第9話 灰色を突き抜けて
〈フィルさん。コギトさんのこと、今日は私に任せてください〉
「任せるって、コギトさんはもう一人で生活できるのでは?」
〈とりあえず行けば分かります〉
再びベスタと共にコギトの家へと入り、部屋で待っていたコギトの向かいに座る。
コギトの様子はというと、昨日の元気さとは打って変わりどんよりとしていた。
「コギトさん、どうかされましたか?」
「昨日眠れなかったんだ」
「昨日、買い物の後は何をしていました?」
コギトはクマのできている目を瞑りながら、「ゲーム」とだけ呟く。
昨日までの、おれを嫌う態度もない。
「いくら続けても楽しくないんだ。昨日までと比べて、全然生きた心地がしないし。……ベスタ様、元に戻してよ」
《いいですよ》
いやいや、よくないだろ。
コギトに向けられた手のひらを、おれは体で遮る。
「ベスタ様、ちょっと待ってください。コギトさんはおれが警告したにも関わらず、ベスタ様に力まで使わせたんですよ? なのにやっぱりやめるなんて、そんな言い分を聞き入れてしまうんですか? とんだ甘やかしです」
《助けを求めているのですから、私たちはそれに応じなくてはなりません》
そう簡単に応じてしまうのはよくないと思うのだが、ベスタのやり方を強く否定する気にはなれない。
仕方なく、微笑むベスタから離れる。
振り向くとコギトがひと息吐き、昨日と同じ笑みを浮かべていた。
「ありがとう、ベスタ様」
こんなやり取りで、感謝の気持ちなんて本当はないのだろう。
おれもベスタも、きっとコギトの目には人として映っていない。
……自分の存在は特別だと、そう言いたげなギラつく目は、おれたちの心を永遠にすり減らしてくるヤスリみたく思えた。
どうせ見えている世界が違う。
おれがやったことって本当に、コギトの助けになったのか? なってない気がする。
《コギトさん。昨日のお買い物で声は聞こえてきましたか?》
「全く。人目は感じたけど気にならなかったよ。だからもう平気。でも買い物はめんどくさいし……ゴミ捨てくらいならやる」
《おお! ご両親も喜ばれていると思いますよ!》
ふむ、随分と褒めてる。
コギトはクフフッと嬉しそうに笑い、ベスタの顔を覗き込む。
「もっと喜ばせたいけどね。ワタシはムリだけはしたくないんだ」
《ムリですか?》
「うん。ムリすると、人は案外簡単に壊れてしまうからね」
ニヤリとした視線がこちらを向く。
おれがそうだとでも言いたげだが。
青水晶の部屋にいたイノシシ、ああいうのが壊れてる獣人だろう。
おれは壊れるところまで、自分を追い詰められてはいない。
《たしかにムリは良くないと聞きますが、自分はどこまでやれてどこからがムリか、そしてやれることをどう増やしていくのか。知って損はないと思いますよ?》
「そうかもね……」
《ええ。この探求は人生におけるちょっとした楽しみ方です! ムリと断じてしまうのはもったいありません!》
パァッと明るく語るベスタからは、ベスタ流のコギトに対する軽蔑を感じられる。
おれはコギトと同じだ。
その探求を辞めてから、おれには同じような日々が続いてた。
バイトを始めた頃は失敗しないようにと緊張し続けていたが、すぐに変わり映えのない平穏な日常へと変わっていた。
店員になることを拒み、いつまでもフロアだけをやって……何が相手と自分のためになる接客かは擦り合わせず、ただ自分本位で礼儀正しくあるよう働いて……。
《コギトさんは自立への一歩を踏み出したのですから、楽しめることがその分増えています! 色々なお店を訪ねてお買い物するのもいいでしょうし、歩いたことのない道をただお散歩するのも楽しいはずです!》
……ベスタの言葉にコギトは目を輝かせているが、少し引っ掛かる。
楽しめるものなんて人による。
ベスタはそうするのが楽しいかもしれないけど、コギトもそうとは限らない。
そもそも、楽しむことが人生のすべてじゃないはずだ。
今回コギトが外へ出たように、苦しいことでもやらなければ見えないものもあるし、それで楽しめることだけが増える訳でもない。
何をどう捉えるかで言えば、楽しもうとする気持ちはダイジだろう。
しかしそれだけで、人の何が救われるというのだろう……。
コギトの家を後にし、ベスタと共にホットサンドイッチを頬張る。
ベーコンとレタスに、ミートソースだろうか? 水々しいモノが入っていておいしい。
《フィルさん、あのコギトさんのところへ行くのは今回で終わりにします!》
「まだやり切った感じがしないのですが」
《あとはメイド長に任せましょう! さて、今日はこれからお出掛けしますか!》
「出掛けるって、次のお手伝いですか?」
《いえいえ。新しく神殿に所属された方の歓迎旅行です! と言っても都内ですが!》
そういうのあるのか。
ベスタの声、いつにも増して元気だ。
かなり楽しみにしていたのだろう。
でもおれは行きたくない、外出したくない。
「ちょっと気分が悪いので、今日は部屋で休んでます」
《フィルさん。神類に嘘は通用しませんよ? あなたは至って普段通りです、お出掛け可能な状態にあります》
くっ、強引すぎる。
ただ、ベスタの純粋そうな笑顔を見ていると、狼狽えてしまう自分がいるのも確かだ。
プライスの過去を知るためでもあるし……どうせすぐ済むだろう。
ここも我慢だ。
「嘘付いてすみませんでした」
《あ……ああっ。謝らせてしまいましたね、ムムッ。パルサさんは喜んでくれています! では、行き先はどこに致しましょう》
決めてないんだな。
まあどこだろうと、俺の気分は暗く沈んだままだ。
プライスの死はそんなに軽くない。
──すご……壮観だ。
暗い照明で照らされる巨大水槽は、青黒い光を放つ。
頭上では水槽の中というのに、ある魚は自由に優雅に泳ぎ回り、ある魚はまるで神の世界から見下ろすように、じっと休んでいた。
水中が作る楽園でも眺めてる気分だ。
《イヤなことがあった日はここに来て疲れを癒してます! フィルさん、どうですか?》
「いいですね、ここ」
立ち見上げるおれとベスタの前で、パルサは屈んで水槽を見上げる。
「アタシは楽しくないけどね。水槽なんかに入れられて可哀想。中の魚はできることならこのガラスを打ち割って、陸に出てでもアタシたちを噛み殺したいんじゃないかしら?」
《おお……そうだとしたら恐ろしいです》
そう言いながらもパルサは、水槽を眺めたままだ。
苦笑いしているベスタに気付いていない。
「パルサは素直じゃないんだな」
「アタシは正直な感想を言ったまでよ。ああ、可哀想に」
ベスタのいる方から、手に何か触れる。
おれはそれをゆっくり手に取った。
〈神類も獣人たちと同じ、ちっぽけな存在です。もし本物の神様がいるのだとしたら、きっとこうして、私たちとは関わらずに……気ままに過ごしているのでしょう〉
意味が分からず、何も答えられない。
ただ、水槽を見上げるパルサの瞳には、何かが鈍く輝いていた。
《それではそろそろ、ここで夕食を頂きましょうか! 二階では魚料理を頂けるんですよ!》
「ベスタ様さあ……アタシの話聞いてた? マジに報復されちゃうかもよ」
《ひぇー》
まるで言い慣れていない悲鳴に、つい笑ってしまった。
ベスタ、それにパルサも笑い出す。
水族館内を一巡し終え、白い布が掛けてあるシャレた丸いテーブルを三人で囲む。
お冷が人数分置かれ、ベスタがササっと注文を終える。
《ふう、楽しかったです。フィルさんも楽しめましたか?》
「ええ。初めて水族館に来ましたが、いい雰囲気ですね。薄暗くて落ち着きます」
《ですよね! フィルさんが好みそうな狭い場所のある遊園地もいいかなと悩みましたけど、自分の行きたい場所を選んで良かったです!》
隣でベスタが微笑む。
狭い場所のある遊園地か……お化け屋敷は苦手だけど、他にどこがあったか。
不意に、パルサの口が動いたような気がして前を見る。
「フィル。こないだワースさんと一緒にいるの見たんだけど、仲良いの?」
「どうだろ。そもそもベスタ様とワース以外とは話さないし」
「ふうん。ワースさんって寡黙なのに、フィルとは話すんだ」
パルサからジトっとした目を向けられる。
ワースさん、ねえ。
パルサの質問といい、コレはアレか。
「パルサはワースみたいなのが好みか」
「は? そ、そういうんじゃないし。バトラーとしての立ち振る舞いはああだけど、普段はどうなんだろって思っただけ」
「恥ずかしがらなくていいよ。男のおれから見てもワースはカッコいい」
サムズアップして見せると、パルサはどんどん顔を赤らめて、こちらに向けた目を下へ逸らすと「違うし」と呟く。
こりゃ本気らしい。
《フィルさん、私はフィルさんにとってカッコいいですか?》
「ええ。カリスマ性ありますよ」
《ヨシ! フィルさんから認めて頂けました!》
ベスタも頬を赤くしていった。
おれからどう思われてるのか、気になっていたのだろうか? ベスタはワースと違う天然質な気品があるし、その辺で言うとお姫様なのだが……そんな風には言いづらい。
「フィルもベスタ様もなんか堅苦しい。お互いに敬語やめてみたら?」
パルサが頬を薄赤くしたまま、こちらへ冷ややかな目線を送っている。
ベスタは手で顔を覆い隠した。
《まだ早いですよ! ね、フィルさん?》
「おれはベスタ様を敬いたいので、敬語やめませんけど。ベスタ様がおれへの敬語を辞める分なら構いませんよ」
《そうですかぁ……検討してみます》
ちょっとしょげた声だ。
今のままでいいと思うのだが、ベスタはそうでもないらしい。
「それよりパルサ。ベスタ様にはワースのこと聞かなくていいのか?」
「いい。ベスタ様に聞くのはなんか、違う気がする」
「そうか」
……パルサの目から飛ぶ火花に、ベスタは気付かずコップの水を飲んでいた。
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