鬼の嫁入り
まなみ つるこ
プロローグ
いつも通りの明日が来ると思っていたのに、突然それが崩れる時が来る。
そんな事を幼いフクは知らなかった。
「結界師様の守りの外に出てはならないよ」
「守りの外には恐ろしい鬼がいるからね」
大人たちは何かにつけてそう言うが、友達は一人として鬼なんて見たことがないと言っていたし、いまいち信じられなかった。
結界師と呼ばれているお婆さんも、特段何かの儀式を行ってるわけでもなく、皆があくせく働いている中、綺麗な服を着て、お茶を飲んでぼんやりとしているだけだったので、『怠け者』と密かに軽蔑していた。
「フク、フク、もうすぐ商隊が来るそうだよ。お前が好きな干物を沢山買ってやろうね」
そう言って、いつまで経っても子供のように無邪気な父が笑っていた。
「お父さん!干物を買うためには、こちらの農作物もしっかりと売り込まないといけないんですから!無駄口叩かずにさっさと働いて!」
弟たちの面倒を見ていたフクを、のんびりと労う父を、いつものように母が急かす。
その日は皆が浮き足だったような一日だった。
犬が激しく鳴き、猫は塀の上を走り、大人たちは各々が売る品の準備に忙そうながらも楽しそうで、お手伝いをする子供たちにも周りの空気が感染してキャッキャと笑い転げる。
「今回はどれくらいの
護人とは商人たちの集団を守る国の軍人だ。
軍人の中でも、特に鬼を倒せる人を、そのように呼ぶのだ、と、フクを含めた子供達は教えられたが、鬼の存在も信じていなかったので、その有り難みが全くわからなかった。
「沢山肉をお出ししたいが、最近は結界師様の守りが山まで届かんから、獣もろくに獲れんでのぅ」
すっかりと腰が曲がってしまったが、しゃきしゃきと働く全く祖父祖母の話に、食べ盛りの弟たちは頬を膨らます。
「何でよそモンに食い物をやんなきゃいけないんだよ!!」
「そうだよ!あいつら、いつも食い物もらって当然って顔でガツガツと食い荒らして行きやがって!」
そんな弟たちには、老いてもなお力強い祖父の拳骨が落とされる。
「馬鹿モン!!この町が絶えずに存続できるのは結界師様と、物資と商人を守って来られる護人様たちのおかげなんじゃぞ!」
「そうじゃ。鬼と護人様たちが戦ってくれるから、ここが孤立せんでおれとるんじゃ」
今になって、その言葉が理解できる。
『それ』は作業合間の昼ごはんが終わり、皆がボチボチと午後の仕事を始めた頃、やって来た。
最初は遠くで聞こえた悲鳴と怒号。
それが段々と自分たちの方向に向かってくる。
「あ……………?あ………あ………」
建物越しに見えた姿に、フクは反応できなかった。
家の屋根より高い位置に現れた、空を貫くような
ズシンズシンと地面を振動させながら、猿の頭は大通りに移動してきて、筋骨隆々とした人に似た上半身と、その下から生えている毛むくじゃらの獣の下半身が目に入る。
上半身は猿、下半身は熊という、現実離れした、動物を継ぎ
確かに角が生えているが、フクたちが紙芝居で見た事がある、一回りほど大きな人間に角がついている『鬼』とはあまりに違った。
自分の存在を誇示するように上がった咆哮は熊のもので、蜘蛛の子を散らすように逃げ出した人間たちを嘲笑ったのは、猿の声だった。
猿の上半身の、
巨大なのに『鬼』の身のこなしは素早かった。
「カエ!子供を連れてにげっ………」
化け物から見れば、あまりに無力な
「……………?」
出遅れたように、父の腰から吹き上がった赤黒い液体が、一体何なのか理解できないフクは、ただ目を見開くことしかできなかった。
大地を踏みしめていた父の足は、前に倒れるか後に倒れるか迷ったように、たたらを踏み、結局はカクンと膝が折れ、地面に
父の下半身はここにある。
では上半身は何処へ?と視線を巡らせようとしたフクの視界を、母が遮る。
「フク!
母は現実に引き戻すようにフクの背中を強く叩いて、末の弟を抱えて走り出す。
「あ………永太!ミツ!行くよ!!」
フクはハッとして、弟たちの手を引いて走り出す。
周りは逃げる者、家族の名を呼ぶ者、ただただ悲鳴を上げる者、化け物相手にあまりに無力な武器を手にする者と、様々な人間たちで、その場は大混乱になっている。
「あ………あ……」
「とーちゃ……と、とーちゃんが……」
未だ茫然自失を抜けきれていない弟たちの手を、フクは手荒に引っ張って走る。
どこへ逃げれば良いのかわからない。
ただ脅威から遠い方向へと、逃げる人の波に乗るように走る。
それなりに大きくなった末っ子を抱える母は、子供達ほど早く走れない。
その姿を、後ろを向いて確認する余裕もない。
そんな中に
「どけ!道を開けろ!」
「結界師様が行くぞ!どけ!」
こんな混乱の中でも、神輿に結界師を乗せるのかと不快に思ったが、見れば様子がおかしい。
いつものんびりした顔でお茶を飲んでいた結界師は、神輿の上で蹲り、胸をおさえ、真っ青になっている。
どう見ても動かして良い状態ではない。
「おい!結界師様を動かすなよ!」
「結界師様が死んだら……!」
周りからもそんな声が飛ぶし、止めようとする者もいるが、神輿を担ぐ男たちは気迫を込めて、叫ぶ。
「鎮まれ!!
「鬼を遠ざけられる力は減り、もう殆どない!」
「我らは結界師様と共に鬼を遠ざける!皆は南へ!護人様の旅団がそこまで来ているはずだ!逃げろ!」
神輿を担ぐ男たちは一応腰に武器を下げているが、とてもあの化け物に対抗できると思えない。
つまり彼らは命懸けの時間稼ぎに行くのだ。
背後に聞こえる、猿の威嚇音を聞きながら、フクは必死に走る。
(南へ……南へ………!)
ただひたすらにそれを思って、左右の手で弟たちを引っ張って走る。
「ねー……ちゃ……きつっ………も……」
しかし町を抜ける前に次男の息が上がってしまった。
「ミツ!走らないと!」
そう言うフクも既に汗まみれで、息が切れている。
心臓が破れそうなくらい早く打っている。
「も……むり………むり……だよぉぉぉ!」
そう泣く弟の満次に、フクは大きく息を吐き出す。
そしてしゃがんで背中を向ける。
「永太、先にいきな!ミツ、のりな!」
小さな体で、たった三つしか違わない弟を背負うのは重労働だった。
早く走れるはずもない。
ヨタヨタとしか動けないが、それでも進んだ方が良いに違いない。
地面を見なるようにしながら弟を背負い、フクは必死に足を動かす。
大きい石、小さい石、道端の草。
そんな物を踏みしめる自分の足と、時々落ちていく汗の粒を見ながら、『南へ』とだけ思いながら足を前に出す。
「っっっ!ねーちゃん!ねーちゃん!ねーちゃん!!」
そんな中、背中で泣いていた弟が声を上げた。
それと同時に見ていた地面に大きな影が差した。
「………………」
フクはゴクリと唾を飲んだ。
太陽は未だ南の方から差している。
そして鬼と反対側の、南に向かって逃げているフクの行く手から影が差し込んできた。
(あり得ない……あり得ない……前から来るなんて……)
震えながらフクは視線をあげ———絶望した。
元が何であったのか考えたくない、地面に点々と倒れた布切れを纏った、肉片。
その真ん中に立つ、悪夢の姿。
「………っ………っ」
ゆっくりと下がろうと思ったが、手足が震えてままならない。
「ミツ……逃げぇ……」
フクにできたのは、震える自分の手から力を抜いて、動けない自分の背中から、弟を逃すことだけだ。
まだ化け物は他の人間を痛ぶり、
今ならまだ逃げられる。
しかし背中から滑り下りた弟はそのまま地面に座り込んでしまう。
腰が抜けてしまっていたのだ。
「……ね、ねーちゃん……」
生まれたての子鹿のようにブルブルと震えて、弟は立ち上がれない。
その姿を見て、フクは己を奮い立たせる。
震える手で、弟の両手を引いて、立ち上がらせようとする。
その手に縋って弟も何とか立ちあがろうとする。
「………………っっっ!!」
そんな中、フクを見ていた弟の視線が上がり、恐怖に顔が引き攣る。
見ないで済むなら見たくない。
しかしその視線の先を確認せずにはいられない。
「…………………あぁ………」
フクが振り向いて、目が合った瞬間、猿の口の端が大きく上がった。
剥き出しの歯が、赤黒く汚れている。
熊の顔はずっと何かを貪り続けている。
弑虐的な笑みを浮かべたまま、上半身の猿の手が、何かを振り回す。
それは白絹に金の糸で刺繍された美しい着物だった。
(…………結界師様…………)
血に汚れてしまっているが、その上等な着物が誰のものか瞬時にわかって、絶望が背中を駆け上がってくる。
命懸けの時間稼ぎは失敗に終わったのだ。
もう逃げられない。
「ひぃっっっ!!」
そしてフクは悲鳴を上げた。
結界師の死を理解したからではない。
振り回される着物に『中身』が入っていることに気がついてしまったのだ。
フクの股から生暖かい液体が溢れて、足を濡らす。
この化け物はわかってやっている。
人間たちが何を拠り所にしているか、絶望を植え付け、心をへし折るにはどうしたら良いか。
猿の顔が嫌らしい笑みを、見せつけるように浮かべる。
そして戦意喪失した子供を揶揄うように、見せつけるように、ゆっくりと熊の前足を振り上げる。
(死ぬ……死ぬ……)
ガクガクと揺れる足は、いつ力が抜けてもおかしくない。
棒立ちで動けないフクは、自分の心臓の音と、呼吸の音を聞きながら絶命の瞬間を待つことしかできない。
「……ね………ねーちゃ…………」
しかし斜め後ろから弟の小さな声が聞こえた途端、フクの体は反応した。
鋭い刃物のような爪が生えた熊の足が、弟に向かって振り下ろされる。
瞬間、フクは震える足に精一杯の力を込めて、弟を背中で吹っ飛ばすように、後へ跳ねた。
「ねーちゃっっっ!!」
弟の悲鳴と共に、カッと熱い物が体の右半分を通り過ぎた。
「ねぇちゃん、ねーちゃんぅぅぅ」
泣き声で弟の健在がわかる。
「……に………げ………」
逃げろと言いたいのに口が動かない。
体も動かない。
視界も狭い。
(ちくしょう……ちくしょう……)
弟の体温を背中に感じ、せめて自分の体で、彼だけは守ろうと足を動かすが、上手く動けない。
狭い視界の中、ニヤニヤと笑う猿の顔だけが目に映って、悔しさが募る。
こんな遊びのようにして刈り取られるのか。
フクにできることは、近づいてくるその顔を睨むことだけだ。
「ギャァァァァァァァァァ!!」
しかしそう思った瞬間、視界の中の猿のニヤけた目と口が、極限まで開かれた。
そして醜い猿の顔が、桜色の綺麗な着物で遮られる。
「偉いわ、お姉ちゃん。頑張ったわね。貴方のおかげで良い隙ができたわ」
この場に凡そ似つかわしくない、柔らかな声がフクに降り注いだ。
「………だ……れ………」
フクの質問は相手に届かなかったのか。
返事はない。
代わりのように、銃声が一発、二発と響く。
それに被さるように、猿の悲鳴と、熊の咆哮が上がる。
「あらやだ。死なないわ。二本角ね。もう一本は何処かしら」
声の主はフワリと呟いて、振り向く。
「ボク、君はお姉ちゃんを物陰に引きずっていってあげて?これからちょっと激しくやるからね」
振り向いて笑った顔は、こんな凄惨な場所にいるのが信じられ無いほど、柔らかな優しさに満ちていた。
緩く編まれた柔らかな黒髪が肩から流れ、ツンと目尻の上がった大きな黒い瞳は綺羅星のように輝き、髪の黒さを際立たせる白魚のような肌の上で、艶やかな桜色の唇が微笑む。
「ま………まもり、びと、さま?」
弟の問う声に、彼女は片目を閉じて応じる。
「そんなものよ。お姉ちゃんをよろしくね!」
その返事を最後に、フクの視界からは、女性も化け物も姿を消した。
「ほら、クソ畜生、よそ見する暇は無くてよっ!!」
代わりに遠くで銃声と、何かが壊れる音がする。
「み……つ……」
「ねーちゃん!死なないで!ねーちゃん!」
突如現れた女性の指示に従い、弟はフクを引き摺りながら涙を零す。
(……死んでない……生きてる……)
唐突に吹き荒れた死の旋風に巻き込まれたフクは、降り注ぐ弟の涙に呼応するように、熱い涙をこぼした。
いつも通りの明日が来なくなった日。
それはフクが生涯お仕えしようと決めた、この世で一番大切なお嬢様、
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