「どうしたの。まるで死にそうな顔して。」

　蒸し暑い日が続いてる初夏の平日に、とつぜん貴子が訪ねてきた。学生時代にお世話になった茶道の先生の娘が、隣のA市に住んでいた。近頃亡くなったことを知り、挨拶に行ってきたと話しながら、勝手に上がり込んできた。

「いつもはキチンとしていたのに、どうしたの」

　仏間に置いた座卓の上の、積まれた洗濯物の散らかり方を見て、片付け始めた。欄間や長押（なげし）を利用して、二本の物干し竿をわたし、季節ごとの着替えや洗濯した物はハンガーに吊しておく。下着類は乾くと座卓の上に置いて、適当に山の中から選んで着てる。これは最近発見した合理的な方法と思っていたが、もともと綺麗好きで片付けの上手い貴子には、老人の一人暮らしが哀れに見えるらしい。

　夏らしい薄い生地の、薄い青地の色が下へと更に薄くなり、帯の下辺りから白地に近くなっている。裾から上にパステルカラーとでもいうのか、薄い青やピンクの朝顔の花と、緑の蔓を伸ばしてそこから葉が裾から膝辺りまで、爽やかさを況（ま）しているようだ。帯の無地の青も、サラサラした触感を感じさせ、地味なようでいて裾の模様が涼しさを演出している。

「せっかくの着物が汚れてしまうよ。もういいよ。」

「大丈夫よ。これ礼服じゃないの。お店用の普段着だから。」

　何を言おうと気にも留めず、上手に外した帯揚げをたすき掛けして、セッセとテーブルの上や、部屋の中の物干しに吊されている物を外し、タンスに仕舞い始めた。

「タカちゃんがこんな事をするなんて思わなかった。」

「なに言ってるのよ。私だってお店を守りながら、暴れん坊の男の子二人を育てたのよ。」

　毎日が日曜日の、のんびりとした時間を過ごしていたのに、とつぜん来て張り切られても迷惑な話で、しかたなく手伝う羽目になった。

　貴子は私よりも一歳年上で、50kmほど離れた隣県のT市で和菓子店を営んでいる。元々は父方の実家からの、江戸時代中期頃の分家だそうで、明治になるまでは運河を利用した材木問屋として、かなり繁盛していたそうだ。明治の中頃に食べ物屋関係に替わり、それも上手く行かず、曾祖父の妹が嫁いだ頃に和菓子店になった。戦後、材料の調達が上手くいかず資金繰りに苦労をしていた時に、父がかなりの額を援助したらしい。

　貴子の母は男の子が出来ずに、勤めていた和菓子職人を婿にしたが、経営面では疎かったそうだ。父からその事情を聞いたことは無いが、貴子が言うには、いつまでも返済ができずにいたので、貴子を許嫁としたとか、そう言って我が家に来ていた。

　この許嫁の話はどこまで本当の事なのか良く分からない。元々は貴子の母と父が許嫁だったのが、戦争で約束が果たせずにその次の代でとなったらしい。明治期の約束とか、何回にも亘る資金援助のお礼とか聞いたので、子供ながらに人身売買ではないかと思ったりした。

　貴子の大学が近くにあり、下宿での一人暮らしを心配して母も家に呼んでいた。一緒に食事をしたり、時には泊まったりもして、母も貴子が気に入り本当に許嫁なら良いのにと言っていた。

　子供の頃から時々会っていて、明るい性格で可愛らしい笑顔の子が、次第に美しい女性に成長するのを見ていた。背が高くて、高校では水泳でそれなりの成績を出していた。日本の古典文学、王朝文学から中世に掛けての日本的な美意識を学び、和菓子に活かしたいと言っていた。

　今はT市の中心地の本店と、東京はじめ近郊に数店の支店を持ってる。貴子は長男夫婦と同居をして、本店奥の内蔵続きの一棟を自室として、華道と茶道教授をしている。その関係もあり、本店では茶道用の主菓子（おもがし）や干菓子の受注も多いようだ。

　茶道は60年以上も続けてる関係から、流派を問わず受注が多いと聞いた。それでも収益は少なく、次に受け渡す技術の継承が目的だと言い、各地の和菓子屋さん達の継承者が集まる。なおさら収益的には少ないと言っていた。収益としては支店の方が各店舗共に多いようで、次男の営業の上手さからスーパーや百貨店にも販路を拡げ、いまでは支店専用の菓子製造工場も出来たと聞いた。

「茶道の吉野先生のお宅って、確か小学校の近くだったよね。」

「そうよ、ご近所の家もなくなって、ぽつんと建ってるのが寂しかったわ。」

「随分前から、あの辺の古い家は誰も住んでいる人がいなくなったらしいよ。ほとんど木造の平屋だけど、あのままでは危険だから取り壊しが始まるそうだよ。」

　茶道の先生宅の数軒隣に空き家があったとかで、貴子は学生時代に一軒丸ごとを借りて暮らし、母が様子を見に行っていた。家業の関係から子供の頃から茶道に通い、大学進学で下宿を探してるときに、茶道を続けるために同じ流派で仲の良かった吉野先生を紹介された。

　母は私の家に下宿するように考えていたようだが、部屋数が足りなかった。近くを探してるときに、吉野先生が貴子を見てとても気に入り、一人暮らしになって部屋は開いてるからと言ったが、貴子は初めての一人暮らしに憧れもあったようだ。

　母も吉野先生のお稽古に通っていたので、私も何度か一緒に行き、ご主人やお弟子さん達に可愛がられた。ご主人から茶道での露地や、自然の活かし方なども教えられ、興味を持つようになった。やがて茶道よりも狭い庭、露地の作りとそこに咲く季節の花や草を愛でられるようになった。低木の下の雑草だが、数本の雑草が狭い庭を広く幽玄の世界に感じさせ、その中に佇む自分自身を想像するのが好きに成っていた。

「もう、あの庭はなくなったのかな。」

「そうね、以前近くを通った時は、塀も壊して車を置いてあったわ。やっと車一台分だから、意外と狭かったのね。」

「一度、ご主人が元気だった頃に茶器を見せてもらった。けっこう高価な物も多かったけど、どうなったのかな」

「吉野先生の御遺言があって、一番弟子の佐喜子先生に全て譲られたわ。佐喜子先生、とつぜんの話しで驚いてご辞退なさっていたけど、息子さん達のお願いで受け継ぐ事になったらしいわね。

　二人の息子さん達も偉いわね。かなり高価な物も有ったのに、代金を用意しても、遺言だからと受け取らなかったそうよ」

「佐喜子さん、どうしてるのかな。かなりの高齢になってると思うけど」

「そうねえ･･･。佐喜子先生の事、知ってるの」

「いやいや、茶会で時々会った事があって･･･、いつも着物姿でキリッとして若く見えてたけど、吉野先生がご健在なら90代でしょ、佐喜子さんは先生よりも少し下だったと思うけど。

　今も仲井町に住んでるのかな」

「ずいぶん詳しいのね」

　洗濯物をたたみ部屋の掃除を済ませ、居間に座っていると隣で、サッサと着物を脱いで、シャワーを浴びに風呂場へと行った。

「ごめん、バスタオル取って」

「そこに下がってるだろう」

「これ嫌よ、臭う」

　新しい、まだ畳んでもいないバスタオルを持って浴室のドアを開けると、片手で胸を押さえただけの貴子が立っていた。

「わお、」

「どう、良い身体してるでしょ」

　茶道の他に、もう50年近く続けてるスイミングの成果なのか、年齢よりもはるかに若い、引き締まった体型をしていた。

　いつからこういう関係になったのか、互いに恥じらいも薄れて単なる友達のような、というよりも長く連れ添った夫婦のようになっている。まじまじと眺めても、これ見よがしにポーズしてみせる。

「はいはい、続きは後でジックリと拝ませてもらうよ」

　冗談のように言ったものの、妻を亡くしてから一人暮らしも十年以上も経ち、次第に貴子との関係が進むことに戸惑いも感じ始めていた。ともに連れ合いを亡くして時間も経ち、許嫁は冗談でも、かなり親しい関係もあった。74歳の老人と75歳の女性、互いの年齢を思えば充分に枯れてしまったのに。