトカーのサイレンが近づいてくる。赤い回転灯が、夕暮れの街並みを不気味に、禍々しく染め上げる。
その時、野次馬の中にいた学生風の男が、連れの友人に話すのが聞こえてきた。
「あれみたいだね。トラックに轢かれて消えるやつ」
「ああ、お前が読んでる漫画の……なんてジャンルだっけ? 最近多いよな」
「――異世界転生?」
警察官が駆け寄ってくる。
「運転手さん、大丈夫ですか?」
事務的な問いかけに答えながら、俺の耳にはそのふざけた、しかし奇妙な説得力を持つ単語がこびりついて離れなかった。
異世界転生……トラック。
それは、俺の知らない世界の言葉のように聞こえた。
【三】
警察署での事情聴取は、奇妙な空気の中で進んだ。
トラックは自走可能だった。バンパーにガードレールの塗料がついたのと、左側面に擦り傷がついただけだ。
だが、問題は「被害者」の不在だった。
複数の目撃者が「女の子が飛び出した」と証言している。ドライブレコーダーを確認すると、確かに一瞬、人影のようなものがノイズ混じりに映り込んでいた。
だが、肝心の衝突の瞬間、画面は砂嵐のように乱れ、次の瞬間には誰もいない道路が映し出されるだけだ。
何度も再生と巻き戻しが繰り返された。画面の中の影は、トラックに触れるか触れないかの刹那に、デジタルノイズと共に煙のように掻き消えている。
「……どうなってんだ、こりゃあ」
年配の警官が首を捻る。
結局、物損事故としての処理だけが行われ、俺は解放された。
ガードレールの修理代という現実的な請求への恐怖よりも、得体の知れない不安が胸を占めていた。
アパートに帰り着いたのは、日付が変わる頃だった。
ビールも惣菜も買う気にはなれなかった。胃の中は空なのに、強烈な吐き気がこみ上げる。
トイレに駆け込み、黄色い胃液だけを吐き出した。便器の水を流す音が、静寂の中でやけに大きく響く。
先月の少年。今日の少女。二人とも、消えた。
俺のトラックに触れた瞬間……。
布団に潜り込み、震えながら考える。あれは幻覚じゃない。幽霊でもない。目撃者もいた、確かな現実だ。
学生が言っていた言葉。「異世界転生」馬鹿馬鹿しい。そんな小説みたいな話があるものか。
だが……、実際に二人が消えている。
その日は、疲れもあって、とりあえず布団に入ったまま目を瞑った。
眠りは浅く、悪夢と現実の境目を何度も漂い続けた。
――翌朝。
空腹で目が覚めた。半日以上の絶食は、三十八歳の体に堪える。
近所の牛丼屋で朝定食をかき込む。味は感じなかったが、腹が満ちると少しだけ思考が回るようになった。
まずはトラックのことだ。馴染みの修理工場に電話を入れる。十年以上の付き合いになる親父は、すぐに持ってこいと言ってくれた。
だが、電話を切ってから思い直した。警察から、また連絡があるかもしれない。
今、修理に出せば証拠隠滅を疑われるのではないか。小心者の思考がぐるぐると巡る。
結局、車を持ち込んで、見積もりだけ頼んで、修理は保留にしてもらった。
昼になって、家に戻っても手持ち無沙汰だった。仕事は入れていない。車は傷物、警察の沙汰待ち。やることがない、ということが、これほど不安なものだとは知らなかった。
とりあえずコンビニまで出かけて、おにぎりと惣菜パンの昼飯を食べる。こんな時でも買うのは、安くてボリュームが出る主食ばかりだ。食事が済むと少し眠気が出て、そのまま昼寝をした。
二時間ほど寝ただろうか。時計は二時を少し回っていた。家でずっといるのも気が滅入る。やることも決まらないまま、外へ出た。
当て所もなく歩く。しばらくすると、普段は寄り付きもしない大きな公園へ着いた。
平日の昼下がりの公園は、のどかなものだった。ヨチヨチ歩きの子供と、自転車の練習をする親子。ベンチで鳩に餌をやる老人。俺もベンチに座り、缶コーヒーを開ける。
修理代、ガードレールの弁償、仕事の穴埋め。
頭の中で計算すればするほど、財布の紐が首を絞めてくるような感覚に陥る。十八で高校を出て、バイクの免許が欲しくて始めた引越しのバイト。そこから流されるように運送ドライバーになり、気がつけば二十年になる。
その日暮らしの自転車操業。ただ歳だけ食って、その場しのぎの人生。
俺の人生は、どこへ向かっているんだろうか。
コーヒーを飲み干し、公園を出る。
いつの間にかあたりは暗くなり、夕暮れが迫っていた。
商店街の入り口で、学生たちがビラを配っている。
「ご協力お願いしまーす」
元気な声だ。
一枚受け取る。交通安全のビラか、献血の呼びかけだろうか。
視線を落とした瞬間、心臓が凍りついた。
『目撃情報募集 行方不明』
写真には、あどけない笑顔の女子高生。
セーラー服。身長156センチ、痩せ型。
『昨日、夕方、下校途中に消息不明』
間違いない。昨日の子だ。
あの時、顔は見えなかったが、背格好、制服、時間、場所。全てが一致する。
本当に、消えてしまったのか……。周囲の視線が気になる。誰も見てないはずなのに、誰かに見られているような気がして、俺はビラを握りしめたまま、その場から逃げ出した。
アパートの部屋に飛び込み、鍵をかける。普段は使わないチェーンまでかけて、靴を脱いだ。
震える手でスマホを取り出し、検索窓に文字を打ち込む。
『福井 行方不明 高校生』……あった。一ヶ月前の記事。
男子高校生、塾の帰りに失踪。俺が轢いた、あの少年だ。間違いない。
俺は二人を轢いた。そして彼らは、死体も残さず消え失せた。
――警察はどう見ている? 福井のタイヤ痕、昨日のドライブレコーダー。点と点が繋がれば、俺は連続誘拐犯、あるいは誘拐殺人の容疑者だ。このままでは捕まる。
何もしていないのに。
いや、轢いた。でも、消えたんだ。
混乱する頭で、昨日の高校生たちが話していた「異世界転生」という単語を検索する。何か、分かることはないか。
画面に並ぶたくさんの漫画や小説のタイトル。
どこにでもいるサラリーマンや学生が、車に轢かれて、魔法のある世界へ生まれ変わる。英雄になる。
馬鹿な。そんな都合のいい話があるか。じゃあ何か? 俺のトラックは、人間を異世界へ送り込むゲートだとでも言うのか?
消えたあいつらは、向こうの世界で楽しく暮らしてるとでもいうのか?
「――俺のスキルはトラックで轢いた人間を異世界へ飛ばすことです!」
なんて、警察が信じるわけがないだろう。
その夜は、恐怖で部屋から出られなかった。
買い置きのカップ麺をすする音だけが、静まり返った部屋に響く。
夕方のうちに、運送事務所には「事故の処理でしばらく休む」と連絡を入れた。
夜になって布団に入ってみたが、当然眠れない。長く転がっていると、天井のシミが被害者の顔に見えてくるようだ。
自首するべきか? いや、自首したところで何も説明できない。
最初から嘘の説明をしていると思われるか、そうでなければ、頭のおかしいやつだと思われるのがオチだろう。
何か手はないかと考えるが、結局何も思いつかないまま、眠れぬ夜を過ごす。
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