Ⅶ あの星のように―⑦
双方に多大な犠牲をもたらした五日目が終わった。
「血が止まらないぞ!」
「もっと灯りを持ってこい! 熱湯と水と布もだ!」
手当をする者たちの声を聞くだけでも、心臓を突き刺されたようだ。いよいよニコラや側近たちが聖堂で祈り始めた姿に、アヤは震えを止められなかった。
寒いわけでもないのに両腕を抱くと、歯までカチカチいいだす。
隊長カスパールは戦死したが、ランツクネヒトの攻撃は止んだわけではない。それに今は——
「敵襲! 煉獄だ!」
バベルが生死不明の重症と知った煉獄が、ここぞとばかりに直接攻撃を仕掛けてきたのだ。ルドゥス・マグヌス広場を中心に防衛しているが、各所への援護に派遣しているため薄い。煉獄がサン・クレメンテ聖堂へ到達するのも時間の問題と聞かされている。
「ルカ、ルカ、どうしよう。どうしたらいいの」
テオも駆り出されて行ってしまった。眠ったままのルカと二人、アヤにはどうすることもできない。
鋭いノックの音の直後、青い顔のニコラが部屋へ滑り込んできた。
ついにその時が来たのか。アヤは息が止まりそうだった。
「ここも危うくなってきました。アヤ殿、逃げますぞ」
最悪の方でなくてよかった。もう、ぐちゃぐちゃになった内臓が口から飛び出そうだ。
「逃げるって、どこへ?」
「地下墓地です。こうなるのを見越して、
「わかった。頼みます。バベルは?」
「あまりに多くの血を失い、傷も深い。今の状態では動かす方が危険です」
「ではここが煉獄の手に落ちれば、その時が……」
「アヤ殿、聞いてください。主の心臓は何度も止まりかけましたが、今も止まってはいません。主は生きようとしている。だからあなたも泣かないでください。気を強く持って、信じてください」
そう言うニコラの目にも光るものがある。
「主に会っていきますか?」
アヤは涙をぬぐった。
「ううん。彼はいつも、目一杯お洒落して会いに来てくれるんだ。だから僕に瀕死の姿は見られたくないと思う」
「なるほど、その通りですな」
「僕も諦めないよ。ルカは僕が背負っていく。あなたの傷も浅くないでしょう?」
「助かります」
ずり落ちないよう、紐でルカの体と自分の体をしっかり固定させる。
サン・クレメンテ聖堂の最深部から地下水路に入ると、焦げた油の臭いが充満していた。
「途中、見たくないものがありますが、考えないでください」
ニコラはなるべく照らさないようにしてくれたが、焼けただれ黒くなったままうち捨てられた遺体が、胸を締めつける。
あれが敵なのか味方なのかはわからない。けれどこんな戦がなければ、死なずに済んだはずだ。だから祈らずにはいられなかった。
——神様、どうかあの人たちのかわいそうな魂をお導きください。
早足で半刻ほど歩いただろうか。目的の地下墓地へたどり着いた。
「ここを知るのは主とわずかな側近のみですので。多くはありませんが、水と食糧もあります。あなたはここにいてください」
「ありがとうニコラさん。もう道が分からないから、迎えに来てもらわないと出られそうにないね」
「食糧の中に道順を記した地図があります。もし水が尽きて、誰も来ない時のために」
「わかった。バベルにお礼を言わなきゃな」
「主は命に換えてもあなたを守りたいはずです。どうか生き延びてください」
ニコラは去って行った。
湿っていない場所を選び、くくりつけてきた敷布を敷いてルカを横たわらせる。
暗くて狭い墓所で、死に囲まれて。このままバベルも死んでしまうかもしれない。
不安に押しつぶされそうな己を奮い立たせたくて、アヤはルカの温かな手を握った。
「ルカ。お願い。僕に勇気をちょうだい」
ルカの首にかけられた銀の十字架が、きらりと光った。
■□
ああ、またここか。囲われて密閉された、暗く狭い牢獄。岩窟教会の祭壇に閉じ込められていた時と同じだ。
醜い姿で地上に落とされ、この世のありとあらゆる憎しみをその身に受けた。それから千年かけて忘れ去られて、ようやく人になれたというのに、またここへ戻ってきてしまった。
仕方がない。身に余る奇跡を神に願ったのだから。
アヤの命が助かったのだからいい。シリウスとフィナとの思い出があるし、アヤとバベルはきっと幸せに過ごす。以前と違って一人ではないのだから、千年の孤独にだって耐えられる。
けれど、千年経ったらもう会えなくなっちゃうよな。
アヤとバベルと三人で一緒にいたい。たくさん話をしたい。たくさん笑いたい。同じ景色を見て、同じものを共に食べて。他にもまだまだ叶えたい。それにこれは、シリウスとフィナが叶えられなかった願いなのだ。
「だから神には悪いけど、また千年閉じこもるわけにはいかないな」
あらゆる困難に膝を折りそうになりながら、それでも立ち向かい乗り越える人の姿。神が望むものだ。
「今度は悪魔ではなく人として、あなたに見せましょう」
はっきりと覚えている。シリウスが見せてくれた光を。祭壇を開けて、背負ってくれた体温と衣服のくすぐったさを。顔を埋めた髪の感触を。フィナが繋いでくれた手の大きさを。小鳥のような姿に花を思わせるアヤの笑顔を。大切なものを託してくれたバベルの声を。
いつも俺を照らしてくれている。
だから、たとえ形のない細く頼りない光であっても、ほんの小さな揺らぎで消えてしまう道だとしても、迷いはしない。必ずもう一度たどり着いてみせる。
手の平に感じる感触。フィナではない。もう少し小さくて、ほっそりしていて、骨っぽい。
ルカ、ルカ。呼ばれている。
「アヤ……?」
目を開けても辺りは暗い。淀んだ空気が滞留していて、石窟教会の祭壇の棺と変わらない。
「ここは、どこだ?」
「ルカ、ルカ!? 良かった。よかっ……」
アヤに抱きつかれている。しかもこんなにすぐ近くにアヤの体と顔があって。
「アヤ。元気になったんだな」
顔を寄せようとして、硬いものがアヤの頭とぶつかった。
「え……なんだこれ、
触った形と乾いた感触に覚えがある。はっとして腕を見るが、毛むくじゃらではない。顔に触れてもその感触はない。
間近でこっちを見ている紫色の瞳から逃げたくて、ルカはアヤを突き放すと頭を抱えて背を向けた。
「ルカ、どうしたの」
「見ないでくれ。なんでまたこんな姿に……」
「そんなことないよ。とっても神秘的で美しいと思う。怖がらなくても大丈夫だよ、ここには僕とルカだけだから」
アヤの手が背中に触れる。
「僕を助けるために力を使ってくれたんだよね。本当にありがとう」
「……約束したから」
バベルに託されたのだ。二度も約束を破るわけにはいかない。
「あのね、ローマが大変なことになっているんだ。バベルも死んじゃうかもしれない。お願いルカ、力を貸して」
「えっ⁉ バベルが⁉」
ローマの状況や戦況を、アヤは知っている限り話してくれた。本当は不安で、恐くてたまらないのを隠して耐えているのがルカにも分かった。
「ここに入ってから二日は経っていると思う。僕は朝方から昼間に寝る生活だから、今はきっと七日目の夜だ」
「わかったよ。やることは一つだな。この地下墓地から出よう」
立ち上がったルカに、アヤはほっとしたようで、ようやく少しだけ笑った。
「俺たちはサン・クレメンテ聖堂から来たんだよな?」
「うん。でも道が複雑で僕じゃ戻れない。この地図を見て」
折りたたまれた紙を広げる。
「ほら、ここが出口だけど、サン・クレメンテ聖堂の位置とは違うよね」
「そうだな。テベレ川のすぐ横に出るのか。この位置は、サンタンジェロ城じゃないか?」
「法王様が避難している要塞?」
「そうだよ。さすがバベルだよな」
全てはアヤを守るために。ローマで最も堅固に守備された場所への道を確保していたのだ。
「行こう。俺たちにできることをする。神に見せてやるんだ」
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