追想編 七つの大罪ー①

 汗に濡れた逞しい胸が、上がった呼吸で上下している。寝台に仰向けになり、裸でだらしなく放心している男。

 アヤだけが知る、無防備で愛おしいバベルの姿だ。


 しぼった手拭いで彼の全身をふいて、最後に己の股から流れ出た精を拭き取る。再度寄り添い、裸の胸と胸、腹と腹を合わせた。


 体中いくつもある傷跡は、彼がベツレヘムの頭目に上りつめた証であり、二か月前のランツクネヒトやヘロドとの戦いで受傷した新しいものもある。お尻にある古傷はちょっと恥ずかしいらしい。


 呼吸が落ち着くと、彼はアヤの体を下から上に撫で上げる。ゆっくりと、体の凹凸に指を沿わせて。


 バベルとは対照的に、ほっそりとして傷痕一つないアヤの体は、毎日隅々まで手入れされている。それをいつも彼は、芸術品を眺めるようにじっと見つめてから丁寧に触れ、皮膚の下に秘められたアヤの気持ちを手の感触で確かめるのだ。


 もっと雑でもいいのにとある時呟いたら、こう返された。

『俺が金を払っているからといって無理しなくていい。いくら好いた相手とはいえ、触れられたくない日だってあるだろう』


 それは一体、いつどこの女に言われたのと問い返すと、うやむやにされてしまった。


 王といえる財力と影響力の、メディチの姓を持つ男なのだ。欲を晴らそうと思えば、一晩だけでも抱かれたいと願う女がいくらでもいる。だから彼がわざわざここに来るのは、欲や遊びのためではないと分かっている。

 分かってはいるのだが。


「バカだな、僕は」

「何が?」

 心の声が出てしまった。


「四年前にあなたと出会った時から、僕は何も変わっていない」

「法王猊下も認めるローマの至宝になったのにか?」


 女体を持たぬのだ。そのために血のにじむような努力はした。

 あなたが欲しいからだ。


「強欲で嫉妬深くて色欲で。僕はやっぱり悪魔に魅入られやすいのかもしれない」


 体を撫でるバベルの手が止まる。

 


■□


 高級娼館『楽園イル・パラディーゾ』の新人娼婦として何度か客を取った。今夜は初めて、二度目を指名してくれた客が来るのだ。その前にねえさんたちから頼まれた買い物を済まさなければならない。


 アヤが薬屋へと小走りに通りを渡った時だ。

 凄い速さで走ってくる馬車が迫った。巨大な馬が目の前に迫る恐怖に、身動きがとれない。

 ぎゅっと目をつぶって小さくなった次の瞬間、もの凄い衝撃とともに体が浮き、地面へ叩きつけられた。


「はねられたぞ⁉」

「おいっ、無事か⁉」

「あの馬車去りやがって!」


 人の声がぐわんぐわんと響くが、なんとか手足は動かせる。


「何があった」

「神父さま! この子が馬車にはねられて」


 目に入ったのは、濃青の神父服の裾だ。視界が曇ってなんだかよく見えず、目の周りを手でこする。

 手が濡れたので何だろうと見ると、真っ赤な血だった。手が濡れて気持ち悪いほど、べったりと。


「え……」


 こんな血の量は見たことがない。死ぬんじゃないか。

 そう思った途端、気持ちが悪くなり意識が遠のいた。


 次に目を開けると、見たことのない場所で寝台に収まっている。花魁コルティジャーナ・オネスタのねえさんが使うような上質な敷布と掛布だ。


「生きてた……」

 だが頭が割れるように痛い。手で触れると、額に包帯が巻かれていた。手足は動かせるが、寝台から起きようとすると激痛が走った。


「頭を打っている。起き上がらない方がいい」


 知らない男の声に、はっと身を固くする。首を動かすと、左の窓際に濃青の神父服が座っていた。


「神父さま……助けてくださったのですか」


 ダークブロンドの髪が、濃青の神父服によく映える。しかし鉄色の瞳が怖い人だ。

 相手がどんな人でも、初対面でこちらから目を逸らしてはいけない。おかあさんにそう仕込まれているから、アヤは視線を合わせたまま言えた。


「ご迷惑をおかけし申し訳ありませんでした」

「あの馬車に乗っていたのは、ヘロドといううちの者だった。謝るのはこちらだ」


「いいえ。ご丁寧に手当までしていただき、感謝致します。もう大丈夫ですので、帰らないと」

「やめておけ。さっきも言った通り、はねられた時に頭を打っている。もし頭の中で出血していたら死ぬぞ。一晩は安静にして様子を見た方がいい」


「でも今日は、大事なお客様がみえるのです」

「客?」

「僕は楽園のアヤと申します。娼婦です」


「……手当をした時には、男だと思っていたが」

「男です。でも娼婦です」


 神父は目を丸くしてアヤの顔をまじまじと眺めた。それからはっとしたように瞼を伏せる。


「すまん、男の娼婦というのを知らなかった」

「構いません。僕も他には知りませんから」

「どちらにしろ、その傷では今日は客を相手にするのは無理だ」


 血がたくさん出たのも、頭がズキズキするのも、額を切ったからなのか。


「傷が残りますか?」


 言うまでもなく、娼婦は顔が命だ。ましてやアヤは女体を持たぬのだから、顔が美しくなければ価値はない。


「残らないよう最善は尽くした」

「ありがとうございます。信じます」


 神父は少し迷いながら、ゆっくりした口調でアヤにたずねた。


「アヤ。歳はいくつなんだ」

「十三です」

「どうして男の身で娼婦をしている?」


 金のために望まぬことを無理矢理させられているのではと、この人は心配をしてくれていると分かった。


「誰より美しくなりたいからです。僕を拾って育ててくれたおかあさんと、ねえさんたちのために。ローマで一番の花魁コルティジャーナ・オネスタになるのが夢です」


 神父は呆気にとられたようだった。アヤは少し萎縮する。


「とても罪深いと分かっています。道を外れた強欲ですが、それでも僕の望む生き方なんです」


 己の思いをこんな風に話すのは、女将であり育ての親のおかあさん以外には初めてだった。

 神父は椅子から立ち上がり、寝台のすぐ横まで近寄ると膝をつく。


「バベル・デ・メディチだ。歳は二十三。サン・クレメンテ聖堂の司祭をしている。アヤを非難する者はここにはいないから、安心して休め」


 メディチ。聞き覚えがある。


「もしかして大きなお屋敷の?」


 歓楽街の外れに大きな屋敷があるのだ。おかあさんが、あれは法王一族のメディチ家のものだと言っていた。

 一体どんな人が住んでいるのだろうとドキドキしながら眺めていたものだが、まさか。


「ここはその屋敷だ」


 楽園には多くの金持ち客が通ってくる。今晩アヤを指名してくれた客も、毛織物の売買で財を為したのだという。その多くは三十代から五十代だが、この人はまだ二十三だ。怖そうだと感じていた瞳が、近くで見るととても深い感情を秘めていたのが分かる。


 半ば見惚れていると、神父は少し気まずそうに視線を逸らし「食事を用意してくる」と、出て行った。

 一人きりになっても、なぜかまだ気持ちが高揚している。


 しばらくして食事を運んできたのはバベルではなく、ヤコボという老司祭だったので、がっかりだった。医学の知識があり、アヤの額の傷を処置したのもヤコボだという。もし気分が悪くなったり、吐いたりしたらすぐに呼ぶようにと呼び鈴を渡され、再び一人にされた。


 今夜はもうバベルは来てくれないのだろうか。

 慣れない上質な寝具に、浅い眠りを繰り返すのだった。

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