第55話

「雫、?」


海斗の声が、静かに響いた。


袖を掴んだままの私に、問いかけるような、でも責めるでもない声。


彼の声を聞いた瞬間、張り詰めていたものがふっと緩んだ。


ああ、やっぱりこの人は、怒らないんだ。

驚いてるはずなのに、優しさが先に出てくる。


でも、そんなことをしていい関係じゃない。


私は、彼にとってただの友達で、ただの手のかかる存在で。


それ以上を望むなんて。

望んではいけないと思ってきた。


だから、掴んだ自分の手が、信じられなかった。


どうしてこんなことをしてしまったのか。

どうして、彼に頼ってしまったのか。


恥ずかしくて、でも離せなくて。


「っ、ごめん、」


謝るしかなかった。

言い訳もできない。


ただ、海斗の袖を掴んだことが、自分の中であまりにも大きな意味を持ってしまっていて。


謝ることで、少しでもその重さを軽くしたかった。


でも、言葉にした瞬間、涙がにじみそうになった。


それだけ、自分が彼に甘えたかったんだと、気づいてしまったから。


「…しょうがねぇな」


その言葉が、静かに落ちてきた。

呆れたような、でもどこか優しい響き。


そう言って座り直した。


そのまま部屋を出ていくと思っていた。

でも、彼は戻ってきた。


何も言わず、自然な動作で、私のそばに座り直した。


「え、」


思わず声が漏れた。

信じられなかった。


彼が、私のそばにいてくれるなんて。


こんなふうに、甘えを許してくれるなんて。


「寝るまでそばにいてやるから」


その言葉が、胸の奥に静かに響いた。


優しさを隠すような言い方なのに、ちゃんと伝わってくる。


彼は、私の不安を見抜いている


そして、それを責めることなく、ただそばにいてくれる。


「いいの、?」


声が小さくなる。


こんなふうに誰かに甘えることが、まだどこかで怖かった。


我儘を言ったら、いつか見放されるんじゃないかって。


だから、自分の気持ちに蓋をして生きてきた。

生きてきたはずなのに。


「一人じゃ心細いんだろ」


その言葉に、胸がきゅっとなる。

図星だった。


一人が平気なふりをしてきたけど、本当はずっと誰かにいてほしかった。


でも、それを言うのが怖くて、

誰にも見せないようにしてきた。


「うん。ありがと、」


言葉にするのが、少しだけ照れくさかった。

でも、ちゃんと伝えたかった。


「お前が俺に甘えるなんて、初めてだな」


その言葉に、顔が熱くなる。


彼の声は少しだけ笑っていて、どこか嬉しそうだった。


「…熱のせい」


それが、精一杯の言い訳だった。


本当は、熱だけじゃない。


でも、それを認めるのは、まだ少し怖かった。


だから、熱のせいにしておいた。


彼がそれを笑ってくれるなら、それでいいと思った。

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