大嫌いな同級生と大人になって恋をする
姫野 藍
大嫌いな同級生と大人になって恋をする①
「は? 前見て歩けチビ」
高い位置から見下ろして無遠慮に言葉を投げつけてくる男にぐっと拳を握って込み上げてくる怒りを堪える。落ち着け、落ち着くのよ
「ごめんなさい。誰かが日直の仕事を放棄したせいで荷物が重たくって」
にっこりと笑みを浮かべてたっぷりと皮肉を込める。
「……」
「……」
「……」
いや何か言えよ。
もっとこう、言い返してくると思っていただけに訪れた沈黙に笑顔が引き攣りそうになる。腕に抱えたままのクラス分のノートやらプリントやらの荷物が地味に重たいし、早く教室に入りたい。変に突っかかったりせず素直に謝ればよかったと後悔していると、じぃっとわたしの手元に視線を落としていた彼、
「力なさすぎ。よっわ」
こ の や ろ う 。
「あとその作り笑いやめろ。腹立つ」
言いながらサッとわたしの腕の中から荷物を攫って教室へと入っていく背中に、わたしは笑みを浮かべたまま心の中で盛大な舌打ちをかました。これぐらいは許してほしい。
隣の席の夕凪千早とは去年、高校二年生のときに同じクラスになったことをきっかけに話すようになった。それでも特別仲が良いというわけではなく、何度か話したことのある程度の仲。にこやかな印象こそないけれど嫌な人ではない、それが彼に対するわたしの感想。それが今年、同じクラスで隣の席になった彼の本性が爆発した。いや本人は別に隠していたわけじゃないと思うけど、それでも今までは普通に会話をしていたはずだ。それがどうだろう、今では挨拶のように暴言を吐かれる毎日。何が気に食わないのかことあるごとに突っかかっては眉を顰めて睨まれる。腹が立つとはこちらの台詞で本当に本当にムカつくけど、それでも優しいところがあるのも知っているから憎みきれない。さっきだってなんだかんだと荷物を持ってくれた。今までもそういった場面はいくつもあって、一言二言多いけど最終的には助けてくれるのだ。まぁそもそも日直の仕事をさぼった夕凪くんは反省すべきだけど。
教室に入り席に着くと教卓にノートとプリントを置いて戻ってきた夕凪くんは豪快に椅子に座り頬杖をついた。一瞥すると不機嫌そうな不貞腐れた横顔が前を向いている。今日は一段と機嫌が悪いな。触らぬ神に祟りなし、これ以上彼に触れて怒りを買うのは本意ではない。そっとしておこう、そう思って次の授業の準備を始めているとふと隣から視線を感じた。見ればバチッとパズルのピースが嵌まるように夕凪くんと目が合って、サッとすごい速さで視線を逸らされる。その様子に呆れを通り越して感心してしまう。全然懐いてくれない警戒心剥き出しの猫ちゃんのようだ。最初こそ何事かと思ったけれどすっかり慣れてしまった挙動に、気にせず準備を再開する。しかしぼそぼそと小さな声が聞こえてきて再び手を止めた。隣を見ればガン飛ばしてるのか? と錯覚するレベルで眉間にしわを寄せている夕凪くんが今度はしっかりと数秒わたしと目を合わせた。すぐに逸らされてしまったけれど「悪かった」と呟くぶっきらぼうな声に目を瞬かせる。え? なに? この人今謝った? 驚きから何も返さずにいると意味を理解していないと捉えたのか「だから、その、忘れてた。ごめん」とたどたどしく紡がれた謝罪の言葉。もしかして今日は豪雨にでもなるのだろうかと失礼なことを思いつつ「うん。……荷物運んでくれてありがとう」と頷くと夕凪くんは再び頬杖をついて前を向いてしまった。左手で口元が隠れているから表情はよく見えないけど、その肩から安堵したように力が抜けたことに気づいてしまったら彼の態度が可愛らしく思えてきて、バレないように笑みを浮かべた。素直なのか素直じゃないのかわからないな、この人。
それから毎日毎日夕凪くんに突っかかられる日々を過ごして半年が経った。あるときは夕凪くんの足元へ落としてしまった消しゴムを拾おうとしてしゃがみ込んだわたしを横暴な王様よろしくバカにしたように鼻で笑い、あるときはテストであまり良いとは言えない点数を取ってしまったわたしを揶揄ってはバカだのアホだのと言葉を投げてきた。もう少し語彙力どうにかしたら? とにっこり返せば「難しい言葉使っておまえにわかるの?」と宣う。普段そんなに成績変わらないくせに! 今回はたまたま、たまたま悪かっただけなの! と叫びたいのをぐっと堪えてせめてもの反抗でぷいとそっぽを向いた。「子供かよ」とバカにした笑いが聞こえたけど無視だ。そしてまたあるときは「あいつ誰? 近すぎねえ?」と仲のいい男友達と話したあとに潰されるんじゃないかと思うほどの圧で睨まれ困惑した。別に普通だと思うけど、と言えば「は? どこが? 距離感ぶっ壊れてんのかよ。可愛いとか言われて浮かれやがって調子にのんなよ。あんなの社交辞令に決まってんだろ」と意味のわからない喧嘩を売られた。調子にのってなどいないし可愛いの言葉も友情の内だと理解している。なにより友人と話していただけじゃないか、そんな主張も「ふざけんな」の一言で一蹴されてしまった。こっちの台詞だふざけんな。
そんな日々を過ごして半年、明日には夕凪くんと隣の席ではなくなる。HRで席替えをすると告知されたのだ。奇跡的にまた隣同士になる確率もないわけではないけど、恐らくその可能性は低いだろう。清々するとかなんとか言われるだろうなと思っていたけれど予想に反して夕凪くんは黙って前を見据えていた。
その日の放課後、図書室で勉強をしていた帰りに忘れ物に気がついて教室に戻ると、閉められた戸の向こうから男子数人の話し声が聞こえてきた。まだ誰か残っているのか。指をかけ引き戸を開けようとして、耳に届いたよく知った声にぴくっと指先を震わせる。思えばこのときに何も気にせず教室に入ってしまえばよかったのに。つい動きを止めてしまったのは、帰り際の夕凪くんの様子がおかしかったせいだ。
「席替えとかだるいわー。せっかく一番後ろなのに」
「おまえこそ一番前にいるべきなんだから丁度いいだろ。教卓の前になるように祈っといてやるよ」
声だけで判別できないけれど、おそらくクラスメイトであろう二人がケラケラと笑っている。
「やめろよ。つか夕凪が一番席替えしたくないんじゃないの?」
「は? なんで」
「だって
見なくてもわかる。今絶対夕凪くんの眉間にはふっかいしわが刻まれてるに違いない。案の定「趣味悪いなおまえ」と吐かれた声が不機嫌丸出しだ。
「またまたぁ、あんだけわかりやすく春日花さんにちょっかいかけといてよく言うぜ。なあ?」
「そうそう、今更隠さなくても夕凪が春日花さんに気があるなんて周知だろ」
…………これは、絶対にありえないことだけど気まずい。居た堪れない。ほら夕凪くん喋らなくなったじゃん。彼らはいったい何を見てそんなことを言ってるのか。気があるどころかどちらかというと嫌われているのでは? と思うくらいの態度なのに。しかもさっき趣味悪いとか言ってなかった? 失礼な。いっそ突撃してやろうかと一瞬体に力が入るけれど押し止まる。今ここでご本人登場はあまりにも気まずい。わたしも、おそらく夕凪くんも。
入るにも入れず、けれども忘れ物は課題のプリントで帰るに帰れない。どうしたものかと悩んでいると一際低い声がわたしの名前を呼んだ。
「俺が春日花を好き? マジでありえねーんだけど」
「照れんなよ」
「ねぇから。あいつだけは絶対にない。無理ありえない」
あいつとだけは絶対に付き合いたくない——そう彼の声でともすれば嫌悪さえ滲み出ているような声でそう言われ身体が強張った。指先から血の気が引いて冷えていく。別にわたしだってあんなに意地悪で優しくない夕凪くんとなんて付き合いたくない。好きでもないし、夕凪くんがわたしを好きじゃないことも知っているし……なのになんでショックを受けているんだろう。正直ショックを受けたことにショックを受けている。まったくもって意味がわからない。怒りなのか悲しみなのかよくわからない感情がひしめき合って、何故だか涙が頬を濡らしていた。踵を返し忘れ物を諦めて家路につく。課題は明日少し早く学校に来てやってしまえばいい。さすがに完全に拒絶されて平気な顔をして中に入れるほど強くない。どうせ諦めるのならさっさと帰ってしまえばよかった。そうすればあんなこと聞かなくてすんだのに。
——「俺が春日花を好き? マジでありえねーんだけど」
——「ねぇから。あいつだけは絶対にない。無理ありえない」
そんなの知ってる。知ってるのに、どうしてこんなに胸が痛くて苦しいんだろう。
次の日、わたしと夕凪くんのお隣さんは解消された。
◇◇◇
「暑い」
最寄駅に着いてプラットホームに降り立つ。夏も終わりに近づき、というか暦上では秋である九月の夜。ブラウスの襟元をパタパタと揺らし今日の晩御飯は何にしようかと考えを巡らせる。仕事を終えて疲れきった体は糖分を欲していて、このままコンビニに寄ってスイーツを買おうそうしようと目的地を決め改札を抜けたところでパシッと後ろから手首を掴まれた。驚きと恐怖でヒュッと喉が鳴る。幸いにもここは駅だ。帰宅ラッシュで人もたくさんいるし大声を出せば誰かが気づいてくれるはず。そうだ先週、痴漢を撃退する護身術をテレビで見た。見ただけで実践していないから全くできる気はしないけれど知識はあるに越したことはない。知識は武器だ。一瞬で脳を駆け巡った情報を盾に大丈夫だと言い聞かせ、ぐぎぎぎっと錆びついた人形のように振り返る。
「——え」
振り返った先、手首を掴む人物に別に意味で身体が強張った。
「久しぶり」
数年前、嫌というほど毎日聞いていた低くぶっきらぼうな声が鼓膜を揺らす。軽く放心状態になっていた脳を無理矢理回して「あ、うん、久しぶり」と掠れた声で紡いだ。夕凪千早、高校生の頃散々わたしをバカにしてきた同級生が今目の前にいる。学生時代仲が良かったとはとても言い難い不思議な関係だった。友達とも違う、ただのクラスメートとも違う微妙な距離にいる人。口を開けば人を小馬鹿にしていた夕凪くんだったけど、普通に話すこともあったのだ。ごく稀にだけど。
そして隣の席ではなくなってから段々と会話は減り、高校卒業前にはついぞ話さなくなった同級生。その彼が今目の前にいてどういうわけかわたしの腕を掴んでいる。心なしか息が弾んでいるように見えるのだけどもしかして走ってきたのだろうか。お互いがお互いを探っているのか久しぶりから会話が続かない。彼を見て脳裏に浮かぶのはわたしとは付き合いたくないと言ったあの日のこと。あれから数年経って大人になった今でも、あのときの嫌悪のこもった声を忘れたことはない。あの日から夕凪くんとの接し方がわからなくなって怒りよりも悲しみが先に出るようになった。言い返さなくなったわたしを見て最初は言葉に詰まらせていた夕凪くんだったけど、次第に興味を失くしたのか突っかかってくることもなくなった。
「あの、よかったら手を離していただいても」
掴まれている方の手を軽く上げて訴える。夕凪くんはハッと目を開き「悪い」と手を離した。気まずい、非常に。
夕凪くんの方はただの同級生としか思っていないんだろうけど、わたしにとっては苦い記憶が蘇る相手。もう二度と関わることはないと思っていたのに。
「なあ、もう飯食った?」
「へ」
「だから飯、食ったのか」
「ううん、まだだけど」
相変わらずのぶっきらぼうな言葉と視線。懐かしいと思うのと同時によくわからない感情が込み上げてくる。
——「ねぇから。あいつだけは絶対にない。無理ありえない」
あの日からわたしは、抜け出せない霧の中でずっと蹲っている。
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