第20話 天罰

 三戸部ミカは中庭で人肉を調理したときのことを思い出した。

 新見ニィナの発案で、煙を建物内に充満させないために唯一アクセスできる屋外を選んだのである。

 一斗缶の中にカーテンを詰めて火を付け、フライパンで人肉のハンバーグを焼いた。ハンバーグといっても玉葱も何も入っていない。潰して形を作っただけの肉塊である。


 肉の焼ける匂いを気持ち悪いと思ったのはこれが初めてだ。味も最悪である。膿んだ傷口を舐めたかのような刺激が舌を滑り、それが胃の奥へと落ちてもナメクジのように迫り上がってきた。轢き潰されてもなおマリアが生きているかのように思える。そんな想像をしてしまったせいで、ひどい吐き気に襲われた。

 それでもミカは食べた。

 栄養が必要だったから咀嚼した。

 くちゃくちゃと品のない音が脳内をかき乱し、それすら感じないように思考を締め出した。

 ミカの隣では、クミが人肉ハンバーグを吐き出している。

 それを尻目に、皿に残った不快な料理を平らげた。


「生き残るために死者の肉を食べた事例には事欠かない」


 涙目になって人肉ハンバーグを咀嚼しているニィナは手を止めて講釈を垂れる。

 その歴史がミカの心の痛みを和らげてくれることはなかった。

 嫌気が刺して見上げると、煙はクリーム色の壁に沿って立ち登り、四角く切り取られた空へと消えている。


(もしかして、あそこからなら出られる?)


 忌まわしい『壁』は窓の外だけでなく、上のフロアへ続く階段も塞いでいる。だが、中庭からなら上へ行けそうだ。ちょうど壁には雨樋が設置されていて、あれをよじ登れば何とかなる。

 だが、ミカはすぐには決断しなかった。雨樋を伝っていけば屋上に出る。しかし、屋上がどうなっているかは想像もつかない。それに登っている途中で、下で雨樋を揺らされたら落ちる危険性もある。もう少し様子を見るべきだと判断を下した。


(行けそうだけど、タイミングも考えないとねぇ。邪魔されたら大変だし♡)


・・・・・・・・・

・・・・・・

・・・


 記憶から這い出たミカは地面に座り込んで胡坐をかく。尻に小石が食い込んで痛かったが、どうでもよかった。

 雨樋を見上げるとハルカは懸命に上へ、上へと登っている。


「うわ、パンツ丸見えじゃん♡」


 刺々しい印象とは裏腹に下着は妙に可愛らしかった。フリルをあしらった水色のショーツである。揶揄ったとしても声は大きくしない。

 やがてハルカの姿はぼやけて見えなくなった。

 それの意味するところは分からない。脱出できたのか、あるいはただ屋上に着いただけか。

 見上げていると上空からはスマホが落ちてくる。うまくキャッチしたミカは満足そうに笑った。どうやら、次は自分の番のようだ。


「……って、言いたいトコなんだけどねぇ♡」


 ドンっ、とガラスを叩く音がした。中庭から廊下の窓を見遣ると血の手形が付いている。

 消化器のフルスイングを喰らって死んだ筈の江崎エリがいる。片方の眼球は破裂し、鼻は折れて平らになっていた。そのグロテスクな面構えにミカは「おえっ」と漏らす。

 その隣には包丁が胸に刺さったままの葛川クミと、メガネが割れた新見ニィナもいた。


「ハルカがタオルをかけた後で死体がピクッて動いた気がしたけど…… 見間違いじゃなかったなぁ」


 彼女たちは全員、死んでいる。だが立って歩いていた。

 その動きは緩慢で、身体中にできた傷を痛がっているように見えない。痛覚も意識も無いのだろう。

 ハルカのささやかな弔いは意味が無かったらしい。


「こ~んなゾンビ映画みたいな展開、笑えないっしょ♡」


 3人とも命が絶えてなお動いている。

 これをゾンビと呼ばずして、なんと呼ぶべきか。

 ミカは凶悪に笑った。口を裂けんばかりに開き、目に最後の力を込める。

 3人が中庭に侵入してくるとミカは手加減なしの拳を振るう。緩慢な動きのゾンビどもは顎を砕かれ、肋を折られ、一方的に攻撃を受けた。

 殴った感触は人間のそれよりも柔らかい。サンドバックを叩いている気分になり、ミカは高揚した。


「ほらほらほらぁっ♡ トロ過ぎっしょ♡」


 だが、攻勢は10分と続かなかった。

 いくらミカが強打を急所に当ててもびくともしないのである。肉を潰し、骨を折る手応えを得たところでそいつらは止まらない。


「はぁ、はぁ、はぁ…… しつこいんだからぁ……」


 肩で息をするほど消耗してなお、3人はミカへと迫る。

 壁と壁の角を背にして回り込まれないように立ち回るのも限界が近い。

 そのうち、攻守が逆転した。殴られて地面に倒れ込んだクミがミカの脚を掴んで蹴りを封じたのである。驚いているとニィナとエリがミカの身体を掴んで地面へと引き倒す。


「きゃっ……!?」


 うつ伏せに倒れたミカはどうにか逃れようと暴れるも、ゾンビたちは体重を乗せてそれを阻んできた。べっとりとした体液が肌に触れ、嫌悪感のあまりミカは悲鳴を上げた。さらに、垂れ流れた血がブレザーの制服を黒く染めてくる。


「やめて! やめてってば!!」


 ミカの抵抗は止んだ。

 そのあとは手酷い陵辱が待ち構えていた。

 死人には筋力のリミッターがなく、素手で易々とミカの制服を破ってくる。上着も、シャツも、スカートも、乱暴に掴まれては剥がされていく。柔肌が露わになるとゾンビたちが文字通り牙を剥く。

 ミカは皮膚ごと肉を噛み砕かれ、さらに悲鳴を上げた。痛みに悶えて逃げられないでいると流れ出た血が地面に赤い染みを作る。ミカの意識は遠退くことを許されず、痛覚により残酷に繋ぎ止められた。ミカそのものが減っていくのを感じる。

 指のように細い部分は真っ先に食われた。間接部を齧られ、骨がゴリゴリと音を立てて分離されて行く。指のひとつ、ひとつを失う度に喉が張り裂けそうになるほど絶叫する。

 ミカはもう動けなかった。けれど死ねなかった。

 『異岩』の前で死人に群がられ、食われている。

 手脚はボロボロで骨が露出し、筋肉が剥き出しになった。

 やがて腹回りと胸の柔らかさに気付いたゾンビたちは、頭を突っ込んで歯を突き立ててくる。

 食い破られた腹からは腸が引き出された。かつて新見ニィナだった死体が口に咥えて綱引きのように運んでいく。それを途中で奪おうと葛川クミだった死体が割って入り、腸は途中でちぎれた。

 グチュグチュと穢らわしい音がミカの耳を犯す。


 まだ死ねない、もう死にたい、相反する思考が混じった。

 腹からどんどん下へと食を進める化物たちは、ついにミカの女性の部分も荒らした。うっすらと淫毛の生えた部分は剥がされて、咀嚼され、口に合わなかった部分は吐き出された。

 声は出なくなっている。視界はだんだん暗くなっているけどまだ見えているし、音も聞こえてもいた。


(あぁ……)


 天を仰ぐと、ハルカの姿は見えなくなっていた。

 中庭の上空は蓋をされたみたいに霧で覆われている。出口は無くなってしまったのだ。

 それを悟った途端、ミカの身体が軽くなった。

 もう食べられる部分なんて残っておらず、死ねないまま考えるのを辞めた。

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