Ⅵ 復活徹夜祭ー②
衛兵隊長のアンドレを訪ねると、控室に通された。
かっちりと顎髭を整えた三十半ばの男だ。祖父の代からスイス衛兵で、スイス人の血は受け継いでいるがローマで生まれ育ったという。
メディチ家に養子として引き取られたバベルとは、剣とポーカーの腕を競い合う仲らしく、今朝バベルからの手紙を渡しに訪ねると、直接会ってくれたのだ。
「
「かろうじて意識はあるが、出血が多くまだ何とも言えない」
「凶器に毒が塗ってあった可能性は?」
「傷口を見る限り、可能性は低いだろう。下手人に心当たりでもあるのか」
「いえ、そういうわけでは」
「人間とは思えぬ動きだったぞ。しかも女だ。魔女だというが、顔を見たか?」
ルカは「分かりません」と取り繕った。
「法王猊下は、ラファエロ聖書のことをご存じだったのでしょうか。今日の説教は、改革派の脅しには屈しないという意志表明に聞こえました」
「随分前から脅しはかけられていた。枢機卿やカメルレンゴも教会を守ろうと交渉を続けていたようだが、お亡くなりになった。それもすべて、次にこうなるのはあなただという、改革派による猊下への脅迫だ」
すべて知っていた。その上でなお、今日のミサは取りやめなかったのだ。
「説教にもヨハネによる福音書を選ばれた。あれは改革派への宣戦布告ですね」
「私がもっと少し強くお止めすべきだった」
「いいえ、誰に何を言われようと猊下のご意思は変わらなかったでしょう。俺もバベルから猊下の身を守るよう頼まれていたのに、隙を与えてしまった」
復活徹夜祭という最も聖なる祝祭で、法王が教会批判の凶刃に倒れた。この事件は人々の胸を深く抉るはずだ。
「法王の注文を受けた、教会内部を知るであろうラファエロが描いた風刺画は真実なのだと、人々へ信じ込ませる追い風になります。法王は教会腐敗の神罰を受けたのだと」
「すると、今日の事件で多くの市民の支持と共感を得るという改革派の目論見は、概ね達成されたというわけかな」
「そう言えますが……」
歯切れが悪い答えだった。
本当にこれだけなのだろうか。
ルカは続けた。
「さっき毒の可能性を言ったのは実は、聖母子像の絵を発注し、それに毒を用いて娼婦と枢機卿たちを死なせた者がいるんです。複数の娼館で同じように。ミカエルやガブリエルと名乗る男で、それらしい人物を聖堂内で見ました」
「ふむ。その男が首謀者なのか」
「恐らく。ラファエロの風刺画も奴の仕業です。あれは偽作師が描いたものなんです」
アンドレは「なるほどな」と頷く。
「ラファエロ聖書がローマ中に公表されたのは、要求された額を教会が支払わなかったからでしょう? どれほどの金額だったのでしょうか」
「百万ドゥカートだ」
「百万!? サン・ピエトロ大聖堂が建ちますよね?」
「とんでもない額だろう」
取引をするにはあまりに無謀な金額だ。改革派も煉獄も馬鹿ではない。取引できる金額の見極めができぬはずがなかろう。
「一体何のための金なんだろうか」
アンドレが呼ばれて行ってしまったため、話はそこで途切れた。
ミサが中断したので、急に手持ち無沙汰になる。潜入の手配してくれたマルコに礼を言いたいが、会えば片付けを手伝わねばならないだろう。
まだ異様な雰囲気のバチカンを離れ、サンタンジェロ城を横目にテベレ川を渡る。一刻歩き、サン・クレメンテ聖堂のファサードをくぐった。
聖堂内にはまだ信徒が残り、希望の蝋燭と共に祈りを捧げている。真夜中の刻、後陣のアプスに描かれた金色のモザイク画は暗くて見えず、黒々とした穴が浮いているようだ。
前方の祭壇では、青色を基調とした司教服に身を包んだバベルが祈りの言葉を唱えている。
ルカも最後方で跪き、手を組んで祈った。
どうか法王猊下が一日も早く快癒されますように。これ以上恐ろしいことが起きませんように。
「全能の神である父と子と聖霊の祝福が、あなたがたの上に降り、いつもあなたがたと共にありますように。アーメン」
「アーメン」
人々がいなくなるのを待ち、ルカは祭壇へと近づいた。
「バベル。ごめん。猊下を守れなかった」
何が起きたか既に知っている顔だ。バベルは司教帽を取り、指輪を外して襟元を緩める。この時ばかりは、殴られても抵抗はしないとルカは決めていた。
「ご無事なのか」
「出血が多かったからまだ分からない」
「そうか」
「猊下を刺したのは、アヤだった。アヤはここにいたんじゃなかったのか?」
バベルは何も言わない。どころか表情を変える事すらなかった。
「知ってるなら教えてくれよ。アヤに何があったんだ。どうしてアヤがあんなことを!」
詰め寄り、バベルの司教服をつかんだ。
「俺はあんたとの約束を守れなかった。だからアヤに何か起こっているなら、今度こそ救いたい」
「間違いなくアヤだったのか」
「え?」
「お前から見て、本当にアヤだったか」
「……うん。間違いないよ。アヤは、悪魔に憑りつかれている」
アヤと顔を合わせた瞬間、中にいる誰かの存在をはっきりと感じた。
バベルはゆっくりと息を吐き、ルカの手を払い除けた。
「以前から薄々感じ取ってはいた。悪魔を認めようとせず何もしてこなかったのは俺の方だ」
「バベル……。でも、どうしてアヤが選ばれたんだろう」
「悪魔が憑りつくのに理由がいるのか?」
「前に話しただろう、偽作に憑りつく悪霊は間抜けだって。人間が怨念から生み出した悪霊ではなく、神が作りし悪魔が人間に干渉するなら、なおさら媒介を選ぶものだ。心に弱味を持つ者は操りやすいし、長持ちする若く健康な肉体がいい」
言いながら思う。アヤの心の弱味とは何なのだろうか。この男なら知っているのかと目で問うが、バベルは首を横に振る。
「アヤは、俺には話そうとしなかった」
「バベルにすら話さなかったなら、他の誰も知るわけがないよ。だったら直接、悪魔に喋らせるしかない。こういう時こそ
バベルの表情は暗い。悪魔祓いをする過程では、媒体となった人体にもかなりの負担を強いる。抵抗する悪魔が人体の限界を振り切って暴れたり、エクソシストを攻撃しようとするからだ。悪魔を消滅させたとしても、肉体が耐えきれずにそのまま死んでしまう場合すらある。
だが手加減しながらでは悪魔に勝てるはずはなく、悪魔祓いは祓う側にも媒体にも相応の覚悟が必要なものなのだ。
「バベル。俺も一緒に手伝わせてくれ。アヤのために命を懸けられる男は、バベルしかいないだろ」
バベルの目に力が宿る。
「えらそうに」
「上等だろ。アヤは改革派のアジトのどこかにいるはずだ。助けに行こう」
「むやみに突っ込んでどうする。煉獄はそう甘くはない。それに、悪魔祓いをするのはいつでもいいわけではない」
バベルの説明によると、悪魔が人に憑依する時には三つの段階があるという。
最初が侵入。身の回りに不可解な出来事が起こる。二番目が脅迫で、憑かれた人間の人格が変貌し、身体に変調が現れる。体格に見合わぬ動きや怪力を振るい、神を嘲るような言動をする。そして最後の段階が憑依で、人間と悪魔が一体となるのだ。
悪魔祓いは、脅迫から憑依への変化の時にしか行えないのだという。
「今のアヤはまだ脅迫の段階だ。悪魔に意識と体を奪われてはいるが、ずっとではない。変化の時まで、まだしばらくあるはずだ。アヤを探し出し、その時を逃さず、悪魔の真の名を自白させる」
「神から与えられた真の名か。人に憑いてちょっかいを出そうなんて悪魔は外道だな。絶対追い出してやる」
ルカは首に下げた十字架を握った。
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