Ⅴ 天使が吹く破滅へのラッパー④

 これを見てとルカが紙を差し出す。

「街中に貼られてるよ。テオが描いたラファエロの風刺画だ」


 ルカが持ってきたのは『十戒』の風刺画で、「汝、盗むなかれ」と書かれた横で、司祭たちが金貨をどれだけ高く積めるか競争している。その背後ではせっせと贖宥状を作成している司祭も描かれていた。


「どこがラファエロかと言われたら、構図と人物の表情か」


 バベルは顔を近づけたり、逆に離して眺めている。人体の完璧な比率や、理想といえる美をやわらかで繊細な筆致で示したのがラファエロだ。白黒の印刷ではあるが、筆致はラファエロそのものに見える。


「きっと教会批判を声高に叫ぶ人がローマ中に現れる。大きな騒ぎにならないといいんだけど……」


 復活徹夜祭の今夜、バチカンにはあらゆる人が集結する。中には教会体制に不満を持ち、法王に直接言いたいがために来る者もいるだろう。こうしている今も、どんどん人が流入しているはずだ。


「無理だな。ただでさえ人が多いところに混乱を引き起こすために、今日に合わせて拡散したんだ」


 祈るしかないのか。バチカンは改革派に屈してしまうのか。

 だがルカには打開策を見つけられそうになかった。


「それと、今朝アヤに会ったんだけど、体調を崩しているみたいだった。酷い顔色をしていて。心配だよ」

「さっき来て、目の前で倒れた。今は部屋で休ませている」

「倒れた!? やっぱり無理してたのか……」


 バベルは何かを言いかけたが、口をつぐんだ。

 するとベツレヘムの配下が駆け寄ってきた。ルカも何度か会った事がある、バベルの側近だ。


「お頭! テオからやっと返信が来ましたぜ。急いでお頭に見せろって」


 まだ日は高いが、聖堂内には復活徹夜祭を待ちきれない人が集まり始めている。バベルは顎をしゃくり、後陣の右手から地下に下りていった。


 側近から受け取った紙切れを開き、炎に照らされたそれを覗き込む。ラファエロ聖書に使われていたカリグラフィーだ。煉獄の監視下で、聖書の製作に見せかけて返信を書いたのだろう。


「ちょっ、ローマ法王襲撃⁈」

 中枢部のカメルレンゴが殺害されたからには、可能性をルカも考えなかったわけではない。だが敵の渦中にいるテオから出た言葉となると、重みが違う。


「狙いは教会体制の崩壊ってあるぞ? しかもスペイン兵や傭兵が向かってるって……」

 バベルの顔を見る。


「今のスペイン王は神聖ローマ皇帝でもあるし、軍勢が南下しているのは事実だ。だがローマ法王を襲うとは、いくら何でも飛躍しすぎていないか」


 ローマ法王は全カソリック教徒を導く父であり、キリストの代理人である。そんな人を弑逆しいぎゃくする業を負える人間がいるのか。

 いや、人間だからこそ負えるのかもしれない。


 ラファエロの風刺画でバチカンの権威と法王の力を失墜させること。

 メディチ家出身の法王を排除することで、バベルの力を削ぐこと。


「煉獄と改革派の目的はぴったり一致するんだよな。そうだ、ニコラさんから聞いているかもしれないけど、他にも色々と分かったことがあるんだ」


 ルカは林檎の誘惑で入手した香油の小瓶を取り出した。


「林檎の誘惑ではガブリエル、楽園ではミカエルと名乗った客がいる。たぶんこの人物が絵の依頼人で、改革派なんだろう。奴は林檎の誘惑では贈り物の化粧品に、楽園では聖母子像の額縁に、ベラドンナという同じ毒を用いている。楽園で二番目に死んだシルヴィアは、ベラドンナの毒で恐ろしい幻覚を見て自殺した。恐らく急死した枢機卿たちも同じだ」


「楽園で最初に死んだアンジェリカとカミロ主任司祭は、全身に黒い斑点が出現し、髪の毛が抜けたというな。それは別の毒なのか?」


「それは緑色の絵の具に使われた鉱物の毒だ。テオが塗った聖母マリアのガウンの上から、ミカエルが更に毒性の高い絵の具を重ねたんだろう。アンジェリカの寝台のすぐ上に、あの絵は掛かっていた」


「三番目のヴィオラも毒なのか」

「ここに来る途中、楽園に寄ってヴィオラの部屋をもう一度見せてもらった。寝台を動かしたら、壁と寝台の間にこいつがびっしり貼りついていたんだ」


 腰につけたポシェットからそっと白いハンカチを取り出し、広げて見せる。ごく小さな黒い粒だ。


「ダニの死骸か」

「猛毒を持つダニだ」

「だがどうやって」

「黒い涙だよ。こいつらも黒いだろう?」

 バベルがハッと顔を上げる。


「絵の上に、ダニを黒い絵の具で塗り固めたのか」


「ああ。一つ目の絵の具、二つ目のベラドンナと時間差で現れたのは、春になって暖かくなると溶けだすようにしていたからだ。ダニの生命力ならあり得るだろ」


「背景にも大量のダニが塗りこまれていたのか。アトリエでテオに絵を見せても気付かなかったのは、肌と違って元から黒色だからだな」


「うん。目立つ涙ばかりに目が行っていたが、あの絵は背景も真っ黒だ。背景の色は、依頼人から指定されたとテオは言っていた。楽園の林檎でも、ヴィオラと同じ死に方をしたレティという娼婦がいたんだ。二人とも全身をダニに噛まれて、毒に侵されたんだろう。しかもレティの客には、カメルレンゴがいた」


「ガブリエルだかミカエルの一味は、よほどの過激思想だな。娼館通いの自堕落な高位聖職者だけでなく、体を売る娼婦も同罪で死とでも主張するのだろう」


「ああ。懸命に生きる人の命をないがしろにする奴らが、許されてたまるか。法王猊下には絶対に手出しさせない」


「この間ヘロドが楽園を総上げにした時、アヤがスイス出身の男を相手にした。恐らくそいつがミカエルだが、連れに武人らしき男がいたらしい。スイス衛兵といえば、法王猊下の衛兵だ」


「もし衛兵がそいつに抱き込まれていたら?」


「アヤもそれを懸念していたが、バチカンのスイス衛兵は、全員が生まれから交友関係まで審査された敬虔なカソリック教徒だ。それに猊下を手にかけるようなことがあれば、全世界からスイスが責められる。教会の浄化どころか、報復戦争が始まるぞ」


「けれど、今夜か明日だろ」


 偽作のラファエロ聖書も今日に合わせた。最も重要な式典で起こしてこそ、腐敗した教会への罰という演出は最大の効果を発揮するものだ。


「……そうだな」


 バベルは後陣にひっそり据えれた書机で字を書きつけ、その紙をルカに手渡した。


「法王庁に行ったら、衛兵隊長のアンドレにこれを渡せ。俺の名前を出せばわかる。よく知る男だ」


「わかった。俺はサン・ピエトロ大聖堂のミサに入り込めるよう図らってもらってる」


「大聖堂で自由に動けるなら、できるだけ猊下から目を離すな。周りの人間にもだ。特に急に近づいてくるような奴には注意しろ」

「うん」


「ここのミサがあるから、俺は大聖堂には行けない。猊下を頼む」


 法王は養父なのだと聞いた。たまたま拾われたと。

 まだ知り合って何日目かだが、ルカの知る限りバベルはメディチの家名に敬意を払っている。養父の法王も、たまたま拾っただけの子に広い邸宅や司教の地位は与えないだろう。二人の関係性が粗悪で冷えたものとは思えない。

 だから多分、ルカにとってのシリウスと同じような存在なのだ。


「わかったよ。復活祭を無事に終えたら、猊下との思い出話を聞かせてもらうからな」

 バベルは眉根を寄せたが、ルカは口角を上げ、聖堂を飛び出した。


 その後、眠っているはずのアヤの姿が消えているのに気付いたのは、バベルが式典用の司教服に着替えてからだった。

 開け放たれた窓から、生臭くぬるい夜の風が吹き込んでいた。

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