アイドル(仮)

赤崎幸

短編 アイドル(仮)

 彼女は栗毛色の長い髪をした瞳の大きい美しい少女だった。


 僕は港町の生まれだ。観光業が盛んなこの町は四季を通じて多くの旅行者が訪れる。一方で地元の人々にとってそれほど娯楽は多くない。昔はいくつか映画館があったが、人口減少にともない段々と減っていき、今では街の中心部にシネコンがひとつあるだけになってしまった。シャッター街も多く、かつては活気にあふれていた商店街もひっそりとしてしまっている。

 自然が多いというわけでもない。確かに海と山は近いが、とにかく平地が少なく、あらゆる観光地と生活拠点がひしめき合っている。山は観光にするには向いておらず、野生の動物の住処となっている。だから人が集まるところは限られており、街を歩けば観光地としての顔と生活の顔が交錯する。見た目の印象より窮屈に感じる人も少なくない。

 ただ、海辺には広く開放的な公園があり、旅行者と地元住民の憩いの場となっている。たまに世界一周旅行のための客船が停泊していたり、漁船や島との連絡船が停泊している光景をよく目にする。対岸には船の補修をするためのドックもあり、よく分からないが強そうな船が入渠していることもしばしばある。公園には広々とした芝生が広がり、四季に合わせた花が咲き誇っている。春には桜の木が美しい花を咲かせ、秋にはコスモスや彼岸花が訪れる人々の目を楽しませる。夏には大輪の花火が夜空を彩り、冬はクリスマスリースやイルミネーションで公園を飾っている。

 僕はそんな町で育った。両親は一般的な家庭を築いており、父はサラリーマンとして日々忙しく働いている。朝は早く家を出て、夜は遅く帰ってくることもよくあった。母は専業主婦で家族の面倒を見ながら家庭を守っていた。そのかたわらパートとして働きに出ることもあった。今だからこそ、家族のために働く両親の姿に尊敬の念を抱いている。

 僕の家は街の外れにあり、通学している中学校まではバスで30分くらいの距離にある。余談だが、バスの運転手さんの名前はネームプレートで分かる。運転手さんによってバス停間の移動時間も異なる。だから遅刻ギリギリの時間のバスに乗った時、今日はこの人だったか…間に合わないな…なんて思う日もある。

 僕の中学校は、ちょうど建て替えの時期で新しい校舎が立っていた。なんでも大規模な工事だったらしく、校舎自体に過去の面影はない。内装も新しく近代的な見た目をしていた。しかし、正門や一部の施設は歴史を感じさせるものがあり、現在と過去が共存していた。教室の窓からは海が見え、風通しもよく、窓を開けるとゆらゆらとカーテンが揺れ、その光景をぼんやりと眺めることもあった。夕陽が沈むと教室は茜色に染まり、壁に暖かい光が差し込む。

 僕の生活は、他の多くの中学生と同じように、単調で平凡なものだった。毎朝7時に目覚まし時計のベルで起き、眠い目をこすりながら布団から這い出す。ギリギリまで寝ていることもよくあった。母が作るふわふわの目玉焼きと、だしの効いた温かい味噌汁。それを一口、口にすると、一日の始まりを感じる。父は早朝に出勤するため、朝食を共にすることは滅多にない。朝食を終えると急いで制服に着替え家を出る。

 学校に着くと、まずは自分の席に向かう。僕の席は教室の後ろあたりで、窓からは遠くに海が見える。授業が始まると、先生の話を聞きながらノートを取るが、時折窓の外に目を向けては、青い海と広がる空に思いを馳せることもある。授業は淡々と進み、特に得意な科目も苦手な科目もなく、平均的な成績を保っていた。

 昼休みになると、僕は図書室へ向かうことが多かった。友達は少なく、クラスメイトが委員会や欠席しているときは、一人で本を読むか机に突っ伏して寝ていることが多かった。図書室の窓から見える風景は、静かな海とその向こうに広がる空。そこで過ごす時間は、僕にとって心の安らぎを感じるひとときだった。

 たまに音楽室に行くこともあった。僕は当時ピアノを習っており、性に合っていたので学校でも時間を見つけて弾いていたりもしていた。音楽の先生からも許可をもらっていて、ほとんど顔パスで音楽室前に置いてあるグランドピアノを使わせてもらっていた。

 図書室には、親しみやすい司書さんがいた。図書室というのは何となくどこか教室に居場所がなく、くつろげる場所を求めて訪れる生徒も少なくなかった。そこでコミュニティができてもいた。本を読む生徒、ぼーっと外を眺める生徒、図書検索用のパソコンに内緒で入れたゲームで遊ぶ生徒、トランプで遊ぶ生徒。過ごし方は自由だったし、先生たちもそれを黙認していた。いわばこの学校における治外法権が適用されていた。

 放課後も図書室か音楽室で過ごすことが多かった。学校が終わると、教室を出てそのまま図書室に向かう。時には宿題を片付けたり、読書に没頭したりすることもあった。本を読んだり宿題をすることに飽きたら音楽室に行くような習慣があった。家に帰るのは夕方というより夜に差し掛かった頃合いだった。その頃には父親も仕事から戻ってきていた。家族で夕食を囲みながら、その日の出来事や学校の話をする時間が、僕にとっての貴重な家族の時間だった。

 夕食後は自室で過ごすことが多い。宿題をしたり、本を読んだり、ヘッドホンをつけて電子ピアノを弾いたりしていた。僕の部屋は、ベッドと机、壁一面の本棚とピアノで若干窮屈ではあったが、好きなもので満たされている自室にどこか安心感を覚えていた。

 僕が彼女と初めて出会ったのは、中学二年生の秋のことだった。学校の授業が終わり、いつものように図書室へと足を運んだ。図書室は放課後の静寂が漂い、窓から差し込む夕陽が柔らかな光を投げかけていた。その時はあまり人がいなかったような気もする。僕はお気に入りの席に座り、本を開いてその静かな空間に没頭していた。図書室の司書さんとはすっかり顔馴染みになっていて、僕が来ると新しい本やおすすめの本を紹介してくれる。お気に入りのゲームの話で盛り上がったり、図書室のお仕事を任せてくれたりもしていた。そんな日常の一部となった時間を過ごしていると、ふいに横から明るい声が聞こえてきた。

 「ねぇ、この本って面白いの?」その声に振り向くと、栗毛色の髪を長いポニーテールにまとめた少女が立っていた。彼女は僕と同じ学校の生徒で、同じ学年だったが、それまで話したことは一度もなかった。彼女は明るい笑顔を浮かべ、一緒に来ていた友達と楽しそうに話をしていた。

 その友達が図書室の常連で、彼女を連れてきたのだろう。司書さんが彼女を紹介し、そして僕にも声をかけてくれた。「こちらはこの図書室の常連さんよ。いつも本をたくさん読んでいるの。」

 彼女は僕に向かってにこやかに手を振り、「はじめまして!」と言った。僕は少し戸惑いながらも手を振り返し、「はじめまして」と返した。

 彼女はすぐに僕の隣に座り、「何を読んでるの?」と興味津々に尋ねてきた。僕は読んでいた本を見せながら、「これ、最近借りたんだ。面白そうだから読んでみたんだ」と答えた。彼女の目が輝き、「私もそのシリーズ読んだことあるよ!」と興奮気味に話した。「それにしても、君って見かけによらずロマンチストなんだね」とイタズラっぽい笑顔を浮かべて、僕に向かって見つめてきた。「そんなことないよ」と返すも、本心を見抜けれているようで少し恥ずかしかった。

 それからというもの、彼女との会話は自然と増えていった。彼女は本に対する好奇心が旺盛で、僕が読んでいる本に興味を示すことが多かった。「この本、どんな話なの?」と彼女が尋ねるたびに、僕は本の内容を簡単に説明した。彼女はそのたびに、「それ面白そう!」と目を輝かせ、次に読む本の候補に加えていた。

 彼女は活発で人懐っこい性格だった。時には僕をからかうような軽口を叩くこともあった。「ねぇ、今日は一人で本読んでるの?」と尋ねる彼女に、「友達がみんな忙しくてね」と答えると、彼女は笑いながら「ふーん、私が一緒にいてあげる」と言って、僕の隣に座り込んだ。一緒に本を読むはずが、ついつい話に花が咲いて、1Pも読まないなんてこともよくあった。

 ある日、図書室でいつものように本を読んでいると、彼女がピアノについて話し始めた。「実は私、ピアノを弾くのが趣味なんだ。君もピアノを弾くんだってね。」彼女が僕の趣味について知っていることに驚きつつも、「そうだよ。ピアノが好きで、小さい頃から習っているんだ」と答えた。「音楽室から時々音が漏れてくるけど、それってもしかして君?」音が漏れていることは初めて知った。恐らく、いやほぼ僕のことだろう。「たぶんそうだよ」そう答えた。「へぇそうなんだ」彼女は嬉しそうに微笑み、「いつか一緒に弾けたらいいな」と言った。

 彼女との会話は本だけでなく、ピアノや学校のこと、日常の些細なことにまで広がった。彼女との交流は僕にとって新鮮で、楽しいものだった。彼女の明るい性格と笑顔に、僕は次第に心を開いていった。

 友達が委員会や欠席している時や、図書室や音楽室に行く気分じゃない時は、教室で本を読むか机に突っ伏して寝ていることが多かった。そんな時、彼女は時折姿を見せ、僕を叩き起こし暇つぶしの相手をするようにせがんだ。それを見たクラスメイトはヒソヒソと小声で僕らをからかった。彼女はその度に否定をしていた。思春期特有の痛い言動だと思うが、僕はそういう時、やれやれ面倒なことになったなと遠い目をしていた。

 彼女との交流は、学校の外でも続いた。放課後、僕たちは図書室で本を読みながら過ごすことが多かったが、時には公園に行ってピアノの話をすることもあった。古本屋で掘り出し物を見つけることも。


「今日は暇だから、何か弾いてみない?」ある日、彼女が僕にそう言ってきた。僕は少し戸惑いながらも、「いいよ」と答えた。音楽室に行き重たい扉を開けて中に入った。独特な静けさの中、教室の前のグランドピアノに向かった。「いつもは何を弾いてるの?」そう彼女は問いかけた。「適当に。課題とか教則本とか」「んーそっか。」彼女はそういうと黙ってしまった。何か考え込んでいるようだった。「言いだしたのは私だし、私から弾くね」そういうと彼女は鍵盤に指を乗せた。

 彼女が選んだ曲はドビュッシーの「亜麻色の髪の乙女」だった。彼女の指が鍵盤に触れた瞬間、音楽室全体の空気が一変した。最初の一音が響いたとき、その澄んだ音色が静寂を破り、部屋全体が彼女の音楽に包まれた。二音目が響いてからは目の前に情景が広がっていった。そのメロディは柔らかく、美しく、時に無邪気に。彼女の演奏に僕は心を奪われ、ただその音楽に身を委ねた。

 「亜麻色の髪の乙女」は短い曲だったが、その一瞬一瞬が僕にとって特別なものだった。彼女の指先が軽やかに鍵盤を舞い、音の粒が次々と紡がれていく様子はまるで魔法のようだった。音楽はまるで柔らかな風が頬を撫でるように優しく、心地よく、そしてどこか切なさを含んでいた。少女が無邪気に草原を駆け回っているように感じ、それは彼女自身なのだと思った。その旋律はまるで本当は無い、遠い昔の記憶を呼び覚ますように、僕の心の奥底に響いた。そしてあまりにも彼女に似合いすぎていた。

 彼女の弾く音は繊細で、まるでガラス細工のように壊れやすく、しかしその中に確かな強さを秘めていた。音と音の間に漂う静寂すらも、彼女の演奏の一部として感じられた。そして、心の底から楽しそうにピアノを弾いている。彼女の演奏は時間を超越し、僕はその音楽の中に完全に没入していた。心の中で次第に広がる感動と共に、僕はただその場に立ち尽くしていた。

 演奏が終わると、部屋には再び静寂が戻ってきた。しかし、その静寂は以前とは違っていた。彼女の演奏が残した余韻が、まだ部屋中に漂っていた。僕はしばらく言葉を失い、その美しい音楽の記憶に浸っていた。

 彼女がこちらを見て、「どうだった?」と尋ねると、僕はようやく口を開き、「すごく素敵だったよ。本当にありがとう」と答えた。声はかすかに震えていた。彼女の演奏は僕の心に深く刻まれ、その瞬間の感動は一生忘れることがないだろうと感じた。

 次は僕が弾く番だった。あの演奏の後に弾くのは気が引けたが、弾かないわけにはいかない。僕は少し緊張しながらも、彼女に感謝の気持ちを込めて、「月光」を選んだ。彼女が微笑みながら見守る中、僕は鍵盤に触れ、音楽を奏でた。演奏が終わると、彼女は拍手をしてくれ、「本当に素晴らしかったよ。ありがとう」と言ってくれた。そんなことはないと思った。僕は彼女のように楽しくは弾けないし、情景を表現するなんてできない。

 その日以来、彼女とピアノを弾き合うことが僕たちの特別な時間となった。お互いに好きな曲を弾き合い、その音楽を通じて心を通わせることができた。彼女の弾く「亜麻色の髪の乙女」は、いつも僕の心に深く響いた。そのメロディは、彼女の優しさと無邪気さを表しているように感じられた。自分が弾く曲を知られるというのは恥ずかしさもあったが、僕のことや彼女のことを理解できているようで嬉しかった。

 彼女との日々が続く中で、僕たちの関係はますます深まっていった。彼女との時間が僕の日常に彩りを加え、彼女の存在が特別なものになっていった。しかし、その時はまだ、彼女に対する特別な感情が恋心であるとは分からなかった。

 「連弾しようよ」ある日、彼女が突然僕に言った。「いいけど、連弾は僕は何も知らないよ」僕はそう答えた。「大丈夫私も知らないから」何も大丈夫ではないと思った。「簡単な曲でいいからさ」そう彼女が言うと、音楽室の本棚に並べられている楽譜を手に取りパラパラとページをめくっていた。あぁでもない、こうでもないと一人考えていたが、ぴたりと手が止まった。「いいこと考えた」彼女がこういう時、それは大抵「いいこと」ではないことが今までの経験で分かっている。

 「トロイメライ、弾けるでしょ?」その曲は僕は確かに弾くことができる。でも連弾曲ではないはずだ。「弾けるけど、連弾にならないよ?」そう答えると彼女はやはりイタズラっぽく笑いこう答えた。「右手のパートと左手のパートを分けて弾くの」どういうことなのか分からなかった。僕が戸惑っていると彼女は僕の腕を引っ張り、彼女の左に座らせた。「いい?これ楽譜ね。ここ右手で弾くとこ。ここ左手で弾くとこ。君はこっちを弾いて、私はこっちを弾くの」なるほど。彼女が何をしたいのか

が分かった。でもこれはなんというか。音楽的に正しいことなんだろうか。

 「楽しければなんでもいいじゃない。『連なって弾く』連弾よ」彼女は得意げに答えた。なんだか無茶苦茶な気がするが、彼女の得意げな顔には妙な説得力があった。彼女の言うところの連弾を始めた。僕たちの演奏は初めのうちはまばらで、不揃いな音が続いていた。しかし、次第に僕たちの間に一体感が生まれ始めた。弾くことに意識を向けていたのが、だんだんと相手のペースに合わせることへ意識を向けられるようになってきた。

 彼女の指の動きを目で追いながら、彼女の呼吸に耳を傾ける。彼女も同じように、僕のリズムを感じ取りながら鍵盤を叩いていた。歩調を合わせ、相手の息遣いを意識しながら弾くことで、僕たちの音楽は一つの流れとなって部屋に広がった。その瞬間、僕たちの演奏はまるで一つの心を持つかのように調和し始めた。もう楽譜はいらない。目を瞑っていても大丈夫。何度かの演奏のあと、僕らは自然と手をとめた。「ね?楽しかったでしょう?」彼女は優しい笑顔を僕に向けた。「楽しかったよ」そう僕は答えた。「君にしては素直な感想だね」

 ピアノから離れて座り、僕たちはしばらくの間、静かな時間を共有した。僕たちの会話は自然と次第に途切れ、ただ一緒に過ごす静かな時間が心地よかった。

 「公園に行かない?」彼女は突然言った。僕は驚きながらも、「いいよ」と答えた。公園へはバスで向かった。公園に着くと、彼女はベンチに座り、僕に隣に座るように促した。「ここ、いい景色だよね」と彼女が言うと、僕も景色に目を向けた。公園から見える海と空が広がり、その美しさに心が癒された。

 「実はね、この公園が大好きなんだ」と彼女が言った。「ここに来ると、なんだか落ち着くんだよね。」僕は彼女の言葉に頷き、「そうだね。ここは本当に綺麗だ」と答えた。彼女は微笑みながら、「だから、ここで弾いた曲のことを思い出すと、いつも心が穏やかになるの」と言った。

 僕たちはベンチに座りながら、その日弾いた「トロイメライ」のことを話し始めた。彼女の演奏がどれだけ美しかったか、どれだけ心に響いたかを伝えると、彼女は少し照れくさそうに笑った。「ありがとう。でも、本当に君と一緒に弾くのが楽しかったんだよ」と彼女は言った。

 そんな日々が続く中で、僕たちの関係は深まりながらも、どこか曖昧なままだった。彼女への感情が募るにつれ、僕は彼女に対してどう接すればいいのか悩むようになった。しかし、それでも彼女との時間は特別で、彼女の存在が僕の日常に欠かせないものになっていた。

 彼女との出会いとその後の交流は、僕にとって大きな意味を持っていた。彼女との時間が僕の日常に彩りを与え、彼女の存在が僕の心を豊かにしてくれた。しかし、その一方で、彼女に対する感情をどう扱えばいいのか悩む日々が続いた。彼女の存在が、僕にとって一種の壁となって立ちはだかり、僕たちの関係を曖昧なままにしていた。

 それでも、彼女との時間は僕にとってかけがえのないものであり、彼女とのピアノの時間や会話が、僕の日常を特別なものにしてくれた。彼女への感情が募るにつれ、僕は彼女に対する気持ちをどう表現すればいいのか悩み続けたが、彼女との時間を大切にしようと心に決めていた。


 そして三年生の夏、僕たちは同じ塾に通うことになった。受験を控えた僕たちは、勉強に追われる日々を送っていた。そんななか、両親からの勧めもあり塾に通うことになった。地元の大手の塾ではなく、どちらかといえばこじんまりとした中規模の塾だった。そこで思いがけず彼女と一緒になった。まさか塾まで一緒になるとは思っていなかった僕は驚きを隠せなかったが、同時に違う場所で同じ時間を過ごせることに、期待もしていた。

 塾での時間がまた新たな交流の場となった。夏の暑さを避けるため、冷房の効いた塾は生徒たちの避難所となっていた。僕たちもその一部として、毎日のように塾に通っていた。

 塾の授業が終わると、僕たちは自習室で一緒に勉強することが多かった。自習室は白い蛍光灯の明かりが眩しく、机の並びは整然としていた。あまり自習室を使う生徒は多くなく、窓の外には街の喧騒が遠くに聞こえるだけで、中は静寂に包まれていた。

 その日も一人、誰もいない自習室で僕は問題集に向かっている。周りから見れば勤勉に見えるかもしれない。でも僕は勉強がしたくて自習室にいるわけではない。彼女が来るのを待っているのだ。

 僕が通っている塾ではクラス制になっている。僕の授業がある日は毎週火曜日、水曜日、金曜日だ。一方彼女の授業がある日は毎週火曜日、木曜日、土曜日だ。僕と彼女の授業日が重なる日は火曜日。いつからか火曜日の放課後は自習室で自習するというのが、僕と彼女の暗黙の了解になっていた。どちらかが言い出したわけでもなく、何かきっかけがあったわけでもない。ただごく自然とそういう決まりになった。もちろん、この決まりになんの強制力もない。でも毎週決まったように火曜日だけは僕と彼女は自習室で自習する。自分でも何だか馬鹿だなと思いつつ律儀に守っている。

そんなことをぼんやりと考えていると、ドアが開く音が聞こえてきた。

「やぁ」と言うと彼女は入ってきた。「やぁ」と僕は返事をする。なんてことはない。いつものやりとりだ。彼女はやっぱり今週も自習室に現れた。「君も相変わらず真面目だねぇ」と彼女は軽口を言う。「そういう君だって」と返事をする。これもいつも通りなんてことはない。挨拶みたいなものだ。

 いつもの挨拶を交わすと彼女は席に着くと自分の問題集を机に広げ始めた。そこからはお互いの宿題やら予習やらを始める。たまに短い雑談が挟まること以外には特に会話もない。それでも僕はこの時間が何よりも楽しみになっていた。何故なのかよく分からない。ただ心地よいのだ。

 「そういえば前の模試の順位表張り出されていたよ」と彼女は言う。「あぁ見たよ」と僕は答える。「ふふん今回も私の勝ちね」得意げな表情で彼女は言った。「だから見たから知ってるって」

 彼女は僕よりも頭がいい。かといって僕もそこまで成績が悪いわけでもない。だから本当は自習室にこもって夜遅くまで勉強する必要はない。彼女に会うのが目的なんだろうか。いや、そもそも同じ学校に通っているんだから毎日学校で顔を合わせる。

 その後も短い雑談をはさみながら自習していると、塾の先生が下校の時間を知らせに自習室に入ってきた。毎週のことながらこの瞬間だけはなぜかちょっと寂しい気持ちになる。「それじゃまた明日学校で」そういって僕たちはいつものように別れた。あぁいつまでも毎週この時間が続けばいいのにと僕は思った。

 ある日、いつも通り何も変わらない日のこと。その日は特に静かで、塾の他の生徒たちは早めに帰宅していた。夕方の光が窓から差し込み、部屋の一角をオレンジ色に染めていた。僕たちは向かい合って座り、静かな時間が流れる中で、彼女が突然口を開いた。

 「ねぇ、ちょっと休憩しない?」彼女の声は、どこか少し緊張したように震えていた。僕は驚きながらも、「うん、いいよ」と答えた。彼女はペンを置き、背もたれにもたれかかって深呼吸した。

 「最近、ずっと勉強ばかりで疲れちゃったね」と彼女が言うと、僕は頷きながら「そうだね。でも、成績が上がっていっているから頑張れるよ」と返した。彼女は微笑んで、「ふーん。そっか」と言った。

 しばらくの間、僕たちは無言で過ごした。自習室の静けさが心地いい。彼女の視線が何かを探るように僕に向けられているのを感じたが、僕はその理由を尋ねることなく、ただその瞬間を楽しんでいた。

 「ねぇ、君に話したいことがあるんだ」と彼女が突然言った。僕は驚きながらも、「うん、何?」と尋ねた。彼女の目が真剣で、その視線に僕は引き込まれるように感じた。

 「そのなんていうか…」彼女は一瞬ためらった後、小さな声で続けた。「付き合ってあげようか?」

 その言葉に、僕は心臓が止まるかと思うほど驚いた。彼女の告白に、どう答えていいのかわからなかった。心の中で渦巻く感情をうまく表現することができず、ただ彼女を見つめることしかできなかった。

 重たい沈黙が続いた。どれくらいたったのか。あるいは一瞬なのかもしれない。時計の音がやけに大きく感じる。1秒1秒の間隔が長い。

 彼女の言葉に、僕は胸が締め付けられるような思いを感じた。彼女の気持ちが真剣であることは伝わってきたが、この時は情緒が未発達な段階で、誰かと付き合うことに対する恐れと戸惑いが僕の心を支配していた。付き合う。この言葉はこの時の僕にとっては重大なことのように思えた。普段考えたこともない。付き合うとどうなるのか。彼女との時間は失われるのか。見当はずれな考えばかりが脳裏をよぎった。彼女の感情や心といった深いところに触れるのも怖かった。

 重い沈黙を破ったのは彼女の言葉だった。「なんてね。冗談だよ」その言葉に、僕はほっとしたような気持ちになった。「なんだ冗談か」彼女の優しさと理解に感謝しながら、僕たちは再び静かな時間を共有した。


 そして、この瞬間、永久に機会を失ったことに気がついていなかった。


 「ねぇ、公園に行かない?」彼女が突然提案した。僕は驚きながらも、「いいよ」と答えた。彼女の提案に救われた気持ちで、僕たちは塾を後にした。

 公園に行くと、彼女はベンチに座り、僕に隣に座るように促した。「ここ、いい景色だよね」と彼女が言うと、僕も景色に目を向けた。公園から見える海と空が広がり、その美しさに心が癒された。

 夜の銀色の月明かりが海に反射し、海面にポツンと穴が空いているようだった。彼女の言葉が耳に残り、心の中で何度も繰り返された。彼女の気持ちにどう応えればいいのか、まだ答えは見つかっていなかったが、その瞬間、彼女と一緒にいることの喜びを感じていた。そんな場合ではなかったのだが。

 「ここでよく考え事をするんだ」と彼女が言った。「この景色を見ていると、心が落ち着くの。夜にくることはそんなにないけど」

 僕は頷きながら、「確かに、ここは本当に綺麗だね」と答えた。彼女と一緒に過ごす時間が僕にとって特別なものであることを改めて実感しながら、僕は彼女と並んで座り、ただその瞬間を楽しんでいた。

 僕たちの関係は、彼女からの告白を受けて以来、微妙に変わっていった。彼女の笑顔や声、何気ない仕草が以前よりも強く心に響くようになり、彼女との時間が一層特別なものに感じられた。しかし、そんな日々は長く続かなかった。

 秋が深まる頃、僕たちの間には次第に微妙な距離が生まれ始めた。彼女と一緒に過ごす時間は依然として楽しかったが、どこかぎこちなさを感じるようになった。ピアノを弾いていても、以前のような一体感が失われ、何かが違うという違和感が心に広がった。彼女の指が鍵盤を滑る音が、まるで遠くから聞こえるように感じられ、僕の心はどこか別の場所にあるかのようだった。彼女も同じように感じていたのかもしれない。彼女の表情には、どこか寂しさが漂っていた。

 そんな中、僕たちは別々の高校に進学することになった。彼女は地元の進学校に進み、僕は少し離れた私立の高校に進むことになった。それぞれの学校生活が始まり、僕たちはそれぞれの新しい環境に適応していったが、心の距離は次第に広がっていった。

 高校進学後も、彼女とは時々連絡を取り合っていた。学校が違うことで会う機会は減ったが、それでもお互いの近況を報告し合うことで、少しでもつながりを保とうとしていた。彼女の学校生活や部活の話を聞くたびに、僕は彼女がどんどん遠くに行ってしまうような気がした。それでも、彼女との連絡が僕にとっての支えであり、心の拠り所だった。

 ある日、彼女から「模試でいい成績が取れたよ!」というメッセージが届いた。僕は彼女の努力を知っていたから、その成果に心から喜んだ。「すごいね、おめでとう!」と返信すると、彼女から「ありがとう!君も頑張ってね!」という返事が来た。僕たちのやり取りは、互いに励まし合うものだったが、その一方で僕は彼女との距離が広がっていくのを感じていた。

 高校三年生になると、受験勉強が本格化し、僕たちの連絡も次第に途絶えがちになった。それでも、時折彼女から「最近どう?」というメッセージが届くと、僕はその度に心が温かくなるのを感じた。彼女の存在が僕の中で大きくなる一方で、僕たちの関係はますます希薄になっていった。

 高校を卒業した後、僕は東京の大学に進学することになった。上京して新しい生活が始まる中で、彼女との連絡はさらに疎遠になった。大学の勉強や新しい友人との付き合いに追われる日々が続き、彼女のことを思い出すことも少なくなっていった。しかし、心の奥底では彼女への思いが消えることはなかった。

 大学二年生の冬、僕はついに彼女に告白する決意をした。中学の頃から心の奥底に秘めていた感情を、彼女に伝えなければならないという思いが強くなっていった。中学時代の彼女への思いを自覚するのが遅かったことを後悔し続けていた僕は、今度こそその気持ちを伝えたかった。

 彼女に連絡を取り、久しぶりに会うことになった。彼女も東京の大学に進学しており、久しぶりの再会はお互いにとって特別なものだった。彼女は少し大人びた印象を受けたが、その笑顔は変わらず、僕の心を温かくしてくれた。

 カフェで話をしていると、僕たちは自然と中学時代の話題に戻った。彼女との思い出が次々と蘇り、僕の心は懐かしさで満たされた。しかし、その懐かしさと同時に、僕の心の中には不安と緊張が広がっていた。

 「実は、君に伝えたいことがあるんだ」と僕は言った。彼女は驚いたような、何かに気がついたような表情を浮かべ、「何?」と尋ねた。僕は深呼吸をしてから続けた。「中学の頃から、ずっと君のことが好きだったんだ。でも、その気持ちをどう伝えればいいのか分からなかったんだ。」

 彼女はしばらく沈黙した後、少し悲しそうな笑顔を浮かべた。「ありがとう。でも、今はもうそういう気持ちには応えられないの。ごめんね。」その言葉に、僕の心は砕け散るような思いを感じた。彼女が言葉を選びながらも、僕を傷つけないようにしているのが伝わってきた。

 「分かってるよ。ありがとう」と僕は答えた。彼女は優しく微笑んで、「こちらこそ、ありがとう」と言った。その瞬間、僕は彼女への気持ちを完全に断ち切ることができないことを悟った。

 それ以来、僕たちの連絡は途絶えがちになり、ついには音信不通となった。振られたことをきっかけに、僕は彼女との関係を断ち切ることができなかったが、それでも彼女の存在が僕の心から消えることはなかった。

 彼女との思い出が次第に遠い過去のものとなり、彼女の存在が僕の心の中で薄れていった。しかし、心の奥底では彼女への思いが消えることはなかった。大学を卒業し、社会人としての生活が始まったが、彼女のことを忘れることはできなかった。

 彼女との思い出は、まるで信仰のように僕の心に残り続けた。彼女の姿は次第に思い出の中で美化され、実際の彼女の姿よりも理想化されたものになっていった。彼女の笑顔や声、仕草が、僕の心の中で神聖なものとなり、彼女の存在を信仰するかのような気持ちで毎日を過ごしていた。

 彼女との思い出は、僕の心の中で永遠に輝き続ける宝物だった。しかし、その宝物が現実とは異なる偶像であると気が付くのに時間はかからなかった。彼女の存在は、僕の心の中で神聖なものとして美化され、実際の彼女とはかけ離れたものとなっていた。本当の彼女の声を忘れ、輪郭を忘れ、表情すら失われてしまった。何に怒り、何に喜ぶのかさえ思い出せない。

 それでも、僕は彼女への思いを捨てることができなかった。彼女との思い出が、僕にとっての支えであり、心の拠り所だったからだ。彼女の笑顔や声、仕草が、僕の心の中で永遠に生き続ける限り、彼女への思いは消えることはなかった。いっそ何もかも捨ててしまえば楽になるのにと考えることもあった。しかし、幼い私が縋りついてそれだけは忘れたくないと手を離さない。

 それから数年が経ち、僕は社会人としての生活に慣れてきた。しかし、依然として彼女のことを忘れることはできなかった。「君のことを思い続けることで、僕は救われているんだ」と、僕は心の中でつぶやいた。彼女への思いが、僕にとっての支えであり、心の拠り所だったからだ。彼女との思い出が、僕の心の中で永遠に輝き続ける限り、彼女への思いは消えることはなかった。

 彼女との思い出が、僕にとっての信仰となり、彼女の存在が僕の心の中で神聖なものとして輝き続ける限り、僕は彼女を思い続けることをやめることはできなかった。それが、僕にとっての真実だった。


 ここまでが僕が自分のために書いてHDDの奥底に眠らせておいた文章だった。誰にも見せることなく、何かの拍子にゴミ箱に入って削除されるようなものだった。この続きを書こうと思ったのは思いがけず彼女から連絡があったからだった。


 ある日、彼女からの連絡が突然届いた。何年も音信不通だった彼女からのメッセージが、まるで時間を巻き戻すように僕の心に彼女との思い出を鮮明に蘇らせた。「久しぶり。元気にしてる?」と短いメッセージが表示された瞬間、僕の心は激しく揺れた。彼女の名前を見るだけで胸が高鳴り、手が震えた。彼女との再会を願っていた自分に気づくと同時に、彼女が結婚するという現実に直面することになった。

 彼女が結婚するという知らせは、僕にとって大きな衝撃だった。彼女が新しい生活を始めることに喜びを感じながらも、心の中では複雑な感情が渦巻いていた。彼女が幸せになることを心から願いながらも、その知らせは僕の胸に痛みをもたらした。しかし、彼女との再会が自分にとって何か大切なものを見つけるきっかけになるのではないかと思い、彼女の提案を受け入れることにした。

 約束の日、僕は早めに公園に着いた。夕暮れに染まる海を見ながらベンチに座って彼女を待っていると、少しずつ昔の思い出がよみがえってきた。あの頃、僕たちは何も考えずにただ一緒にいることが楽しかった。彼女の笑顔や声が、僕の心に鮮明に蘇ってきた。公園の風景は変わっていなかったが、僕たちの関係は大きく変わってしまった。


「よっ元気?」


 ふいに後ろから声がした振り向くと彼女がいた。

 実際の彼女を目の前にして思い出したことがある。そう、彼女は栗毛色の髪をしていなかった。髪もそんなに長くはなく、束ねる必要は特にないように感じる。長さはともかくとして、今目の前にいる彼女も、かつての彼女も確かに髪の色は黒だった。


 彼女がベンチに座り、少しの間沈黙が続いた後、彼女はぽつりと「あたし、結婚するんだ」と言った。その言葉に、僕の心は揺れ動いた。彼女の左手には綺麗に光る指輪がつけられており、否応なくその事実を突きつけられた。同時に彼女は自分のことを「あたし」なんて言っていたなと他人事のように考えている自分もいた。「キミ」なんて殊勝な言い方なんてしなかった。


「この度はご結婚おめでとうございます。それで相手は?」


「なによそんな前のめりになって。相手は仕事先の先輩よ。優しくていい人」


そう言う彼女の表情は明るく幸せそうだった。


「幸せそうで何よりだよ」


「そうね。まぁでも今日は思い出話するってのもいいんじゃない?」


 そう言うと彼女は指を顎にやり、考えを巡らせているようだった。何かを思いついたかと思うと彼女は突然、「覚えてる?中学の頃、30まで一人なら私にしときなさいって言ったこと」と言った。僕は驚きながらも、あの時のことを思い出した。あれは若気の至りで、今となっては過去の話だと思っていたが、彼女はそのことをまだ覚えていた。


「そう、だったかな。忘れちゃったよ」


「嘘ね。ぜぇったい覚えてるでしょ」


「そんな恥ずかしい話はした覚えがないです」


「絶対に嘘ね」


 しばらくの間他愛もない話が続いた。これまでのこと。これからのこと。僕の知らないこと。忘れていたこと。そして、彼女はふとした瞬間に口を開いた。


「単刀直入に聞くけど、あんたさ、私のことまだ好きでしょ」


 その問いかけに、僕は心に棘が刺さったような痛みを感じた。もちろん、予想していなかったわけじゃない。しかし、面と向かって言われると動揺してしまう。彼女の真剣な眼差しが僕を捉えて離さない。夕焼けの光が彼女の瞳に映り込み、その輝きがまるで僕の心を見透かすようだった。


「なんだ知ってたのか」と返す声が、自分でも驚くほど弱々しく響いた。


 彼女は軽く肩をすくめて笑った。「当然よ」と、まるで当然のことのように言った。その言葉が一層僕を追い詰めた。

 ベンチの間に微かな風が吹き抜け、彼女の髪が揺れた。僕は息を整えながら、何とか心を落ち着けようとした。夕陽が彼女の横顔を美しく照らし出し、彼女の存在がますます鮮明に感じられた。

 「今日はね、振られに来たんだ」と僕は言った。その言葉に、僕は心の中で何かが崩れるのを感じた。風が僕の頬を冷たく撫でていく。


「なんていうか、後ろ向きに前向きって言うか」


 彼女の声が、夕焼けの中に静かに響いた。僕はその言葉の意味を噛みしめながら、次の言葉を選んだ。目の前の彼女が、現実として存在していることを確認しようとするかのように。


「分かった。でも真剣にきなさい。こっちも真剣に振ってあげるから」


 息がうまく吸えない。少し体が震える。彼女の瞳を見つめながら、心の中の全てを伝えようと決意した。彼女との過去が一瞬で駆け巡る。学校の帰り道、海辺の公園、図書館で過ごした静かな時間。連弾。すべてがこの瞬間に集約される。


「好きなんだ。結婚してくれないか」


 僕の言葉が静かな空気を切り裂いた。心臓の鼓動が耳の奥で響き渡る。彼女は一瞬目を見開いたが、その後静かに首を振った。僕の視界の隅で、夕陽がゆっくりと海に沈んでいくのが見えた。


「ごめん、それは無理。他に好きな人がいるから」


 彼女の言葉はまるで冷たい風のように僕の心を凍らせた。しかし、その声には確かな誠実さが感じられた。彼女の表情には、どこか安堵の色が見えた。


「昔はあんたのことが好きだった。でもそれは子供の頃のあたしで今は違う。もう大人になっちゃった」


 彼女の言葉が夕暮れの静寂に溶け込んでいく。彼女の目は僕を見つめながらも、どこか遠くを見ているようだった。僕たちの間に漂う微妙な緊張感が、沈黙の中で一層際立った。


「あんたが何を考えていたのかは分からないけど、これですっきりするといいわね」


 彼女の微笑みが、まるで慰めのように僕の心に届いた。彼女は立ち上がり、服の裾を整えた。彼女の動作一つ一つが、まるで時間をゆっくりと巻き戻すかのように感じられた。


「じゃあそろそろ行くわ」


 彼女の声に、僕は現実に引き戻された。彼女が立ち上がり服の皺を整えている様子を見ながら、僕は静かに答えた。夕闇が迫る中、彼女のシルエットが次第に薄れていく。


「分かった。体に気をつけて」


 彼女は微笑んで頷いた。


「あんたも気をつけて」


 彼女が去ろうとするその瞬間、僕はどうしても一つ聞きたいことがあった。夕陽が沈む海を背景に、彼女の姿がシルエットのように浮かび上がる。彼女の足音が小さくなる前に、僕は声を絞り出した。


「どうして今日は会ってくれたの?」


 立ち止まった彼女は振り返り、静かに答えた。


「青春の後始末かな」


 彼女の言葉が風に乗って僕の元に届いた。彼女が去った後、僕は彼女との思い出を振り返りながら、静かになった海を見つめ続けた。夕闇の中で静かに佇む公園で、僕は新たな一歩を踏み出す準備が整ったことを感じた。彼女の存在が遠ざかり、日常に戻るその瞬間まで、僕はじっと彼女の背中を見送り続けた。

 彼女との再会は、僕にとって過去の清算だった。夕暮れの公園で彼女の言葉を受け止めた瞬間、心の中で何かが変わるのを感じた。振られたのはこれが最初ではないのに、なぜか今回は心が軽くなったように感じる。夕焼けに染まる海を見つめながら、僕はその変化をじっくりと味わった。

 実像の彼女へ気持ちを伝え、きちんと振られたことで、長年抱えていた偶像の彼女の存在が小さくなったように感じた。彼女の言葉が、僕の中で長らく積み重ねられていた幻想を一つ一つ丁寧に解きほぐしていくようだった。彼女の笑顔、その仕草、声の響きが、現実の彼女として心に刻まれ、偶像ではない彼女の存在が際立った。

 彼女がベンチを立ち去る姿を見送ると、僕の中で確かな変化が訪れたのを感じた。きっと、僕の信仰はこれで終わるのだろう。彼女の背中が夕闇に溶け込んでいくのを見つめながら、僕は静かに深呼吸をした。胸の奥にあった重い石が取り除かれ、代わりに穏やかな風が吹き込んできたような気がした。そして、心のなかにいた誰かがいなくなっていることにも気がついた。


「ばいばい。僕の大好きだった人」


 彼女との再会が、僕の心を解放するきっかけとなった。これからは、彼女の偶像に縛られることなく、現実の自分自身を見つめて歩いていけるだろう。夕闇の中で静かに佇む公園で、僕は新たな一歩を踏み出す決意を固めた。

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アイドル(仮) 赤崎幸 @amaryllis1204

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